《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十八章「わが魂の願いと祈り」 (286)
日時:2016年01月27日 (水) 05時51分
名前:平賀玄米


          <まことなる魂の願い>

先日、ある読者からこういう質問が来たのでした。それには、こう書いてありました。
「あなたの『幸福生活論』を読んでいると<吾々は御心の如くならしめ給え>と祈らなければならないということが書いてあるが、それは『生命の実相』の生活篇にある<吾が為すは神がなさしめ給うのであると信じて断乎として実行せよ>と書かれていることと矛盾しているのではありませんか。自分の希望が神の御意志であるかどうかわからないから結局<御心の如くならしめ給え>と念ずるのでは断行の勇気も、一切を成就する所の勇敢なる決意も出て来ないではありませんか。」

成る程これは一応もっともなる質問であると思われるのです。然しながら、人間が煩悩で思うことは必ずしも「汝の願い」は「神の願い」というように質問者から題を出されように、そう単純に行かないのであります。「私は金が百万円欲しい」と云うのも神の願いであるか。「私は全世界の王様になりたい」と云うのも、それも神の願いであるか。

秦の始皇帝の様に三千の後宮を置いて毎日凡ゆる快楽を貪る生活をしたい――というような願いも人間には起らないとも限らないのであるが、それも、神の願いでありましょうか。それは決して「汝の願い」は「神の願い」というわけには行かないのであります。

吾々の願いが神の願いであるためには、それが真に神から自分に植えつけられたる願いでなければならないのであります。吾々の願い或は欲望には往々にして非常に不純なものが含まれているのであります。それは本来の姿からゆがんでいたり、又まだ本当に熟しない願いであったり、薔薇の木が牡丹の花を咲かせたいと願う様な願いであったりすることが多分にあるのであります。
そこで吾々の願いをそんなに早急に「神の願い」と結論付けてしまうことは出来ないのであります。

ジョージ・ミュラーというような人が祈れば忽ち濃霧開けて丁度都合のよい時に汽船がキュベックに到着したというような奇跡が起こったのは、その人の願いが本当に「神の願い」になっていたからなのであります。

吾々の願いが神の願いに一致するのであるといい得る為にはそれがテストされなければならないのであります。それを私は『祈りの科学』の本の中で詳しく述べて置いたのであります。
そのテストすべき要領をここには簡単に掲げることに致します。

つづく

       <平成28年1月27日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十八章「わが魂の願いと祈り」 (296)
日時:2016年01月28日 (木) 07時06分
名前:平賀玄米


      <性格に適する願い>

第一に、それは自分の性格に適する心の願いでなければならないことであります。
富を求める場合には、「私の天分にかないまする出来るだけ多勢の人のためになるよき考えを与え給え」と祈らなければならないと、私は『祈りの科学』の中で教えて置いたのであります。

吾々の祈りが「神の願い」即ち神が自分に植えつけた所の願いであるためには、それが「天分にかなう」ところの薔薇の木が薔薇の花を咲かせるような願いでなければならないことであります。
薔薇の木が藤の花を咲かせたいというような願いは、いくら切実に願ってみてもきかれないのであります。それはそのものの「根本要求」ではないからであります。

多くの祈りがきかれないで終わるのは、かかる「根本要求」でないものを求めていたからであります。だから先ず自分の願いが自分にとっての根本要求であるかどうかということをテストしてみる必要があるのであります。如何にしてテストするかと云ってもそれは自己反省による外はないのであります。

或は又「吾が為すは神が成さしめ給うのである」と信じて実行してみて、実際に成功しない場合には、自分にとって適しない願いであったと云うことがわかるのであります。
神は、その求めが適当でなかったら、その代償として適当なものと取り換えて下さるのであります。

その次には「出来るだけ多勢の人の為になる良き考えを与え給え」と祈るべしと云う教えの中に
「わが願い」は「神の願い」であるかどうかのテストの条件が含まれているのであります。

出来るだけ多勢の人の為になる即ち人類相互の幸福の為にならんが為の願いであるかどうかが、わが願いが神の願いであるかどうかが、わが願いが神の願いであるかどうかのテストの条件になるのであります。この二つの条件が整うところの願いは、神の願いに一致するものと大体定めてよいのであります。


