《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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 尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十八章 <「老い」を超える> (1638)
日時:2016年05月26日 (木) 06時24分
名前:平賀玄米

 
              第二十八章 <「老い」を超える>

 
          <諸行無常と云うこと>

 人間は、肉体の面と霊性の面との二面的生物であります。肉体の面から云えば、人間は生れ、生長し、老い、やがて死するところの存在であります。それは釈迦と雖(いえど)も、キリストと雖も、また私と雖も避けることが出来ないところの現象であります。然り、それは現象であります。
現れている象(かたち)でありまして、必ずしも實相即ち實のすがたではないのであります。
何でも遷り変るものは實在即ち本当に在るのではないのであります。

 だいたい「変化する」と云うことを考えて見まするに、変化すると云うことは、今まであった相(すがた)がなくなって、また別の相があらわれてくると云うことであります。今まであった相が、本当に在るものだったら無くなると云うことはありません。
 今まで在るかのように見えていたけれども、実はただそれは「あらわれ」であって本当にはあるものではなかった。それでその相がいつかは消えて、又新たに別の相が現れて来ることになるのであります。

 その新たにあらわれた別の相と云っても、それは決して永続的なものではない。それはまた消えてしまって別の相であらわれて来るのであります。そしてその別の相もやがて消え、また異なる相があらわれてまいります。結局、現象としてあらわれている相は常に変わるものであって常恒(つねにある)ものではないのであります。これを佛教では諸行無常と申しました。

 吾々が「赤ん坊」に生まれた時のその形は、顔の形も、身体(からだ)の形も、間もなく変わってしまいます。一年と経たないうちに変わってしまい、それが又変わってしまい、年年歳歳月々日々変わっているのであります。外から見た形だけではなく、中の組織も間断なく変化して、オギャーと生まれたその時の体細胞の大部分は、一年も経たないうちに、新栄養によって造られた新細胞と置き代ってしまうのであります。十五年も経つと骨や歯の最も硬い部分の組織さえも新組織と置きかわってしまうのであります。

 そうすると、肉体的に云えば、もう赤ん坊の時の肉体は何処にもない、肉体を「我」だ「自分」だと云う立場から見ますならば、赤ん坊の時の「自分」は今はもうないのであります。赤ん坊の時の「自分」どころか、一年前の「自分」もない、一ヶ月前の「自分」もないのであります。「自分だ」「自分だ」と思っていたものは、常に変わりつつある脳髄から発する作用で、「自分」と云うものの正体は常に変化する、常に変化するから正体なんて何もないと云うわけであります。

こう考えて見ると、現象の自分には、常恒の「我」と云うものは無いのであって、相対的にあらわれている一時的なものに過ぎないと云うことになります。これを佛教では諸法無我――即ち諸々の事物とあらわれている現象に「我(われ)」があるかと云うと、「我」と云うものはないと云うことになるのであります。

つづく

         <平成28年5月26日 謹写> ありがとうございます 合掌。


 尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十八章 <「老い」を超える> (1649)
日時:2016年05月27日 (金) 06時36分
名前:平賀玄米


 これがわかりますと、「わしが、」「わしが、」と云っている「わし」と云うものは本来「無い」と云うことになるのであります。折角「これはわしの名誉だ」とか、「わしの所有だ」とか、頑張ってみましても、その「わし」と云うものは常恒の存在ではない、「無い自分」がどんなに執着してみましても、どんなに金を貯めて見ましても、肉体の死ぬときには、その金を持って行くことが出来ません。これが「我」もなく、「我所」もなしと佛教で云うのであります。「我(われ)」もなければ「我わが所有」もないと云う意味であります。

 それがわかりますと、つまらない所有欲や、名誉欲や、色欲や、食欲などを満足させてみても、その本体たる「我」自身が存在しないのに、そんなものを「わしの楽しみ」だと満足させていたことが馬鹿らしくなってまいります。そこで浮世のことは何に執着しても努力してもつまらないと云うことになり、山中に逃れて出来るだけ執着も煩悩も少ない生活をした方がよいと云うことになります。即ちこれが涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の願いであります。

 この諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つは佛教の旗識(はたじるし)になっているものであります。
これは灰身滅智(けしんめっち)の小乗仏教だと云って排斥する人もあるのであります。
それでこの三つは小乗仏教の三法印と云われております。

