《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十七章「自縄自縛からの解放」 (98)
日時:2016年01月10日 (日) 07時41分
名前:平賀玄米

    < 第十七章「自縄自縛からの解放」>

    <心を放てば心無し>

生長の家は万教帰一であります。禅のことも説けば、法華のことも説く。真宗のことも説きます。
真理は普遍しているからであります。前章で慧可禅師のことを話しましたが、慧可が達磨大師の
弟子になった時には、自分の片腕を切って供養してやっと入室をゆるされた。順序としてその話
をもう一度復讐することに致します。

昔の人は道即ち「真理」を求むるに切なるものがありました。近頃の人のように肉体の病気が治
りたいから新興宗教へ行こうと云うようなのとは全然心構えから違っていたのであります。
真理を求めるためには肉体の腕一本位なんとも思わなかった。

その慧可禅師が腕を斬ってまで達磨の弟子になって見ましたが、どうも悟りを開くには「心」と
云うものを調整しなければならない。その「心」と云うやつがどうも厄介な奴でありまして、ど
うも思うように調御出来ない。それで慧可は益々心が悩んだ。悩めば悩むほど心は乱れる ――
こうなると、もうどうすることも出来ない。

そこで師匠の達磨大師のところへ行って、「わが心悩む。どうぞ、お救い下さいませ」と云った。
そうしたら、達磨大師は「其の悩んでいる心を此処へ持って来い。安(やす)ませてやるから」
と云われた。慧可はハッと思った。悩んでいる心を持って行こうと思っても「心」と云うものに
は実体がない。

「私は悩んでいると思って居ったが、悩んでいる心は何処にあるだろう」こう思って悩んでいる
心を探し廻っても、心には実体がない。風みたいなものです。吹いている時だけ有るようですが、
それではこの風を達磨大師のところへ送ろうと思って箱詰にでもすると、もう風はない。それと
同じです。迷いの心を持って行こうと思ってもない。「心を求むるに心なし」と慧可は思わず云
った。

「そらもうないじゃないか。心がなければ悩むこともないのだ」と達磨大師は云われた。そした
ら慧可の悩む心はスッと消えたのです。迷える心が病気の因だと言いますと、その心をどうしよ
うかと益々つかんで苦しむ人がありますが、「心」と云うものは、それに引っ掛かって捕えるから
ら悩むのです。心を放せたら自から悩みは消えるのであります。

要するに悩みを消すには心を放つと云うことが大切です。本当の宗教は心を放つことを教える、
それは病気治しではないけれども、心を放つから心の滞りが無くなり病気が消えるのであります。

つづく

       <平成28年1月10日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十七章「自縄自縛からの解放」 (105)
日時:2016年01月11日 (月) 10時19分
名前:平賀玄米

    <慧可禅師と僧璨(そうさん)大師>

慧可禅師は禅宗の第二祖になりましたが、其の慧可の弟子に僧璨(そうさん)と云うえらい人が
ある。この人が、初めて慧可禅師に会った時には病気であったそうです。

「惡疾を患う」と書いてありますが、リウマチを患って居られたと云う話です。リウマチで手足の関節が醜く畸形に腫れ上がっていたので、慧可禅師が「お前のような病気のものは、私に会ったって仕方がないじゃないか、もう帰れ」と仰ったそうです。

そしたら僧璨は、「肉体は病気でも、心はあなたの心と一つです」と一所懸命の思いで云った。
それが慧可の気に入った。
「成る程、この男中々えらいことを云う」こう思って、「それじゃ弟子にしてやろう」と云うので
弟子になったそうです。ところが弟子にはなったが僧璨と云う坊主はそのリウマチが治らないのです。
リウマチが治らないので、「肉体は病気でも、心はあなたの心と一つの心である」自分の本性は、実相は、一体だと言ったのですけれども、病気は治らないものですから、どうかして治したいと思った。

