《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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【よろこびのご報告】「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」この度、宗教法人を取得いたしました! (11716)
日時:2020年03月18日 (水) 12時31分
名前:破邪顕正


表題の「通達」が送付されましたので、お知らせいたします。

〈(前略)私どもの長い間の悲願でありました「宗教法人」をこの度、取得することができました。

『谷口雅春先生を学ぶ』誌・1月号にその旨の「公告」を掲載させていただいたときには、認証書の交付は早くても4月を過ぎるだろうと思っておりました。

ところが、去る3月2日(月)、東京都庁より「宗教法人の認証が決定しました」との連絡を受けました。

当日は月曜日、その日に連絡があったということは、少なくともその前日、即ち3月1日には、既に認証がおりていたと考えられます。

奇しくも、本年は、「生長の家」が昭和5年3月1日に立教されてより90周年を迎える節目の年です。

その年の、しかも3月1日に認可されていたということは、この日に合わせて、尊師・谷口雅春先生が高き神界よりお導きくださったに違いありません。

振り返れば、「谷口雅春先生を学ぶ」誌の創刊号は、平成14年9月27日、「大調和の神示」が天下った日に発刊されました。

それで私どもは、9月27日を創立記念日として、毎年、記念式典を執り行ってまいりました。

しかし、私どもは、更なる発展に向け、宗教法人の取得を目指して、平成28年11月24日には、団体名をそれまでの「谷口雅春先生を学ぶ会」から「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」へと改め、宗教法人規則書を東京都庁へ提出させていただきました。

そこには、生長の家の教えを継承する正統な団体として「生長の家」の名を冠したいとの強い思いがありました。

そしてようやく、その思いが、4年の月日をかけて、ここに結実したのです。その意味で、令和2年3月1日こそは、宗教法人としての「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」の新たな出発の日、いわば立教記念日に当るのではないのか。

即ち、3月1日は「生長の家」の立教記念日であるとともに、尊師・谷口雅春先生のお

こころざしを受け継ぐ私どもの立教記念日でもあるということです。

「生長の家」の正統なる教えは、今¢ク師より「宗教法人・生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」へとバトンタッチされたとの誇りと自信と喜びとをもって、更に精進してまいります。〉

本当に、ほんとうに、ホントウニ、嬉しいお知らせでした。

この喜びを力として、6月21日に開催される「第8回全国大会」を大盛会へと導いてまいりましょう。


本日(3月18日)、東京法務局に宗教法人としての登記を済ませました! (11717)
日時:2020年03月18日 (水) 15時42分
名前:破邪顕正


登記簿の中に、設立の目的が記されています。

ここが、非常に重要と思いますので、それをここにご紹介させていただきます。

〈この法人は、生長の家創始者谷口雅春先生の正統な教義に基づき、その主著『生命の實相』を鍵として、万教共通の宗教真理を開示し、これを宣布することによって、人類光明化・日本国実相顕現につくすために設置されたものであって、「實相」(唯一の真理)を礼拝の対象として、谷口雅春先生により定められた礼拝、祈り、神想観及び聖経読誦等の儀式行事を行い、及び会員を教化育成することを目的とし、その目的を達成するために必要な業務を行う。〉

冒頭、谷口雅春先生の正統な教義に基づき≠ニあることにぜひ、ご注目ください。

何故、生長の家教団と分かれて、新たに宗教法人を立ち上げる必要性があったのか、それがここに明確に示されています。

現教団には「生長の家」はあっても谷口雅春先生がない!

それはそうです、今の教団は谷口雅宣教の「生長の家」になっているのですから。

しかし、新たな宗教法人には、「生長の家」と「谷口雅春先生」が入っている!

そこが明確に違うのです。

即ち、谷口雅春先生の創始せられた「生長の家」を取り戻す、その思いが、この正統≠ニいう文言に込められているのです。

そして、その正統≠裏付けるものが、『生命の實相』を鍵として≠ニいう言葉であり、人類光明化・日本国実相顕現につくす≠ニいう表現であるのです。

この設立目的に賛同される方は、ぜひ、新たに生まれた宗教法人「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」にご入会いただきますよう、よろしくお願いいたします。



聖使命菩薩会の名前などに変更があるのでしょうか? (11718)
日時:2020年03月19日 (木) 00時19分
名前:千葉の老人会員

宗教法人「生長の家創始者・谷口雅春先生を学ぶ会」への発展的新生、おめでとうございます。

東京都の認可が予想以上に早かったということは、今までの「学ぶ会」の活動実態が東京都から高く評価されていたからだと思います。

老会員も非常にうれしいです。

ところで…このご発展によって、今までの聖使命菩薩会や永代供養などの名称や奉納金などに変更がうまれるのでしょうか?

少し気になるもので、お知らせいただけたらしあわせです。



「千葉の老人会員」さんへ (11720)
日時:2020年03月19日 (木) 08時53分
名前:破邪顕正


この度の、宗教法人取得についてのお祝いのメッセージ、誠にありがとうございます。

宗教法人の取得にともない、「生長の家創始者・谷口雅春先生を学ぶ会」のホームページもリニューアルされています。

今後、どんどん魅力あるホームページになっていくのではないかと、大いに期待しております。

そのホームページを見る限り、お問い合わせの件、聖使命菩薩会や永代供養などの名称や奉納金など、何の変更もないようです。

これまで通りとお考えいただいていいのではないでしょうか。

ご存じのように、現教団に対して疑問や不信感を抱きつつある信徒はどんどん増えています。

100万教団と言われたのも今は昔、聖使命会員も36万人台にまで落ち込んでいると言われています。

教団を退会していく信徒や、退会しようとしている信徒に対して、宗教法人を取得したことで、これまで以上に、正々堂々、胸を張って「尊師・谷口雅春先生の教えを学びたい信徒は、谷口雅春先生を学ぶ会へ来たれ!」と発信することができるのではないでしょうか。

何より『生命の實相』、聖経「甘露の法雨」のあるところにこそ、教えの本当の正統性はあるのです。

しかも、それが今回、宗教法人の取得によって、公的に社会的に認証されたのです。

そのことに大いなる自信と誇りと勇気をもって、教団信徒の皆様に積極的にお声かけ、働きかけ、お誘いかけをさせていただきたいと思っております。

いよいよ、ここから、これからと大いに張り切っております。


かつて、尊師は、宗教法人の設立をかくもお慶びになられた… (11721)
日時:2020年03月19日 (木) 09時35分
名前:破邪顕正


『明窓浄机』の「発展編」にこのようなご文章があります。

《米国の方では万事好都合に生長の家は、…熱心な尽力によって、サクラメント州長より『生長の家コーポレーション』の設立認可あり、公認宗教として自由に活躍出来るようになったと云うことであります。

在米半田トシ子氏よりの最近の来信の一節を次に転載いたします。−

○『生長の家コーポレーションの認可をサクラメント州長より認可になりました。

今後は当南加州は如何なる所でも大手を振って講演会なり誌友会も出来ます様になりました故御安心下さいませ。…》(258頁)

『生長の家コーポレーション』の設立認可を、当時の信徒がどれほど慶んだか。

何だか手に取るように伝わってまいります。

私たちも心から慶びましたから。

半田トシ子氏の大手を振って≠ニいう表現に、その思いの全てが込められているように思います。

宗教法人を取得するということは、まさしく、それに尽きるのではないでしょうか。

また、そのことを、尊師が万事好都合≠ニいうご表現で賞賛されているのも本当に嬉しいですね。

きっと、今回の宗教法人の取得についても、尊師から祝福していただいている、お慶びいただいていると確信しております。

尊師への報恩感謝の思いを篤くして、さらに大きくして前進してまいります。



法人成立の日付は 奇しくも 「 13日 」 である (11722)
日時:2020年03月19日 (木) 15時32分
名前:明鏡


合掌 ありがとうございます。

早速、登記情報を取り寄せて閲覧致しました。

法人登記された日付を確認すると、法人成立の年月日が令和2年3月13日となっておりました。

「 13日 」と言えば、昭和4年12月13日に谷口雅春先生が、住吉大神様より 「 今起(た)て! 」 と
啓示を受けた日でもあります。

「 生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会 」 が 「 13日 」 に法人成立の日として
登記が完了していることに奇しき縁を感じる者であります。