 肉体の釈迦は「大乗を説かず」と云う歴史的考証の立場から云いますと、この三法印こそ釈迦自説の眞佛教と云うことになるのでありますけれども、『法華経』の如来壽量品の「自我偈」にある「余国に衆生の信楽(しんぎょう)する者あらば、我復彼の中に於いて、為に無上の法を説く」という立場からいたしますならば、龍樹菩薩以後の大哲の創作であると云う大乗仏教もまた、釈迦牟尼仏の實相の金口(きんく)からお説きになった眞佛教だと云うことも出来るのであります。

つづく

     <平成28年5月27日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十八章 <「老い」を超える> (1652)
日時:2016年05月28日 (土) 07時19分
名前:平賀玄米

   
     <月に喩えて永遠不滅の我を示す>

 そしてこの大乗仏教に於きまして、初めて、釈迦は「不滅の自分」と云うものをお説きになりました。
即ち『法華経』に於いては「自分は五百塵點劫(ごひゃくじんてんこう)を超えることなおなお百千萬億阿僧祇劫(ひゃくせんまんのくあそうぎこう)以前から悟りを開」いている自分である。」とお説きになって、「滅不滅ありと現ずる自分」は仮現(けげん)の自分であって自分の實相でないことを明らかにせられたのであります。

そして『涅槃経』に於いては、永遠不滅の自我の本体を、月の盈缺(えいけつ)にかかわらず、常に圓相なる月の本体そのものに喩(たと)えられまして、月が三日月に見え、月蝕に見え、月落ちて非存在に見える時にも、常に月はまん圓く依然として存在しているものである。

その如く人間が生まれ、老い、病み、死する如く見える時にも、生まれる前から永遠に存在して、一度も老いることも病むことも、死することもない存在が「人間の實相」と説かれ、小乗仏教の「諸法無我」の教えに対蹠的な、「常楽我浄」をお説きになったのであります。

つづく

     <平成28年5月28日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十八章 <「老い」を超える> (1658)
日時:2016年05月29日 (日) 07時13分
名前:平賀玄米


 即ち月が常に遷り変り無常に見えても、常に月が圓いが如く、人間の現象面は、「朝に紅顔、夕に白髪」と云うように無常に見えるときにも、人間は無常なのではない、「久遠常恒の我」があるのだとお説きになった――これが「常楽我浄」の常であります。小乗仏教では、この世のものはあると思って捉えて見ても、結局遷り変って、最後には捨てなければならぬ。愛する人とも別れねばならぬ。快楽だと捉えて見たものの、それは結局「苦」に変ずると観じました

 然るに大乗仏教では、苦は現象のすがたであって、人間の實相は「常住」であり、その住む世界は常楽の浄土であるから人生は「楽しいのだ」とお説きになった。これが「常楽我浄」の「楽」の意義であります。小乗仏教では「諸法無我」と云って、「我は無い」と云うが、「我は無い」と云うのは「現象我」のことであって、『涅槃経』には「二十五有に我ありや、」との問いに対して、「我とはこれ如来蔵の義なり」と書いてあって、眞實の我と云うものは人間の實相として内蔵する如来そのもの(キリスト教的に云えば、内在のキリスト又は内在の神の子)であると「我」の久遠永存を肯定されたのであります。これが「常楽我浄」の「我」の意味であります。

 また小乗仏教では、この身は不浄である、老い病み死すべきものである、この土は穢土である、諸々の穢れ充満すと云う風に説かれていましたが、大乗仏教では、それは現象的に不浄の五感智をもって見るからそう見えるのであって、もし五官と云う眼鏡を外して、人間を見、世界を見るならば、この世界は穢土ではなく浄土であり、人間は醜くく老い病み死するものでなく、永遠に若く美しき金剛不壊の存在であると説かれることになったのであります。これが「常楽我浄」の浄の意味であります。

つづく

     <平成28年5月29日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十八章 <「老い」を超える> (1664)
日時:2016年05月30日 (月) 07時02分
名前:平賀玄米

  
        <實相の我は永遠に老いず>

 以上でわかりますように、人間は現象的に見れば「無常・苦・無我・不浄」の存在でありますが、
實相に於いて見まするならば、「常楽我浄」の存在なのであります。こういう二面をもっているのが現象としてあらわれている立場に於ける人間であります。吾々は二面の世界に同時に住んでいるということが出来るのであります。

