《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十六章「あなたは本来罪がない」 (9)
日時:2016年01月01日 (金) 07時35分
名前:平賀玄米

皆様、明けましておめでとうございます。
本年も謹写・投稿を続けて参りますので、宜しくお願い申し上げます。
掲示板が引っ越しましたので、今迄の掲示板は区切りとして第十五章までとし、この新しい
掲示板は第十六章の始めから(27/12/29〜31分再掲示)スタートさせて頂きます。 合掌。

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          ≪第十六章 あなたは本来罪がない≫

    <人間神の子の真理の書を読んで結核が全快した>

群馬県の総社町の収入役をしていられる福島博さんと云う人があります。ずっと以前此の方は
総社町の町長をしたり、助役をしたりしておられました。其の時分は、自分はゆたかに私財を投
じて町の公の施設の為に色々お尽くしになったのでありますけれども、其の内に病気におなりに
なったのです。医者に診て貰うと肺結核だと云うのです。

村などと云うところは世間が狭いから肺病だと云う噂がぱっと立つと、今迄深切にして居て呉れ
た人が誰一人深切にしなくなったそうであります。肺病は伝染(うつ)る病気だと云うので、毛
嫌いしてしまって、今迄町の為に私財を擲(なげう)って、尽くしてくれたと云う恩義のことを
考えもしないで、病気見舞に来てくれる人すらなくなったのであります。

そこで福島博さんは実に淋しく、実に陰気な気持ちで、人間の人情の紙よりも薄いことを憂えな
がら臥(ね)て居られたのであります。その頃、一燈園の機関雑誌の『光』と云うのを福島さん
は読んでいられますと、『生命の神秘』と題して、その頃、今の『光明生活シリーズ』のような
『生長の家叢書』というのが有りまして、その内の『心吾を生かす』と題するパンフレットを無
代進呈すると云う広告が出て居たのであります。

それを欲しいと思ってハガキで申し込まれたので、そのパンフレットを無代進呈したのでありま
したが、そしたら福島博さんはそれをお読みになったら大変気持ちがよくなったのです。三年も
絶対安静で動けなくて寝て居られたのですが、それを読むと元気になって、是は治ると云う自覚
を得て来られたのです。

つづく

      <平成27年12月29日 謹写> ありがとうございます 合掌。


それから『生命の実相』を読もうと思ったけれども赤貧洗うが如しで、その日その日の御飯に
差し支えると云う具合になって居られたのです。そこで東京の親類の人に、どこか東京の古本屋
で『生命の実相』を探して出来るだけ汚れて居ってもいいから、金がないから、安い本ならいい、
探して呉れないかと云ってお願いになったのですけれども、『生命の実相』は古本屋に行っても
中々古本なんかで見つからないのです。

何百万部が出たあとの今でさえ、人が売りたがらないので、古本屋では滅多に見つからないもの
ですから、一千部位しか出ていなかった其の時分には中々古本屋なんかで見つからないのです。
そこで福島博さんから、実はこう云う事情で金が無くて困っている。療養費もなく食う金にも困って
いるが、何とか『生命の実相』を読みたくて仕方がないから落丁の本でもいいから出来るだけ
安く買える本があったら送ってもらえないかと云うお願いがあったのです。

そのお手紙には中々誠が現れていましたので、それじゃ代金のことはどうでもよろしいから払え
るようになったら払ったらよろしい、お送りしましょうと云って、落丁でも何でもない、完全な本を
送ったのです。それをお読みになって、三年間の肺病がすっかり治った。

どういう心の経過で治ったかは分かりませぬが、兎も角読んだら治ったのです。尤も善人と云う
心が執われやすくて、人と衝突しやすくて、そして自分の善だと思っていることに窮屈に凝り固
まって自由と云うものを失ってしまうものですから、そう云うことが病気の原因だったろうと思う
のです。

そして自分が達者な時には私財を擲って町の為につくしてやったのに、今はこんなになって居る
のにそれに誰一人見て呉れないと云う怨みの心があったに違いないと思うのであります。そう云
う心があると病気は中々治らないものであります。ところが『生命の実相』をお読みになります
と福島博さんはすっかり心が明るくおなりになったのであります。

つづく

      <平成27年12月30日 謹写> ありがとうございます 合掌。


私が生長の家をはじめまして後はじめて東京に来ました時に、浅草の馬橋小学校で誌友会及び講
演会がありましたが、その時に福島博さんにお目にかかったら実に明るいにこやかな顔をして居
られた。こんな人が肺病であったかと思われるような実に穏やかな本当ににこにこした四十歳位
の人で、とてもいい顔して居られました。そんなお顔におなりになった時に、もう病気はないのです。

