《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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《重要情報》これは新たな「七重塔教団」又は「造化の三神°ウ団」の誕生ではないのか?!−4月7日付けの「本部通達」に思う (11815)
日時:2020年04月19日 (日) 13時10分
名前:破邪顕正


表題の「本部通達」の名称はこうです。

〈七重塔と“造化の三神”の祭祀等の参議会決定事項の周知について〉

これは、宗教団体にとって、最も重要とも言うべき「祭祀」に関する「通達」です。

それが、「正副教化部長 各位」に向けて送付されています。

ところが、この「通達」が異様なのは、参議会決定事項であるにもかかわらず、総裁はもちろん参議長の名もないことなのです。

あるのは、上から順に、以下のメンバーです(役職名だけを記します)。

非常任参議(講師教育部長)
参議(運動推進部長)
参議(環境共生部長)
参議(総本山総務)

表題にも掲げさせていただきましたが、今回の「通達」は、読みようによっては新たな教団の誕生とも言っていいものです。

冒頭、こういう文章があります。

〈去る2020年1月22日の参議会において、七重塔の設置基準の改定をはじめ、教化部の主となる道場(拝殿)の實相額の前に、七重塔の縮小模型、並びに“造化の三神”の神霊符を納めた三社造りのお社を設置して祭祀することなど、宗教上および運動についての重要な決定がなされました。〉

實相額の前に、七重塔の縮小模型、並びに“造化の三神”の神霊符を納めた三社造りのお社を設置して祭祀する

これほどの重要決定なのに、どうして、「総裁」「参議長」名での通達にしなかったのか。

穿った見方をすれば、これが第一線に周知せられたとき、信徒の反感を招くかもしれない。

万が一、そうなったときの危機回避から、両者の名を記さなかったのでは…?

有り体に言えば、何かあったときの責任逃れのために、敢えて、そうしたのでは…?

そう思ってしまうほどの、私からすれば、驚天動地≠ニいうか、いよいよ現総裁がホンネを隠そうともしなくなった、本性を露わにした、換言すれば、尊師の「生長の家」を換骨奪胎して自分の教団を作り上げた「立教宣言」ともいうべき「通達」なのではないのか…。

今後の教団がどう進んでいくのか、それを占うに足る重要な「通達」でありますので、これは、稿を改め、何回かに分けて投稿していきたいと思います。



今回の「通達」にも現総裁持論の補強≠ノよって教義を変えてしまおうとの意図が… (11817)
日時:2020年04月20日 (月) 09時29分
名前:破邪顕正


この「通達」は、「参考資料」等を含め、A4サイズで22頁にも及んでいます。

その分量からしても、如何に、教団がこれに力を入れているか、思い半ばに過ぎるものがありましょう。

さて、その1頁には、上記に紹介した文章のあと、こういう文章が続きます。

〈これは、日本国内において、万教帰ーの教えを視覚的に現すことを意味しています。

実相を仏教的に表現した七重塔と、実相の「ムスビ」の働きを表現した神道の“造化の三神”をともに實相額の前に祭祀し、宗教の様式や形式の相違を超えてその奥にある実相を礼拝することになります。〉

つまり、尊師の御揮毫なされた實相額の前に、こういうものを祭祀する意味を説明、強調しているわけです。

しかし、いくら、これを読んでも、どうして、そういうものを祭祀しなければならないのか、少しも腑に落ちませんでした。

立教以来、ずっと一貫して、「生長の家」では、實相額を通して、宇宙の大生命を礼拝させていただいてきたわけです。

信徒は、それに何の疑問も差し挟まないできたのではないでしょうか。

何故、實相額だけではいけないのか?

何故、敢えて、實相額の前に、七重塔と“造化の三神”を祭祀しなくてはならないのか?