           <早熟なる願い>

然しながら吾々の願いの中にはまだまだ色々の不純物や未熟なるものが混じっているのであります。たとい薔薇の木が薔薇の花を咲かせたいという願いが純粋でありましても、それがまだ早熟な願いであって、蕾も整わない中に立派な花を咲かせたいというような願いはそれはまだ早熟なる願いであって神様の御心に叶わない願いなのであります。
だからここにも「神よ御心ならばこの願いを成就せしめ給え」と祈る必要があるのであります。

つづく

       <平成28年1月28日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十八章「わが魂の願いと祈り」 (301)
日時:2016年01月29日 (金) 06時09分
名前:平賀玄米


         <真の願いか否かのテスト>

ともかく吾々は自分の求めるもの、願うところのものを書き下ろしてみることに致しましょう。
そしてそれをテストすればいいのであります。
(一)真に自分に適するところの願いであるか。
(二)これが成就することによって他の人が傷つくようなことがなかろうか。人間全体の福祉の為に貢献するところの願いであるか。  
(三)此の願いは尚未熟なる早熟なる願いではないだろうか。
という見地から、その書き下ろした願いを幾回も反省してみるようにすればいいのであります。

そしてそのテストも自分の我でテストしないで更に神に祈るのであります。
「これが真に私の神から与えれれたところの願いでありましょうか。もしそうでございませんで
したら神の智慧によってこれを修正して下さいませ」と、毎日祈って、その書き下ろした自分の
願いについて、少なくとも一週間は沈思黙考した上で、訂正すべきものは訂正し、抹殺すべきもの
は抹殺し、追加すべきものは追加するようにすればいいのであります。

かくて出来上がったところの吾が願いの目次を浄書して神様に捧げることにし、更にその願えるも
のの特殊なる形又は性質を出来るだけ、細かく自分の欲するようにその細部迄もはっきりと心に描
き上げる為に書くことは一層よい方法であります。

つづく

       <平成28年1月29日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十八章「わが魂の願いと祈り」 (310)
日時:2016年01月30日 (土) 08時13分
名前:平賀玄米


       <あまりに詳しく願いの細部を規定してはならない>

何故細かく詳しく書いて置く方がよいかというと、それは吾々が神に対して求める所の模型となる
べき心の姿を形成するからであります。もっと詳しく書くといっても、例えば、朝顔が種から発芽
した場合に、その蔓がどの方向を向いてすすみ、何番目の葉はどの方向から出てどっちを向かねば
ならぬなどというような、余り詳しい指定を行うことはよろしくないのであります。

吾々は大輪の朝顔の花を咲かせたいというようなそういうはっきりした願いを持つことは好いの
でありますが、一々葉の出る方向をしていすることは却って自然を毀してしまうことになるのであ
ります。「自然」が即ち神の御心でありますから、ここにもまた「自然」の如く伸ばすということ
は「神の御心の如くならしめ給え」と祈ることになるのであります。

つづく

       <平成28年1月30日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十八章「わが魂の願いと祈り」 (320)
日時:2016年01月31日 (日) 07時29分
名前:平賀玄米


自然を壊す時には、一時は旨く進行するかのように見えるかも知れませんけれども、それは「角を
矯めて牛を殺す」という諺もある通り、却って目的を達することが出来ないのであります。

吾々が真に成就し得る所のものは、「神の御心に既にある」もののみなのであります。吾々は神の
御心の中にあるものの中からのみ引き出して来る外はないのであります。その他のものは実現した
ようにみえていましても、蜃気楼の様に「実在」にバックされていないのでありますから、やがて
遠からず消えてしまうほかはないのであります。

だからどうしても「神の御心の如くならしめ給え」という祈りが吾々の魂の底にあってこそ「吾が
願いは神の願い」と強い自信をもつことも出来るのであり、又、その如く実現するのであります。

コロンブスは当時のすべての人々が反対しても、尚新大陸の発見の使命をもって航海せずにはいら
れなかったのであります。彼が成功したのは彼の願いが神の願いであったからであります。