顔が穏やかになると云うことは心が平和になり、心の病気が治っていることを表しているのであ
ります。病気がお治りになりましたが、三年も病気で、助役の方も罷めて居られて、財産を医療
費に使い果たしたあとでしたから、誰かの紹介で大阪のF英学塾と云うところにお勤めになった
のです。

どう云う仕事をするかと云うと、朝五時から起きて小使い見たいに掃除する仕事であります。
掃除が終わって食事を済ますと先生になって学科を教える。その余暇で会計をやる。給品部で
色々の学用品を売ってそれらの会計をやる。それら一切の事務の後始末をして寝ると午後十二時
だそうです。

朝五時から起きて十二時まで一所懸命で働くのです。そして月給はいくらかと云うと二十五円。
今とは金の呼び値が違っていますけれども、当時にしても随分安い給料でした。ところが、学校
の給品部は相手が生徒さんで多勢ですから、一人じゃ遣り切れないものですから、助手に生徒が
三人位手伝って呉れる、しかし皆会計の専門家でないから中々算盤(そろばん)が合わない。

毎月二十五円位給品部の金が足らぬ。二十五円月給貰って、二十五円会計が足りないでも福島さんは自分で黙って弁償しておられる。これでは自分の生活に困るのですけれども、福島さんは「天地一切のものに感謝せよ」と云う教えを奉じて、少しも不平を言わないで、「有難うございます」と唯感謝
しながら朝五時から夜の十二時まで働かれたのです。それでも健康は益々増進する。

つづく

      <平成27年12月31日 謹写> ありがとうございます 合掌。


「今迄三年間も結核で寝ていたのに、こんなに働けるようになったのは生長の家のお陰だ、あぁ
有難い」と云う譯で、安い月給でも不平ひとつ思わずに、「兎も角ここへ勤めさせて貰ったことは
神様が、人間の生命の本質をこの学校の生徒に伝えるべく自分に使命を与えられたのである」と
思われまして、学科を教える傍ら、少しずつ真理の話をなさるのでした。

即ち「人間本来神の子だ。罪はない。病気はない。人間は神の子だから既に救われている」と云
う話をなさるのでした。そうすると塾主のFさんはカチカチのクリスチャンで、「人間に罪があるので
宗教があるのだ。出鱈目な話をしてくれては困る」と仰るのです。

そして「罪はないのだ、病気もないのだ」と福島博さんが自分の病気の治った体験を通して真理
の話をなさるとF塾主がそれを其の後から打消して「今の話は間違っている、人間に罪があるので、
それを救わんがために宗教があるのだ、病気があるので、それを救わんがために医者があるのだ」
と云うような話をなさるのであります。そこで、福島さんと塾主とは、どうしても調和しない。

「天地一切のものと和解せよと云う教えを受けながら、先生どうしたらこの塾主と真理に於いて
和解することが出来ますか」と云う質問の手紙を寄越されたことがあります。

つづく

      <平成28年1月 元旦 謹写> ありがとうございます 合掌。




尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十六章「あなたは本来罪がない」 (16)
日時:2016年01月02日 (土) 08時25分
名前:平賀玄米

 
       <教えに反対する人と調和するには>

こういう場合に如何にせぼ相手と和解することが出来るかと云う問題は、屹度、真理を人に宣べ
伝える菩薩行をしておられる人たちの中には時々起って来る問題だと思うのであります。
そう云う場合に、相手を「真理に違(たが)っている人だ」と思いつめるようにすると、思う通
りにあらわれる世界ですから相手と調和しないどころか、相手を真理に違わぬ人にすることは出
来ません。

そこでそう云う場合には「神はこの世界を完全に造り給い、すべての人に真理を知る叡智を与え
給うのであるから、自分の触れる限りの人は悉く真理を知っていて、真理に敵対する人などは
一人もないのだ。」と神想観中に思念すると好いのであります。

すると、その思念通り、「自分に触れる限りの人」が真理を知る人になり、どうしても真理に抗う
人がいれば、その人とは波長が合わないから自然その人と遠ざかってしまうようになるのであり
ます。こう云う意味のことを私から返事して置いたのでありましたが、するとやがて福島さんから
手紙が来ました。