そこで、ハタと思い至ったのが、表題に掲げたことなのです。

総裁は、一貫して、尊師の創始せられた「生長の家」では不十分、何かと補強≠オていかなければならないと思っているのです。

それが先には、「聖経」であり、その補強≠フために総裁は新たに「経本」を作った…。

で、今度は、實相額の補強≠思い至ったということではないのか…。

現に、今回の祭祀の説明をこう言っています。

万教帰ーの教えを視覚的に現す

私が実に不思議に思ったのは、どうして視覚的に現す&K要があるのかということなのです。

視覚と言ったら、まさしく五感ではありませんか。

そんな五感に訴えて、それで「万教帰一の教え」「實相」を説こうというのが、如何にもナンダカナア、と私には思えてしまったのです。

しかも、その後、こう続くわけです。

〈なお、七重塔の縮小模型は本年5月〜6月にかけて教区番号順に札幌教区より順次送付する予定です。

各教区では、この七重塔の縮小模型と“造化の三神”の神霊符を納めた三社造りのお社の設置を本年7月7日の「万教包容の御祭」までにお願いします。〉

これによって、全ての教化部で、この先、こういう祭祀が執り行われていくことになります。

「生長の家」が創立して以来90年、一貫して護られてきた「實相」礼拝は、これから「七重塔の縮小模型と“造化の三神”の神霊符」とを礼拝するようになっていくわけです。

後にも触れたいと思いますが、この「“造化の三神”の神霊符」は総本山の職員が書いているものであります。

尊師御揮毫の「實相」に変わって、職員の書いた「“造化の三神”の神霊符」を礼拝する…。

何か、ここにも、現総裁の徹底した「尊師外し」の思惑、魂胆を垣間見るような思いがしてなりません。

まさしく、今回の祭祀の変容は、現総裁の現総裁による現総裁のための新たな教団の誕生と言っていいのではないでしょうか。

それは、尊師の創始せられた「生長の家」とは全く似て非なるものであると思うが故に、更にその問題点を追求していきたいと思います。



万教帰一の教え∞実相世界≠フことを言うのであれば「聖旗」並びに「七つの燈台」を教えるのが先でしょ! (11819)
日時:2020年04月20日 (月) 15時06分
名前:破邪顕正


そもそも、万教帰一の教え≠そんなに強調したいのであれば、どうして「聖旗」を貶めたのですか?

尊師・谷口雅春先生は、「生長の家」のマーク(意義と由来)について、丁寧にご教示くださいました。

新編『聖光録』の288頁にも、それが収録されています。

また「生長の家高校生連盟の歌」にもこうあるではありませんか。

♪光輪卍字十字架の 万教帰一の旗のもと

にもかかわらず、「聖旗」の吉祥卐≠ェナチスのシンボルと誤解されやすいとのあらぬ理由を持ち出して、あの鳩マーク≠ノ変えていったのはどういうことですか。

更に、尊師は、総本山の峰々に「七つの燈台」を建立され、その一つ一つの名称の中に實相世界の成就せる姿の理念を込めて、お諭しくださっているではありませんか。

そういうものをすべて蔑ろにするような現総裁の姿勢は、結局は、尊師の創始せられた「生長の家」を補強≠オなければならないと思った、そこに起因するものであると思うものであります。

そのいよいよの集大成として、今回の「通達」が生まれた、私はそのように理解します。

そのことの本質的な問題、事の重大性について、改めて詳らかにしていきたいと思います。


こんな感じで實相礼拝を邪魔する (11820)
日時:2020年04月20日 (月) 15時23分
名前:なんだこれはっ!

こんな感じで置かれるんですかね?

なんだか変な感じ。違和感大あり。

“造化の三神”神霊符? (11821)
日時:2020年04月20日 (月) 15時51分
名前:なんだこれはっ!

奉納金2000円以上随意で大と小があるそうです。

本山職員の手書きだそうです。

正直言って下手な字ですね。

我が家にはいりません。

神棚への祀り方の動画が総本山のホームページにありますが、この祀り方で本当にいいのでしょうか?

https://www.youtube.com/watch?v=3qSfRqOcrQ8&feature=youtu.be

今回の「通達」の最大、かつ深刻な問題点はここにあります−されぱこそ新たな教団の誕生だと言うのです! (11829)
日時:2020年04月21日 (火) 09時53分
名前:破邪顕正


表題について考える際、極めて重要なのが、『秘められたる神示』にある次のお言葉です。

《神を如何に祀るかというようなことはどうでもよいようなことでありますが、それは時の日本国民全体の心境又はその指導階級の心境の表現でありますから、現象はその心境の具象化として、その心境同様のことがあらわれて来るのであります。》(13頁)

総裁、並びに教団の指導階級≠ェこのような「通達」を出し、新たな「神祀り」を執り行わせるということが、これから先、私は深刻な問題を惹起するのではないかと見ています。

今回の「通達」にある「七重塔」にしろ、「“造化の三神”の神霊符」にしろ、決して目新しい話ではありません。

既に、知られていた話ではあります。

しかし、今回の「通達」が、これまでと違うのは、全ての教化部において、それをしなければならなくなったことにあります。

当初、“造化の三神”は総本山のご祭神として勧請されるという話でありました。

それだけでも、これは宗教上、信仰上、とても重要な問題で、私は、これは「住吉大神」を脇神に貶めることで、決してゆるされることではない…。

これは尊師のご精神に真っ向から反するものであるとして、その問題点を指摘してまいりました。

《重要》『谷口雅春先生を学ぶ』誌・11月号を是非お読みください−総本山のご祭神に造化の三神≠勧請したことの過ちがよくわかります! (10339) ℃Q照。

ところが、今回の「通達」は、総本山に勧請された「“造化の三神”」を全ての教化部で祭祀させるということを通知したのです。

総本山のご祭神に留まらず、全ての教化部で…ということは、それがこれからの「生長の家」の礼拝対象の神様に変えられたと言っても決して過言ではありません。

それを示すのが「通達」の3頁にあるこの文章です。

〈2.“造化の三神”祭祀の具体的方法

(1)教化部会館内の實相額の手前正面に、右図のように総本山が授与する“造化の三神”の神霊符を納めた三社造りのお社を置く。〉

右図というのは、「なんだこれはっ!」さんが投稿された

こんな感じで實相礼拝を邪魔するNEW (11820)

