《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十章「繁栄を来たらすための信仰」 (474)
日時:2016年02月16日 (火) 07時33分
名前:平賀玄米

    
         <真理の功徳を実現する要件>

時々、こんな人があります。「自分は生長の家の本も読まないし、生長の家の教えも信じもしないのであるけれども、自分の子供の病気を医者が見放したから、ともかく生長の家で治してもらえれば治してもらいたい」という様な気持ちで遠隔思念を頼んで来られる人があります。

又ある場合には、自分は少しも自分の精神的状態をよくしようとは思わないで、自分の息子が不良であるから何とか治してもらいたいといって、自分の子供のことを頼んで来られる人もあります。

このような場合にも、生長の家の青年練成会で多くの善くなった実例もありますが、親自身も心を変化しなければ最大の結果というものは得られないのであります。

自分が変わらないでいて自分の周囲の人々の状態を変わらせようなどということを欲するのは、結局心の法則に背いていることであって、最もよき効果を得ることは出来ないのであります。

キリストは「主よ主よというもの必ずしも神の国に入るに非ず」と教えて居られるのでありまして、神様に頼んでおきさえすれば、自分自身が変わらないでも神様がよくして下さるに違いないという様な考えは「三界唯心」の原理に背いているのであります。
吾々が教えによっておかげを得ようとするには次に掲ぐる如き色々の条件を知らなければなりません。

(一)心の法則を知ることであります。神は宇宙を貫く法則でありまして、自らその法則を破り給うということはないのであります。麦を蒔いておきながら、米を収穫させて下さいといくら祈りましてもそれは法則にかなわないから実現しないのであります。

自分自身の心の中に描かれたる「想念」が種でありまして、その種の通りのものが生えて来るのでありますから、自分の周囲の状態が面白くないならば、自分の蒔いた種が面白くないのだと悟って過去の「想念」の種子を掘り出して新たに「よき想念」の種子をまくことが必要なのであります。
自分が周囲に対して悪念を抱きながら、周囲の人から善念を送って貰おうと思ってもそれは無駄なことであります。

つづく

       <平成28年2月16日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十章「繁栄を来たらすための信仰」 (479)
日時:2016年02月17日 (水) 06時55分
名前:平賀玄米


(二)自分自身及び周囲がよくなるためには、よき心の種子(たね)を蒔かなければならないのであります。常に悲観的な言葉を発し、人を呪う言葉を発し、人の心を暗くする様な言葉を使い、病気を語り、不幸を語り、貧乏を語り乍ら、それでいて、幸福と健康と繁昌とを実現しようと思うのは、これ又カラス麦の種を蒔いて米を収穫しょうと思うのと同じことであります。

創世記の第二章に「アダムが生物(いきもの)に名づけたる所は皆その名となりぬ」とあるのは言葉で出した通りの姿に、すべての生物が変化するということが教えられているのであります。
吾々が幸福になるためには、よき心と行いの種を蒔くことにしなければならないのであります。

(三)吾々が神の導きを受けて幸福な運命を享受し、びょうきを癒され、自分の息子を善き性格の優良児にするには、自分自身の「我」をなくすることが必要なのであります。

先ず「無我」になることが必要なのでありまして、自分が頑固に「我」を立て通している限りは、神の真理の導きが素直に自分に入って来ないのであります。

即ち「我」のはからいを捨てることは、佛教でいう所の「雑行雑修」の心を振り捨てることでありまして、
一向専心神の方へ振り向くことなのであります。

一向専心と云うことが必要なのでありまして、その間に微塵でも我の「はからい」というものが混じっていてはならないのであります。

つづく

       <平成28年2月17日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十章「繁栄を来たらすための信仰」 (482)
日時:2016年02月18日 (木) 07時13分
名前:平賀玄米