そして「この病気、この病気、どうしたら治るだろう」と「病気のことを思いつめていました。
或る日のこと僧璨が師匠慧可のところに罷(まか)り出て、「私は罪業が深いものですから其の罪業
の現れとしてこう云う風に病気が現れているのです。ですから其の罪業と云うものを浄めたいと思い
ます。どうぞ滅罪の行事を行って下さい」かう慧可禅師にお願いしました。

慧可は、「よし、それじゃ滅罪の行事をしてやろう」と仰った。そして、「これから、お前の罪業を
今消してしまう行事を営むから、其の罪業を此処に持って来い」と言った。さぁ僧璨はびっくり
したのです。罪業を持って来ようと思って何処にあるかと思ったのですけれども、見つからない
のですね。

達磨が「心を持ち来たれ」と云ったのと同じことでありますが、師風を弟子は繰返すものであり
ます。慧可が達磨大師に悟らしめられた時には、「お前の迷っている心を此処に持って来い」と
云われてハッと「心」に実体がないことを悟ったのですかが、罪業にも実体がない。実体がない
ものは架空です。架空はウソであって、自分が「罪業深い」と思って罪業と云うものを把んでい
る間だけあるのです。

つづく

       <平成28年1月11日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十七章「自縄自縛からの解放 (123)
日時:2016年01月12日 (火) 10時32分
名前:平賀玄米


だから「その罪業を此処に持って来い、私が浄めてやろう」と言われて、罪業が何処にあるかと
思って探した結果、「求むるとも遂に求め得ず」と罪業には実体がないとわかった。実体がない
ものは非存在だ。罪業と云うものはないのだ。罪とか業とか云うものはない。
こう云って、慧可禅師は僧璨に教えられたのであります。

その時はじめて、僧璨が罪業を握っている心が消えた。罪業を握っている心が消えれば、その心で
支えられている罪業も消える。するとその罪業のあらわれである病気も消える。その時、僧璨の
病気は治ったと云うことです。

ハッキリ判らないけれどもそれから後に、僧璨は「吾生死の自由を得た」と云っている。生死の
自由を得たのですから、病気からも解放されたに相違ないのであります。

七十二歳の時でしたが僧璨は説教している時に、「自分は生死の自由を得た。もう自分は死ぬるも
生きるも自由である」と云って樹の上にのぼって、起立した儘、死んだと云うことであります。
嘗(かつ)てリウマチで手足の自由のきかなかった彼が、「罪業本来無し」と知ると、自由自在を
得て樹上に直立したままその霊が昇天した。これは素晴らしいことであります。
立った儘平然と死ぬ、これは立亡(りつぼう)と云って中々出来にくいことであります。

一寸でも心が乱れると平衡を失って倒れてしまいます。それが倒れないのは心が少しも乱れなか
った証拠であります。そう云う風に罪はないと分った時にその病気が消えてしまうことになるの
です。だからキリストも、人の病気を治すのに「汝の罪ゆるされたり」とか「此の人の罪にも非
ず、祖先の罪にも非ず、神の栄えのあらわれんためなり」とか云って、罪の無を「言葉の力」に
よって宣言しているのであります。

つづく

       <平成28年1月12日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十七章「自縄自縛からの解放」 (129)
日時:2016年01月13日 (水) 07時28分
名前:平賀玄米

 
      <心を放てば罪は消える>

繰返して云うようですが、この僧璨(そうさん)と云う坊さんが、慧可の弟子になる時にはまだ
リウマチであった。そして慧可禅師が「お前みたいなリウマチ患者みたいなものは、私の弟子に
は出来んよ」と仰ったら、「身体はリウマチでも、心はあなたの心と一つです。実相はあなたと
一つです」こう言ったから実相は本来完全で無病息災である慧可先生と同じだと思っていたに違
いない。それだのに、その時に病気が何故治らなかったかと云うと、実相は完全だが、実相の外
に罪業と云うものがまだあると思って居ったからであります。

