《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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「生長の家政治連合(通称生政連)」の“解散”について、これだけは最低限知っておいていただきたいこと。総裁の“フェイクヒストリー”に騙されないために… (12232)
日時:2020年06月20日 (土) 11時44分
名前:破邪顕正

『“新しい文明”を築こう』は、総裁が自己正当化するために作り上げた“フェイクヒストリー”であるというのが、私の認識です。

その出発点ともいうべきものが、私は「生政連」の解散にある、と思っています。

総裁が、あの悪名高き『日本会議の研究』を聖典扱いしたのも、その根底には、「生政連」の“解散”問題があったからではないのか。

こういうことです。

サヨク総裁にしてみれば、「生政連」を潰して愛国運動と縁が切れたと思っていたのに、名を変え、所を変えて、今度は「日本会議」というところで、愛国信徒がしぶとく生き残っていた…。

生き残っているばかりか、あの、にっくき安倍政権の中枢に食い込んでいる…。

総裁にしてみたら、これは許されざることとして映ったと思うのです。

であれば、もう一度、「生政連」を“解散”に追い込んだように、今度は「日本会議」を潰してみせる…。

その思いが、あの『日本会議の研究』を菅野完に書かせ〈少なくとも教団本部からの資料提供なくしては書き得ない本であることは間違いありませんから〉、聖典扱いした本音の理由ではないのか。

そう思うと、総裁の根っこにある、この「生政連」問題をきちんと押さえておく必要がある…。

果たして、「生政連」の“解散”を、総裁の言うような歴史として簡単に済ませていいのか…。

総裁の言い分を鵜呑みにして騙されないためにも、きちんと整理しておく必要があると思う次第です。

《「生政連」の“解散”に関して、知っておくべき事》

そういうテーマで、これから、色々と思うことを書いてまいります。


《「生政連」の“解散”に関して、知っておくべき事…その(1)(2)》 (12233)
日時:2020年06月20日 (土) 13時03分
名前:破邪顕正

【その(1)】

まず、信徒が絶対に忘れてならないことは、「生政連」は、他ならぬ尊師・谷口雅春先生の願いから生まれたということです。

尊師のご悲願を達成するためには、どうしても政治の世界に進出する必要がある…。

尊師のそのお心がわかっていたからこそ、信徒はそれこそ、本気になって献身的に頑張ったのです。

そうでなければ、100万票を超える得票数が生まれるはずもないのです。

ですから、尊師が、生政連の一時的な活動停止に同意なされることはあっても、その解散にまで同意されるということはあり得ないのです。

尊師の、活動停止への同意を“解散”へのそれとに、巧みに誘導、操作していったことは決して許されざることであると私は思っています。



【その(2)】

「生政連」のマイナス面ばかりが強調されていますが、「生政連」の存在なくして「紀元節」の復活運動はなかったし、「建国記念の日」の制定もあり得ませんでした…。

これは戦後史に輝く、本当に大きな成果でありました。

ところが、総裁は、この「建国記念の日」を心からお祝いする気がなかった…。

それは、「建国記念の日」の日の総裁の挨拶を聞いていたら、よく判ります〈※なお、聞くところによれば、今、総裁は、その日の式典に出席していないそうです)。

それに関することを、以前、投稿していますので、それを参考のために引用させていただきます。

………………………………

〝背教総裁〟に皇太子殿下のことを語る資格無し! (2484)
日時:2016年06月30日 (木) 09時06分
名前:破邪顕正

〝背教総裁〟がどれだけ「天皇国・日本」を軽んずる発言をしてきたか。

どの口が言うのかと言いたいですね。

過去に遡って、その証拠をあげておきます。

①「神武天皇が天孫降臨した」と発言

平成23年2月11日、平成24年2月11日と、2年続けて「神武天皇が天孫降臨した」と発言。

恥ずかしいことに、平成23年に続き24年の『生長の家』7月号にも〈おわびと訂正〉が掲載されました。

《本誌5月号掲載の谷口雅宣先生のご文章「日本人の原点を見つめて」の39頁、下段の最後から2行目「宮崎県あたりに天降った神武天皇」は、「宮崎県あたりに天降ったニニギノミコトの曾孫に当たる神武天皇」の誤りでした。

おわびし、訂正させていただきます。

宗教法人「生長の家」出版・広報部》

「生長の家総裁」ともあろう人が、2年続けて「宮崎県あたりに天降った神武天皇」と言い、そしてそう書き、それをまた2年続けて「生長の家」出版・広報部がその過ちに気づかない…、普通では考えられないことです。

総裁が、神話を少しも勉強していないことがこれで満天下に晒されました。

皇太子殿下を「政治利用」するぐらいならば、もっと、本質的なこと、“日嗣ぎの御子”の本当の意味をこそ語るべきであろうのに!

しかし、〝背教総裁〟にそれを求めるのは木によりて魚を求むるが如し、なのだと私ははや諦めてもいますが。


②「日本の皇室でも、韓国から招いた時期もある」と発言

平成26年4月、第6回相愛会・栄える会幹部研鑽会、第6回白鳩会の幹部研鑽会、第66回青年会全国大会の3つの講話をまとめたものが機関誌『生長の家』7月号に掲載されました。

その中で〝背教総裁〟はこう述べています。

《日韓中の国民は、もともと同じモンゴロイドで共通している部分が大いにあるのだけれども、それに注目する人は多くない。

だいたい日本の皇室でも、韓国から招いた時期もあるのですが、そんなことは、忘れてしまっている人が多いのは残念です。》

(略)

③「神武天皇陵遙拝式」後の「大日本神国観」の実修を止める

以前、私は、こういう投稿をしております。

>《注目》総本山への弾圧は「神示祭」の廃止のみではなかった!…4月3日「神武天皇陵遥拝式」にて「大日本神国観」が実修されていなかった! (2106)
日時:2014年12月03日 (水) 09時01分
名前:破邪顕正

総本山では、今年から「大調和の神示祭」がなくなりました。

それに先立ち、すべての「神示祭」までなくなっていたことが明らかになりました。

もしかして、総本山に対する弾圧は、それのみに留まらないのではないかと思い、調べたたところ、重大なことが今回、判明いたしました。

総本山の4月練成会では、4月3日、この日に、神武天皇が崩御されたことをお偲びし「神武天皇陵遥拝式」を執り行います。

そして、その後は、「大日本神国観」を実修するということが長年の伝統でありました。

それが谷口雅春先生のご指示だったからです。

それを総本山では、ずっと護ってきていました。

平成25年までは…。

ところが、今年、平成26年の4月練成会のプログラムを見てビックリ。

確かに、4月3日「神武天皇陵遥拝式」は執り行われています。

ところが、その後、神想観が「基本的神想観」になっていたのです。

「大日本神国観」がなくなっていました!