「私は現在、生徒に歴史を教えているのですが、歴史位なら教えられぬことはない、明日教える
ことを前晩に参考書を読んで、一所懸命覚えておいて、次の日に生徒に教える、詳しい参考書を
読んで行けば、それで間に合うのですが、今度わたしは、歴史のほかに、習字の先生をやれと言
われました。これには弱りました。私は実に悪筆です。日本文字でも縦の棒を引くとき英語を書く
ように斜めになる筆癖があるのです。そう云うようにきわめて悪筆です。

とても習字を教える資格はない。ほかの辛い仕事ならどんな仕事でも「有難うございます」と
感謝してさせて頂きますが、習字を教えることばかりには全く閉口しています。何とか逃げ出す
道がないかと願っているのです」とその手紙には書いてありました。境遇の自壊作用が始まった
のであります。自己に波長の合わない境遇が自然と脱落して行くのであります。

つづく

      <平成28年1月2日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十六章「あなたは本来罪がない」 (21)
日時:2016年01月03日 (日) 07時19分
名前:平賀玄米

しばらくすると、福島さんの奥さんが二階から墜落して人事不省になったから直ぐ帰れと云う電
報が来たのであります。それを機会にその適当しない職を辞退なさって郷里にお帰りになったの
であります。ところが奥さんが二階から墜落して人事不省であったというのは、一時だけの事で
すぐ健康になられたのでしたが、それが自然に催して来たところの自分と不調和な境遇から逃れ
るための自壊作用であったのです。波長の合わない者同士は互いに分離するようになっているの
であります。

その自壊作用を経て、自分の適する環境へ帰って来られた後には、午前五時から夜の十二時まで
働いても健康である、心の持方でこんなに病気が治ると云う体験者だと云うので大分有名になってしまって、「あちらから話に来てくれ、こちらから話に来て呉れ」と云うように引っ張り凧になってしまった。
そして其のころ福島さんはとてもひどい狂人を二人お治しになったのであります。

つづく

      <平成28年1月3日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十六章「あなたは本来罪がない」 (29)
日時:2016年01月04日 (月) 08時00分
名前:平賀玄米

  
  <狂人は概ね「愛」の欠乏から来ている>

福島さんは治すように頼まれた二人の狂人を自宅に引取られました。精神病院のような隔離する
病室のない普通の部屋に狂人を引取ると云うことは余程の「愛」がなければ出来ないことであり
ます。狂人の一挙一動が悉く、普通人の生活をかき乱すようになるからです。

福島さんが狂人を治されたのはどうして治すかと云うと、暴れている狂人を「神の愛が私を通し
て汝を抱擁している、私は汝を愛している」と念じながら、じっと抱いてしまわれるのであります。

自分の赤ん坊を可愛がるようにじっと抱いてしまって、母親が子を抱くようにして、「すべては
神であって、神の愛に汝はつつまれ、神の愛に充たされている」と云うような愛の念波の中に融け
込んでしまって、自分の生みの子供を愛するが如く、神の愛に抱かれて一緒に平和な心境で眠って
しまわれるのでした。すると不思議に狂人が二人とも治ってしまったのです。

この話は全く本当の話でありまして、福島博さんは結核が治ってから約二十幾年、現在総社町の
収入役をしておられ、爾来一度も病気をしたことがなく、他の病気を治すこと幾百人、毎月定時の
信徒会には必ず幾十人が集まってその法話をきいて悦んでいるのであります。

つづく

      <平成28年1月4日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十六章「あなたは本来罪がない」 (37)
日時:2016年01月05日 (火) 07時32分
名前:平賀玄米

      <愛は強力なる癒力である>

今は故人でありますが、福岡中学の教頭さんだった高山満さんも気狂(きちがい)を十一人も治した
と云う話をして居られたのであります。どうして治したかと訊いて見ると、大抵じっと抱くのですね。
じっと抱いて、自分が神の愛そのものになり切って、そして無限絶大の愛によって包んでしまう。
すると荒れ狂っていた狂人の心が平和になって眠ってしまう。すると治るのであります。

それは気が狂うと云うのは、愛の欠乏から来るからであります。愛されたいと云う欲望が満足され
ないのです。そこでいらいらしてヒステリックになってそしてなんとかして人の注目を惹きたい、と云う
ことは、人の愛情を惹きたいと云う気持ちの転じたものでありまして、人の注目を惹くために暴れ出
すのが気狂になるのであります。