実相のみ実在である、実相独在だと云うことが、まだハッキリしていなかった。実相もあるが、
罪業と云うものもまだ他に別にあると二元的な観に陥って居ったのです。それが間違っておった
ので病気が消えなかった。慧可から「罪業を出して見せよ」と云われた時に、初めて罪業と云う
ものは実体がない、と本当に分った時にリウマチが消えてしまったのでありますが、だけども
リウマチを治すのが目的で弟子になったのではないのです。そこは注意しなければならないとこ
ろです。

生長の家へ来る人でも真理を悟ろうと思って来て、真理を知ると、「真理は汝を自由ならしめん」
とイエスの云った如くその人の生命が解放され自由になって病気が治るのですが、病気を治す為
にお導きを受けようなどと思って来ると、修行が逆になって却ってなかなか治り難いのであります。
これは心が病を把んで放たないからであります。

病気と云うものは、心に把まえていると、把まえている間はあるのですが、放てば消えるのです。
そこで放つ修行をすれば宜いのであります。把まえていると病気になるのです。放てば消えるの
です。

つづく

       <平成28年1月13日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十七章「自縄自縛からの解放」 (145)
日時:2016年01月14日 (木) 07時26分
名前:平賀玄米

肩が凝るのも同じことです。肩が凝るといっても、肩は物質である。物質が凝るなんて見たこと
がないのであります。机をよく使うから此の机は肩が凝っているかと云うと、決して凝っている
机など見たことがない。それは物質なるものが凝ることはないからです。

肩に心が凝ると、其の凝ったところに血液が滞る。それが肩の凝りである。そこでここに病気が
あると思えば余計にそこに心が凝り血液が渋滞するから治らないのです。

新派の役者に柳永二郎と云う人があります。近頃、映画やラジオに転出しました。その人の奥さん
が常に肩を凝らして居られたのであります。ところが生長の家の白鳩会の眞隅静子さんと云う人
がありますが、あの人が指圧療法を習っておられて、夫が失業しておられた間に多勢を治療して
あげて生活補助にしておられたのであります。

いつも新派の役者とか、役者の奥さんのところに行って肩を揉んだり灸所を圧へたりして治療し
ておられた。柳夫人も肩を凝らす癖があって眞隅さんの治療を定期的に受けて居られた。
ところが或る日の事、柳夫人の肩を指圧して見ますと、常には凝って固くなっていたのが、其の
時には凝っていないで柔かいのであります。

「不思議だなァ、あなた悟ったですね。」眞隅さんは思わずこう云った。「何か悟られたのでしょう。
どうしたのですか、何か心に変わったことが起ったのでしょう」と云いますと、柳夫人は「実は
『生命の実相』と云う本を読んで心の塊が解けたのですよ」と云う答です。心の固結(かたまり)
が解けたら肉体の固結が自ずから解けるのであります。肉体は心の影である。

つづく

       <平成28年1月14日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十七章「自縄自縛からの解放」 (158)
日時:2016年01月15日 (金) 07時30分
名前:平賀玄米


そして此の肩の凝りも何か、心に問題を把んでいる間は、何時までもそれが解けなかったのです
けれども、心に問題をつかまなくなったから肩の凝りが消えたのです。あとで聞くところでは、
何でもそのころ家庭の問題で悩みがあったのですが、『生命の実相』をお読みになると、自然随順
の心を得、天地一切のものと和解する心におなりになり、其の悩みに引っ掛からなくなって、さ
らさらとした気持ちにおなりになったのです。すると、心が凝らぬから肩が凝らなくなった。

それを聞くと、今度は眞隅静子さんが『生命の実相』を読んでみようと云う気持ちになってお読
みになった。そして生長の家に入信せられたのです。それからこの眞隅さんが、劇場関係の多勢
をお救いになった。そして市川紅梅や森赫子が『生命の実相』を一所懸命読むことになったのです。
これはあとの話であります。

兎も角そう云う風に心が凝れば肩が凝る、病気も「病気病気」と思ってそれに心を引っ掛からせ
ていると、病気のところに心が滞る。心が滞れば血液が滞る。血液が滞れば新陳代謝が旨く行わ
れないから、そこで新鮮な白血球が充分活躍出来ないから、病菌に負けて、病気になるのであり
ます。ですから、心が滞らなくなれば自ずから病気は消滅し、健康は恢復することになるのであります。