(四)神様からおかげを得るためには、先ず自分が神様に何を与えているかということが問題であります。「与えない心」をもっていながら、神様から与えられようと欲するのは、神と自分との間の供給を通ずるパイプに栓をしておきながら神様の方からばかり自分に恵みが流れ込んで来る様に求めているような利己心に過ぎないのであります。

「与えた通りのものが与えられる」と云うのは真理なのであります。神様に対して何も与えないでいながら自分のみが与えられようと思ったり、神を利己的目的に利しようと思ったりしてはよき結果が得られないのは当然であります。

(五)以上の様な条件を整えまして、無我になって神様に全宅した場合、自然に内からと、外からと、
「はからわれて来る」ことがあります。神様からの「はからい」には素直に従うことであります。即ち自分の内部からの何となく「それをせずにはおられない」一種の強い強い催しが起って来る―――それには素直に従うのがいいのであります。

又、時には外から何かをする様に自然と人から勧められて来るような「外からなる催し」もあるのでありまして、これに素直に従うことも亦「無我」の実践でありまして、人からの自然のお薦めに頑張ることはいけないのであります。

つづく

       <平成28年2月18日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十章「繁栄を来たらすための信仰」 (495)
日時:2016年02月19日 (金) 08時04分
名前:平賀玄米


      <信をもって第一とす>

以上の様な条件が整いました上に、更に祈りの力が加わる場合にはそれが一段と効果を現わすのであります。何故なら、既にその人には神の救いの霊波に波長が合う所の完全な感受性が整うているからであります。即ちラジオ・セットが完全に組立てられたようなものであります。

そこへ向かって放送局のアナウンサーが放送する様に、誰かが祈ってくれますと、受信セットに感じられる様に、あなたに感じるようになるのであります。

遠隔にいて思念して貰う場合や、近くにいて、祈って貰うような場合、何れにせよ、「疑いの心」を起している場合には、それは折角ラジオ・セットが組立てられても、放送の周波数を信じないで、受信セットの波長を色々の所へ出鱈目に浮動させながら合わしているのと同じことであって、それでは、折角の遠隔思念も祈りも効果を現わさないのであります。

無我の奇跡を現わされたキリストさへも、信仰心薄き人々の住んでいる地に於いては奇跡を現わすことが出来なかったのであります。

つづく

       <平成28年2月19日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十章「繁栄を来たらすための信仰」 (504)
日時:2016年02月20日 (土) 07時38分
名前:平賀玄米

       <次に群衆の病的想念を避けるには>

健康を実現せんとするには、常に自分の中に、神の無限に健康なる生命が流れているという信念を持たなければならないのであります。新聞やラジオの放送で、流行病の恐怖すべき報道を読んだり聞いたりして、悪しき病気の実在を心に描く様なことがあってはならないのであります。

吾々は群衆の信念の一大合奏の中に生活しているのでありますから、群衆の想念の波が病的であるばあいには、よほど自分の想念が、その病的波長に合わないように、「唯、健康のみを心に描く」ことが必要なのであります。

吾々がなすべきことは、神の造り給うたこの世界に於いて神と同じ想念を持ち、神がこの世界に於いて完全なる世界を「自己表現」し給まおうとしておられるその目的に、精神的に協力することが必要であります。

無論、こう云ったからとて、「心」ばかりでよきことを描いておれば、物質的なことは何一つしないでよいかというと、決してそうではないのであります。
神は吾々の表現体である所の肉体を養わんがために適当な食物を与えておられるのであります。
呼吸するためには空気を与え、日光の恩恵に浴するためには太陽を創造しておられるのであります。

だから適当な食物をとり、よき空気を呼吸し、日光に触れ、適当に肉体を運動せしめるということは、神が吾々に内からと外からとによって与えておられる所の「自然の催し」であるのでありますから、それに素直に従わなければなりません。

心さえ健康であれば、想念さえ正しく持てば、食物も、空気も、日光も、運動もいらぬなどと乱暴な偏ったことを考えると間違いであります。
素直に自然に従うということが神に無我全托するということなのであります。