合掌 再拝



さすが「明鏡」さんです! (11723)
日時:2020年03月19日 (木) 17時08分
名前:破邪顕正


ご指摘の通り、生長の家にとって、13日は特別な日です。

谷口輝子先生がこうおっしゃっています。

《十三日という日はどういう因縁なのか、何かしら私たち夫婦が行動を開始する日である。

…一口に言ったら「出発する日」なのである。》(『思い出の記』88頁)

「谷口雅春先生を学ぶ会」も宗教法人を取得して新しい出発を為す以上は、やはり13日にこだわりたいということで、敢えて、3月13日という日を選んで登記させていただいたということのようです。

因みに、3月13日は、「生学連」の歌が生まれた日でもあります(『理想世界』誌・昭和41年7月号所収「日本国家の生命的把握(一)青年会全国大会に於ける講話・生学連使命曲にちなみて」参照)。

今日の私があるのも「生学連」との出会いがあったればこそ。

その意味で、3月13日に登記されたということも、実に不可思議な神縁を感じている次第です。

「生学連」の歌の最後はこういう歌詞です。

♪宇宙きよめの 神の子ら

その神の子の 中核体

 われら選ばれ 団結し

 生学連を 結成し

 宇宙浄むと 起ちあがる

宇宙浄むと 起ちあがる

使命大なり 生学連

使命大なり 生学連♪

「使命大なり」

尊師のこのご期待にお応えするには、大学生のときだけではいけない。

人生を献げる決意で臨まなくてはならない。

そう決意した日のことが鮮やかに思い出されます。

宗教法人として登記された3月13日を、改めてその決意の日として肝に銘じ、今後とも全力を尽くしてまいりたいと思っております。


予想外に早く規則認証されたことに思う (11727)
日時:2020年03月20日 (金) 10時36分
名前:破邪顕正


宗教法人の認証を得るには、機関誌に「公告」を掲載してから3ヶ月ほどかかると言われていました。

ですから、当初、私たちが願っていたことは、全国大会開催日の4月19日に宗教法人取得の発表ができるか、それまでに間に合うのかということにありました。

ところが、ご案内のように、6月21日に延期されましたので、今回の全国大会は宗教法人を取得した、その記念すべき大会になることは間違いないものと思っておりました。

そんなところに、予想に反して、突然、認証をいただけることになったわけです。

文字通り望外の喜びでありました。

その理由を関係者に伺いましたら、認証申請書類そのものが、非の打ち所がないほどに完璧であったことが奏功したようです。

このことからも推察できますように、宗教団体「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」の事務手続き(財務面を含めて)は、その道の専門家から見ても、極めて公正に透明性をもってきちんと処理されていると自信をもって言えるのではないでしょうか。

そういう面でも、会員・信徒の皆様から篤い信用をお寄せいただけるのではないかと大変、有り難く、嬉しく思っているところです。

宗教法人を取得したことを契機に、更に皆様のご期待、ご信頼にお応えできるよう大いに精進してまいりたいと思っております。


中島省治代表の、この感激、慶びを私たちひとり一人の思いとして (11728)
日時:2020年03月21日 (土) 09時45分
名前:破邪顕正


この度の宗教法人の取得について、中島代表がこう綴っておられます。

〈(前略)

すべてないないづくし≠フ当会が着実に会員が増え、伊勢見真会が十六年より毎年開催されるとともに神癒祝福祈願や個人指導など宗教活動も活発になり、二十一年発行人は代表と改称されることになった。

本年三月一日、立教記念日式典のあと、代表の話で新型肺炎にともなう全国大会延期により、「その前に当会への宗教法人が確実に認可される見通しにて、末広がりの第八回全国大会は実に法人認可初の大会として開催される」と述べ、拍手で盛り上がった。

ところが翌二日午後、本部から電話で、「本日認可」とあり、予期せぬ吉報に胸が一杯となった。

苦節十九年、幾度びか辞意表明、かくして会の名称は見出しのように宗教法人「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」となり、私は七人の責任役員の中で、代表役員となった。…

皆さまそれぞれに法人認可の懐いをかみしめていただきたいと切に望みます。

ただ敢えて申せば、当会理念にある信仰の深化伝道と併行(車の両輪の如く)して、願うのは「光明化運動指針十三ヶ条」の徹底確認である。…

当時、『秘められたる神示』が次々に発見され『生長の家』誌上で、講義が連載。

アメリカの爆撃機の水爆誤投などの危機に備え、「世界平和光明思念連盟」提唱(33年5月1日)、「人類の危機に臨んで是非知らねばならぬこと」(パンフレット)頒布運動展開(33・10・25)、国民総自覚運動発進(33・10・25)、60年(昭和35年)安保改定反対赤旗デモ行進など、内外ともに危機感充満のときであった。

このような状態に対応し、生長の家の方策を書かれた尊師の『明窓浄机』の出版を雅宣氏は「今の教え」にそぐわぬとて昭和34年以降、発行停止、聖典の重版保留(絶版)以上の暴挙を断行した。(『学ぶ』誌平成16年1月号)

内外ともに祖国の危機、現在と全く同一、否それ以上か。

当時よりまさに六十年。

今ここに当会が宗教法人認可に至った現実。

生長の家大神の見えざるお導きを当会の責務を胸にただ唯、懐いの丈を認めました。〉

代表は、常々、お話なさるとき、必ず、冒頭に「谷口雅春先生を学ぶ会」の理念を朗唱されます。

〈尊師谷口雅春先生の御教えを忠実に学び継承し、広く普及伝達する。

立教の原点に立って光明化運動を推進展開し、「本流の復活・天皇国日本の実相顕現」を目指す。〉

中島代表であればこそ、ここまで「谷口雅春先生を学ぶ会」は発展してきたのだと思います。

この中島代表の心をわが心として、新たな歩みをともに開始してまいりたいと思っております。


中島代表の苦節十九年、幾度びか辞意表明≠ノ思う (11730)
日時:2020年03月21日 (土) 17時29分
名前:破邪顕正


一般信徒でも、教団を退会して「谷口雅春先生を学ぶ会」に入会するとなると、様々な非難、誹謗、中傷を浴びることを覚悟しなくてはなりません。

一般信徒にして、それですから、ましてや教団からお手当をもらい禄を食んでいたとなれば何をか況んや。

あまつさえ、中島代表は、日本教文社の社長でありましたから、私たちが考えている以上の、言うに言えない苦悩があったのではないのかと拝察されます。

それが、表題の言葉となって象徴的に示されているのではないでしょうか。

だからこそ、中島代表にはただただ感謝の思いしかないのです。

中島代表を見て痛感するのは、ご出身が鹿児島であるという点です。

鹿児島と言えば郷中(ごじゅう)教育≠ナ知られますが、私が好きなものに「薩摩の教え・男の順序」というのがあります。

評価の高い方から低い方へ、五段階に分かれています。

@何かに挑戦し、成功した者

A何かに挑戦し、失敗した者

たとえ失敗しても、挑戦したことそのものに価値を置くというところが実に素晴らしいと思います。

B自ら挑戦しなかったが、挑戦した人の手助けをした者

自分自身は挑戦していないけれども、挑戦した人を支え、助けてあげることに尽くした人を評価する。

挑戦するというのは実に勇気がいることです。

もし失敗したらどうしよう、常に不安、心配がつきまとうわけですから。

だから、自分には、挑戦する、その勇気はない。

しかし、自分のできないことをやっている人を見たら、何とかお役に立ちたいとは思う。

そういう人を三番手に評価するというわけです。

C何もしなかった者

「成功」の反対語は「失敗」ではない、「何もしないこと」だとはよく言われることです。

私がここで思ったのは、これが四番手ならば、だったら五番手、最も評価の低い人とはどういう人か?