にある、絵です。

更に、重要なのが、「通達」8頁にある、この文章なのです。

〈4. 七重塔の縮小模型の設置と“造化の三神”の神霊符を納めた三社造りのお社の祭祀を、實相額の手前正面で共に行う場合の具体的方法

(1)普段は“造化の三神”の神霊符を納めた三社造りのお社を図のように七重塔の手前に 配置する。(中略)

普段は、(1)のように、“造化の三神”の神霊符を納めた三社造りのお社を七重塔より手前に配置します。

それは、2019年11月6日の参議会決定で、“造化の三神”が、会員・信徒が日常的に祈る対象とされたからです。

“造化の三神”の御神名が目に見えることによって、“ムスビ”の働きをより意識するからです。〉

「通達」には、上の文章の日常的に≠ニいうところに、わざわざ爪点が施されています。

それほどに重要な語句だという意味なのでしょう。

何を申し上げたいか。

この「通達」は、全ての教化部に留まらず、会員・信徒にも文字通り日常的に礼拝させる対象として示されたということなのです。

全ての教化部、会員・信徒に至るまで、これからは、“造化の三神”こそが、新たな神様として礼拝されていくのです。

有り体に言わせていただければ、これは新たな神様の押しつけ∴ネ外のなにものではありはしません。

その押しつけ≠ェ実にあからさまに行われると思えるのが、4月10日付けの「“造化の三神”神霊符の発送注文のご案内」という「生長の家祭務部」(※筆者註…生長の家総本山祭務部のこと)からの「通達」です。

そこには、こうあります。

〈(前略)通達にもあるように、神霊符は、通常、 総本山のお受け所のみで授与しており、郵送、宅配便による授与はしておりません。

しかし、今般の新型コロナウィルスの感染拡大防止対策に協力するため、本年3月から団体参拝練成会をはじめ練成会などの行事は開催しておりません。

そのため、当面、特例の措置として希望する教化部へ神霊符を郵送させていただくこととなりました。

なお、個人でお申し込みをご希望の方がいらっしゃいましたら、各教化部で取りまとめていただき、ご注文くださいますようお願い申し上げます。〉

これまでの経験則から言って、総裁・教団は、どの教区がどれほど「取りまとめ」ているか、きっと調査することでしょう。

それによって、教化部長の査定も決まる…。

そういう圧力をとってまで、総裁・教団は、“造化の三神”を新たな礼拝対象に仕向けていくのではないかと私は見ています。

礼拝対象が変われば、それは新たな宗教教団の創設と言ってもいいのではありませんか。

だから、今回の「通達」は、現総裁が創立者となった新たな教団の誕生、「立教宣言」に他ならないと申し上げているのです。

正直、そこまでするならば、「生長の家」の看板も一緒に卸してほしいと心底、思います。



神様を押し込め≠驍アとの問題性を『秘められたる神示』は伝えています (11830)
日時:2020年04月21日 (火) 12時28分
名前:破邪顕正


『秘められたる神示』にある「終戦後の神示」を拝読させていただきますと、「七つの燈台に火を点ずる者」は「白髪の老翁」であり「鹽椎神」であることが分かります。

そして、表題にある問題点がこう示されています。

《キリストはわれの別名であるから、キリストを押し込めたのが可かぬのである。

陸前の鹽釜神社でも香取鹿島の神を正面にして、鹽釜の神を傍に押し込めてある。…

このような状態では日本が負けたのも仕方がない。》

これを紹介したのは他でもありません、今回の「通達」で、「住吉大神」は完全に「押し込め」られてしまったからです。

「通達」の21頁にこのような文章があります。

〈(3)“造化の三神”の神霊符は次の@〜Eのように祀る。

@「天之御中主大神」の神霊符を中心に、向かって右に「高御産巣日神」の神霊符を、左に「神産巣日神」の神霊符を神名が見えるように配置する。…

なお、“造化の三神”の神霊符の他にもお札を祀る場合は、手前に“造化の三神”の神霊符を配置して、神名が見えるようにする。〉

この意味を深く理解するには、「なんだこれはっ!」さんの投稿記事

“造化の三神”神霊符?NEW (11821)≠ノある

総本山のホームページの神棚への祀り方の動画をご覧になるとよくわかります。

https://www.youtube.com/watch?v=3qSfRqOcrQ8&feature=youtu.be

この中に、次のような説明がなされています。

〈すでに天照大御神や住吉大神のお礼を祀っている場合は天之御中主大神を一番手前に重ねて祀ります。〉

天照大御神や住吉大神を「押し込め」る祭り方を、ここで推奨しているのです。

これが神道の世界から見たら、どう映るのか。

因みに、東京都神社庁の公式ホームページの家庭祭祀のサイトページ(http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/qa/kateisaishi/)によれば、こうあります。

〈神座の順位については、神棚の中央を最上位とし、次に向かって右側、その次が左側となります。

したがって、宮形が大きい場合には中央に神宮大麻(じんぐうたいま)を、向かって右側に氏神(うじがみ)さま、左側にその他の崇敬する神社のお神札(ふだ)をお祀りします。

宮形が小さい場合は、神宮大麻を一番手前にお祀りし、その後ろに氏神さま、次に崇敬する神社のお神札を重ねてお祀りします。〉

このことに従えば、今回の祭祀は、天照大御神様、住吉大神様を「押し込め」るものであり、尊師の創始せられた「生長の家」とは全く別物であることを如実に示すものではないかと思うものであります。