 吾々が無常の世界に住みながら、久遠不滅の世界を求めるのは、「無常」と見える自己の内に「常」(不滅)なるものが宿っていて、それが内部から主張し出でるからであります。吾々が「苦」の世界に住んでいるのに「楽」を求めずにいられないのは、自己の内に本来「楽」なる實相が宿っていて、それが内部から自己を主張するからであります。

 やがて老い病み死ななければならぬ「我」であるのに、久遠不滅に死にたくないという考えが起こるのは、自己の内に本来「久遠不滅の我」が宿っているからであります。掃除しても掃除しても塵芥は後を絶たず、美食しても出て来るものは涙洟糞尿というような不浄の身でありながら「浄」を求めずにいられないのは、自己の内に本来「浄」なるものが宿っているからであります。

 この本来、常楽我浄なる久遠不滅の本当の我を指して、吾々は「實相」というのでありまして、老い病み死する無常の穢れた仮現の身体を「現象」というのであります。吾々はこの實相と現象の二つの面を持っているのであります。吾々が「永遠に老いない」と云う場合の自分は實相のことであります。

「人間は老いない」と云う場合に、それを肉体のことだと思っている人は、イエスが「人もし我が言を守らば永遠に死を見ざるべし」と云ったときに、ユダヤ人達と共に、「アブラハムも預言者たちも死にたり、然るに汝は『人若し我が言を守らば永遠に死を味あわざるべし』と云う。汝は我らの父アブラハムよりも大なるか。彼は死に、預言者たちも死にたり、汝は己を誰となすか」とたずねなければならないでしょう。

 そういう場合に、「實相の人間」のみ真実の人間と知る吾々はイエスと共に「まことに誠に汝らに告ぐ。アブラハムの生まれ出でぬ前より我は在るなり」(ヨハネ伝第九章五八)と答えるのであります。實相の我は、如来そのものであり、神性そのものであり、永遠に老いず死せざるものなのであります。

つづく

     <平成28年5月30日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十八章 <「老い」を超える> (1684)
日時:2016年05月31日 (火) 05時58分
名前:平賀玄米

          <肉体が老衰する色々の原因>

 ですから、我々が老いると云う場合は現象的立場に立って五官の眼をもって「人間」を観る場合なのであります。五官の眼をもって見るとき、人間は肉体人間に見えるのであります。肉体人間は「實相」が「心の波」を透して映出された「投影(かげ)」でありますから、若し吾々が「心の波」を平静にし、「實相」そのままの完全な相(すがた)を常に永遠に現象世界に映出することが出来ましたならば、肉体も永遠に若く美しく病まず死なないで生きられる可能性があるのであります。

 今まで生存した凡ゆる現象界の人間が皆死にましたからとて、今後もそれと同じことが起こると信じなければならない理由はないのであります。唯、吾々が「人間は年と共に必ず老いる」と云う人類意識をどの程度超越し得るかに問題はかかっているのであります。

 吾々が多少とも肉体が老いて行くのは吾々の肉体意識が、「人間は老いる」と云う人類の群衆意識の中に生活しておりますから、その影響と暗示とを受けて多少とも老衰するのであります。

 更に吾々が老衰する原因は、吾々は少年少女の時代から、「大人になったら何でも自分の思うように出来る」と云うような考えから「大人になりたい願い」「老人になりたい願い」を持ってきたのであります。その精神的惰力が続いて現象人間を老衰せしめるのであります。

 時々吾々は老人の容貌に、落着いた美を発見することがあります。翁の能面の彫刻美には或る美しさが感じられます。瑞々しい肉体の美はさることながら、肉感のないもっと奥深い精神美と云うようなものが吾々を引きつけることがあります。例えば茶室等に使ってある寂びた古木の、柔かい肉的な部分は禿(ち)び耗(よ)れてしまって、硬い骨ばった年輪の様な緻密な所だけが突出しているのを見て、削りたての材木を見るよりも、もっと深い美を見出すことが出来ますように、次第次第に吾々は肉感を昇華した美しさに心が惹かれるようになってまいります。

「美とは若い女の美しき肌のことなり」などと云うような浅膚な表面的なものに心惹かれなくなり、深い人生の色々の心遣いを印象している、その皺(しわ)の一筋一筋に美を発見するようになってまいります。かくてわが魂の底なる深き願いは、「老い」を厭(いと)う表面的な願いに打ち克って、吾々の肉体に「老い」を彫刻して行くことになるのであります。