D何もせず批判だけしている者

これを見て、今の野党やワイドショーのコメンテーターを想起した方も多いのではないでしょうか。

いつの時代も、批判だけはする、いわゆる評論家という人はいるものです。

「そら見たことか〜」「だから言わんこっちゃない〜」

自分では何もしないでいて、何か先読みしていたかのような得意顔で「こうなることは最初から分かっていたんだよ〜」みたいなことを言う…。

こういう人を、「何もしなかった者」よりも低く見ているというところが実に薩摩らしいなと思いました。

以上、「薩摩の教え・男の順序」でした。

これをご紹介したのは他でもありません。

中島代表は、日本教文社の社長であったが故に、「谷口雅春先生を学ぶ会」の代表となるのには、ものすごい勇気を必要としたのだと思うのです。

実際、それがために、代表は、就任当初「晩節を汚した」とまで言われたわけです。

裏を返せば、「代表」となるということは、それほどの冒険、挑戦であったということなのです。

「谷口雅春先生を学ぶ会」を立ち上げたものの、それがこの先、どうなるか。

当時、だれが今日の宗教法人取得の日を予想、予見、予言し得ていたでありましょうか。

それよりは、むしろ、教団の猛烈なバッシングに遭い、立ち枯れになってしまうのではないのか。

現に、「谷口家が誰一人として入っていない組織がもつわけがない。そのうち潰れるから学ぶ会には入らない方がいい」という声もあったのです。

今でも、何かに付け、足を引っ張ることに情熱を注ぐ人はいるようですが。

そういう中で、中島代表は、「代表」という立場から逃げず、立ち上げから今日に至るまで、19年の長きにわたって「代表」をつとめてくださったのです。

失敗することよりも、挑戦することを上位価値におく、その薩摩の教えが、ここに見事に生きているのではないのか…。

自分がオカシイと思うのであれば、はっきりとオカシイと言う。

しかし、だからと言って、ただ、非難、批評するだけの口舌の徒になってはいけない。

それを行動に移す、何よりも行動が大事。

そういう思いが、この「谷口雅春先生を学ぶ会」を生んだのだと私は思っています。

それが「創刊の辞」にはっきりと示されています。

〈谷口雅春先生の謦咳に親しく接してきた信徒にとっては耐えられない思いです。

もうこれ以上黙視してみ教えが滅びるのを待つことはできません。…

我々は立ち上がります。〉

何か、ここに「薩摩の教え」を垣間見るような思いがして、ここにご紹介させていただいた次第です。



この度の「宗教法人」取得に関しての様々なご批評を伺って思うこと (11733)
日時:2020年03月22日 (日) 10時27分
名前:破邪顕正


この掲示板に投稿する際、いつも自らに言い聞かせてきたことは、単なる批評、評論に終わってはいけないということでした。

今の政界を見ても、野党に支持が集まらないのは、単なる批判勢力に堕してしまい、対案を提示し得ないでいるところにあるのではないでしょうか。

同様に、現教団に対して納得がいかないことを色々と論ってみても、だったらどうするのかという視点を欠いては、何の説得力も持ち得ないのではないのか。

批判する以上は、それに対して、こうするということを提示していかなくてはならない。

私にとっては、その提示する場が「谷口雅春先生を学ぶ会」であったということです。

「谷口雅春先生を学ぶ会」は、決して現教団を非難、批判するだけの団体ではありません。

当初は、月刊誌『谷口雅春先生を学ぶ』を発刊するところから出発しましたが(それが発刊された日が9月27日でしたので、その日を創立記念日としてお祝いしてきたわけです。勿論、3月1日には立教記念日として式典を執り行っています)、現総裁の思想性が明らかになるに連れ、もはやこれは谷口雅春先生の創立せられた「生長の家」ではない!

似ても似つかぬエセ生長の家≠ナあるということが明らかになって、それに代わる受け皿≠ェどうしても必要であるとの認識が高まり、それが、全国に拠点をつくっていくという今の運動の原動力となっていったのでした。

「力なき正義は無力なり」

現実を突き動かすには、どうしても、その力≠ェ必要なのです。

現教団を本気で糺していくには、思いを同じくする信徒が力を合わせて、影響力を及ぼし得るだけの存在感を示さなくてはなりません。

「谷口雅春先生を学ぶ会」は、中島代表を通して、何よりも、そのことに挑戦するということの気概を示し得たことを私は誇りに思うものです。

そして、ようやく、長年の念願であった宗教法人を、この度、取得することができたというわけです。

その認証が、3月1日の段階でおりていたということで、今後は「生長の家」の立教記念日である3月1日をもって、宗教法人「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」の創立記念日としてお祝いできる…。

二重三重の慶びであります。

本当に嬉しい限りです。



宗教法人の取得により「和解」論については一応の決着を見たのでは?! (11739)
日時:2020年03月22日 (日) 18時15分
名前:破邪顕正


今、思えば、「和解」派の皆さんとのやりとりが懐かしく思い起こされます。

そのやりとりの中で思ったことは、結局、現教団、現総裁に対して、どのような立ち位置にあるか、その違いが明確にあるということでした。

その違いがある以上は、いつまでたっても、そのやりとりは平行線で終わるしかない、そう思ってきました。

そして、この度、「谷口雅春先生を学ぶ会」が宗教法人を取得したことで、そのやりとりにも、一応の終止符を打つことができたのではないかと思っております。

それはそうでしょう。

宗教法人を取得するということは、新たな宗教団体が誕生したということを意味するわけです。

にもかかわらず、「和解せよ」ということは、有り体に言えば一つになれ≠ニいうも同然ということになりはしないでしょうか。

例えば、出自が同じだからと言って、崇教真光さんと世界真光文明教団さんとに対して「和解せよ」と言ったらどうなるでしょうか。

もう、そんな段階はとうの昔に過ぎたと言われるのがオチでしょう。

事ほど左様に、宗教法人を取得した以上は、もはや「和解」論などは何の意味も持ちはしないということなのです。

今後は、それぞれがそれぞれの道を歩んでいけばいいのです。

現教団は、総裁に中心帰一して、「環境保護=占領憲法擁護」の路線を歩めばいいのですし、私たちは尊師・谷口雅春先生のお説きくださった教えの普及にただひたすら邁進させていただく。

そして、信徒の皆さんには、どちらの道をともに歩んでいきたいと思われますかと、その選択肢を堂々と提示させていただく。

その際、重要なのは、どちらもが宗教法人として同格であるということだったのです。

公的に、社会的に認められていなければ、選択肢を提示させていただいても、最初からハンデを負うことになります。

そのハンデを何とか解消して、信徒の皆様に、同じ資格をもって選択肢を提示させていただきたい。

その、長年の思いがようやく、ここに結実したということです。

同じ宗教団体として現教団と堂々と渡り合えることの慶び、まさしく筆舌に尽くし難いものがあります。

中島代表が苦節十九年≠ニおっしゃった意味を、重みを、改めてかみしめてまいりたいと思っております。


「和解」派の方とのやりとりから見えてきたもの (11743)
日時:2020年03月23日 (月) 17時22分
名前:破邪顕正


一連の「和解」派の方とのやりとりから見えてきたことを、ここで整理しておくのも一興かと思います。

今の段階になっても、まだ「和解せよ」と言い募る方があるようですから…。

まず、思うことは、「和解せよ」という人は、どうしてそれを「谷口雅春先生を学ぶ会」にだけ要求するのかということです。

「和解」というのであれば、双方に向かって言うべきで、当然、教団にも言うべきだと思うのです。

ところが、どうもその矛先はいつも「谷口雅春先生を学ぶ会」にだけ向けられているような気がしてならない…。

その背景を、私は勝手にこう推測しています。

教団にそれを言うとヤバイ、身元が分かったら除名処分されるかもしれないから、教団にはとても言えない。

しかし、「谷口雅春先生を学ぶ会」であれば何を言っても、そのとばっちりを受けることはない、だから安心して言いたい放題のことが言える…。

「和解しようとしないのは尊師の教えに反している、それでよくもまあ尊師の御名を組織名に冠することができるものだな、笑止千万」

何度、そのようなことを言われてきたことでしょうか。

それを言うのならば、現教団だって同じでしょ。

「大調和の神示」にある「汝の父母に感謝せよ」それを実践し得なくて何が生長の家≠ゥ。

「和解」に向けた努力すらしないのならば生長の家≠名乗るな。

それをどうして総裁に向かって言わない?