今回の「通達」は『神真理を告げ給う』にある「實相」についてのお言葉をどう考えているのか? (11832)
日時:2020年04月21日 (火) 14時25分
名前:破邪顕正


表題は、このご文章を指します。

《諸君は生長の家≠フ本部道場や練成道場の講壇の正面に『實相』という大文字が掲げられてあることを知っているであろう。

あれはわたし≠ェ掲げるように命じたのである。》(14頁)

言うまでもなく、ここに言われるわたし≠ニは神様のことであります。

神様がお命じになって『實相』が掲げられたのです。

続いて、それを礼拝することの意味がこう述べられます。

《なかには、何かあの文字に大なる神秘的霊力があって、あれを礼拝すれば何か功徳があるかのように思って礼拝している人があるが、実相とはあなた自身の実相≠ナある。…

自分自身を物質的存在だと思いまちがえないように、『實相』と文字に大書して、自己の実相≠その文字に移入して礼拝するようにしてあるのである。》

ここに、実相礼拝の重大な意味が述べられています。

ところが、今回の「通達」によれば、以下のような文言をもって礼拝するということになっているのです。

〈5.實相額の前に七重塔の縮小模型と“造化の三神”のお社を配置して礼拝する際の言葉を、次の通りとする:

「万物調和のムスビの働きを表した造化の三神と、神の創り給いし無限多様の実相世界を象徴する七重塔を通して、宇宙の大生命に礼拝いたします。」〉

これでは、神様がお命じになられた、実相礼拝の本来の意味が、完全に眩まされてしまうように思えてなりません。

「實相」と「自分」とが向き合う。

そこには何の介在物もあってはならない…。

それであって初めて本来の「実相礼拝」と言えるのではないでしょうか。

かつて、リーダを集めた研修会で、ある講師からこう言われた言葉が忘れられません。

〈「實相」額の前に座った瞬間、住吉大神の御生命を授かる。

リーダーとしての自覚が、もう既にそこから生まれているのです。〉

実に新鮮な響きをもって感動した記憶があります。

そういう信仰上のよろこびが、長々しい説明調の文言を称えることによって、却って、かき消えていくような気がしてなりません。

創立以来90年にわたって、営々として積み上げられてきた「生長の家」の信仰、精神、文化そのものがが根こそぎ破壊されていっているのではないのか、それが今回の「通達」なのではないのか。

そう思うが故に、今回の「通達」には、まだまだ批判の矛先を向けていかなくてはならないと思っています。


天之御中主大神は唯一絶対神であることから…神鏡は置かない<Gッ??? (11833)
日時:2020年04月22日 (水) 08時25分
名前:破邪顕正

表題は、「通達」の21頁にあります。

〈B天之御中主大神は唯一絶対神であることから、三社いずれの前にも神鏡は置かないこととする。〉

これが如何に尊師の教えに反しているか。

それについては、既に

「なないろ」さんへ−11月号を読んでいただけるそうで、ありがとうございます! (10347)

で述べております。

要約して申せば、『われに神殿は不要である』と神示にあるのは、絶対者にまします大神にとっては神殿は不要である≠ニいう意味であって、ただし、住吉大神と名を示して個別的にあらわれ給うた人格神については又別の相対的意義があるので…礼拝精神の対象として、信仰心の集中の一点として、崇敬の心を散乱せしめないためには神殿が必要である≠ニいうことなのです。

つまり、神殿に祭祀せらるべきは、個別的にあらわれ給うた人格神≠ニいうのが、尊師の教えなのです。

そのことは、例えば、新編『生命の實相』第35巻「経典篇」にも次のように示されています。

《実相の世界に於ける神、つまり本当の、宇宙に遍満する大生命そのものが、迷いの念の世界に混乱状態が起ってきた時にその状態の救いの神として仮の姿を現し給うことがある。

念の世界に、本来無い世界に、勝手に自分達の妄念で不幸を創り、混乱状態を起し、それがまたこの現象界に現れ出ようとした場合に、「可哀想に」とそこに実相の世界から光明の念が及ぼされて来る、その光明の念が応現して観世音菩薩となり、阿弥陀如来となるのであります。

これは、化身または応化身の神であります。

そして宇宙に遍満する神というのは、実相とか、法身の神とか大本体の神とか言うのであり、この応化身の救済の活動に、霊界の高級霊が参加して活動するのは地上では悟りに近い現世の人々が参加して活動するのも同じであります。

この大本体の神が第一義の神であり、応化身が第二義の神である、これらは霊魂ではないから霊媒には憑らない。

霊界の高級霊というのは第三義の神と称するのがそれで、その脊族あたりが、時には「大本体の神」の御名を僣称して霊媒にかかって来ることがあります。

仏典に「衆生仏を憶念すれば仏、衆生を憶念す」という語がありますが、…衆生が迷って、救いを求める気持になる。

換言すれば仏又は、神を憶念した時に、阿弥陀仏となり、観世音菩薩となって、機に応じて現れ給うので、迷いは無明であり、暗である。

暗は本来虚でありますから、そこに光が射せば暗は自然に消滅してしまう。

それが実相の神が、地上に応現し給うと、地上の迷いが自然に消滅してしまうということになるのであります。》(86〜87頁)