つづく

       <平成28年1月15日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十七章「自縄自縛からの解放」 (173)
日時:2016年01月16日 (土) 07時42分
名前:平賀玄米

  
      <この儘、此処に天国を実現する道>

このように、生長の家では、業因もない、罪もない、迷う心もないと云うことを説くのであります。
前科者だと自分を思って色々悪事を考えていた者が、青天白日、無罪だと知ると、もう嬉しくて
悪いことをしょうなど考えられなくなるのと同じであります。

業も罪も迷いもないならば、それでは何があるかと云うと、神一元、神の善念のみがある。
或は仏教的に云えば仏一元である。仏の善念のみがある。自己の内部に、ここに仏が生きている、
ここに神が生きていると云うことを悟ることが大切です。自己の内に神が生き、自己の内に仏が
生きている。これを自覚するのです。

而もその自己に宿る神なり仏なりと云うものは実に自由自在なものであって、無限の生命、無限
の供給、無限の大調和そのものが充満しているのです。これが実相なのであります。今までは
実相を見ないで、仮相ばかり見て、自分は貧乏だと思って、「貧乏」に心が滞って居った人は貧乏
になっている。

ところが、自己に宿る神は無限供給の神で、ここに自己の内に無限の供給があると悟れば経済
問題が滞らなくなるのであります。健康問題でも、ここに無限の生命がある、ここに神のいのち
があり、仏のいのちがあるから、病気などに罹るものではないと悟ると、健康問題も気にかから
なくなる。気にかからなくなれば、肩の凝りが何時の間にか柔らかくなって居ったと同じように
病気が消滅するのです。

又色々の問題に悩んでいる人でもそれは自分に智慧がないと思うから、取越苦労して、心が悩む
から、臨機応変の智慧が出て来ないので、「自分には智慧がない」と云う自己暗示で智慧の出口を
屏息している。だから智慧が出ないで、取越苦労をしなければならないのでありますが、神一元
の智慧は何時でも自分の内に宿っていて、外界の変化に応じて自由自在に働いて下さると云う事
が分かればそんなに前々から取越苦労しないで必要に応じて快刀乱麻を断つように智慧が出て来る
のです。

心が解けてしまうから問題が解けてしまうのです。神は愛である、無限の愛を以て常に護ってい
て下さるから何の心配もいらない。何時でも自分は護られていると云う大安心の境地に這入ると
吾々の心は何処にも凝滞しないで自由自在ですから、天空海闊、自由自在其のまま此処に天国浄土の凝滞なき相が現れて来るのであります。

つづく

       <平成28年1月16日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十七章「自縄自縛からの解放」 (183)
日時:2016年01月17日 (日) 08時01分
名前:平賀玄米

       <道信は斯うして解脱した>

そう云う風に「人間本来仏性、罪がない」と云うことを知らせて、人間を全面的に解放するのが
宗教の役目なのでありますが、民主主義の世の中になった現在でも罪があること及び神罰を強調
して、その罪の贖(あがな)いに金を絞る似非(えせ)宗教があるのは誠に残念なことであります。

罪本来ないのにあると思っている人があるので、それを慧可のように解脱させてやるのが、正し
き宗教であります。多くの人類は、罪がないのにあると思ってその罪悪の観念に自縄自縛せられ
ているのであります。自分で縛られているのです。自分で縛られているから自由を失っている。
自由を失っているから何事も旨く行かない。

自分で縛られているのです。先に述べました僧璨大師は禅宗の第三祖となられましたが、その次
に道信(どうしん)と云う坊さんが第四祖になられた。この道信と云う人は少年時代から中々悟った
人でありました。この人は少年の頃から僧璨大師の弟子になって居られたのですが、十三歳の
時にこう言って訊(き)いたそうです。「どうぞ先生、私を解脱させて下さい。」