言えるわけがないのです。

ある教区では、講習会後の幹部会で、それを言ったがために、首になった幹部がいますからね。

この恐怖政治≠ノ象徴的に示されているように、現教団は「和解」などさらさら考えていないし、望んでもいないのです。

でも、それを認めたら「和解」論など吹っ飛んでしまうので、「谷口雅春先生を学ぶ会」にだけそれを言い募り、「和解」しようとしない「谷口雅春先生を学ぶ会」は問題だと…。

つまり、「和解」論は、学ぶ会口撃≠フ手段として用いられているということなのです。

それが証拠に、所謂「本流」と目される団体は、「谷口雅春先生を学ぶ会」だけではありません。

『ときみつる會』もあれば「新教育者連盟」等もあるわけです。

しかし、そちらに対しては「和解せよ」という要求は一つもないでしょう。

少なくとも、そういう話、私は寡聞にして知りません。

どうしてでしょうね。

結局、「和解」派の奥底に流れている心情は、繰り返すようですが、「谷口雅春先生を学ぶ会」憎し、それなのです。

早く潰れてほしいという願望が、そこには潜んでいるのです。

それはそうでしょう。

「谷口雅春先生を学ぶ会」さえ潰れれば、必然的に教団と一つになる%ケしかないですから。

「和解」を言う人の言動を見ていたら、それがよくわかります。

「谷口雅春先生を学ぶ会」への悪口、雑言、誹謗、中傷する投稿が後を絶たないでしょう。

中には、「谷口雅春先生を学ぶ会」への敵意≠隠そうともしない投稿すら散見されます。

「和解」派の方の不思議さは、「和解」こそが生長の家の教えの本質だといいながら、どうも「谷口雅春先生を学ぶ会」とは和解≠キる気が見えないというところでしょうか。

以上のことから、私の結論、「和解」派の方は、結局は、教団擁護に与するしかないということです。

「和解」派の言うことを聞いていると分かりますが、「和解せよ」というのは、みんな教団に戻って来い≠ニ同義なのだということです。

だから、「和解」派にとっては、今回の宗教法人の取得は、本音では悔しい≠ニいうことなのだと思いますよ。

だって、これで「谷口雅春先生を学ぶ会」が教団に戻るという道は途絶えたも同然なのですから。

「谷口雅春先生を学ぶ会」は新しい宗教団体として生まれ変わったのですから、持論の「和解」論はもはや成立し得ないと見切って、両団体が今後、どう進んでいくのか。

そういう段階へと話の次元は移ったのだとご理解いただいて、これまでのようなネガティブな、足を引っ張るだけの投稿ではなくして、実りある、有意義な、建設的なご提言をいただければ大変、有り難いと思う次第です。


「宗教法人」の取得でハンデを負わなくて済むことに思う (11747)
日時:2020年03月24日 (火) 10時29分
名前:破邪顕正


「谷口雅春先生を学ぶ会」のホームページをご覧いただければ分かりますように、「谷口雅春先生を学ぶ会」では、神癒祝福祈願や先祖供養・永代供養等に取り組ませていただいております。

有り難いことに、毎日のように、その申し込みが相次いでおります。

そして、たくさんの感謝のお手紙等もいただいております。

これだけでも、心ある信徒の皆様から、篤い信頼をお寄せいただいていることがご理解いただけるものと思います。

しかし、その一方で、中には、厳しいことを言われる方もあります。

そのために、第一線で悔しい思いをしたという声も耳にしております。

曰く、「谷口雅春先生を学ぶ会」に本殿、お社があるのか。そもそも神様がいるのか

曰く、永代供養を始めたというけど、本当に永代にわたって続くのか、その保証がどこにあるのか%凵X。

全ては、「谷口雅春先生を学ぶ会」が任意団体でしかないところに起因しています。

公的に、対社会的にきちんと認められた団体とは言い得ないことの悔しさ、辛さ。

第一線でのそういう信徒の皆様の声を聞く度に、ともに涙したことも一度や二度ではありません。

そういう嫌みに満ちた非難を浴びながら、任意団体であるというハンデを負いながら、それでも、尊師・谷口雅春先生の真理の灯を消してはならないと、一途にご尽力くださっている信徒の皆様のことを思うと、何としてもその思いにお応えしなくてはならない。

それが、「宗教法人」を取得するという、切実な願いへと昇華していったのでした。

しかし、実際、取り組んでみると、それが決して生やさしいモノではないことをひしひしと痛感せしめられました。

「オウム真理教」の問題もあって、「宗教法人」の取得には厳しい条件がつきまといました。

しかも、ご存じのように、「谷口雅春先生を学ぶ会」は生長の家教団との間に、裁判沙汰も抱えていました。

そういうこともあったのではないかと思います。

「宗教法人」の取得は困難であると、一時は、諦めざるをえないような状態に追い込まれたときもありました。

しかし、神様は私たちの志を嘉し給うてくださったのでしょう、素晴らしい智慧を授けてくださり、一つひとつの関門を乗り越えることができたのでした。

5年という長い月日を要しましたが、ご案内のように3月2日、認証をいただくことができたのです。

早速、ともに悔し涙を流した皆さんに、「宗教法人を取得できました!」と連絡させていただきました。

「万歳」の声とともに、電話口で嗚咽する声が聞こえてきました。

何とも言えない感動に包まれました。

辛かった、悔しかった思い出が、すべて懐かしい慶びの思い出に変わった瞬間でした。

「宗教法人」となった今、心ない方から言われてきた「谷口雅春先生を学ぶ会」への猜疑心、不信感等、すべてを払拭し、これまで以上に、安心して、信頼して、祈願をお申し込みいただき、ご先祖の御霊さまも預けていただいて大丈夫ということができるようになりました。

また、これによって「谷口雅春先生を学ぶ会」に対する、言われなき誹謗・中傷等の悪想念、悪感情、即ち逆念≠排除できるということは、今後の生長・発展の上で、とても大きな意義があると私は思っています。

文字通り、新生「谷口雅春先生を学ぶ会」の誕生です。

前途洋々、真理は前進するのみです!


「宗教法人」取得をお祝いする声、声、声に感謝! (11748)
日時:2020年03月25日 (水) 18時28分
名前:破邪顕正


今回の「宗教法人」の取得をお祝いする声が続々と寄せられています。

その中に、こういうことを言われる方がありました。

一昨年、「谷口雅春先生を学ぶ会」は、上皇陛下のご在位30年を奉祝する委員会に入り、その上、中島代表は宮中のお茶会にもご招待されました。

また、一昨年、昨年と連続して皇居勤労奉仕にも参加いたしました。

そして、昨年の今上陛下の御即位をお祝いする皇居前の式典や祝賀御列の儀では、その運営にも携わり「日の丸」の小旗を配布するなどのご奉仕もさせていただきました。

「皇恩に感謝せよ」

尊師の、この大切な御教えを、「谷口雅春先生を学ぶ会」はしっかりと受け継ぎ、実際の運動に生かしている。

そのような活動を、見ている人は見ている。

それが今回の「宗教法人」取得につながったのではないでしょうか。

そういうお話でした。

それを伺いながら、なるほどと心から得心した次第です。

上のようなことは、本来ならば、生長の家教団こそが先頭を切って取り組まねばならないことだったはずです。

ところが、ご存じのように、現教団は、何もしようとはしない。

これでは、「生長の家」の名が泣こうというもの。

だったら、尊師の教えを正統に受け継ぐ使命をもって生まれた「谷口雅春先生を学ぶ会」が、教団に取って代わって、それをよろこんでやらせていただこう。

そういうことをきっちりとやっている団体に「宗教法人」を認証してもいいのではないか。

眼には見えないけれども、そんな空気が広がっていったのではないでしょうか。

手前味噌に過ぎるかもしれませんが、「谷口雅春先生を学ぶ会」が地道に取り組んできたことが、正当に評価された証しとして、今回の「宗教法人」の取得がなった。

だからこそ、喜んで、慶んで、悦んで、今回の認証を拝受させていただいている次第です。


宗教法人取得おめでとうございます (11752)
日時:2020年03月28日 (土) 06時59分
名前:関東の信者

宗教法人取得、誠におめでとうございます。本当によかった。この一語に尽きます。

ご尽力された本部職員の皆様、そして、宗教法人「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」教団の信徒の皆様に、心から感謝申し上げます。