このことから何が伺えるか。

私は、こう考えております。

谷口雅宣総裁は、明確に、総本山から「鎮護国家」の精神を一掃することを企図していた。

その手始めとして、まずは総本山の「神示祭」をなくす。

「大日本神国観」の実修も行わない。

手水舎に掲げてあった「鎮護国家」も「世界平和」に変える。

そして、その総仕上げとして、秋季大祭で「ご祭神」の変更を行う。

深謀遠慮が大好きな谷口雅宣総裁は、そこまで考えて手を打っていたのだと思います。

この平成26年という年は、後々、大変な年として歴史に刻まれるでありましょう。

そうです、谷口雅春先生のご指示で護られてきた総本山の伝統が破壊された年として!<


以上、3点ほど証拠を掲げてきましたが、谷口雅春先生の「鎮護国家」の思想を捨てた〝背教総裁〟に、皇太子殿下を語る資格などありはしません。

谷口雅春先生を冒涜し、ご皇室すらをも自分の都合の良いように〝政治利用〟をはからんとする〝背教総裁〟には、満腔の怒りを覚えます。

〝背教総裁〟は「国体破壊者」なり!

そんな言葉を投げつけたい思いです。

……………………………………

私の「総裁観」は一貫して変わってはいません。

むしろ、その思いが時間の経過とともに、ますます強固となっています。

更に続きます…。


《「生政連」の“解散”に関して、知っておくべき事…その(3)》 (12234)
日時:2020年06月20日 (土) 13時58分
名前:破邪顕正


【その(3)】

尊師が「日本を守る会」の誕生に、全面的に協力されたことも歴史的事実として踏まえておかなければなりません。

富岡八幡宮・澤渡盛房権宮司の文章にこうあります。

〈『生長の家の二つや三つぶっ潰れても、祖国日本が本来の姿に立ち戻るためにはそれも止むを得ない、私たちはそのような覚悟と堅い決意で生長の家を拠点とした宗教活動に精進している。協力を惜しまないどころか、生長の家の活動そのものの目指すところはそこにある』という力強いことばが谷口総裁から迸り出たのであった。〉

尊師のこのお言葉が何故、重大か。

この「日本を守る会」の結成によって、それまでの愛国運動が“国民運動”として更なる高みの次元へと移行していったからです。

サヨクはよく“市民運動”という表現を用います。

それに対して、“国民運動”という言葉が、ここから生まれていったのです。

そして、この“国民運動”が、後に「元号法制化」をもたらすのです。

とにかく、この戦後史を画するエポックメーキングとも言うべき「日本を守る会」の結成に、生長の家、そして「生政連」が大きく関与していたことは決して忘れてはならないものです。

これに関する投稿を参考のためにご紹介しておきます。

……………………………………

「日本会議」の淵源「日本を守る会」設立の背景には尊師・谷口雅春先生のお志が… (11532)
日時:2019年12月08日 (日) 16時23分
名前:破邪顕正

〈則天去私「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます〉という掲示板に、2019年12月07付けで〝「生長の家」の二つや三つぶっ潰れても、祖国日本が本来の姿に立ち戻るためには、それもやむ得ない。……〟という記事が掲載されています。

その中で、私が気になったのは、質問者・市川守様のこの文章です。

〈(前略)谷口雅春先生の『国の為にならなければ、生長の家の一つや二つ潰れても構わない』旨のご発言の件ですが、この事をある処で紹介したところ、ある方から指摘をいただきまして、『その出典はどこにありますか?不正確な情報を真実のように伝えては、信用を失います』との事でした。〉

言うまでもなく、私が気になったというのは、〝ある方〟という人の、その物言いです。

出典を尋ねるのはいいのです。

そういう場合、普通は、こういう言い方になるのではないでしょうか。

〈尊師・谷口雅春先生のお志を知る上で、市川さんの今の話しは、とても大事な情報です。

ぜひ、その出典を教えてください。

それがわかれば、間違いない情報として、私も胸をはってお伝えできますから。〉

ところが、この〝ある方〟という人は、その真逆の言い様なのです。

おそらく、私が思うのに、この〝ある方〟という人は、尊師・谷口雅春先生が「日本を守る会」の設立に関わっていたということを快く思っていない。

谷口雅宣総裁支持者で、そういう情報を広められたら困るからこそ、

〝不正確な情報を真実のように伝えては、信用を失います〟

と、脅しまがいの物言いをしたのではないかと思うのです。

これについて、素晴らしい回答が紹介されています。

〈この件につき、現在『谷口雅春先生著作年譜一覧表』に掲載させて戴きたいと思って、参考にさせて戴いたのが『国民同胞』昭和60年11月10日です。…〉

詳細は、そちらに譲るとして、私からも、市川守様に情報提供させていただこうと思います。

「立派だった先賢の一言―日本を守る会誕生記」と題する、富岡八幡宮・澤渡盛房権宮司の文章です。

〈『生長の家の二つや三つぶっ潰れても、祖国日本が本来の姿に立ち戻るためにはそれも止むを得ない、私たちはそのような覚悟と堅い決意で生長の家を拠点とした宗教活動に精進している。協力を惜しまないどころか、生長の家の活動そのものの目指すところはそこにある』という力強いことばが谷口総裁から迸り出たのであった。

まさに愛国者の箴言(しんげん)だった。

これに力を得た両大人(富岡盛彦・富岡八幡宮宮司、朝比奈宗源・鎌倉円覚寺派管長)はそれから手わけをして目指す有識者を説き廻って遂に昭和四十九年四月二日、明治記念館における「日本を守る会」の発足につながるわけであるが、翌昭和五十年には日本を守る会主催天皇陛下御在位五十年奉祝日本武道館大会、翌五十一年には奉祝大パレード、やがて元号法制化実現国民会議の結成とその成果としての元号法成立、更に憲法、防衛、教育の三本柱と取り組む「日本を守る国民会議」と「日本を守る各都道府県民会議」の結成とその活動、御在位六十年奉祝運動の展開と現成に思いを馳せる時に、谷口総裁、朝比奈管長、富岡宮司の劇的鼎談がいかにこの「日本を守る会」の結成とその活動そして今日の逼迫(ひつぱく)した日本の現状打開運動に大きな「弾み」をつけたかということがわかる。