解脱と云うと自分の心で自分の生命を縛っていたのが解き脱(ほど)けることであります。
すると僧璨大師は、「解脱させて下さいとお前は云うが、お前を誰が縛って居るか」こう云う風に
仰った。道信少年は、師のこの言葉を聞くと、びっくりしたのであります。

「解脱させて下さい」と言った道信は、「自分は何かほかのものに縛られて苦しみ悩んでいる」と
云う積りであったのですが、「お前を誰が縛っているか」こう言われた時、愕然とした。そして
自分を見廻した。やがて誰も縛っている者はないと気が付いたのです。

「先生、誰も縛ってはいませぬ。」
「それが分かったらもうお前は解脱したのだ。」こう仰ったのであります。
ただそれだけのことであります。簡単明瞭です。

自分を外界から縛っているものがあると思っている「心」が自分を縛っているに過ぎないのです。
その間だけが「迷い」です。縛っている物はないと分れば自由自在になれるのです。もうその時
「迷い」はないのであります。

つづく

       <平成28年1月17日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十七章「自縄自縛からの解放」 (191)
日時:2016年01月18日 (月) 07時55分
名前:平賀玄米

  
     <鶏(にわとり)の真似をするな>

『生命の実相』の本の中に、鶏に催眠術をかける方法がかいてある。鶏の翼の根元を掌で押さえ
て抱きすくめ、両脚をしっかり握って動けなくして、横に臥かせ、鶏の眼のところから、臥かせた地上
に白墨の線を二尺ばかり左右に引っ張ってから抱きすくめた手を放すと、もうその鶏は催眠術にか
かって動けない。

誰も縛ってはいないが、自分が動けなくなった時に、白墨の線が眼の前に見えたから、テッキリ
此の白い紐で縛られたと思って、手を放してからでも白墨の線が消えるまでは動けないのであり
ます。これは誰も縛ってはいないのですけれども、「縛るものがある」と思う心が、自縄自縛して
いるのです。

鶏も道信と同じように、「どうぞ解脱させて下さい、解いて下さい」と言っているのです。
「解いて呉れなかったら私は動けない」と言っているのです。ところが、実は誰も縛ってはいな
いのです。白墨の線が消えて、誰も縛るものはないのだと気がついたときに、初めて鶏が「自分
は自由だ」と気がつく、そして自由に飛んで歩くことが出来る。

それと同じように、人間も亦、誰も自分を縛るものはいないのだ、自分の心で自分を縛っていた、
今現に自由自在だったと悟る。こうしたら自由自在になれるのであります。

つづく

       <平成28年1月18日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十七章「自縄自縛からの解放」 (202)
日時:2016年01月19日 (火) 07時19分
名前:平賀玄米

 
      <人は無一物の時にも無限の富者である>

『苦難と恐怖の克服法』と云う本の第一章に『致富繁栄の黄金律』と云う項があり、其の中に
ヘンリー・フォード第一世の言った言葉があります。
トラインと云う人が、「あなたは二十五年前には無一物であったのにこんなに巨億の長者にられた」
と言って讃めると、ヘンリー・フォードが、「そうじゃない、私は二十五年前から矢張り無限の長者で
あった。

それは私ばかりではないのであって、すべての人は自分の内に無限の富を持っているのだ。」
そう云う風に言っているのであります。それは現象(白墨の線の如く眼に見える形)に縛られない
達人の言葉であります。経済界に雄飛するような人物には矢張り偉いところがあります。商売し
て損するような人は悟っていないと私は思うのです。

寺院の経営にも困っており、説教をしても人が集まらない宗教家がありますが、こんな人は悟った
宗教家だと云うことが出来ません。自分の内に無限の力があるのだと云うことが本当に分ったり、
そして其の人が商売の方なら商売するれば必ず繁昌する筈であります。

人間は何をやっても必ず成功すると云うようになるのでなければ、自分で自分を縛っているのだ
と云うことになる譯です。そこで「何物も自分を縛って居りませぬ」と云うことを知ることは、
それは一面から言い換えると「自分は此の儘無限の力です」と云う事実―――実相に眼が覚める
と云うことであります。そうすると本来内在する無限の力が出て来るのであります。