ですから本当に其の人を神様のように、愛深き母親のように、深い深い愛情をもって包んでくれ
ると云うことになれば精神病の大半は自から消えてしまうのであります。尤もそう云う風に、本人
が愛情に飢えて興奮している時に霊界の、矢張り、迷っていて愛情に飢えている霊魂が感応し
て来て、そして精神病になるのであります。

そこで精神病者を治すには、一方で『甘露の法雨』を霊前で毎日一定時間に読んで、その霊魂を
悟らせると共に、愛の思念に依って抱擁してしまうと治ると云うことになるのであります。
死後に於ける霊魂の状態に就いては、『生命の實相』霊界篇及び『生命の謎』に詳しく書かれて
いますから読んで頂きたいのであります。

つづく

      <平成28年1月5日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十六章「あなたは本来罪がない」 (42)
日時:2016年01月06日 (水) 07時23分
名前:平賀玄米

  
   <道を求める者の覚悟>

ところで、悟らせると云うことは、「人間・神の子」「迷い本来無し」「罪本来無し」と云うこと
を知らせることでありますが、そこで人間は、罪があるかないかと云う問題になるのであります。

福島博さんが勤められた英学塾の塾主は「罪があるので宗教がある」と云われた。が、生長の家
に言わせると「罪はない」と云うのであります。

禅宗の初代の開祖である達磨大師のところに、慧可と云う人が道を求めてその弟子になりに来た
のですが中々弟子にして呉れなかったのであります。達磨大師は寒中の雪が降る中に何時までも
放って置いて部屋に入れてやらなかったと云うことが書いてあるのであります。

そこで慧可は自分の赤誠を披歴する為に自分の左の臂(ひじ)を切って右の手で持ってそして捧げた。そこで達磨大師は初めて弟子にしてやったと云うようなことが書いてあります。これは「慧可の断臂(だんぴ)」と云って有名な話であります。

今の人はそれほど真剣な人が少ない。慧可は自分の腕の一本位どうなっても真理を求めたいと云う。
ところがこの頃の人は「私の腕は神経痛だから、それを治してもらいに来た。もう治ってしまったら真理
などどうでも宜しい。もう治ったから師弟の関係はない」と言います。その心掛けがスッカリ違うのであります。

昔の人は道を求めるのに臂の一本位捨てても何でもなかった。キリストは「眼が罪を犯したら、
その眼を抉り出して捨てよ。手が罪を犯したら手を切って捨てよ」と、実に峻厳なことを云って
おりますが、兎も角、生命の本質を生かす真理を求める為には、古人は、どんなに大切にしても
二百歳とは生きない肉体と云うもの位なんとも思っていなかったのであります。そこが尊いとこ
ろだと思うのです

尤も必ずしも慧可でも、キリストでも、ソクラテスでも、セネカでも、多くの日本の武士たちでも
「死」は日常の茶飯事であって、道を求めるのに切実なところがあったのであります。

つづく

      <平成28年1月6日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十六章「あなたは本来罪がない」 (50)
日時:2016年01月07日 (木) 06時54分
名前:平賀玄米


武士は道の為に死ぬ。武士ならずとも庶民でも道の為に死ぬ。「天野屋利兵衛は男でござる」
佐倉宗五郎は死を賭けて農民を救った。斯く肉体を滅して道と一つになるところに、自分のい
のちが永遠に生きる道があるのであります。

それをイエスは「生命(いのち)を得んとする者は生命を失い、生命を捐つる者は生命を得」と
教えているのであります。まことにこれ等の聖者は、肉体を滅ぼしても道を生活に行じて道と一
つになるところに本当の自分の永遠に生きる道があると云うことを知って居り、そして之を生活
に行じて居ったのであります。

ところが最近になっては宗教も下落したと云いますか、下化衆生に傾き過ぎたと云いますか、宗
教に来て道を求めるのは、肉体が健康になるように、或は金が儲かるお導きを授かるようにと思
って道を求める――全くあべこべになっているのであります。

肉体が健康になろうと思って道を求めるのは、馬車を馬の前にくっつけて馬車を走らせようと思
うようなもので、中々その馬ははしらないのであります。馬車を走らすには、馬を前に走らせな
ければならない。馬が走れば、馬車も一緒に走るのであります。
道を行ずれば、健康にもなるし、事業もおのずから繁栄して来るのであります。
                                拙著『栄える原理』参照)