ナポレオンは「神は天上に霹靂を打ちふるわし、吾は地上に雷霆を打ちふるわす」と豪語しました
けれども、彼の「吾が辞書に不可能という文字はない」という自信も結局破れて敢なくウォターク
ーローの戦いに破れて、セントヘレナに流謫(りゅうたく)されたのは、彼の願いは「我」の願い
であって「神の願い」でなかったからであります。

「我に不可能はない」という自信も、単なる「我」の自信である場合には一時は成功するようにみ
えても結局は、崩れてしまうのであります。

だから何でもかでも「我が願い神の願い」として、押しの一手で押し進んで行けば好いというわけ
のものではないのであって、先ず自分の「我」が砕けて自分の生活目的が神の御心に一致する事が
必要なのであります。

つづく

       <平成28年1月31日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十八章「わが魂の願いと祈り」 (331)
日時:2016年02月01日 (月) 07時21分
名前:平賀玄米


       <生活になくてならぬ物の祈り>

吾々の誰でもが、一様に祈ってよい所のものは、吾々の生活になくてならぬ所のものであります。
よき空気、よき水、よき食物、よき住まい、健康を保つための運動又はリクレエーション、生活費
を得ると共に人のためになるよき仕事、人間として互いに愛する生活を送るためのよき家族及び友
達又は協力者――これらのものは人類共通に必要なものであって、それを求める祈りはすべて誠な
る願いであり神によってきかれるのであります。

然しながら、多くの人達はよき職業を見つけたいと思いながら、それが得られないで苦しんでいる
し、よき住まいを持ちたいと思いながら、それが得られないで苦しんでいるのは何故でありましょ
うか。それは結局その人が神の恵みの良き受け手とならないからであります。


      <神の恵みの良き受け手としての条件>

何故吾々は神の恵みのよき受けてとなることが出来ないのでありましょうか。
それは結局、神の波長に自分自身の波長が合わないからであります。放送は既にあっても受信の波
長が起らなければなりません。

神の恵みを受信し得ない理由の主なるものは次の如くであります。

それは第一心が暗いからであります。吾々は心を明るく持たなければすべての神の恵みが入って来
る所の入口をとざしてしまうことになるのであります。

第二には、吾々にそれを実現する自信がないのであります。即ち信念が足りないのであります。

第三には、恐怖心があるからであります。自信がないので恐怖心が起るのでありますからこれは
第二と連関した問題でありますが、ともかく何か悪いことが起って来ると思って恐れていることは、
よきものが実現して来る妨げとなるのであります。

第四には、自分が誰かを憎んでいるか、恨んでいるか、又腹を立てているか、何か不調和な心の働
きがあるかするのであります。その不調和な精神波動が神からの放送(幸福)を受信せしめないの
であります。

つづく

       <平成28年2月1日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十八章「わが魂の願いと祈り」 (341)
日時:2016年02月02日 (火) 07時03分
名前:平賀玄米


      <キリストの模範的祈り>

そこで吾々が希望の実現を神に祈るためにはその見本をキリストの教えた主の祈りに則るのが好
いのであります。
「天に在します吾らの父よ、願わくばみ名のあがめられんことを。御国の来たらんことを。御心の
天になるが如く地にもならしめ給え。吾らの日々の糧を今日も与え給え。吾らに負債(おいめ)あ
るものを吾らの赦したる如く、吾らの負債をも赦し給え。吾らを試みに遭はせず、惡より救い出だ
し給え。」この祈りに於ける「み名」とは、コトバであり、実相であります。

この主の祈りは頗る簡単であり、祈りの骨格を形成するものでありますから、も少しこれを詳しく
肉をつけて、その内容を祈る事が吾々の信念を増す所の方法になるのであります。
即ち神の国の実相を詳しくはっきり心に描いて祈るのであります。

即ち次の如く祈るのが好いのであります。
「天地(あめつち)の造り主の神にましまし、わが御親にまします神よ、願わくば、実相をあがめ
しめ給え。あぁ、神の造り給いし実相の世界の妙なるかな。神の無限の智慧に満たされてあるかな。