つづく

       <平成28年2月20日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十章「繁栄を来たらすための信仰」 (516)
日時:2016年02月21日 (日) 07時43分
名前:平賀玄米


吾々の肉体は神の全知全能なる智慧の表現体として、極めて微妙精緻に造られている所の、眞に
デリケートな機関なのであります。それは金属で造られている精密機械などよりも余程デリケートなのでありますから吾々はそれを神の叡智の表現として、又神の生命の完全なる表現として、愛し敬し、「自然の催し」に従って行き届いた手入れをしてやることが必要なのであります。

ただ祈って何もせずにいるのが無我全托だと誤解してはならないのであります。
然し、「手入れをせよ」などといいますと、「こんな手入れの仕ようで宜いだろうか」とか「あんな取扱いで宜いだろうか」とか、いろいろ取越し苦労や不安の想いをを起す人が出て来るのでありますが、その様な疑いと「不安」の思いを捨て、唯ひたすらそのままに疑わず、何事にも任せきりで、内からと外からとの導きに従って行えばよいのであります。

つづく

       <平成28年2月21日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十章「繁栄を来たらすための信仰」 (517)
日時:2016年02月22日 (月) 08時50分
名前:平賀玄米


       <先ず神にすべてのものを与えよ>

吾らの運命の好転、事業の発展、商売の繁昌などを祈る場合には、常に、「与えれば与えられる」の法則が働くのであります。
生長の家に入信して、運がよくなるように、商売が繁昌するように常に思念していたにも拘わらず、中には戦災にあって無一物になったとか、事業に蹉跌して思うように行かなかったら、生長の家の説く所も好いかげんなものだという様な人がありますけれど、それは全く自分が「与えれば与えられる」の法則をどの様に実践していたかの自ら蒔いた結果によるのであります。

キリストに対して富める青年が神の国に到る道をたずねた時に、答えて言っている言葉は「行きて汝の持てる所のすべてのものを売りてこれを貧しき者に施せ」云うことだったのであります。

この言葉は色々の意味に解釈出来るのでありますが、神の国を得んとするには、自分の持てるものすべてを神に与えることが必要なのであります。キリストは「汝らがいと小さき貧しき者になせるは吾になせるなり」と他の所で言っているのでありまして、「貧しき者に施せ」という言葉は「神に与えよ」という意味にも自ずからなるのであります。

「神の国を得んとするならば、先ず神にすべてのものを与えよ」というのが、イエスの教えの骨髄であったのであります。「与えれば与えられる」のであります。

つづく

       <平成28年2月22日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十章「繁栄を来たらすための信仰」 (523)
日時:2016年02月23日 (火) 07時42分
名前:平賀玄米


生長の家に入信すると、しばらくは病気が治る、運がよくなる。何でも思う様に行くようになる。
そうして有頂天になり、一時は、「生長の家へ入ると何でも与えられるようになる。有難い」などと考えるのであります。

そして自分は誰にも何も与えない、無論神様に恩返しをするということもない、唯神様を自分の召使の様に使って自分の我欲を満足せしめようとするようになりがちなのであります。その時にその人の運は行き詰まってまいります。

それは神様の世界から引き出すばかりで少しも預けないからであります。少しも預けないでいて、引き出すばかりでは不渡手形を振出したことになりますから、到頭、神の無限供給が取引停止になるのであります。

すると「神の無限供給は嘘じゃ」と云う、「神様は自分にはきかぬ」という。
どんな神様の恵みも、そんな利己主義者流の所へは流れ入ることは出来ないのであります。

つづく

       <平成28年2月23日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十章「繁栄を来たらすための信仰」 (537)
日時:2016年02月24日 (水) 07時37分
名前:平賀玄米