鼎談三者は今はこの世にない、しかし、この三大人は幽界からこの活動を見守られ、支援を惜しまないであろうことは疑を容れない。

生き証人の一人として当時の回想を記す機会を得たことに感謝したい。〉

今日の「日本会議」の活躍を、尊師・谷口雅春先生は間違いなく、応援してくださっていると私は確信するものです。

にもかかわらず、『日本会議の研究』などというシロモノを聖典化して、その足を引っ張っているのが、他ならぬ現総裁であり、現教団であります。

いったい、どちらが、尊師のお志実現に尽力しているのか。

先の「国民祭典」や「祝賀パレード」の盛り上がりを見れば、一目瞭然ではないでしょうか。

市川守様のように、尊師のお志が何であったか、それを伝え抜く使命に、私も邁進してまいりたいと思っております。

………………………………

「日本会議」の前身である「日本を守る会」に、尊師が全面的に関わっておられたことは、今の総裁にとっては実に“不都合な真実”なのでありましょう。

だからこそ、そういうことは、一切、歴史の表舞台からは消し去る、そういうことなのだろうと思う次第です。



割り込み、失礼します。上の12233や12234で破邪顕正さんがおっしゃっている3記事は、ここにあります。 (12235)
日時:2020年06月20日 (土) 15時04分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

〝背教総裁〟に皇太子殿下のことを語る資格無し! (2484)
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=509


《注目》総本山への弾圧は「神示祭」の廃止のみではなかった!…4月3日「神武天皇陵遥拝式」にて「大日本神国観」が実修されていなかった! (2106)
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/koumyou3/&mode=res&log=421


「日本会議」の淵源「日本を守る会」設立の背景には尊師・谷口雅春先生のお志が… (11532)
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2778

この11532の下には「護法の天使」さんがレスポンス記事をつけて、11532で紹介されている谷口雅春先生のお言葉が本当にあったことを、

『国民同胞』誌や、副島廣之氏著『私の歩んだ昭和史』(明治神宮崇敬会)の211ページを抜粋して紹介しておられます。だから、谷口雅春先生のお言葉が本当にあったことを疑うことはできないでしょう。




《「生政連」の“解散”に関して、知っておくべき事…その(4)》 (12236)
日時:2020年06月20日 (土) 16時10分
名前:破邪顕正

【その(4)】

「生政連」の存在なくして、「昭和天皇ご在位50年奉祝運動」の盛り上がりもなかったし、「元号法制化」も為しえなかった、そのことは確信をもって断言します。

“国民運動”として大きく花が開いたのが、「昭和天皇ご在位50年奉祝運動」でありました。

これがどういう思想的意義をもっていたか。

当時、戦前と戦後とを二つに分断する歴史観が幅をきかしていました。

「建国記念の日」をいつにするかを巡って、当時の社会党などからは8月15日、終戦記念日をもってその日に当てようという意見すら見られたのです。

終戦を契機として、それまでの軍国主義国家から平和主義国家に生まれ変わったから、というのがその理由でした。

そういう、戦前、戦後の分断史観に対して、歴史は断絶されていない…。

その拠り所となったのが“昭和”という元号だったのです。

戦前も戦後も“昭和”として一つに繋がっている…。

この思いが、「昭和天皇ご在位50年奉祝運動」の空前の盛り上がりとなってあらわれたのです。

ところが、この運動に、社会・共産両党の推薦で当選した、時の美濃部都知事は参加しませんでした。

分断史観の持ち主にとって、“昭和”として戦前を含めて祝うということに非常な抵抗があったのではないかと私は解します。

このように、ご在位50年奉祝運動は、思想として“昭和”のもつ統合の力を改めて認識させることとなりました。

それが、その後の「元号法制化」運動へと繋がっていったのは論を俟ちません。

それに関しての投稿を引用させていただきます。

……………………………………

住吉大神を神とする信仰こそが「生長の家」の本当の信仰なり! (11789)
日時:2020年04月08日 (水) 10時43分
名前:破邪顕正

私が「和解」派の皆さんとのやりとりを通じて決定的に違うと思い、違和感を禁じ得なかったのは、総裁がご祭神を変えたことについて、その事の重大性について、あまりにも無頓着すぎはしないか(そう言って悪ければ)、軽視しすぎではないのか、ということでありました。

だって、それがために、今や教団では「宇宙浄化の祈り」が実修しえないでいるのですよ。

本来ならば、新型コロナウイルスが猖獗を極めている今こそ、徹底して「宇宙浄化の祈り」を実修すべきでしょうし、それを全信徒に向かって発信すべきでしょう。

ところが、こういう状況下にもかかわらず、現教団は、相も変わらず、「自転車、クラフト、菜園」の活動を提唱しているわけです。

それについては、さすがの「和解」派の方も批判していますが、問題の所在は、どうして、こんなことになるのか、という点なのです。

結局は、神様を変えたからなのです。

神様を変えれば、必然的に、運動路線も変わっていかざるをえない、そういうことなのです。

だから、再度、申し上げますが、神様を変えるということは、信仰上、最大、最重要の問題なのです

ご存じのように「住吉大神」のお働きは、鎮護国家、宇宙浄化にあります。

その神様を脇神にして外すということは、とりもなおさず、鎮護国家、並びに宇宙浄化の使命は果たさないと宣言したも同然ということを意味します。

穿った見方をすれば、現総裁は、鎮護国家が嫌い、だからそれを外すために、敢えて神様を変えたのではないかというのが私の見立てです。

その見立てに従えば、現総裁との「和解」などということはあり得ないということにしかならない…。

それが論理的必然ではないでしょうか。

以下に引用するのは、既出のものではありますが、生長の家の神様が住吉大神であり、その御神徳は何であるかを知る重要な資料でありますので、改めてご紹介させていただく次第です。

昭和38年「全国代表者会議」でのご結語での、尊師のお言葉です。

《何故 生長の家が出現したのか。

生長の家の神は住吉大神である。

その住吉大神が、なぜ今ここに、日本の国土にこの時期に顕れ給うたのか。

そこが非常に大切なところである。

『古事記』に示される如く、住吉大神は天照大御神の御誕生の直前に顕われられた。

最後の宇宙浄化の働きとして、宇宙の大神が住吉大神と顕われ給うたのである。

天照大御神の御誕生とは、日本の実相の誕生ということである。

日本なるものの魂が具体的に宇宙を照らす光となると云うことである。

この直前に、最後の浄化の働きとして住吉大神が今ここに顕われ給うたという、ここに生長の家出現の真意があるのである。

ただ単に、人間は神の子であり、物質ではない。

肉体は無い。

病気は治ると云う、それだけの事ではないのであって、天照大御神の光が宇宙に天照らすべく、天皇陛下の御稜威(みいつ)を発現せしめて、日本の国を救い、世界を救うと云うところに、生長の家出現の本当の意義がある。》

だからこそ、かつて、昭和天皇陛下御在位50年を奉祝運動において、生長の家は教団をあげて、その運動を展開したわけです。

あのエポックメーキングともいうべき100万人の銀座パレード(このときの様子が『国のいのち 人のいのち』の表紙を飾っています)をことのほかお喜びになられたのが、尊師・谷口雅春先生でありました。