しばらく、この掲示板から離れていましたが、開けてびっくり玉手箱。「宗教法人取得」との文言に目を丸くしてしまいました。

これでようやく、谷口雅春先生の説かれた「生長の家」の御教えを継承する宗教団体が明確になったと思い、安堵とともに、泣けてくる思いでした。


宗教法人「生長の家」との関係も、一段違う段階に至ったものと愚考しています。

ようやく、いわゆる「和解」論云々とは別の次元に移ったのではないかと思うのです。


その次元とは、「双方の教えは何か」という、双方の宗教団体の教えについての次元、ここに移ったのではないでしょうか。

宗教法人「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」教団と、宗教法人「生長の家」教団と、同格であるこの2者の名前を聞いた時、まず思うのは、どこがどう違うのだろう? ということだろうと思います。

双方の創立に至る経緯は大した問題ではありません。たとえ、そこに疑問があったとしても、だからと言って、自分が真理とは思えない宗教団体に籍を置くことなどできるはずもありません。

今後重要なのは、双方の宗教団体の教えの中身と言うべきでしょう。


では、双方の違いとは何でしょうか? 思うに、一方は、「生命の実相」と「谷口雅春先生」の存在する宗教法人「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」教団であり、片や「生命の実相」と「谷口雅春先生」の存在しない宗教法人「生長の家」教団と考えてよいのではないでしょうか。否、はっきりとそう考えるべきだと思うのです。

ですから、最早、「和解せよ」などと言うのは、宗教法人である双方の教団に対する侮辱であり、見当違いと言うべきでしょう。

「生命の実相」など必要としていない宗教法人「生長の家」教団に対し、「生命の実相」は必要だなどと言うのは、破門の対象ではないでしょうか。

「いやいや、宗教法人「生長の家」は「生命の実相」を必要としているのだ」とでも言うのでしょうか? もし、仮にそうだとすれば、なんという情けない宗教団体なのでしょう。聖典の存在しない変な宗教団体とみなされても仕方ないのではないでしょうか。否、それ以上に、「存在の必要のない宗教団体」とさえ、みなされてしまうのではないでしょうか。

最早、宗教法人「生長の家」教団は、たとえ「生命の実相」が必要だなどと思っていても、口が裂けてもそれは言えない段階に至ったと思われます。

これで良いのではないでしょうか。曖昧さがなくなり、実にすっきりしていると思います。


「生命の実相がなくなり、信徒が困っている」などという声もあるようですが、もし困っておられるようであれば、宗教法人「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」教団に籍を置かれたらどうでしょう。

自己の信仰とは違う宗教団体に籍を置くことほど、自分の心を傷つける行為はありません。


双方の宗教団体の教えは違う! このことを銘記すべきだと思うのです。


宗教法人「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」は、今後ますます、宗教法人としての充実のために大変かと思いますが、日本一の宗教法人に成長することを確信しています。否、そうして参りましょう!


「関東の信者」さん、投稿、誠にありがとうございます。 (11753)
日時:2020年03月28日 (土) 13時24分
名前:破邪顕正


私の申し上げたかったことを、ここまでご理解いただき、心から感謝申し上げます。

「宗教法人」を取得して、新たな出発をした以上は、もはや「和解」論の成立する余地は無くなったと思っていたところ、それでも、「和解」に固執する人たちの投稿があって、正直、びっくりしておりました。

だって、二つの宗教団体が生まれたのは、それぞれの目指すもの、中身が違うからでしょう。

その違いが、決定的に明らかになったからこそ、もはや交わることはないと見切ったからこそ、換言すれば、もはや「和解」の道はない(有り体に言えば、元の鞘におさまることはない)と判断したからこそ、新しい宗教団体の創立を目指したわけです。

それが成ったのに、それでも「和解」云々を言うということは、だったら何のために宗教法人の設立を目指したのか、ということになってしまうわけです。

そのことの意味をよくご理解されているからこそ、「関東の信者」さんは、こう言って下さったのだと私は解します。

〈宗教法人「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」教団と、宗教法人「生長の家」教団と、同格であるこの2者の名前を聞いた時、まず思うのは、どこがどう違うのだろう? ということだろうと思います。…

今後重要なのは、双方の宗教団体の教えの中身と言うべきでしょう。

では、双方の違いとは何でしょうか?

思うに、一方は、「生命の実相」と「谷口雅春先生」の存在する宗教法人「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」教団であり、片や「生命の実相」と「谷口雅春先生」の存在しない宗教法人「生長の家」教団と考えてよいのではないでしょうか。

否、はっきりとそう考えるべきだと思うのです。

ですから、最早、「和解せよ」などと言うのは、宗教法人である双方の教団に対する侮辱であり、見当違いと言うべきでしょう。〉

ここまで仰っていただいて、実に溜飲が下がる思いです。

「和解」派とのやりとりの中で、私が感じてきたことは、結局、この論争に終止符を打つには、宗教法人を取得して、新たに宗教団体を設立するに如くはなし、ということでありました。

その思いをずっと潜めてやってきましたから、宗教法人の取得が成ったとき、ようやくこれで決着がついたと思って、それをそのまま素直に表現させていただいたのでした。

ところが、それでも「和解」派からは「やっぱり和解は大切です」というようなことを言われたりしたわけです。

もう、それに一々、反論はすまいと決めました。

私の中では、既に決着がついている話だからです。

時計の針を戻すようなことに、これ以上、関わりたくはありません。

見つめるのは、ただ、これから先のことだけです。

如何にして、宗教法人「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」を発展させていったらいいか。

その一点だけを見つめて前進してまいりたいと思っております。

本当に、有り難い、嬉しい投稿でございました。

「関東の信者」さんには、改めて、心から感謝御礼を申し上げます。



私が生きている間には宗教法人の取得は無理だろう (11758)
日時:2020年03月29日 (日) 10時02分
名前:破邪顕正


表題は、ある会員さんの言葉です。

だから、宗教法人を取得できたと聞いて、本当に嬉しかったと眼に涙を浮かべて言われました。

こういう信徒さんがおられること、それが「谷口雅春先生を学ぶ会」の強みだと私は思っています。

だって、生きている間には無理だろうということは、生きている間にその日を迎えることはできないと覚悟することなのです。

それでもいい、自分が死んだあとになってもいいから、宗教法人の取得を願い支援し続ける。

その方は、そういう思いで、ずっと神棚にその願いを書き留めたものをお備えし、毎朝、祈り続けてくださっていたのです。

裏を返せば、それほどまでに、「谷口雅春先生を学ぶ会」を信頼してくださっているということなのです。

その方からお話を伺って痛感したのは、「谷口雅春先生を学ぶ会」はこれから先もずっとずっと続いていかなくてはならないということでありました。

自分たちが生きている間だけの存在でいいと思うのであれば、とてもではありませんが、永代供養など手がけたりはいたしません。

心ある多くの信徒の皆様から言われました。

〈総裁の変な「経本」なんかで供養されたら、先祖が迷います。ご先祖さまのために、純粋に尊師の「聖経」のみでの永代供養を、ぜひ、お願いいたします。それが頼めるのは、「谷口雅春先生を学ぶ会」しかありません。〉

そこまでの信頼、期待感をお寄せくださるのは、言うまでもなく、聖典『生命の實相』があり、「聖経」があるからに他なりません。

それだからこそ、「谷口雅春先生を学ぶ会」は永遠に存続していかなくてはならない。

その使命を帯びているのです。

それを具体的に担保するのには、どうしても「宗教法人」の取得が絶対条件である、そんな思いで取り組んでまいりました。

「宗教法人」を取得した今、何が嬉しいか。

これで、「谷口雅春先生を学ぶ会」の永続性、永遠性を堂々と宣言できるということなのです。

『生命の實相』に「聖経」に、そしてこの度の「宗教法人」の取得。

この3つが揃ったら、まさに鬼に金棒。

創立以来、19年を経て、ようやく、ここにきて、生長の家教団の受け皿≠ニしての要件は、最低限、全て整ったと言っていいのではないでしょうか。

後は、その内容充実にひたすら努めていくだけです。

「和解」云々はもはや過去の話、これから先は、「谷口雅春先生を学ぶ会」と現教団双方が、将来の展望をどう切り開いていくか、そこに話の次元は移ったのではないか、それが私が最も言いたかったことであります。