つまり、宇宙に遍満する神∞実相とか、法身の神とか大本体の神≠ニ称されるものは第一義の神であって、本来、神殿に祀られるべきものではない。

しかし、救いの神として仮の姿を現し給う♂梔サ身については、救いを求める¥O生の迷いを消滅させるために、神殿に祀って好いのである。

さればこそ、総本山の出龍宮顕齊殿には「住吉大神」がご祭神として祀られたわけです。

当然、“造化の三神”は、「通達」が言うように、唯一絶対の神、即ち宇宙に遍満する神¢謌鼡`の神ですから、およそ神殿に祀られる対象ではない…。

それどころか、そもそも、祀ってはならないものなのです。

それはそうでしょう、宇宙に遍満する神≠どうして、神殿の中に閉じ込められましょうや。

神鏡は置かない≠サの理由として天之御中主大神は唯一絶対神である≠ゥらというのは、端っから、その理由になってはいません。

神殿に祀ってはならないものを祀ってしまったこと、そのこと自体が、尊師の教えから言えば、既に、根本的な間違いなのです。

それをしも、今度は、全ての教化部で祀るというわけでしょ。

もはや、尊師がお説きになられた教義などどうでもいい、今の教団にとっては関係ないということなのです。

尊師の教えに反していることを、今度は総本山だけではない、全国規模で執り行わせるというのが、今回の「通達」の趣旨なのです。

ここまできたら、もう、誰の目にも明らかではありませんか。

そうです、今の教団は、尊師・谷口雅春先生の「生長の家」ではないということを…。

今回の「通達」によって、現教団は、谷口雅宣総裁が創始した新たな教団、「生長の家」の名を汚すも甚だしい、私に言わせれば、神様を取り替えたエセ生長の家∴ネ外のなにものでもないということが決定的になったのです。

そういうエセ生長の家≠ノ、それでもついていくのですか?

今回の「通達」を、よくよく読んで、信徒の皆様には、しっかりとした判断をしていただければと心から念願する次第です。

その判断に資するよう、私の思うところを投稿し続けていきたいと思っております。


割り込み、失礼します。すぐ上の11833記事で破邪顕正さんがおっしゃっている 「なないろ」さんへ。11月号を読んでいただけるそうで、ありがとうございます! (10347)≠フ記事は、ここにあります。 (11835)
日時:2020年04月22日 (水) 13時42分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

割り込みレスポンスで失礼します。

すぐ上の11833記事で破邪顕正さんがおっしゃっている
「なないろ」さんへ−11月号を読んでいただけるそうで、ありがとうございます! (10347)≠フ記事は、

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2384
のレスポンス記事です。

この内容を正確に理解するために最初の親記事から、最後の「そーれ!!」さんが投稿された最終レスポンス、
「キャバレーと霊界、もちろん同一視はできませんが (10357)」
まで読まれることをお勧めします。

なぜ霊界の話に「キャバレー」が出てくるのか……。



「通達」のようなことで万教帰一の教え≠ェ浸透していくのでしょうか? (11837)
日時:2020年04月22日 (水) 15時32分
名前:破邪顕正


「生長の家」の教義の特徴の一つに、万教帰一の教え≠ェあります。

現総裁も、講習会等で、それに言及していますし、今回の「通達」にも7頁に、次のように示されています。

〈3.七重塔の縮小模型を設置する場合の具体的方法

教化部会館内の實相額の手前正面に、右図のような位置に七重塔の縮小模型を設置する。

※上記の祭祀法の要点は、生長の家が万教帰ーを説く教えであることを(日本で)視覚的に明示することにある。

即ち、實相額の前に、実相を仏教的に表現した七重塔の縮小模型を配置し、その手前に実相の「ムスビ」の働きを表現した神道の“造化の三神”を祭祀することで、仏教と神道の本質的同一性を示すと共に、その本質的同一性が実相(本当の姿)であることを示している。

宗教の様式や形式の相違を超えて、この同一性(実相)を礼拝することを行為によって示すのである。〉

この文章を読んで、誰しも思うのではないでしょうか。

「万教帰一」というのであれば、キリスト教も入らないといけないのでは…。

なるほど、「通達」は、これによって仏教と神道の本質的同一性≠ヘ示し得ているというのかもしれませんが、それではキリスト教の教えについては、どう説明するのでしょうか。

こういうと、「そんな意地の悪い、イチャモンみたいなことは言うな」というお叱りを受けるやもしれませんが、私に言わせれば、こういうところにも、尊師のお説きになられた万教帰一の教え≠ェ単なるスローガン化していやしないか…。

本来の『生命の實相』に基づいて説かれていないが故に、万教帰一の教え≠ェ実に薄っぺらいものになってしまっていやしないか…。

そう思ってしまうのです。

ここで改めて、『生命の實相』が万教帰一の教え≠どう説いているか、学んでおきたいと思います。

@新編『生命の實相』第35巻「経典篇」(19頁)