つづく

      <平成28年1月7日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十六章「あなたは本来罪がない」 (61)
日時:2016年01月08日 (金) 07時52分
名前:平賀玄米

  
    <心を観ずるに心無し>

扨て、慧可が道を求める態度はかくの如く切実なものがありましたが、彼は達磨大師の弟子に
なって、修行をし始めましたが、どうも悟れない。「自分は罪深いものである。自分は心が迷って
仕方がない、どうぞ迷い心を安んじて下さい」と云ってお願いしたと云うことであります。

すると達磨大師が仰るのに、「私がお前の心を悟らしてやるから、其の迷っている心を出して見
せよ」そしたら慧可は気がついて見ると、其の迷っている心と云うものが何処にあるかと思った
のですけれども、さて探してみると、何処にも其の心がないのです。心が何処にあるかと思って
探したけれども、心がない。「心を求むるに、心無し」こう慧可は云っている。

そうすると、達磨大師が云われたのです。「吾汝の為に心安んじ了(おわ)んぬ」と。そうだろ、
心を求むるに心無しだ。悲しんでいる心は、悲しんでいる時には有るように見えていたが、喜ん
だらもう喜ぶ心しかない。迷うと云う心も迷っている時にはあるようだが、一旦心を転じて見れ
ば、瞭々(りょうりょう)として明白であって、迷いの心なんて云うものはあるように思っているけれ
ども、そんなものはないんだよ、こう云われたのです。

仏教では迷いの心もないと云うのが是が本当の教えであります。『観普賢菩薩行法経』には「心
を観ずるに心無し」と書かれています。生長の家の教えも矢張り同じであります。迷いの心があ
るように思っている潜在意識があるから迷うのでありますが、潜在意識が「迷いの心はない」と
悟れば迷いはなくなるのであります。

併し現に皆さんの心の中には、心が悩んでいる人もあるだろうと思いますが、それは潜在意識の
中に「人間は凡夫だ、罪の子だ、なかなかどうして悟りなど開けるものではない」と云う観念が
邪魔しているのであります。併しながら、人間は実相に於いて迷いとか罪とか云うものはないの
であります。唯それをあると思っている間、それは潜在意識の観念の中にあるのです。

罪は潜在意識中に観念として把まれている間はあるかの如く見えるのは、丁度把んでいる拳の中
が陰になったと同じ事であります。把んでいる拳の中は暗いのであります。

つづく

      <平成28年1月8日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十六章「あなたは本来罪がない」 (80)
日時:2016年01月09日 (土) 07時46分
名前:平賀玄米


そのように罪や迷いを把んでいる其の人にとっては、其の暗さは現実にあるのです、併し拳を開
いて放ては光が這入るのですから暗さがない。達磨は「その悩んでいる心を出して見せよ」と云
ったのは一転語を与えて心の拳を放たらしめる働きをしたのです。ですから心をあると把んでい
た慧可の迷いの心が転じて光に向いたのです。

眼を瞑(つむ)っている間は、その人にとって暗は現実の存在であります。いくら光を見ている
人から「暗はない」と説明しても、それは肯(うけが)うことが出来ない。

F塾主が福島さんに向って、「罪はあるのだ、罪があるから、宗教があるのだ」こう仰ったのも、
その人の現実として無理がないのであります。把んでいる側から見れば、中は確かに現実は暗い
のです。併し開いている側から見れば、どこにも影がない、光ばかりじゃと、云うことになるの
であります。

これは心が光に向かって開いている人と、暗を把んでいる人との心境の相違であって、体験とし
てはどちらも真実に観えるのであります。併しながら今まで把んでいた人でも、開いて見た時に
は、「暗はない」と云うことが分かる。そこでその迷いをつかんでいる心を開かせる為に、色々
宗派によって工夫が違うのであって、ただ一向専心「南無阿弥陀仏」と唱えれば宜いと云う真宗
の説き方も、心を専ら光の方へ向かわしめる一方法である。

達磨大師が慧可禅師に「お前の悩んでいる心を持って来い」と言ったのも、その、心を放たせる
為である。「キリストの十字架につながれば一切の罪が消える」と云うキリスト教的な説き方もそ
のためである。そう云うように、心を振向けかえるだけで罪が消えると云うことは、罪が本来存
在しないものであり、人間本来、神の子であり、仏の子であるからであります。

今回にて第十六章は完、次回から第十七章「自縄自縛からの解放」です。

      <平成28年1月9日 謹写> ありがとうございます 合掌。




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