つづく

     <平成28年5月31日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十八章 <「老い」を超える> (1702)
日時:2016年06月01日 (水) 07時10分
名前:平賀玄米


 しかし「老い」と「衰え」とは必ずしも一つものではありません。若い人でも衰えている人もありますし、老いている人でも元気旺盛青年に劣らぬ人もあります。「衰え」と云うことが起こるのは、「老い」とは又別の原因によるのであります。

 老衰は「老いれば衰える」と云う人類的観念と、「老いれば人から同情される」と云うような同情を求める観念や、その他無数の消極的な想念感情の具象化として起こるのであります。

 隠居して人生に於いて自主独立して行う仕事を失ってしまったときには、その人は速やかに老衰し始めます。何故ならその人は此の「地球」と云う会社でなすべき仕事と役割を失ってしまったから、遠からず地球上の生活から解雇さるべき時が近づいているからであります。

 若くなりたい人は、そして地上の生活から去りたくない人は、「地球」という会社で何かの役割と仕事とを持たなければならないのであります。語学を勉強すると老衰を遅らせます。言葉を習うのは子供の仕事であるから、幼児的な心境を幾分は増加するからであります。
 若い人々と交わることも老衰を遅らせます。それは交わる人々から若い精神的雰囲気を感受して、それに幾分でも感化されるからであります。

 将来に輝かしい希望を持つ事は老衰から若返らせます。輝かしい希望は青年の特徴であるからであります。「死んだがましだ」と云う観念や、「この世の中が面倒くさい」と云うような考えは、地球上の生活から逃避したい考えでありますから、人間を病気又は老衰に導いて速やかに死の転帰を見せるのであります。

 戦争中に頑健な健康を誇った多くの将軍が、終戦後、追放になって、この世に為すべき仕事を失い、前途に輝かしき希望を喪失し、この世の中が面倒くさくなり、「死んだがましだ」と考え出した時に、肺病になったり老衰したりして相次いで現世を去った実例を吾々は随分沢山見て来たのであります。

つづく

     <平成28年6月1日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十八章 <「老い」を超える> (1723)
日時:2016年06月02日 (木) 06時57分
名前:平賀玄米

  
       <「老い」の価値について>

「老人になってまで生きていたくない」などと考えてはなりません。老人は若い人にない深い体験智を持っているのです。老人は若い人の皮膚や肉体美に見られない深い霊的な美を持っているのです。老人はもっと、自分の知性と、体験と、そして肉体的にも美しい自信とを持たねばなりません。

併しあまりに過去の体験の多さを誇りにして、若い人の知性や若さを受容れることの出来ない頑固(かたくな)さを発揮してはなりません。老衰は肉体の硬化を伴いますが、肉体は「心の投影」でありますから吾々の心が頑固に硬化して来た時、肉体の硬化が始まるのであります。

 吾々が若返る為には、若い人の考えや感情を理解しそれを素直に受容れてやるだけの魂の柔軟さを持たなければなりません。しかし時が来るでしょう。現在の地球生活を、或は現世の「環境」と云う学校を卒業する時が来るでしょう。その時には勇敢にこの地球生活を卒業して更に新たなる生活に進み行くことに致しましょう。

           ≪善き人生の創造≫ <完>

      <平成28年6月2日 謹写> ありがとうございます 合掌。

         〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

皆様、有難うございます。
今回をもちまして≪善き人生の創造≫の謹写は終了致しました。本当に感慨無量です。
此処まで来れましたのは、伝統様の深いご愛念と、マリーゴールド様、水晶様のサポートの
お陰でございます。心からお礼申し上げます。深謝、合掌。

思い起こせば、昨年の6月28日にスタートして、今日まで約一年の歳月をかけての謹写でございました。途中、一身上の都合でPCから離れて伝統様にご心配をおかけしたり、後半になって度重なるPCトラブルに戸惑いながら何とかゴールすることが出来ました。

 これからもこの尊師・谷口雅春先生のみ教えを、一人でも多くの方々にお知らせすべく微力ながら謹写投稿を続けさせて頂く所存でございます。本当に有難うございました。 
                                             玄米 合掌再拝。