《「物質はない」という生長の家の発見したる尺度によって、キリスト教を解いて行き、仏教を解いて行くという時に初めて、この神なるものと仏なるものとが一つであるということがわかるのであります。》

A新編『生命の實相』第36巻「経典篇」(16〜18頁)

《キリストは聖書の中に「吾は真理なり」といっています。

…これを、キリスト教信者達は「キリストによらなければ救われるものがない」…吾々を救って下さるものはキリスト教だけだ…というふうにいいますが、それは違います。

…このキリストは…真理そのものであるキリスト「アブラハムの生まれぬ前より我はあるなり」と言った久遠生き通しのキリストによらなければ天国に入ることは出来ない。

この真理(キリスト)によらなければ実相を悟ることは出来ないということであります。

キリストというのは真理の、実相の神の応現でありますから、そのキリストが或時は観世音菩薩となり、また、或時は生長の家の神様となって現れられるのです。

…キリストも、釈迦も、弘法も、また各教祖もみなそれぞれの時代、それぞれの信仰の程度に従って応現した、一つの神の救いの天使なのでありますから、どの宗教も神髄はただ一つであって、神髄さえ掴めばどれに依らなければ救われないということはないのであります。》

B新編『生命の實相』第40巻「教育実践篇」(86〜87頁)。

《生長の家の人類光明化運動はキリスト教でいえば各人の胸の中に今迄十字架に縛られて窒息していたキリストを復活せしめ再臨せしめる運動であり、仏教でいえば各人を皆極楽浄土に往生せしめる運動であります。

…これを日本古来の神道でいえば、夜見の国の汚れを身禊ぎ祓する、言葉の力によって汚れを祓い浄めて、光明遍照の世界に導き入れる伊邪那岐命の一大禊祓い運動であります。

こういうふうにすべての宗教の最後の、究極の目的を成就する運動がこの生長の家の人類光明化運動でありまして、…人類さえ実相を悟れば、極楽浄土がそこに形あるものとして実現するのであります。》

ここでお示ししたかったのは、万教帰一の教え≠フ背景には、

@「物質はない」

A真理に依る

B実相を悟る

それが大前提となっている…。

つまり、『生命の實相』に依らずしては万教帰一の教え≠ヘ成り立ち得ないということなのです。

さればこそ、「万教帰一の~示」はこう言うのです。

《…わが姿を見んと欲うものは『生長の家』を読め。

われは言葉である。

吾が言葉を盛る雑誌こそ吾が神殿である。…

すべての宗教(おしえ)流れ来りて吾れに入らん。

吾れは完成する者である。

われは『七つの燈台』に燈(ひかり)を点ずる者である。

古道も、仏教も、キリスト教も、天理教も、金光教も、黒住教も、大本教も、すべての教(おしえ)我に流れ入りて生命を得ん。

われは大いなるものかな。

すべての教を呑吐(どんと)して、これに生命を与え、すべての相争う教をその真髄に於て握手せしめる。

吾れはすべてを包容し、すべてに光を与え、すべてに栄養を与え、すべてを生かす地下水である。…》

本当に万教帰一の教え≠宣べ伝え、広げていこうとするのであれば、まずは『生命の實相』に帰れ、そう言うべきではないでしょうか。

『生命の實相』なくして「万教帰一」なし。

尊師の教えに帰らずして「万教帰一」なし。

ご祭神を取り替えての「万教帰一」はなし。


神様を取り替えたエセ生長の家≠ナは、「神想観」そのものが成り立たない… (11842)
日時:2020年04月23日 (木) 08時37分
名前:破邪顕正


よく「生長の家は神想観に始まり神想観に終わる」ということが言われます。

実際、『人生の秘訣365章』(285〜286頁)には、このようなお言葉があります。

《生長の家の誌友でありながら、神想観をしない人があるのは誠に不思議なことなのである。…

神想観を毎日励まないでいて、「私は生長の家です」というのは少々無理である。》

「生長の家」の信徒であるならば、この「神想観」に日々、励まないといけないのです。

それでは、この「神想観」はどのようにして生まれたのでしょうか。

新編『生命の實相』第25巻「人生問答篇」(140頁)に、こうあります。

《谷口―『神想観』は神が私にただで授けて下すったのですから、私もまたただでお取次するほかはないのです。》

また、『詳説 神想観』の「はしがき」にも、こう記されています。

《神想観というのは、私が修行中に神授せられたる般若の智慧を禅定によって到達せる道である。》

更に、『生長の家』誌・昭和30年12月22日の法語にも、こうあります。

神想観について、ある人が、白隠の軟酥(なんそ)の法から暗示を受けたのか、と言ったこと対して、尊師ははっきりとこう言われるのです。

《或る人は、神想観は白隠の軟穌の法から暗示を得て考えついたものではないかと私にたづねたことがありますが、神想観はそんな受売りではありません。

或は最近、大分日本でも有名になって実修者が出来つゝあるヨガの呼吸式精神統一修行法と神想観とは全くよく似ているが、それからヒントを得たものではないかと言う人がありますが、そう云うセコンド・ハンドのものではありません。