「谷口雅春先生を学ぶ会」はただ尊師の御教えを学ぶだけだと思っていました… (11765)
日時:2020年03月30日 (月) 17時44分
名前:破邪顕正


表題もまた、ある会員さんの述懐です。

確かに、平成14年9月27日、創立の当初のことを思えば、そうでしょうね。

中島代表がいみじくもないないづくし≠ゥらの出発であったと言われましたが、創立当初は、ただ、このままでは尊師の教えが消えてしまう、その危機感から、真理を学ぶ月刊誌を発刊していこう、その思いだけだったと思います。

当初のその路線が大きく変わったのは、やはり、「谷口雅春先生を学ぶ会」をもって教団の受け皿≠ノしていこうとしたところにあると私は見ます。

運動で最も大事なことは路線です。

路線のことをよく線路にたとえて説明することがあります。

線路を引くのに重要なこと、それは目的地を定めることです。

その目的地を受け皿″\築へと定めたこと、それが「谷口雅春先生を学ぶ会」を大きく変えた要因ではなかったでしょうか。

ご存知のように、総裁が教団の実権を握るようになって、教団の変質は隠しようがないほどに明らかになっていきました。

それにつれ、教団のあり方に失望、落胆した信徒は、櫛の歯が欠けるように教団から離れていきました。

そういう現状を目の当たりにして、ただ月刊誌を発刊するだけでいいのか。

ただ、真理を学ぶだけでいいのか。

今こそ、退会する信徒のための受け皿≠ェ、どうしても必要ではないのか。

教団に取って代わる組織づくりの必要性は、日ごとに大きなものとなっていきました。

その時代的要請が「谷口雅春先生を学ぶ会」をして受け皿≠テくりへと発展せしめたのだと思います。

そのことをもって、私は、現総裁こそが「谷口雅春先生を学ぶ会」の生みの親であり、育ての親でもあると申し上げてきたわけです。

さて、ここに言うところの受け皿≠ニは何か。

ざっくり言って、それは現教団がもっているもの、そのすべてを指します。

「生長の家」の教えを学べば学ぶほど、先祖供養や、ここぞというときの神癒祈願、或いは救いの場としての練成会、神様とのパイプをつなぐ聖使命会等々、そういうものが大切であるということがわかります。

教団に代わって、そういうものすべてを用意する、それがあってはじめて受け皿≠スり得る…。

で、今回の「宗教法人」の取得によって、文字通り受け皿≠ニしての必要条件は整った、揃った、用意できた。

これで、ようやく教団と同じ立場、対等の存在として相まみえることができる…。

それに要した時間が長かっただけに、そのよろこびもまたひとしおであったというわけです。

果たして、そのことが、どれほどの意味をもつのか。

それは一にかかって、今後の「谷口雅春先生を学ぶ会」の発展如何にかかっていると言って過言ではありません。

だからこそ、意識は、これから先のこと、前にしか、ないのです。


本日(4月1日)より、令和2年度の運動が始まります。「宗教法人」としての新たな出発です! (11766)
日時:2020年04月01日 (水) 15時50分
名前:破邪顕正


本日、日本橋練成道場において、午前中、二つのお祭りが執り行われました。

一つが「永代祭祀生存者誠魂奉安祭」。

今ひとつが「聖使命菩薩会感謝祝福祈願祭」。

いずれの祝詞にも、初めて宗教法人「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」≠ェ入りました。

今日から、また新たな歴史の1頁がはじまる、そう思うと感無量でした。

現在、新型コロナウィルスによる不安感、恐怖感が国民の心を萎縮させています。

政府・自治体から様々の自粛要請等を受け、誌友会等の開催も中止を余儀なくされる状況が続いております。

こういうときだからこそ、宇宙の迷いの念を祓い浄め、一人ひとりの信仰深化をはかる絶好の機会と捉え、真理の学習、行の徹底研鑽に励んでまいりましょう。

《聖経「甘露の法雨」は小さくは個人の病を癒し、大きくは国家の大病、世界の大病をも癒すことができるのである》

尊師・谷口雅春先生のこのお言葉を噛みしめ、とりわけ、今は聖経『続々甘露の法雨』の読誦がとても重要であると痛感します。

それと同時に、身の回りの大事な人に、「神様に護られ神様と一体であるから大丈夫、心配いらない」との大安心への心境に誘う、聖経『続々甘露の法雨』をお守りにした健康成就のお守り≠フ携帯を大いに勧めていきたいと思います。

この国難とも言うべき非常事態を乗り越えていくために、心を一つにして、日々、神想観・聖経読誦の実修につとめてまいりましょう。


「道の道たるは道に非ず」(老子)から和解≠ノついて考える (11780)
日時:2020年04月05日 (日) 16時10分
名前:破邪顕正


表題の言葉は、新編『生命の實相』第36巻「経典篇」に出てまいります。

その言わんとするところは、天地に満つる道は自在無礙の道≠ナあって、融通の利かないような道、この道でなければならぬというような道は、本当の道ではないというわけです。

何故、これを紹介させていただいたかというと、「和解」派の方が、よく「生長の家は和解の教えだ、和解しようとしない学ぶ会は、生長の家ではない」というようなことを仰る…。

そこにある「生長の家は和解の教えだ」という一方的な決めつけ、その融通性のなさが本当に尊師の教えなのか、それに疑義を呈したいと思ったからなのです。

で、その証拠に、『前掲書』にはこうも記されています(21〜23頁)。

《生長の家では、天地一切のものと和解せよと、説いています。

しかしこれも和解という言葉にひっかかってはならない。

和解という一筋道に凝り固まると却って衝突することもある。…

すべての人と和解せよ、というと、敵が攻めて来ても、それに手向うことは和解にならないというので、こちらは少しも防ぐこともせずに、ただ頭を下げている−−そうしたら結果はどうなるか、敵に蹂み躪られて滅びてしまうことにもなる。

そのように、「こうせねばならぬ」という窮屈な一本のレールの上に乗っていたら、他人をも生かされないし、自分も滅びてしまわなければならない。

それでは真理を明かにすることも出来ないのであります。

それでは本当の道ではない。

本当の道というのは、一つに凝り固ってしまうのでなく、機に応じて縦横無尽に姿を変じ、それによってすべてが生かされる道でなければならないのです。

或時は観世音菩薩の如く優しくあることも必要だし、また或時は不動明王の如き権威をもって起つことも必要なのです。

常にこうなければならないというのではない、臨機応変、無礙自在に動き得る道でなければならない、そうあるのが本当の道であって、その本当の道にのった生活をすることが大切なのであります。》

今回、私が「和解」派の方に申し上げたかったことは、表題の言葉をもじって言うならば「和解の和解たるは和解に非ず」ということになりはしないか、ということなのです。

因みに、上に引用したご文章を次のように変えてみると、私の趣旨をご理解いただけるのではないでしょうか。

〈総裁が尊師の教えを変えて来ても、それに手向うことは和解にならないというので、こちらは少しも異議を唱えることもせずに、総裁先生に中心帰一だから、ただハイと頭を下げている−−そうしたら結果はどうなるか、尊師の教えが蹂み躪られて滅びてしまうことにもなる。〉

〈そのように、「和解せねばならぬ」という窮屈な一本のレールの上に乗っていたら、根本的に救われるということはないし、自分の信じてきた信仰も滅びてしまわなければならない。〉