御礼申し上げます。 (1724)
日時:2016年06月02日 (木) 07時35分
名前:伝統

”平賀玄米 さま” いつもありがとうございます。

谷口雅春先生の著著「善き人生の創造」を
謹写・紹介をしていただき、まことにありがとうございます。

昨年の6月に、”平賀玄米 さま”が謹写をはじめた頃は、
凄いことを始められた、との驚嘆の思いと、最後まで終えるには
相当なエネルギーの費やしが予想され、大変なこと、と感じておりました。

その中で、”平賀玄米 さま”は、
それを1年にも満たない約11ヶ月の期間で完遂してしまい、
そのパワーに、ひたすら驚愕と尊敬の思いでいっぱいでございます。

さらに、これからも、”平賀玄米 さま”による、謹写投稿を
続けていただけるとのこと、期待の心が膨らみます。

本当に、本当に、心より感謝申し上げます。

(感謝! 合掌! 御礼! 再拝・・・)

*なお、この記事は、”平賀玄米 さま”が閲覧した思われる頃に、削除する予定です。

伝統様 有難うございます (1729)
日時:2016年06月02日 (木) 10時16分
名前:平賀玄米

伝統様
いつも変わらぬ温かいご愛念、心から感謝申し上げます。

伝統様の足元にも及びませんが、これからも謹写投稿を続けてまいります。
それが伝統様に対してのご恩返しでもあると思う次第でございます。

尚、(1724)は小生が伝統様から頂いた『勲章』だと受けとめておりますので、
削除の方はなさらないで頂きたく、伏してお願い申し上げます。

今後ともよろしくお願いいたします。

伝統様のご健勝と益々のご発展をお祈り申し上げます。 

                         玄米 合掌再拝。

尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』(平賀玄米様御謹写)のリンク  (1731)
日時:2016年06月02日 (木) 11時29分
名前:水晶

平賀玄米様

尊師谷口雅春先生の素晴らしいご著書『善き人生の創造』の御謹写完遂おめでとうございます。本当にありがとうございました。毎日楽しみに読みながら、啓発され、また励まされること多く、深く感謝申し上げます。

 いつもどおり、マリーゴールド様の御投稿を元にリンクを追加して貼らせていただきます。


善き人生の創造「目次・はしがき」
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=90


善き人生の創造「第一章 善き生活の創造原理」
http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15378114


善き人生の創造「第二章 生命の不可思議」
http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15388555


善き人生の創造「第三章 幸福の門を開くには」
http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15411570


善き人生の創造「第四章 平和への第1か条」
http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15438445



善き人生の創造「第五章 大調和の生活」
http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15449068


善き人生の創造「第六章 “迷い”は無いと云うこと」
http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15457932


善き人生の創造「第七章 健康のための心理学」
http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15462218


善き人生の創造「第八章 人間は何のために生まれたか」
http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15472518


善き人生の創造「第九章 根を培うこと」
http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15477843



善き人生の創造「第十章 神にあずけて祈る心」
http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15482726



善き人生の創造「第十一章 女性の愛の力」
http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15489061



善き人生の創造「第十二章 常住の祈りと云うこと」
http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15501071




善き人生の創造「第十三章 人間は肉体ではない」
http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15512588



善き人生の創造「第十四章 業の浄化について」
http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15524152



善き人生の創造「第十五章 業を去り功徳をうるには」
http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15535550


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十六章「あなたは本来罪がない」
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=8


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十七章「自縄自縛からの解放」
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=41


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十八章「わが魂の願いと祈り」
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=77


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十九章「成功のための心理学」
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=99


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十章「繁栄を来たらすための信仰」
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=113


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十一章 <致富原理の中心となるもの>
   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=159


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十二章 <繁栄の豊かなる流入>
   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=199


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十三章< 不景気に処する道>
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=227


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十四章 <クラーク教授の「神に近づく道」>
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=235


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十五章<家庭幸福の心理学>
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=277


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十六章<新生活への出発>
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=292


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十七章<表現と芸術美の世界>
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=306


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十八章 <「老い」を超える>
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=326


水晶様 有難うございます。 (1736)
日時:2016年06月02日 (木) 21時59分
名前:平賀玄米


最後までサポートして頂き、誠にありがとうございました。

水晶様の善意は小生いつまでも忘れません。

水晶様のお幸せをお祈り申し上げます。

ありがとうございました。     玄米 合掌再拝。



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