『生長の家』誌・昭和52年3月号の「明窓浄机」にはかくあります。

《…まことに過日全国的に行われた今上陛下御在位五十年奉祝のあの大群衆の先頭に立っておられるのは住吉大神である。

住吉大神の浄化のお働きなくしては宇宙も、わが日の本も、世界の人心も、赤化の魔手から免れることはできない。…》
 
まさしく、生長の家の神様は、住吉大神であられるのです。

そこから、天皇陛下のご即位をお祝いする運動や、〝赤化の魔手から〟から祖国日本をお護りする愛国運動が必然的に生まれてきたのです。

その生長の家が、ご存じのように、今や「赤化の魔手」と手を結ぶような団体にまで変質しているわけでしょ。

すべては、神様を変えたからに他なりません。

だったら、神様を変えた教団とは別に、住吉大神を神とする新たな教団を創るしかないではありませんか。

「和解」派の皆さんにも、そこのところ、ぜひ、ご理解を賜りたいと強く念願する次第です。

…………………………………………

総裁にとっては、おそらく、このような歴史は、気に入らないものなのでしょう。

だって、総裁が嫌悪する「住吉大神」の“鎮護国家”のお働きが前面にあらわれているのですから。

総裁は、よく歴史から学ぼうと言います。

私も、それには全く同感です。

ただ、その学ぼうという方向性が真逆なだけです。

私は、この歴史から、総裁がどんなに絶対権力を笠に着て、圧殺、弾圧、黙殺しようとも、尊師の灯された愛国の情念は地下水の如く脈々と受け継がれていっているのだということを確信しています。


ふたたび割り込み、失礼します。上の12236で破邪顕正さんがおっしゃっている11789記事、「住吉大神を神とする信仰こそが「生長の家」の本当の信仰なり!」は、ここにあります。 (12237)
日時:2020年06月20日 (土) 16時27分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

11789記事、「住吉大神を神とする信仰こそが「生長の家」の本当の信仰なり!」は、

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2889
の2番目の記事です。


そのトップ記事の、「新たな宗教法人『生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会』-私たちの根本信仰-に学ぶ (11783)」は、

宗教法人としての「学ぶ会」の根本的な考え方が示されている内容です。


さらにその下にある記事、
「〝「谷口雅春先生を学ぶ会」は恩知らず集団〟と悪口を言われ続けて… (11808)」

は、関係者のご苦労を少し偲ばせる内容です。




《「生政連」の“解散”に関して、知っておくべき事…その(5)》 (12239)
日時:2020年06月20日 (土) 17時21分
名前:破邪顕正


【その(5)】

「生政連」の“解散”とは、具体的に言えば「生長の家として選挙運動はしない」そういうことでした。

ところが、総裁は、「生政連」の“解散”をもって、愛国運動をしない、そればかりか、愛国の思想を説くこともしない、そういう方向へと強引にねじ曲げていったのです。

愛国『聖典』の絶版から、愛国講話の禁止へ、そして神様の取り替えへと、それはどんどんエスカレートしていきました。

今にして思うのは、『国のいのち 人のいのち』が何故、絶版になったのか。

総裁は、その表紙がそもそも嫌だった…。

のみならず、その「はしがき」も嫌だったのではないのか…。

そこに、こうあるからです。

《生長の家が愛国運動の中心として活躍していることは今や周知のことだが、それは決して近年に始まったことではない。
そもそも生長の家の発祥が、兵庫県住吉村八甲田に住んでいた私が、毎朝からだを禊してから近くの本住吉神社にお参りし、日本国の隆昌と皇室の弥栄のために祈っていたとき、霊感を頂いたところにあるのである。
そして昭和八年、東京における第一回講演会の演題が「中心(すめろぎ)に帰一する道」であり、東京に本部道場が開設されて最初の十日間の講習会で連日『古事記』『日本書紀』に基づく日本の話をし、現世利益・病気治しの話を第一義に期待し求めて来た受講者が驚嘆したものである。》

つまり、総裁にしてみれば、生長の家が“愛国運動の中心”と言われるのが最も拒否したいことであった…。

ザックリ言わせていただけば、それを排除するために、総裁は、教団に乗り込んできた…。

そこで、総裁が、意図して用いたのが「かつての愛国運動は冷戦時代の産物としてあった」という規定なのです。

それを如実に物語るのが、『“新しい文明”を築こう』の中にある“冷戦の時代”という見出しです(29頁)。

総裁は、ここで、尊師の「明治憲法復原の宣言」も「東西対立」(30頁)への危機感から生まれたとしているのです。

で、その「冷戦」が終焉したから、愛国運動の時代も当然、終わる…。

そう言ってみせたのが、『“新しい文明”を築こう』の中のこの見出しです。

“冷戦終結とグローバル化の進展”(40頁)

とにかく、総裁は、時代が変われば教えが変わるのは当然という論理で、尊師の愛国の教えを「冷戦」の産物として過去の世界に封じ込めることにしたのです。

だから、平気で“今の教え”などという言い方をしてしまうのです。

だったら、今、どうですか。

この度のコロナ禍によって、世界は「ポスト“冷戦終結とグローバル化の進展”」、即ち「米中熱戦とグローバル化の終焉」という時代に突入したのではありませんか。

総裁の言う“今の教え”は、コロナ禍によって“過去の教え”に変わってしまったのではありませんか。

結局、「真理」を時代の産物と規定したこと、そのこと自体が、総裁の犯した大きな過ちだったのです。

尊師の愛国の教えを嫌悪する余りの総裁の失態、その産物が今回の“フェイクヒストリー”に他ならないと私は見ています。

更に続きます。


《「生政連」の“解散”に関して、知っておくべき事…その(6)》 (12242)
日時:2020年06月21日 (日) 15時14分
名前:破邪顕正


【その(6)】

総裁は、「生政連」の“解散”を尊師も賛同され、そして信徒自身も歓迎して受け入れたかのような印象操作を行っていますが、これまた歴史の真実とは違うものであります。

当時、「生政連」は、地方議会にも進出し、地方議員連盟の結成にも尽力していました。

地方議会から中央議会へ。

そういう戦略が提起され、それに伴い、次から次と「生政連」推薦の地方議員が生まれていました(※なお、この路線は、今、「日本会議」にもしっかりと受け継がれています)。