だから、大事なことは、一つに凝り固ってしまうのでなく、機に応じて縦横無尽に姿を変じ≠ト対応することにある。

それこそが、本当の道≠ネのではないのか。

で、現総裁に対して、「谷口雅春先生を学ぶ会」は、不動明王の如き権威をもって起つ≠アとにしたということなのです。

今回、ご案内にありますように「宗教法人」を取得したことによって、そこに「権威」が備わったということを大いによろこんでいるという次第です。

何故、吾々が不動明王≠ニして起たざるをえなかったのか。

それを明らかにするには、どうしても、現総裁、並びに現教団の非真理性≠指摘し続けることが必要だった。

それは決して悪口≠ニいうような次元の話ではない、まさしく信仰の根幹、真理の正統性≠ノ関わることであった…。

だからこそ、私なりにこの掲示板を通じて、その思いを綴ってきたというわけです。

ともあれ、今日、こうして、現教団と新たに、宗教法人「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」という宗教団体が誕生してのですから、どちらが本当の道≠ナあるかは、自ずと、今後の進展具合で明らかになってくるのではないでしょうか。

そういう意味で、「和解」派の皆さんには、今更、「和解」云々と言うことに拘泥せず、その両者の行く末を関心をもってご覧いただければ有り難いと思う次第です。


永代供養について、宇治との違いは何でしょうか? (11795)
日時:2020年04月10日 (金) 09時03分
名前:破邪顕正


表題のようなご質問を受けることがありますので、この場を借りてご説明させていただきます。

それを説明するには、そもそも、どうして「谷口雅春先生を学ぶ会」が永代供養に取り組むことになったのか、その経緯からお話しなければなりません。

現教団では、当初、什一会員として10年以上、聖使命会費を納入していれば自動的に永代供養の資格が付与せられる仕組みになっていました。

ところが、「谷口雅春先生を学ぶ会」が誕生し、信徒の退会が相次ぐようになると、教団からの締め付けが日に日に厳しくなり、とうとう、永代供養の資格をもった方の申請があれば、その方の人物調査をすることとなりました。

で、もし、その人が「谷口雅春先生を学ぶ会」に入会していると分かれば、教団は、あろうことか、その資格を剥奪するという厳しい処断に打って出たわけです。

有り体に言うならば、宇治での永代供養を願うのであれば退会はできませんよ、という、いわば、退会防止の、暗黙の、脅迫的な手段として、この永代供養が使われたということになったのです。

それを知って、心ある信徒から、次のようなご要望をいただくようになりました。

〈ご先祖様をまるで人質にとるかのような教団のやり方には到底、納得がいかない。

そんなところに、永代供養などお願いしたくもない。

だから、ぜひ、「谷口雅春先生を学ぶ会」で、永代供養を取り扱ってほしい。〉

更に、それに拍車をかけたのが、ご存知のように、宇治では総裁の「経本」もあげているということでありました。

この「聖経」も「経本」も読むということの危険性については、既に〈尊師の教えと現総裁のそれとを併用≠キることに思う (11745)〉に書かせていただきましたので、それをお読みいただければと思いますが、信徒の中にもそれを感じ取った方がいて、永代供養は、聖経「甘露の法雨」のみでお祀りしてほしいという声が続々と寄せられてきました。

そういう信徒の皆様のご要望にお応えするには、どうしても「谷口雅春先生を学ぶ会」として永代供養に取り組むしかない…。

教団の受け皿≠目指す以上は、それは避けては通れないということで、その取り扱いの準備に着手したわけです。

もとより、これは永代≠ノわたってお祀りせさていただくものであります。

一時の思いつき、ときの勢いだけで、おいそれと取り組めるものでは断じてありません。

だからこそ、永代≠担保するものとして「宗教法人」の認証が何としても必要であった…。

ところが、取り組んで見てはじめて分かったことですが、「谷口雅春先生を学ぶ会」には自前の不動産も、建物もありません。

まさしく中島代表が言われる通り、ないないづくし≠ナあったわけです。

それで「宗教法人」を取得するということは、端から見たら、無謀な挑戦のように見えたかもしれません。

現に、都庁の関係部署の方からは、こう言われました。

〈自前の不動産も建物もなくして「宗教法人」の申請を受けたのは初めてです。

勿論、それが「宗教法人」を取得するための絶対条件というわけではありませんが…。〉

その他にも、次から次と、乗り越えなければならない壁が立ちはだかりました。

正直、「宗教法人」の取得は困難、断念せざるをえない、そう思ったこともないではありません。

しかし、教団の受け皿≠ニしての使命を全うするには、何としても「宗教法人」の取得が絶対不可欠である…。

心ある信徒、会員の皆様が、「谷口雅春先生を学ぶ会」に、その希望の灯を托して懸命にご支援くださっている…。

そう思うと、決して諦めてはならない。

ともすれば、怯みそうになる心、諦めそうになる心、安きに流れそうになる心に打ち勝って、「壁は壁に非ず、扉なり」との言葉を心に刻みつつ、神様に全託する祈りを捧げ、真心を尽くすことのみを心がけるようにしてまいりました。

それが神様の御心に叶うならば、どんな壁をも乗り越えることができる…。

その一念で取り組ませていただきました。

一念岩をも通す。

それが実ったということは、神様の御心に叶うものであったということでもありましょう。

「難産の子ほどかわいい」という言葉がありますが、新たな産声をあげた宗教法人「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」を、ぜひ、皆様の、変わらぬ暖かいご愛念とご支援とで、太く逞しく育てていただければと心から念願する次第です。



割り込みですみません。破邪顕正さんの11745記事、「尊師の教えと現総裁のそれとを併用≠キることに思う」は、ここです。 (11796)
日時:2020年04月10日 (金) 15時03分
名前:破邪顕正さんの愛読者です。

すぐ上の11795で破邪顕正さんがおっしゃている11745記事、「尊師の教えと現総裁のそれとを併用≠キることに思う」は、
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2873
にあります。

なお、ついでにこの掲示板の検索で「経本」を調べたら次の記事も出てきて、大変参考になりました。

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2526
『人生を支配する先祖供養』を拝読して思ったこと (10719)

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2504
「トキ」さんのこの情報、信憑性があると私は感じました! (10651)のスレッド全体

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1650
なぜ、総裁がつくった『経本』等を読むと具合が悪くなるのか、その理由がここにありました! (7076)

すべて分かりやすくて「なるほど〜」と納得する内容ばかりです。

ご参考まで。





宇治で永代供養をしてもらっているが、総裁の「経本」は嫌だ、どうしたらいい… (11800)
日時:2020年04月13日 (月) 09時21分
名前:破邪顕正


表題のようなご質問を受けることがあります。

そういう方に、ご紹介したいのが、宇治に20柱ほど永代供養なさっておられる方のお話です。

その方も、宇治で総裁の「経本」があげられていると知って、愕然とされました。

自分も嫌になるような「経本」、ご先祖様だって嫌に思われるに違いない。

そんなもので供養なんかしてほしくない、絶対、そう思われる筈だ。

しかし、既に、宇治に永代供養をお願いしてしまっている以上、今更、宇治に対して「話が違う、返せ」と言って揉めたくはない。

供養のことで、言い争うのはなるべく避けたい。

どうしたらいい?

で、その方は、「谷口雅春先生を学ぶ会」でも永代供養を取り扱っている、そこでは「聖経」のみで祀っている、というのを知って、だったら、ご先祖様も、絶対、「谷口雅春先生を学ぶ会」での永代供養の方をおよろこびになる…。

そう確信なされて、宇治の永代供養はそのままにして、新たに「谷口雅春先生を学ぶ会」での永代供養を申し込まれたのでした。

この方のようなお申し込みが、今、増えてきています。

そういう方々は、異口同音に、「谷口雅春先生を学ぶ会」が永代供養に取り組んでくれて本当に助かった、ご先祖様にもこれですっきりと申し開きができるとよろこんで下さっています。

こういうよろこびの声を聞かせていただくのが、「谷口雅春先生を学ぶ会」にとって何よりの励みとなっています。

これを何かの参考にしていただければ幸いに存じます。




「生長の火」をどう永続的に<oトンタッチしていくかこそが大事… (11806)
日時:2020年04月15日 (水) 09時11分
名前:破邪顕正


知人から、青木新門さん(映画「おくりびと」の原案者として知られます)の「いのちのバトンタッチ」という詩を教えていただきました。

〈人は必ず死ぬのだからいのちのバトンタッチがあるのです

死に臨んで先往く人が「ありがとう」と云えば

残る人が「ありがとう」と応える

そんな一瞬のバトンタッチがあるのです。

死から目をそむけている人は見そこなうかもしれないが

そんないのちのバトンタッチがあるのです〉

この詩のポイントは、ちゃんと、残る人、応える人がいるというところにあるのではないでしょうか。

何故、この詩が私の心に響いたかというと、尊師・谷口雅春先生の灯された真理の火、それにきちんと応えることのできる所を用意しておくことが何よりも大事なのだと思うからです。