つづく

       <平成28年1月19日 謹写> ありがとうございます 合掌。




尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十七章「自縄自縛からの解放」 (209)
日時:2016年01月20日 (水) 08時05分
名前:平賀玄米


「縛っているものがある」と思はないでも、「自分は力弱き者である」こう思っている人は自分で
自分を縛って居るのです。自分は無一物だから起き上ることが出来ないのだ――こう考えている
のは、やはり、自分で自分を縛っているのであります。

何某先生に遠隔治療をして貰ったら治るのだと考える人から手紙を頂くことがありますが、そう
云う人は矢張り自分で自分を縛っているのであります。自分の中に「無限の生きるいのち」がある
と云うことを本当に知ったならばそうすると自分で自分を縛らなくなる筈であります。

誰にも依頼しなくてもそのまま自己の内に完全に治る力があるのであります。無限の力が自分の
内にあるのであります。それを大抵の人は自分で自分を縛っている、その縛るのも力があるから
縛れるのであります。道心のように、「先生どうぞ解脱させて下さい」と云わないまでも、「先生
どうぞ遠隔思念して下さい」とか、「何とか遁れる道がありませんか」と言って頼む人は、本来
自己に宿っている其の無限の力を自覚せぬ人であります。

人間は誰に頼まないでも、初めから救われている、これが人間の実相であります。人間の実相は
神の生命ですから、其のまま救われているのです。皆さんも其のまま救われているのが自分であ
ると云うことがお分かりになったら、その瞬間から自己の内に無限の力が湧いて来ますし、又す
べてのものは自分の求むるように循環せぬ人はまだ自分と云うものを小さく考えて縛っているところがあるのです。

つづく

       <平成28年1月20日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十七章「自縄自縛からの解放」 (221)
日時:2016年01月21日 (木) 07時56分
名前:平賀玄米


自分と云うものと自分の周囲と別物だと考えているのです。だから周囲が自分の欲するように動かぬのであります。自分と云うものに是だけの五尺の体、或はこの周囲のこれだけの空間だけに自分の勢力が及ぶのであって、宇宙全体や世界中に影響するものではないと考えるのであります。

だからその考えの通りに、周囲が自分に従って来ないのであります。それは結局自分で自分を限
っていると云うことになるのであります。そこで自分で、自分を限らないようにするには、あの
『実相を観ずる歌』にありますように、「神はすべてにして、吾は神の子なれば吾祈れば天地応え、
吾動けば宇宙動く」と云うような大自覚に入ることであります。

すべてが神であるから、神は一切のものを有ち給う。その神の子、神の世嗣が自分なのですから、
人間はすべてのものの主宰者として、すべての富の御世嗣としての権能(ちから)を備えているのであります。だから、「吾祈れば天地応え、吾動けば宇宙が動く」のであります。

その真理が本当に分らなかったら、まだ自分を限っている、又は自分を縛っていると云うことに
なるのであります。何人でも、自分で自分を縛り限るから力が出ないのであって、縛る力、限る
力もみな自分の力であります。

「誰がお前を縛っているか、」こう僧璨大師が道信に仰ったのは、そこのことを云われたのです。
「誰がお前を縛っているか」大変味のある言葉であります。
唯自分の心だけが自分を縛っている――こう云うことになるのであります。

つづく

       <平成28年1月21日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十七章「自縄自縛からの解放」 (241)
日時:2016年01月22日 (金) 07時29分
名前:平賀玄米


      <自分を縛らなくなると「無限供給」は自然に得られる>

それから福島博さんの話に復(かえ)りますが、この福島博さんが、自分の肺病が治り人に話すると病気が治る。精神病が治り、肺病が治る・・・と云う風に色々な奇跡的なことが起って来たのであります。