神想観は生長の家の神から私が直接授かったものであります。》

それでは、尊師に神想観を授けられたところの「生長の家の神」とは何なのでしょうか。

その答えが、新編『生命の實相』第4巻「実相篇」にあります(126〜128頁)。

《今まで家内には霊眼がひらけたということなどは全然なかったのでありましたが、その時突然天空高く白衣を裾まで垂れ、鬚髯を胸までたれた尊き神姿を拝したのでありました。…

私はその神から「神想観」という一種の坐禅のような方法で、本当の自己は肉体の自己ではなく円満玲瓏たる神である如来であるということを自覚するための精神統一法を教えられ、その方式に従って行えば如何なる遠方へでも、この神みずから顕現して指導するとの啓示がありましたので、その修行を毎日一回三十分間やっているのであります。》

ここに言われるその神≠ニは、谷口輝子先生が拝せられた天空高く白衣を裾まで垂れ、鬚髯を胸までたれた尊き神≠ノ他なりません。

その神姿≠もとに、服部仁郎先生が手がけられたのが、原宿本部会館にあった「ご神像」であるわけです。

つまり、尊師に「神想観」を授けられたのは、住吉大神であるということなのです。

ご存じのように、「招神歌」の最後は

生長の家大神守りませ

です。

「神想観」を授けられたのが住吉大神であれば、この守りませ≠ィ守り下さる「生長の家大神」もまた住吉大神でなければなりません。

ところが、何度も申し上げて恐縮ですが、今回の「通達」は、全ての教化部において、その住吉大神を押し込め≠謔、という通知なのです。

一方において住吉大神を押し込め=Aその一方では「守りませ」…。

それは無いでしょう。

ですから、表題に掲げたように、神様を取り替えたことによって、今のエセ生長の家≠ナは、最も大事な神想観そのものまでもが成り立たなくなってしまう…。

そういう「通達」なのだということを、是非、信徒の皆さんにはご理解いただきたい…。

もっと、きつい言い方を許してもらうならば、「招神歌」を称えても守りませ*{当に守っていただけるのか、実に心許ない…。

とても大安心の心境にはなれないのではないのか…。

神様を取り替えるということは、それほどまでに深刻な問題を孕んでいるのだということを改めて申し上げておきたいと思います。



久々に参加します。 (11845)
日時:2020年04月24日 (金) 02時22分
名前:そーれ!!

今回の「駄通達」それは、生長の家創始者谷口雅春先生を
学ぶ会が、宗教法人を取得したからではないでしょうか。

何か先手を打とうと思ったのでしょうかね。

総裁は、自分は神様よりも、谷口雅春先生よりも
偉いのだと思われているのかもしれませんね。

生長の家教団は、どんどん別の宗教に成って行く。
気の毒なのは、信徒です。

生長の家の神様は、住吉大神です。



『こころの旅路』でも、尊師は私は塩椎神そのものである≠ニ仰っています (11846)
日時:2020年04月24日 (金) 15時55分
名前:破邪顕正


本日(4月24日)は、聖姉・谷口輝子先生の祥月命日、「谷口雅春先生を学ぶ会」では、32年祭が執り行われました。

私は、谷口輝子先生を偲んで、谷口恵美子先生著『こころの旅路』を拝読させていただきました。

これは、尊師・谷口雅春先生と輝子奥様・恵美子先生との往復書簡を中心にして編まれたもので、これを読めば、尊師が如何に輝子奥様を大切に思っておられたかが手に取るように分かります。

この中で、注目すべきは、昭和17年1月30日、講習会先の長崎から東京においでの輝子奥様に送られた、尊師のお手紙です(104〜106頁)。


《…私の姿が、白髪の老翁の姿に見えたとか、キリストの姿に見えたとか、云う人が度々あるけれども…私自身それを宗教的幻覚として話しているだけで、自分自身が塩椎神様で、自分自身がキリスト自身であるとは自分にも信じないアルモノがあったのです。…

やっぱり、愚かにして弱き肉体が自分であると云う感じが去らず、色々ブツブツ不平や小言や、憂鬱に閉じ込められる自分であった。

この大なる不覚は、自己の自覚がまだ三百六十度回転し得ず、人には「人間肉体にあらず」と説きながら、依然として『人間は肉体なり』と思っている要素があった。

百尺竿頭進一歩して、われ塩椎神也、世を救うために出たる也の自覚が、自分自身にも乏しきが故に自己礼拝が出来なかった。

従って、自己さえも拝めないが故に、自分の妻を真の意味に於て拝むことが出来なかった。

私は素直に自分の妻が、貴女が、観世音菩薩であることを信じねばならないのである。

それは本質に於て仏性に於て−−と云うような抽象的な意味や、哲学的な意味に於てではなく、もっと具体的な意味に於て、我が妻は観世音菩薩が世を救わんがために肉身を仮に示現してあらわれてい給うのである。