本来ならば、その負託を、使命を担って教団は造られた筈だし、そのためにこそ存在しているのだと思うのです。

ところが、現教団は、それを意図的に忘失し、全く創始者の意図とは異なる教団へと変質させてしまった…。

私は、そのように捉える者ですが、中には、そうは見ない信徒がいるのもまた事実です。

そういう方は、よく、こういう言い方をなさいます。

〈時代によって、教えの説き方は当然、変わるべきであって、それをなさっているのが総裁先生である。

しかし、教えの本質(教団の表現を借りれば卵の黄身)は、いささかも変わってはいない。〉

そう見る、というよりかは、そう見たい≠ニいう心理の働きなのだと思いますが、そうでないと教団に留まることが苦しくなりますから…。

総裁を擁護するには、「教えは変わっていない」と、あくまでもそこに立脚するしかないという理屈は、それなりにあり得るとは思います。

そう思える、思い込める人は、それでいいのです。

問題は、そうは思い得ない信徒のことなのです。

例えば、神様まで変えてしまって、それで「黄身は変わっていない」とは、どう強弁しても成り立たない、そう思う信徒だっているわけです。

つまり、その立場に立てば、教団は尊師の灯された真理の火を受け継ぐ資格を喪失しているとなるのです。

そういう人の中に、現教団に失望し、絶望し、敢えて、その火を消してはならないと、勉強会を主宰なさっている方があることを私も耳にしております。

それはそれで貴いことですし、有難いことだとも思います。

問題は、そういう勉強会の永続性≠ネのです。

もし、その勉強会の主宰者なり、指導者がお亡くなりになったら、その会はどうなるのでしょうか。

私は、これまで、そういう方のご逝去とともに、会そのものが消えてしまったという事例をいくつか見てまいりました。

それほどまでに、継承、受け継ぐ、バトンタッチしていくということは、困難を伴うものなのです。

尊師がお説きになられた真理のいのちのバトンタッチ≠サのことに思いを致せば、如何にして永続性≠保っていくのか、それは決して無視し得ない、とても重要なことなのだと申し上げたいのです。

この永続性≠考えたとき、主宰者・指導者個人の資質に委ねてはならない、それには自ずと限界があり、永続性≠ヘ保持しえないと考えるべきではないのか。

やはり「組織」をつくってこそ、その永続性≠保持し得る…。

しかし、それも単なる任意団体では不十分である…。

そこには、どうしても公的な認証が必要である…。

そう考えたとき、「宗教法人」の認証を得るということは、その要件を満たすベストの道である…。

だからこそ、この度の「宗教法人」の取得は本当に有難くて有難くて嬉しく嬉しくてならないのです。


「破邪顕正さんの愛読者です。」さんへ (11810)
日時:2020年04月16日 (木) 14時46分
名前:破邪顕正


御礼の返信が遅れてしまいましたこと、申し訳ございません。

私の過去の記事を、わざわざご紹介くださり、心から感謝申し上げます。

この掲示板があったおかげで、その時々に思ったこと、考えたこと、感じたことを、そのまま投稿させていただくことができました。

私にとっては、この書くということが、自分の考えや見方を整理する上でとても役に立ったように思います。

この投稿するということに関して、新編『生命の實相』第34巻「聖語篇」にある、このお言葉が勇気を与えてくれています(15頁)。

《思想はこれを紙に書くとき一層深まる。

計画もこれを書き下すとき一層微細のところに注意が行き届く。

書いてみると精神が統一する。

書いてみると分析と統一とが同時に行われる。》

自覚は字書く≠アとで一層、深まると言われたことがありますが、今回、過去記事をご紹介いただき、改めて、以前に自分がどんなことを考えていたか、振り返るいいきっかけにもなりました。

投稿してきたことは、決して無駄では無かったように感じています。

もちろん、投稿しているといろんなことを言われることがあります。

私の身の周りにも、投稿したいと思っても、それで色々と言われるのが嫌だから、投稿しないという声もあります。

確かに、投稿者を萎縮させてしまうような書き込みもないわけではありません。

その点、私はもう居直って、アドラーではありませんが「嫌われる勇気」が必要なのだと、自らに言い聞かせています。

これも一つの覚悟と言っていいのかもしれません。

うろ覚えですが、こんな言葉があったかと思います。

覚悟した者は、どんなに曲げられても折れることはない

批判されるのは覚悟の上で、中には、「破邪顕正さんの愛読者です。」さんのような方もいて下さると思って、これからも、その時々に思ったことを投稿し続けてまいりたいと思っております。

意を強くする励ましの投稿、誠にありがとうございました。


「谷口雅春先生を学ぶ会」に入会して、「天皇国日本」の素晴らしさを教えていただきました… (11813)
日時:2020年04月19日 (日) 10時57分
名前:破邪顕正


表題は、ある会員の方の言葉です。

この方は、教団でも幹部をしておられましたが、やはり教団の運動方針に納得がいかず退会されました。

今、この方を中心に、「真理」を学ぶ輪が広がっていて、みんなで「大日本神国観」「日本国実相顕現の祈り」を暗唱できるように、お互い、励まし合って実修しているとのことであります。

その方が言われたことが、そのまま現教団との違いを明らかに示していると思いましたので、ここに、ご紹介させていただきます。

〈教団にいたときは、天皇様のことは一切、教えてもらいませんでした。

「谷口雅春先生を学ぶ会」に入会して、はじめて「天皇国日本」について学ぶことができました。

戦後教育を受けてきた者にとって、当初は、何かついていけない感じがしないでもなかったのですが、学ぶうちに、これが「生長の家」の教えにとって、どれだけ大事なことか、まさしく教義の根幹であるということが分かってきました。

そして、その根本教義が神想観となっているのが、「大日本神国観」であると知り、どうしても覚えたいという気持ちになりました。

実修すると本当に心がスッとします。

この神想観と出会えて本当に好かった、そう思うのです。

あのまま教団に残っていたら、こんな世界を知らないままであった…。

そう思うと、「谷口雅春先生を学ぶ会」に入って本当に好かった、救われたという思いでいっぱいになります。〉

今、教団では、この「大日本神国観」が一切、実修されていません。

これでは、尊師の本当の教えはわかり得ません。

だって、「大日本神国観」こそは、神想観の完成形としてあるのですから。

『生長の家五十年史』にかくあります。

〈生長の家の瞑想法である神想観は、まず現象界の存在の完全否定の後、自らを神の個性的顕現者としての自覚に高めて行なわれる絶対力の行≠ナあるが、谷口先生によって、かかる「神我一体」の自覚の深化を主眼とする「基本的神想観」を第一段階として、この「大日本神国観」を最終段階とする十六種の神想観が説かれている。

最終段階の「大日本神国観」は、「天皇」という実相世界の中心者の生命に帰一することを教えるが故に、人類光明化という大業の実現には、極めて重要な役割をもつものであり、言わばその中心的役割を果すものである。

そして人類を最大最勝の中心に帰一せしめるという意味において、この「大日本神国観」は従来の世界の瞑想法はもとより「生長の家」の全ての神想観を完成するものと言えるのである。》(482頁)

もとより、これが記載されている『生長の家五十年史』も事実上の絶版となっています。

今の教団においては、尊師の本当の教えは覆い眩まされたまま、信徒には伝えられないままであるということなのです。

つまり、この会員さんが、いみじくも言われたように、教団にいては尊師の本当の教えは学び得ないのです。

だからこそ、教団とは別に、新たに「谷口雅春先生を学ぶ会」という団体が必要となったのです。

尊師の本当の教えを、そのまま、歪みなく、後世に伝え遺していくには、それが避けては通れない道だったのだと改めて思う次第です。





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