ユダヤ人が世界の富の90%を支配しているということは、ユダヤ人は什一税といって自分の収入の十分の一を必ず毎月、公けの仕事に醵出(きょしゅつ)し、神の仕事に寄附するようにしているからだと云われています。吾々は神様から祝福せられ、神様から恵まれている。
吾々はそれに対する感謝として、神様の御用に自分の恵まれた恵みの何分の一かを捧げて感謝の意を表するという事が必要なのであります。

無論神様にはお金は要らない。貨幣は要らないのであります。唯自分が神様の道を知らされたのはどういう風にして知らされたであろうかということを考えてみますならば、それは印刷物によってであるか、講演会によってであるか、或は親しき友達から口づてからの教えの導きによってであるか、
色々の経路を通して神様の道を知らされ、自分が救われる様になったのでありましょう。ところが
印刷物を造るのにも、講演会を開くのにも、あなたに知らせるのも、貨幣がいるのであります。

広告をして講演会や教えの本を知らせるにも相当の費用がかかります。誰が支払ったか知らないが、ともかくその様な費用を通して自分が神の道に接することが出来たのであったならば、自分がその費用に対して恩返しをし、次の人を救うためにその費用を捧げるという事は、実際的な感謝の実現であるのであります。

会館を造るとか、教化部を造るとか、道場を造るとかいうのも、他の人がそれを通して救われるための機会を造ってあげるために、自分の「持てるもの」を醵出することになるのでありますから、それはその様な機関を通して救われた自分が、その機関を維持するために感謝してお礼をする所の一つの方法なのであります。

つづく

       <平成28年2月24日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十章「繁栄を来たらすための信仰」 (554)
日時:2016年02月25日 (木) 07時11分
名前:平賀玄米


又あなたが自分の友達の話から救われたのであるならば、自分も亦友達に対して、この教えの話をしてあげ、それを救ってあげることも、「幸福」を次へ渡す所の感謝報恩の道なのであります。

その感謝報恩の道を自ら断ち切りながら、ただ「心の法則」だけを利用して、この世界を自分の思う様にならせたいと思い、「信ずれば信ずる通りになる」「焼けないと思ったら断じてこの家は焼けない」などと思って、人が深切に「疎開せよ」と勧めてくれる(外からの神の導き)に拘らず断じて従わずに自分の家がとうとう戦災で焼けてしまったからといって、生長の家のいう所の「信ずれば信ずる通りになる」というのは嘘だという如きは信念が成就するためには色々の要素が整い、条件が整わなければならないということを無視しているからであります。

快川禅師は「心頭滅却すれば火もまた涼し」といい乍ら、その涼しい火の中に座っていても焼けてしまったのであります。吾々は火の中などに座って焼けないと「我」を主張するのが正しい信仰だというのではないのでありまして、火の中などへは自然と座らなくなる様に、神の智慧の導きに素直に従わなければならないというのであります。

神様に感謝報恩の道を行うということは必ずしも金銭を以てお礼をし、友達に道を伝えるだけのことではないのであります。人類は神の自己表現でありますから、人類に対し無我になって、人類の幸福を一寸でも押し進める所の貢献をするということはある意味に於いて神に対する感謝報恩の道となるのであります。

自分が儲けるために発明するというのでは感謝報恩ではなく、儲けるための「手段」であります。
感謝報恩のために人類に尽くすという所の根本的感謝行の愛念が「出発点」となってそれを為すことは、形の上でいえば同じことのようでありますけれども、それは先ず馬を荷車の前におくか、荷車を馬の前におくかほどの相違があるのであります。

つづく

       <平成28年2月25日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十章「繁栄を来たらすための信仰」 (562)
日時:2016年02月26日 (金) 05時31分
名前:平賀玄米


       <代価を払わずに得ようと思ってはならぬ>

ルイズ・ビ・ブラウネル女史がかつて「プロスペリティ・リーグ」(幸福繁栄 光明思想連盟)というものを組織してそのメンバーとして入会する人の為に、そのメンバーの幸福繁栄を祈ってあげることにしたことがあります。