そういう地方議員が、どれほどの衝撃をもって、この「生政連」の活動停止を受け止めたか。

ある一人の地方議員は、こう言って、その嘆きを隠そうともしませんでした。

〈自分は二度、人生がひっくり返るような出来事と出合った。一度目は、大東亜戦争の敗北である。そして、二度目が、今度の「生政連」の突然の活動停止である。〉

それほどの怒り、悲しみを受けた人たちが、実際に、いたのです。

そういう人たちの無念さは、この本のどこにも描かれてはいません。

そればかりではありません。

これによって、「生長の家」は愛国諸団体から〝裏切り者〟のような扱いを受けることとなっていったのです。

「生長の家」の信用が、これによって、どれほど傷ついたことか…。

それは尊師の御名を汚すに等しい、本当に申し訳ない、辛い、悔しいことでありました。

それがどれほど長い間、続いたか。

それに関して、こういう投稿をしています。

………………………………………

教団を退会していて本当に良かった!あなたも〝国家ボランティア〟に参画されませんか! (10949)
日時:2019年05月08日 (水) 08時57分
名前:破邪顕正

谷口雅宣総裁が教団を支配するようになって、ずっと悔しい思いをしてきたことがあります。

それは、「天皇国日本」への思いを、ぐっと潜めなければならなかったことです。

昭和天皇御在位50年の奉祝運動、それに続く、元号法制化運動。

前線で運動させていただきました。

しかし、その後、総裁が教団に乗り込んできてどうなったか。

御在位60年も、上皇陛下の御即位10年、20年も、表だっての奉祝活動を自制しなくてはならないような空気が、教団の中に横溢していました。

この何とも言えない〝空気〟は、実際、その中にいたものでないと分からないかもしれません。

まさしく、世に言う「空気による支配」なのです。

そういう教団と、きっぱり縁を切って、今や、実に、晴れがましい気分でいっぱいです。

先には、「谷口雅春先生を学ぶ会」として、初めて、皇居勤労奉仕もできました。

両陛下に、谷口雅春先生の御名をお知らせできたのです!

また、中島省治代表は、皇居に招かれ、「谷口雅春先生を学ぶ会代表」の名札をお見せできたと感動いっぱいにお話しくださいました。

5月3日の「公開憲法フォーラム」にも、堂々と参加できました。

誰が見ていようと関係ない、告げ口される恐れもない…。

5月4日には、既報の如く、「日の丸」の小旗も配布できました。

皆さん、ご存じでしたか。

昔は、この「日の丸」の小旗、すべて生長の家がその費用を負担し、そして信徒が配布していたということを!

ところが、谷口雅宣総裁が教団支配するようになって、すべて、できなくなってしまいました。

それが、今回、「谷口雅春先生を学ぶ会」として、それに参画できたのです。

尊師の教えを受けた者が、再び、「日の丸」の小旗を配布する活動を行うことができたのです。

ここに到るまで、実に30年以上の月日が経ちました。

長い長い冬の時代でした。

しかし、もうそういう時代とはおさらばです!

「谷口雅春先生を学ぶ会」が生まれて、ようやく、「天皇国日本」を思う、この沸々たる思いを満天下に向かって表現できる喜びの日を迎えることができたのです。

今年の参賀、「日の丸」に埋め尽くされて、素晴らしかった!との声を多くの方から頂戴しました。

嬉しかったですね!

「谷口雅春先生を学ぶ会」の青年達が配布させていただいた「日の丸」が、歓喜の中で、打ち振られていたと思うだけで、もう胸がいっぱいになります。

この「日の丸」の小旗配布を、ある人は、〝国家に捧げるボランティア〟だと評されました。

御代替わりのとき、これからも、ますます、そのボランティアに参画できる機会が増えてまいります。

教団を退会していなければできないボランティアです!

思い切って、教団を退会し、一緒に、ご即位を心からお祝いする〝国家ボランティア〟に参画されませんか。

これは、今、今しかありませんよ!

………………………………………

すべては、こんな生長の家(国を愛し、天皇陛下を仰慕することのできない生長の家)のままでは、とても尊師に顔向けできない、尊師のご尊顔を拝することはできない…。

何としてもその汚名をそそがなくてはならない…。

愛国諸団体に、さすがは谷口雅春先生の教えを受けた人たちだ、そう言われるような時代を是非とも取り戻さなくてはならない…。

その思いが「谷口雅春先生を学ぶ会」の設立へと向かわしめた原動力であった…。

そしてそれが見事に結実したのが、今回の「宗教法人」の取得であったのだと私は思っています。

その喜びの投稿がこれです。

…………………………………………

「宗教法人」取得をお祝いする声、声、声に感謝! (11748)
日時:2020年03月25日 (水) 18時28分
名前:破邪顕正

今回の「宗教法人」の取得をお祝いする声が続々と寄せられています。

その中に、こういうことを言われる方がありました。

一昨年、「谷口雅春先生を学ぶ会」は、上皇陛下のご在位30年を奉祝する委員会に入り、その上、中島代表は宮中のお茶会にもご招待されました。

また、一昨年、昨年と連続して皇居勤労奉仕にも参加いたしました。

そして、昨年の今上陛下の御即位をお祝いする皇居前の式典や祝賀御列の儀では、その運営にも携わり「日の丸」の小旗を配布するなどのご奉仕もさせていただきました。

「皇恩に感謝せよ」

尊師の、この大切な御教えを、「谷口雅春先生を学ぶ会」はしっかりと受け継ぎ、実際の運動に生かしている。

そのような活動を、見ている人は見ている。

それが今回の「宗教法人」取得につながったのではないでしょうか。

そういうお話でした。

それを伺いながら、なるほどと心から得心した次第です。

上のようなことは、本来ならば、生長の家教団こそが先頭を切って取り組まねばならないことだったはずです。

ところが、ご存じのように、現教団は、何もしようとはしない。

これでは、「生長の家」の名が泣こうというもの。

だったら、尊師の教えを正統に受け継ぐ使命をもって生まれた「谷口雅春先生を学ぶ会」が、教団に取って代わって、それをよろこんでやらせていただこう。

そういうことをきっちりとやっている団体に「宗教法人」を認証してもいいのではないか。

眼には見えないけれども、そんな空気が広がっていったのではないでしょうか。

手前味噌に過ぎるかもしれませんが、「谷口雅春先生を学ぶ会」が地道に取り組んできたことが、正当に評価された証しとして、今回の「宗教法人」の取得がなった。

だからこそ、喜んで、慶んで、悦んで、今回の認証を拝受させていただいている次第です。

…………………………………………

今、改めて思います。

もし、「谷口雅春先生を学ぶ会」がなかったら、総裁の勝手な自己正当化の“フェイクヒストリー”がそのまま「生長の家」の“正史”になっていたに相違ないと…。

尊師の御心を踏みにじるような歴史が“正史”とされてたまるか…。

意気軒昂、今、闘志に満ち充ちております。



割り込み御容赦を。上の12242で破邪顕正さんがおっしゃっている二つの記事は、ここにあります。 (12243)
日時:2020年06月21日 (日) 20時55分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

