尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十八章 <「老い」を超える> (1649) |
- 日時:2016年05月27日 (金) 06時36分
名前:平賀玄米
これがわかりますと、「わしが、」「わしが、」と云っている「わし」と云うものは本来「無い」と云うことになるのであります。折角「これはわしの名誉だ」とか、「わしの所有だ」とか、頑張ってみましても、その「わし」と云うものは常恒の存在ではない、「無い自分」がどんなに執着してみましても、どんなに金を貯めて見ましても、肉体の死ぬときには、その金を持って行くことが出来ません。これが「我」もなく、「我所」もなしと佛教で云うのであります。「我(われ)」もなければ「我わが所有」もないと云う意味であります。
それがわかりますと、つまらない所有欲や、名誉欲や、色欲や、食欲などを満足させてみても、その本体たる「我」自身が存在しないのに、そんなものを「わしの楽しみ」だと満足させていたことが馬鹿らしくなってまいります。そこで浮世のことは何に執着しても努力してもつまらないと云うことになり、山中に逃れて出来るだけ執着も煩悩も少ない生活をした方がよいと云うことになります。即ちこれが涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の願いであります。
この諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つは佛教の旗識(はたじるし)になっているものであります。 これは灰身滅智(けしんめっち)の小乗仏教だと云って排斥する人もあるのであります。 それでこの三つは小乗仏教の三法印と云われております。
肉体の釈迦は「大乗を説かず」と云う歴史的考証の立場から云いますと、この三法印こそ釈迦自説の眞佛教と云うことになるのでありますけれども、『法華経』の如来壽量品の「自我偈」にある「余国に衆生の信楽(しんぎょう)する者あらば、我復彼の中に於いて、為に無上の法を説く」という立場からいたしますならば、龍樹菩薩以後の大哲の創作であると云う大乗仏教もまた、釈迦牟尼仏の實相の金口(きんく)からお説きになった眞佛教だと云うことも出来るのであります。
つづく
<平成28年5月27日 謹写> ありがとうございます 合掌。
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