その時にアメリカの南方に住んでいた二十歳のまことに純情な魂をもった清い娘さんから度々自分及び自分の友人達の幸福繁栄の為に祈ってくれといって頼んで来たのであります。

ところがルイズ女史はそれは無条件に神に対する感謝報恩の気持ちでその娘とその知人の為に祈ってやっいたのでありますが、何らその娘さんからはその祈りに対する報謝金というようなものは送って来なかったのであります。

数か月経ちました。その娘さんから一通の手紙がルイズ女史の所に到着しました。それを開いてみますと、自分の一人の叔母が重体であって、凡ゆる医者が手を尽くしたが、もう駄目であると宣告したので特別に遠隔思念をして下さいということが書かれてありました。

そればかりではなくその娘さんは自分の家族一人一人の為にも、どうぞ一緒に祈って頂きたい、父は失業しているし、皆生活に困っているので、一家族全体が繁栄する様に祈ってほしいとも書いているのであります。そういう特別な窮地に陥っている人に対する祈りを拒絶することは中々耐えられないことであるとルイズ女史は書いています。

つづく

       <平成28年2月26日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十章「繁栄を来たらすための信仰」 (588)
日時:2016年02月29日 (月) 07時13分
名前:平賀玄米


曰く――
「しかし吾々はそういう特別の場合に無料で奉仕するにしても、それは限度があるということを書かずにいられなかった。吾々の所へ遠隔思念を頼んで来る人々に全部無料でサービスすることは到底吾々の生活の耐え得る限度ではないのである。無料の方へ奉仕すれば、与えれば与えられるの償いの法則を厳重に守って料金を托して来る人に対するサービスを等閑に附せざるを得なくなる。

更にまた自分自身は少しも遠隔思念して貰いたいとは欲せず、何ら真理を求める心のない者に対して、祈ってやってくれということも無駄なのである。されば自分は出来るだけ優しく相手を怒らさないように愛情のこもった気持ちで、人間が人を助け得る数には限りがある。吾々のグループは唯単に奉仕の為にという純情な気持ちで自分が為し得る以上の奉仕をなしつつあるのである。

あなたの欲する所のおかげを得るためには誰かが更に奉仕の精神を以て何かを捧げることをしなければならないのである。吾々はあなたが吾々の『幸福繁栄思念連盟』のメンバーに加入せられて、
先ずその雑誌を三冊申込まれそれを知人に配布せられん事を望むものである。

そしてあなた自身はその誌代として要する所の金を出来るだけ自分の生活費から節約して貯蓄し、更に毎日この光明思念連盟のメンバーに対して『祝福の念』を送る運動に参加し、然して同時に自分の受けたいといわれる願いを深き信念を以て神の前に祈られんことを望むのであるという意味の事を返事に書く事にした。」こうルイズ女史は書いているのであります。

すると二ケ月経って後にルイズ女史のパンフレット三冊に対して三ドルの料金を同封した手紙がその娘から送られて来たのであります。その手紙にはこう書かれてありました。
「自分はお陰様で甚だ幸福な生活を送っています。失業していた父もよき職業を獲得しましたし、海軍に出ていた兄は招集解除になると、直ぐに全く予期しない所からよき位置を与えられることになりました。そして何も努力することなしに私自身の問題も解決しました。」

このように与えれば与えられるという法則を実践した時にたちまちこの様におかげが実現したのであるとルイズ・ブラウネル女史は『あなたの為の豊富なる生活』という著書の中で述べているのであります。

つづく

       <平成28年2月29日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十章「繁栄を来たらすための信仰」 (596)
日時:2016年03月01日 (火) 07時17分
名前:平賀玄米