10949記事、「教団を退会していて本当に良かった!あなたも〝国家ボランティア〟に参画されませんか! 」は、
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2599


11748記事「宗教法人取得をお祝いする声、声、声に感謝!」は、
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2864

上から15番目の記事です。

このスレッドのなかには、

〝永代供養について、宇治との違いは何でしょうか?〟 (11795)

宇治で永代供養をしてもらっているが、総裁の「経本」は嫌だ、どうしたらいい… (11800)

など、「ほう…。どれどれ」と思わず読んでしまう記事が並んでいます。





《「生政連」の“解散”に関して、知っておくべき事…その(7)》 (12255)
日時:2020年06月23日 (火) 10時54分
名前:破邪顕正


【その(7)】

「生政連」の“解散”によって、「生長の家」の社会的認知度が著しく低下したことは、間違いありません。

それ以上に、重大なのは、これをきっかけにして、教化力、感化力、指導力ある貴重な“人財”が教団を離れていったことではないでしょうか。

言うまでもなく、旧青年局、幹部学校、新教育者連盟等に集っていた人のことを指して言っています。

これは本部でのことですが、同様のことは、各教区においても少なからず生じたことであります。

“人財”の流出と、今日の教勢の低迷とは決して無縁ではありません。

もとより、総裁は、そういう“人財”をこそ、嫌悪していたのでしょうから、本人としては“教団を離れてもらって清々した”という気分なのでしょうが…。

総裁が、教勢の低迷を真っ正面から総括し、具体的な対策を講じないでいるのも、そうなることは覚悟の上のことだったからという事情もあるのではないのか…。

そんな気すらしております。

ともあれ、「生政連」の“解散”が引き金となって、教団から“人財”の流出が始まり、今日の教勢の低迷の引き金になったことだけは、きちんと踏まえておくべきだと思っています。

今日、合区教区が増えているのも、結局は、教化部長として派遣する人材がなかなかいないからでありましょう。

“人財”を教団から追い出した以上、そうなることは当然、予想されたこと…。

その手当をしないできたということは、人材養成に力を入れていなかったから…。

そう言われても致し方ないのではないでしょうか。

そもそも、傍から見ていて感ずるのは、総裁は人を追い出すのには熱心でも、人を育てるということについては余り関心がないのでは…。

そんな印象があります。

「企業は人なり」と言ったのは、松下電器(現パナソニック)の創業者・松下幸之助氏です。

氏の有名な言葉。

「松下電器は人を作る会社です。あわせて家電を作っています」

宗教団体も、それは同様でしょう。

“人財”を追い出したツケが今後ますます大きくなっていくように感じています。



《「生政連」の“解散”に関して、知っておくべき事…その(8)》 (12260)
日時:2020年06月24日 (水) 10時23分
名前:破邪顕正


【その(8)】

「生政連」の“解散”によって、愛国保守の心柱を失ったことは、吾々が考えている以上に、祖国日本にとって大きな損失をもたらした、私はそう認識しています。

「生政連」の“解散”があの“悪夢の民主党政権”を生み出した、その遠因にもなっているとすら私は思っています。

あの政権下で、どれほど祖国日本が毀損せしめられたか。

周りの国にいいように舐められ、貶められ、馬鹿にされ、国威の低下は目を覆うばかりでありました。

「生長の家」が健在であり、生政連の活動がそのまま継続していれば、ここまでの惨状を呈することはなかったのではないのか…。

そんな思いがしております。

で、私は、以前、こういう投稿をしております。

………………………………

「かかるとき かかる首相を いただきて かかる目に遭ふ 日本の不幸」(長谷川櫂) (4260)
日時:2016年12月25日 (日) 16時11分
名前:破邪顕正

表題は、東日本大震災の際、非常事態に対する、その余りの危機管理のなさ、不手際の連続に対して業を煮やした俳人・長谷川櫂が、その怒りを込めて詠んだ歌です。

今回、菅直人元首相が八ヶ岳を訪問したという記事を読んで、いの一番に想い浮かんだのが、この歌でした。

これを捩(もじ)れば、今の教団をこう詠むことも出来そうな気がします。

「かかるとき かかる総裁を いただきて かかる目に遭ふ 生長の家の不幸」

〝背教総裁〟と菅直人元首相。

何と似ていることかと思えてなりません。

いくつか挙げてみましょう。

①両者とも、実に不人気である。

②イザというとき、自己保身しか考えていない、当事者能力が著しく欠如している。

〝背教総裁〟は、新潟中越地震の際、信徒のことをそっちのけで講習会を中止にし、新潟から逃げ帰った。

東日本大震災の際も、本部職員を残して、自分だけ“お山”に、これまた逃げ帰った。

一方、菅直人元首相は、東日本大震災の際、自ら福島第一原発をヘリで視察したが、ヘリが到着して、乗員が降りようとすると、「まず総理だけが降りますから、すぐには降りないで下さい」と待たされた。

何とそれは写真撮影のためだった…。

余りの無責任、身勝手さに、身内からも批判が続出し、引導を渡された。

故・西岡武夫参院議長は、読売新聞に次のような一文を寄稿した。

《…首相としての責務を放棄し続けてきた。

…必死さも、決意も、術(すべ)もなく、今、お辞めにならなければ、原発事故がもたらす重大な課題も解決できない。

政権担当能力を超えた難題なら、自ら首相の座を去るべきだ。》

③自分にとって都合の悪いことは、ひた隠しにしようとする。

谷口雅春先生の『聖典』を絶版するに際して、〝背教総裁〟が裏で如何に暗躍したか。

或いは、谷口恵美子先生が、お山を脱出なされたことなど、一切、公にはしなかった。

一方、菅直人元首相は、尖閣諸島海域で海上保安庁巡視船に体当たりして逮捕された中国漁船の船長を釈放させ、しかも衝突のビデオを隠すなど、姑息な対応に終始した。

思いつくまま挙げてみましたが、改めて、〝背教総裁〟と菅直人元首相は、まるで一卵性双生児ではないかとすら思えてまいりました。

結局、二人とも、その根っこに、サヨク学生運動があるからなのではないかと私は見ています。

類は類をもって集まる。

今後、生長の家教団には、サヨクがどんどん蔓延り、巣くうことになるのではないかと私は見ています。

…………………………………………

菅直人元首相は、八ヶ岳で総裁と会ったということを自らのブログで公にしています。

それだけ、気が合うということなのでしょう。

気が合うという、その“気”とは何か?