神の無限の愛に満たされてあるかな。神の無限の生命(いのち)に満たされてあるかな。神の無限
の供給に満たされてあるかな。神の無限の喜びに満たされてあるかな。神の無限の調和に満たされ
てあるかな。」と神想観に於いて祈るのは即ち主の祈りに於けるみ名を崇め御国の素晴らしく美し
く妙なる様を讃嘆する言葉に当たるのであります。
かくして神の造り給える実相の世界と完全に波長を合わすのであります。

つづく

       <平成28年2月2日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十八章「わが魂の願いと祈り」 (355)
日時:2016年02月03日 (水) 07時58分
名前:平賀玄米


その次に、「御国を来たらしめ給え、実相のこの美しき有様を現象界にも実現せしめ給え」と祈る
のであります。そして次に「吾らの日常の糧を今日も与え給え」の祈りが有効になって来るのであ
ります。「吾らの日常の糧」というのは、「人はパンのみにて生くるに非ず」というキリストの言葉
にある通り、必ずしも物質的な糧のみではないのであります。

精神的な糧も、よき智慧も、心の喜びも、温き愛も、すべて吾らの魂の生長に必要な日常の糧であ
りますから、これらのものを一々心にはっきり描いて求むればそれが与えられることになるのであ
ります。

その次には「吾らに負債あるものを吾らの赦したる如く、吾らの負債をも赦し給え」という祈りに
あるように、神想観中にすべての憎む人、怒る人、争う人たちを心の中で思い起こし、それらの人々
の名を唱え、「私はあなたを赦しました。あなたも私を赦しました。私はあなたを愛しています。
あなたも私を愛しています。私はあなたに感謝しております。ありがとうございます。」と繰返し、
念じて、争いの念波によって神の恵みが自分にやって来ることを妨げていたのをなくしてしまうこ
とが必要なのであります。

かくして感謝の念が自分の心を完全に占領し、すべての争いの念波が自分の心から消えてしまう時、
神の霊波と波長が合い、神の恵みは完全に映画の如く地上に実現するのであります。

つづく

       <平成28年2月3日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十八章「わが魂の願いと祈り」 (365)
日時:2016年02月04日 (木) 07時03分
名前:平賀玄米


      <試練を求める祈りをしてはならない>

吾々が地上生活に於いて不幸になる原因は受難礼賛の心から来ることも多いのであります。
試練を受けなければ人間の魂は向上しないというような考えが甚だしく吾々の生活に試練となる
ような困難を祈り出していることになるのであります。

山中鹿之助は三日月に対(むか)って「我に百難を与え給え。限りある身の力ためさん」と祈った
そうでありますが、やがてその祈りの通りの苦難が相次いでやって来たのであります。

そこでキリストは「吾らを試みに遭わせず、惡より救い出し給え」と試練を礼賛してはならない事
を教えたのであります。即ち受難礼賛の心を捨ててただ善のみが神より来るものであると云う信念
になって初めて吾々の地上の幸福生活が成就するのであります。

神は宇宙を貫く法則でありますから、数学の様に正確に答が出て来るのであります。
吾々の願いが成就するとしないとは、上に述べた様な条件に叶うか叶わないかによって左右される
のであります。2+2=4であり、それは変わらないのであります。

2+2をしても、更に2を引き算しては4にはならないのであります。
吾々は時々祈っておりながら、その祈りの結果に対して自分の反対観念によって「引き算」をして
いるのであります。引き算は結局自分の幸福を減じてしまうことになるのであります。

上記の如く検討してこれこそ真実なる願いだと云う願いを神の前に捧げてその願いが既に成就し
たりと信ずることは、真にその願いを成就せしむる道なのであります。

多くの人達は大抵祈る場合に富とか物質とかいうものを求めるのでありますが、吾々はもっと無形
のものを求めるべきであります。よき智慧を求め、よき愛を求め、よき協力者を求める事をあなた
達は忘れている場合が多いのであります。すべて神の国には物質的なものよりも霊的のもののみが
あるのであります。

先ず霊的なものを求むれば、それが人間界に天降って来て物質化し具体的な存在となるのでありま
す。これが「先ず、神の国と神の義(ただしさ)を求めよ、その余のものは汝らに加えらるべし」
と云うキリストの教えの真義であります。

今回にて第十八章は完、次回から第十九章「成功のための心理学」です。

       <平成28年2月4日 謹写> ありがとうございます 合掌。





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