それで一つ総社町に何か人を救う家を建てると云うことを考えついて計画しておられますと、「私は風呂の釜を寄附しますから」と云う人が出て来る。「私は木材を寄附する」と云う人が出て来る。「私は無料で働きますから」と云う大工が出て来る。何でも思うようにあらわれて来ると云うことになって来て居ったのであります。

ところが、福島さんの病気が治ったと云うので、総社町から、「町の収入役になってくれ、会計のことならあなたがやってくれないと困る」と云って来て、断りかねて、とうとう町の収入役になることにし、今でも仕事の傍ら黙々として生長の家の宣伝をして居られると云うことであります。

町では前の収入役はいくら貰って居ったけれども、あなたが出るのであったらこれだけ余計出すからと云うので給料は殖える、人は集まって来る。実相のゆたかなる供給は自ずから八方から集まって来ると云うことになって来たのであります。このように自分の心が開けば無限供給も自ずから集まって来るのであります。

つづく

       <平成28年1月22日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十七章「自縄自縛からの解放」 (251)
日時:2016年01月23日 (土) 07時49分
名前:平賀玄米


        <潜在意識で自分を縛るな>

自分を縛ると云う話では、結婚すると病気になる御婦人があります。それは必ず結婚先の家庭の誰かと精神的不調和がある。姑と仲が悪いとか、結婚して見たけれども良人とどうもピッタリしないとか、結婚するまでに或る男性と恋愛していて、その男性に対する恋慕の念が残っているとかする為に、わざと自分の潜在意識が自分の生命活動の状態を縛って病気にしてしまうのであります。

そう云う場合、嫁入先にいると病気になるが、実家へ養生に行ったりすると直ぐ、治ってしまうのであります。「治ったのなら、嫁入先に帰れ」というのでまたそこに行くとまた熱を出したりして、どうも健康がスッキリしない、原因不明で食欲不振で微熱があってフラフラしていると云うようなことが続く、そこで又実家へ帰ると又すぐ健康になる、健康になると、婚家先へ来て又病気になる。

そんなことを数回やっているうちに、背が痛んで来て妙な感じがする、医者に診て貰うと、脊椎カリエスだと云われる。カリエスとは何だと云うと、脊椎骨が結核菌に侵されて膨れているので、これは医学上から絶対治らぬ。それが原因で微熱が出ている。そういう診断になることが随分ある。

その人が生長の家に来られまして、私がよく話して上げて、先ず現在の運命に感謝すること、脊椎は先祖又は父母の象徴として肉親の心柱になっている箇所にあらわれているものであるから、先祖に感謝し、父母に感謝し、岳父母(しゅうとたち)に感謝する様に指導すると、殆ど全部お治りになるのであります。そういうことはよくある実例であります。

つづく

       <平成28年1月23日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十七章「自縄自縛からの解放」 (264)
日時:2016年01月24日 (日) 09時50分
名前:平賀玄米


先日、横浜でもそんな話がありました。あるお嬢さんが嫁にいっていらっしゃると熱を出して原因不明である。併し、又実家に帰ると治る。「これはどう云うものでしょうか」と云う質問でありました。それは嫁入先の家庭と調和しないで実家に帰りたいと云う心を現わしている。

表面の心では離縁になると、世間体も困ると思って決して離婚されたいと思わないのですけれども、潜在意識というものは、表面の意識の奥にあって、そして無意識的に動作されている生理作用を支配するのであります。

その娘の表面の意識は利害関係や、家の名誉や、世間の噂や、色々なものを顧慮して、潜在意識が
「離婚されたい」と思っているその思いを胡魔化しているのです。しかし潜在意識はそんな胡魔化しに耐えることが出来ないで、心の底深く切実に求めるところのものを、実行しょうとする。

潜在意識と云うものは家名であるとか、利害関係とか、世間の噂とかを顧慮しない。そして切実な願いを無意識の奥底から起して、病気にしてでも其の目的を達しようとするものであります。

だから吾々の潜在意識というものは無意識のうちに複雑怪奇な働きをしてくれるものであります。
だから吾々の無意識行動(生理作用をも含む)をよくするには潜在意識を光明化するということが
大切であります。