その考え方、思想がサヨクである、そこにあるのだと私は思っています。

「生長の家」がここまで変質したこと、私は、そのことと“民主党政権”の誕生とは決して無縁ではない、そう思っているのです。

思い出してみてください。

何が“民主党政権”を誕生せしめたのですか。

「一度、やらせて見れば」

この安易な考えが如何に国家を危殆に瀕せしめるか、国民はそれを嫌と言うほど、身を以て痛感したのではないでしょうか。

とにかく、「生政連」の“解散”によって、「生長の家」がどんどんサヨク化していったことは、歴史の事実として、しっかりと明記されるべきであると思うものであります。

それと同時に、「生政連」の“解散”の大義名分となった「純粋な信仰運動として教義の宣布と信徒拡大をはかる」(35頁)というのも、まさしく信徒を欺くための「ウソ」であったこともはっきりといたしました。

だって、政治と関わらないと言っておきながら、「与党とその候補者を支持しない」(60頁)という声明を突然、発表したのですから…。

これによって、総裁は、ただ愛国の政治活動が嫌いなだけであって、本来は実に政治好きであって、サヨク運動に梃子入れしたくてたまらない人であるということが、満天下に晒されたのでありました。

信徒を欺くのも平気、そういう総裁であってみれば、信徒が教団離れを起こすのも無理はないと思うものであります。



《「生政連」の“解散”に関して、知っておくべき事…その(9)》 (12269)
日時:2020年06月25日 (木) 15時19分
名前:破邪顕正


【その(9)】

このシリーズの「まとめ」を書いておきたいと思います。

「生政連」の“解散”は、実に数多くの信徒の人生をも左右しました。

具体的に、それがどう、その人たちの人生を変えたのか…。

既に、申し上げましたように、「生政連」の“解散”はそれだけに留まりませんでした。

続いて、旧青年局が解体され(今日の青年会の衰退の遠因がそこにあったと私は見ています)、実質的に「生学連」も「幹部学校」も有名無実化していきました(これによって、教団は“人財”の供給源を自ら断ってしまったのだと私は見ています)。

そういう人たちが、何故、一般就職の道を捨てて、本部奉職への道を選んだのか。

これについて、面白い話があります。

面接の際、面接官からこう言われたというのです。

〈この学歴で、何でこんなところに来るの?〉

まさか、面接官から“こんなところ”と言われるとは思ってもいなかった…。

その人は、後にそう語っています…。

では、どうして、みんな“こんなところ”に奉職しようと思ったのでしょうか?

それは、一にかかって、尊師のお志に応えたい、その一念からでした。

尊師は、占領憲法の非を説き続けられました。

また、優生保護法によって闇から闇へと胎児が葬り去られていくことの悲しみを訴えられました。

それが尊師の二大悲願でありました。

しかし、それがなかなか実現しない。

そのことをどれだけ尊師が嘆き、苦しみ、悲しまれていたか。

そのことについて、以前、私はこういう投稿をしています。

自らの志の原点ともいうべき心情を吐露したもので、そのまま引用させていただきます。

…………………………………………

昭和天皇さまの、戦争責任を問われてのお気持ちに思うこと (10076)
日時:2018年08月25日 (土) 12時45分
名前:破邪顕正

昭和天皇さまが、昭和62年4月に「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」とお漏らしになられていたということが報じられました。

元侍従の故小林忍氏の日記にそれが記載されていたということですが、小林氏は、その場で「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」ととりなしをしたということも記されています。

ここには、陛下が、何をもって「戦争責任のことをいわれる」と仰られたのか、その具体的なことは記されてはいません。

しかし、歴史を繙くと、その前年、昭和61年3月の衆院予算委員会で共産党の衆院議員だった故正森成二氏が、天皇陛下の戦争責任を追及。

これを否定する中曽根康弘首相と激しい論争が交わされたという事実があります。

また、昭和63年12月には長崎市長だった故本島等氏が「天皇の戦争責任はあると思う」と発言し、大きな波紋を呼んだこともありました。

当時のこういう雰囲気が、陛下のご宸襟を悩ましたであろうことは想像に難くありません。

幸いにも、私は、谷口雅春先生の教えに触れ、度々、昭和天皇さまの御製を学ばせていただくことができました。

それを学べば学ぶほど、陛下に戦争責任を問うなどということは絶対にできない!

その思いから、当時、共産党に対して、或いは本島市長に対して、得も言えぬ反感、反発を覚えたことを昨日のことのように思い出します。

以来、私の胸奥には、「反天皇=共産党」は許せない存在としてあり続けています。

だからこそ、今日の教団の変貌、即ち、共産党から同志のように見られるような護憲教団と化したことに、耐えられない思い、屈辱を感じないではいられないのです。

改めて、今回の日記により、かかる心なき戦争責任の追及が、どれほど、陛下の玉体を苛んだか、それを痛感せしめられました。

その一方で、小林氏の言われる「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない」というお話は、私たちが取り組んだ、御在位50年、御在位60年の奉祝運動のことを指して言われているのではないのか。

若き日に、その運動に参画できた光栄を今さらの如く感じている次第です。

それにしても「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり」とは何と言うお気持ちでありましょうか。

そこに、尊師・谷口雅春先生のお言葉と重なり合うものを感じないではいられません。

《この頃は悲しいことばかり、憂うべきことばかり、日本国内にも国際的にも色々と起って来るのである。

もうこんな世界には生きていたくないと思うことすら時にある。

〝そんなことではいけない。日本国を救わなければならない、人類をたすけなければならない〟と自分を励まし、老躯に鞭うって、出来るだけ若々しそうな元気を出して、日本国を救い、人類をたすけるための智恵を出しているんだけれども、童べ笛吹けど、その調べに合わして動き出してくれる政治家はあまり無いのである。》

(『生長の家』誌・昭和46年12月号「明窓浄机」より)

谷口雅春先生のこのお言葉を知って、この運動に本気で取り組まなくてはならない。

そう決意した若き日々のことを改めて思い出します。

尊師のお言葉、そして今回の昭和天皇さまのお心。

それをまた大きなバネとして今後とも精進してまいります。

……………………………………

おそらく、生政連、旧青年局等に奉職していった信徒は、このときの私と同じような思いであったのではないでしょうか。

しかし、その志の前に、大きく立ち塞がったのが、他ならぬ総裁でありました。

総裁によって、志を潰された人たちは、その後、どういう人生を歩むことになったのか。

これは、極めて重要なテーマでありますので、稿を改めて書くことにいたします。


《「生政連」の“解散”に関して、知っておくべき事…その(10)》 (12281)
日時:2020年06月26日 (金) 17時04分
名前:破邪顕正


【その(10)】

いよいよ、このシリーズも最後の投稿となりました。

「生政連」の“解散”は、「生長の家」教団の変質の引き金となった、即ち、愛国教団からサヨク教団へと変貌する、そのきっかけとなった、教団史上、決して看過されてはならない実に重大な事件でありました。