        <種子を蒔かずに収穫を願ってはならない>

もう一つルイズ女史が挙げている実例があります。或る中年の男が失業して長らく困っていたがたまたまルイズ女史の「幸福繁栄光明思念連盟」に入ってそれが効果を現わすかどうかを試みたが、何らおかげがなかったのであります。その男は「幸福繁栄光明思念連盟」に加入したのであるが、二ケ月経って後に「自分は入会して思念して貰ったが、何ら自分はおかげを得なかったから、その普及用のパンフレットを申込む必要はないと自分は思う」と書いて来たのであった。

連盟の人達は二か月間無料で彼に対して繁栄の為の光明思念を送っていたのでありました。それに対する感謝の言葉は全然なく、その手紙の終わりにはこんなことが書いてあったのであります。――−「必ず貴下に於いてお陰が得られるということを確言せられるならば再び入会してもよろしい、
そして若しお陰が得られたならば連盟のメンバーにも加わりますし、六冊の普及版の申込みも致します。」

これに対してルイズ女史は次の様に言っているのであります。―――
「吾々はその人に対してこういう手紙を書いたのである。如何なる心霊治療家といえども、貴方には必ず望ましき結果が得られると断乎として確言することは出来ないのである。キリストでさえもある時に於いては相手の人々が不信仰であったが故に偉大なる奇跡を実現することが出来なかった実例があるのである。

神の働きに対して効果不効果を唱えて値切る気持ちで接するということは神に対する冒涜である、
然し乍ら吾々はもう二ケ月の間あなたの内に宿る神の力を呼び起こす為の信念をあなたに喚起する為に、また与えんがために無料で光明思念を送ってあげることに致しましょう。」

それから二ケ月経った。二人の入会者の為に六ドルを封入した手紙がその人から送られて来たのです。そして以前の手紙に対するお詫びの言葉を述べ、メンバーとして再入会したという事を述べ、そして「最近私は未だ曾て受けたことのないようなサラリーを貰う或る良い位置を得たことを感謝します」と申し添えてあったと云うことであります。

つづく

       <平成28年3月1日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十章「繁栄を来たらすための信仰」 (605)
日時:2016年03月02日 (水) 07時34分
名前:平賀玄米

このルイズ・ブラウネル女史の言葉によってもわかるように、お陰はその人自身の心にあるのであります。自分が何も支払わずして、相手からお陰のみをせびり取ろうというようなケチな考えでは神様の無限供給の波長に合わないのであります。

第一例の娘に対する手紙にある様に、自分の幸福を求めるだけではなく、その団体のメンバーに加わって毎日、すべてのメンバーの為の祝福を祈ってあげるというような心掛けが大切なのであります。同時に自分がそれによって救われたのであるから、その救いを普及する為のパンフレットを、自費を以て申込み、自分の救われた幸福を他の人にも分かち与えようという心持になってこそ、「与えれば与えられるの法則」によって自分にもお陰が与えられて来るのであります。

「もし御利益を頂くことが出来たならば、お陰を頂いてから後に、お礼をしっかり差上げます」と
いうような申込や祈り方をする者は、必ずご利益も頂けず、何らその祈りに効果を現わさないのが常であります。それは何故かというと、ルイズ・ブラウネル女史はこう言っています。

「それはまだ自分のものでないものから与えるべく約束するからである。自分の既に受けている所のものの中から感謝すべきものは感謝し、与うべきものは与えなければならない」と。
それは空想の種子を蒔いている様なものであって、現実に自分の持っているものから種子を蒔かないからであります。

吾々はお陰を得たらその十分の一を捧げますからお陰を下さいというのではなくて、すでに持てるものの十分の一を捧げて種子を蒔くと、それが十倍千倍の実を結ぶことになるのであります。
ルイズ女史のこの言葉はまことに真理といわなければならないのであります。

今回にて第二十章は完、次回から第二十一章<致富原理の中心となるもの>です。

       <平成28年3月2日 謹写> ありがとうございます 合掌。




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