つづく

       <平成28年1月24日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十七章「自縄自縛からの解放」 (272)
日時:2016年01月25日 (月) 08時58分
名前:平賀玄米

潜在意識というものは実験心理学に依りますと、現在意識が余りはっきりと働いていない時に、よくその暗示を受け入れるというのです。ですから催眠術をかけて現在意識を眠らして置く。そういう時に、潜在意識に対して暗示によって或る観念を注ぎ込むと、催眠から覚めた後も、その人が暗示の通りに動きます。

例えば「明日の午後三時になったら、君は雨が降っても降らないでも傘をさして庭を三周り歩く」と云いますと、其の人は其の通りに其の時間になると、理屈なしに傘をさして庭を歩き出したりするのであります。それは自分の現在意識が「こんな天気に傘をさして歩いたら恥かしい」と思いましても、どうしても妙な強制するような感情が湧いて来て、どうしても傘をさして歩かないと居れないような気持になるのです。

これは催眠術をほどこさなくとも、現在意識が眠りから覚めかけた時や、恍惚として心を統一させている時や、神想観中に一番よく与えられた暗示を受容れるのであります。ですから吾々が朝起きてぼんやりしている時に、よき言葉を注ぎ込むことは潜在意識を浄化することになるのであります。

眼が覚めるとすぐ「私は神の子だ。私は幸福なんだ。私は楽しいんだ、今日一日好いことばかり来るのだ」こういう種類の言葉を二十遍ぐらいづつ唱えてから寝床から起き上がるというのも、その応用の一つであります。

また寝しなに、眠くなってうとうととしかけた時に、「私は神の子だ、私は楽しいんだ、幸福なんだ、眠っている間に私は一層健康になる」と口の中に又二十遍位唱えながら、その心持ちを持続したまま寝てしまうようにしますと、潜在意識がその観念を受け入れて、それを宇宙意識の創化作用に引渡してくれることになり、それが実現することになるのであります。

つづく

       <平成28年1月25日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十七章「自縄自縛からの解放」 (276)
日時:2016年01月26日 (火) 08時12分
名前:平賀玄米

  
     <潜在意識と宇宙意識との関係>

現在意識は意識の海の表面に浮かんでいる波のようなものであります。そこに起った波動(想念感情)はその下層にある潜在意識に印象せられます。すると潜在意識というものは宇宙意識とその奥底に於いて繋がっていまして、宇宙意識の創化作用はその受けた印象を具象化し始めるのであります。現在意識ははっきりと個性的な自己選択的なものでありますけれども、宇宙意識の創化作用は非個性的なものであって、選択的又は愛憎的には働かない。

善人が塔の上から落としても悪人が塔の上から落としても、どちらも同じように無差別的に落下するように、善人が潜在意識を通じて「貧乏」の観念を宇宙意識の創化作用に印象しても、悪人が「貧乏」の観念を宇宙意識の創化作用に印象しても、どちらも差別なしにそれが実現して来るのであります。

善人だから、容赦して「貧乏」にならしめないで置こうと云うのではないのです。この点に於いて宇宙意識は神の意識とは異なるのであります。仏教でいう阿頼耶識に当たるのでありまして、真如、実相又はアンマラ識と云うような清浄意識まで行っておりません。

どんな悪いものでも、それを念ずれば仮に五官に見えるように、テレビジョンのように具象化するのであります。兎も角、吾々の意識は宇宙の意識に繋がっているものですから、信念を持って、「是が要るから持って来て下さい」というと、不思議にそれを宇宙意識が、それを有っている人に伝えて呉れて、それを持って来てくれるというようなことになります。

「家を売りたい」と思えば、「家を買いたい人よ、あらわれよ」と信念を持って念じ、既にその「買いたい人」は現れたと云う観念を宇宙意識に深く印象しますと、それが実現するのであります。

今回にて第十七章は完、次回から第十八章「わが魂の願いと祈り」です。

       <平成28年1月26日 謹写> ありがとうございます 合掌。





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