それに伴い、多くの信徒の人生をも変えたこと、それがどのように変えていったかを、最後のまとめとして書き残しておきたいと思います。

生政連の“解散”、旧青年局の解体等によって、教団内で尊師のお志を実現することは、もはやほぼ不可能と判断した仲間は、大まかに言って、3つの道に分かれました。

①そのまま教団に留まる

②退会して、新たな場でその志を展開し続ける道を歩む

③一般社会に入って経済界や学界、政界等で能力を発揮する

いずれもが決して平坦な道ではありませんでした。

②を選んだ仲間は、自由を得た代わりに、生活の不安と直面せざるを得ませんでした。

③を選んだ仲間もまた、厳しい生存競争の荒波にもまれていきました。

その際、何を以て自らの志を支えたか。

社長で生長の家という人はいる。

学者で生長の家という人もいる。

政治家で生長の家という人もいる。

それに対して、自分達は、生長の家で社長、生長の家で学者、生長の家で政治家たらんとする、その心意気でした。

あれから30年、それぞれ、自らの立場を築き、大きな貢献をなしています。

そういう仲間の存在があったればこそ、①を選んだ仲間もそれに支えられていったという面が多分にあります。

言うまでもなく、①を選ぶことは、そのまま総裁の体制下で生き続けることを意味するわけです…。

その精神的な苦痛、葛藤たるや…。

当然、一つの覚悟が迫られました。

つまり、愛国の至情を、一旦、封印する…。

そして、教団が目指す「純粋な信仰運動として教義の宣布と信徒拡大をはかる」という方針に従い、それに専念する…。

具体的には、それはどういうことを意味するのか。

教化力、感化力、信仰力を高めて、人を救うことに徹する…、そういう覚悟をもって新たな奉職人生を歩むことを決意したのです。

その覚悟ができたのも、先ほど申し上げたように、教団を離れて、自分たちの代わりに志を受け継いで頑張ってくれている、即ち②や③の仲間がいたからこそなのです。

一旦、自らの志は②や③の仲間に托して、自分達はそういう仲間を影ながら物心両面で支える…。

で、自分達は、いずれの日か、必ず志を遂げるときがくる、そのときを信じて「他日を期す」その覚悟で、日々の勤めを果たしていこうと決意したのです。

そういう吾々にとって、何が悔しいと言って、あの『日本会議の研究』で言われたことは、本当に残念で無念でなりませんでした。

こちらは、グッと歯がみするような思いで、愛国運動とは一線を画して、教団の方針に則り、純粋な信仰運動に徹しているというのに…。

とりわけ、御即位をお祝いする運動に一切、関わらずじまいだったこと…。

「天皇信仰」の教えを奉じていながら、どうして、それに加わることができないのか…。

今、思い出しても、あのときの悔しさが吹き上がってまいります。

何のために奉職したのか。

すべてを投げ出して、愛国運動に飛び込んでいきたい…。

その衝動を抑え、抑えての日々…。

それは実際に味わったものしかわからないと思います。

にもかかわらず、総裁は、自分勝手な揣摩憶測で、何の証拠もないのに、思い込みのみで、①の信徒を“スリーパーセル”などと言って難詰したわけです。

よし、総裁がいうような言動をしていれば、総裁の張り巡らした密告制度で、①の仲間は、とうの昔に教団から追われていたに相違ありません。

それができなかったのは何故か。

ひとえに、愛国運動とは一線を画して純粋な信仰運動に徹していたからこそでしょ。

追い出そうにも追い出せなかった、総裁のその悔しさが、あの『日本会議の研究』を書かせた…。

あの本は、そういう総裁の、単なる“腹いせ”のために出されたものでしかない、それが私の見方です。

総裁の心中に、そういう感情が渦巻いていたからこそ、類は類を呼ぶ、あのような著者を引き寄せたのではないでしょうか。

その結果が、ご存じのように、裁判での、あの名誉毀損の判決です。

どうして、こういうことになってしまったのでしょうか。

それは総裁が、一貫して、愛国運動を憎悪の対象にしてきたからだと私は見ています。

総裁の、度重なる、安倍首相に対する言動を見ていれば、それが如何に激しいものか、思い半ばに過ぎるものがありましょう。

しかし、裁く者は裁かれる…。

ブーメランの法則の通り、そのツケが教団の教勢低迷となって如実に現れてきている…。

総裁の、それこそ“身から出た錆”なのだと私は思っています。

今、過去を振り返って「無駄なものは一つもない」という真理の言葉をしみじみと噛みしめています。

教団を辞めず、そのまま残って、愛国運動の第一線から退き、“純粋な信仰運動”に徹してきた…。

本気で人を救いうる、教化力、感化力、信仰力を身につけたい、その思いの日々があったればこそ、今の自分があると思うからです。

勿論、その間、悔しい、苦しい、心傷つく日々がなかったわけではありません。

何でも、入れ墨というのは、敢えて傷をつけて、その痛みの中に墨を入れていくのだそうですね。

どんなに洗っても取れない、どんな弾圧をうけても消えない、吾等の志もまた、その心の傷からしみこんだものである…。

何一つ傷つかない、安全地帯にいて、きれい事を言うのだけでは、人の心は打たないし、また人を動かすこともできないし、何らの力も持ち得ない…。

それを私は肌で学んできたように思います。

「他日を期す」

その言葉で自らを励まし、鼓舞した結果が、今日の宗教法人の取得をもたらしたのだと思っています。

総裁が教団に乗り込んで来てからというもの、まさしく雌伏の30余年でありました。

しかし、今、宗教法人を取得して、いよいよ、雌伏から雄飛の時代へ。

雌伏が長ければ長いほど、その雄飛はそれだけ大きくまた高くなる…。

私はそう信じております。

確かに、「生政連」は歴史として“解散”の憂き目に遭いましたけれども、しかし、その精神は、私どもの心の中に赫赫として燃え続けております。

尊師の願いから生まれた「生政連」だからこそ、その志の火を断じて消してはならないと思うが故に…。


割り込み、失礼します。上の12269で破邪顕正さんがおっしゃっている10076記事、「昭和天皇さまの、戦争責任を問われてのお気持ちに思うこと」は、ここにあります。 (12283)
日時:2020年06月26日 (金) 19時43分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

破邪顕正さんの10076記事、「昭和天皇さまの、戦争責任を問われてのお気持ちに思うこと」は
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2327
です。

このスレッドには、ほかに,

「反天皇」これこそが共産党の本質!その共産党から〝同志〟として扱われているのが現教団です! (10111)



江崎道朗氏の『日本占領と「敗戦革命」の危機』を読んで改めて共産党のコワサを思い知った! (10140)

が、ついています。





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