そして私は塩椎神そのものが世を救わんがために仮に肉身を示現しているのである。

そして塩椎神と観世音菩薩とは本来一体の同じ神であるが故に、我等夫婦は本来一体なのである。……

わが妻は光定君その他が、その霊覚で見たるが如くそのままに観世音菩薩なのである。

そして私自身は多くの誌友が見たるが如く塩椎神そのものである。》


ここに明らかなように、尊師は、既に、昭和17年初頭には私は塩椎神そのものが世を救わんがために仮に肉身を示現している≠ニのご自覚に立っていられたのです。

そのことに、少しでも思いを致せば、住吉大神を押し込め≠驍燗ッ然の今回の「通達」は、決して許されるものではありません。

世を救わんとして起たれた、尊師のご一生そのものをも無みするような仕打ちではないかとすら思ってしまいます。

ある信徒は「尊師の教えをここまで変えてしまっていいものか」と嘆いたそうでありますが、もはや嘆くときは過ぎた。

決然として起つべきではないでしょうか。

尊師の教えを護るために、心ある信徒よ、起ちあがれ。

声を大にして、そう申し上げたいと思います。

今回の「通達」が、そのきっかけになることを心から願っています。


「實相」額の前に設置するのに特別な儀式等は必要ありません<Gッ??? (11847)
日時:2020年04月25日 (土) 11時59分
名前:破邪顕正


今回の「通達」は、宗教上、信仰上、重要な権威≠余りにも蔑ろにしすぎでは…。

平たく言えば、ありがたみ≠ニいうことへの感性が著しく欠如している…。

それは、「通達」7頁にある、この一文を読んで思ったことです。

七重塔の縮小模型を設置する際のことについて、こういうのです。

《設置をする日は、“造化の三神”の神霊符を納めた三社造りのお社とともに、7月7日までに教区の判断で決めてください。

その際、特別な儀式等は必要ありません。》

儀式もせずに設置ですか?

神様を取り替えるという「重要通達」でありながら、こんな感覚でやらせるとは…。

これを受けた教化部長や幹部・信徒はどう思うのでしょうね。

振り返り見れば、原宿本部会館の「ご神像」を撤去する際にも、何の儀式もありはしませんでした。

「谷口雅春先生を学ぶ会」を中心としたメンバーが、その間ずっと、涙・涙の聖経「甘露の法雨」を誦げさせていただいて、「ご神像」をお見送り申し上げたことでした。

その時、この教団には、宗教心というものが皆無だなと痛感しました。

その体質、本質は一貫して変わっていないようで、そのことは「“造化の三神”の神霊符」にも、如実に表れています。

「なんだこれはっ!」さんも、上の子記事「“造化の三神”神霊符? (11821)」の中で言及していますが、曲がりなりにも神霊符≠ネのです。

それを、間伐材で作りますか?!

上述の4月10日付けの「生長の家総本山祭務部」の通達にこうあります。

〈“造化の三神”神霊符(大) 奉納金 2000 円以上随意

この神霊符は「天之御中主大神」「高御産巣日神」「神産巣日神」のお札三枚、1セットでお分けしております。

神霊符の木札は総本山で間伐した桧や地元の西彼町で間伐した桧を使用しております。〉

さすがに、ここには、「神名」を誰が書いているかまでは記されてはいません。

これについては、かつて投稿したことがありますので、それをご参照ください。

「新しい文明」とは、手書きでご神符をつくるということなのか? (4433)

ここに書きましたように、総本山の職員が手書きしているのです。

こういう代物を祭祀して、信徒に礼拝させるという感覚が全く、理解できません。

しかも、わざわざ、「通達」の21頁には、こういうことまで書いてあるのです。

〈A神霊符を納めるお社に御簾がある場合は御簾を上げ、拝礼の際に神名が見えるようにする。〉

とにかく、「神名」が見えるようにする、視覚的に訴えないといけないと「通達」は頻りに言うわけです。

その視覚に飛びこんでくる「神名」が、一職員の書いたものである…。

尊師ご揮毫の「實相」に取って代わって、一職員の手書きの“造化の三神”の「神名」を礼拝する…。

教団信徒の皆さん、これで本当にありがたみ≠感じ取ることができますか?

見方によっては、これは尊師を蔑ろにする、冒涜するも同然のことではないかと思わざるを得ません。

「ご神像」のときに痛感した悲しい思い出が、今回の「通達」で、再び蘇ってきたような思いです。

宗教心も信仰心も少しも感じられないような今回の「通達」。

これでは、もはやエセ生長の家≠ニいうしかないではありませんか。



「そーれ!!」さん、お帰りなさい。 (11848)
日時:2020年04月25日 (土) 15時12分
名前:破邪顕正


久々の投稿を拝見して、昔の同志が帰ってきたようで、大変、頼もしく、有難く思っているところです。

今、「谷口雅春先生を学ぶ会」が宗教法人を取得したことで、私たちを取り巻く雰囲気がずいぶんと変わってきているのを感じています。

ある教区の信徒さんは、今回のことを衝撃をもって受け止めたそうです。

何でも、その教区では、「谷口雅春先生を学ぶ会」のことを目の敵のように言っていて、学ぶ会のま≠フ字も言ってはならない雰囲気に満ちているのだそうです。

とても怖いところ、おぞましいところ、そんな感じで捉えていたのだそうです。

そういうところが、宗教法人となった…。

自分たちの知らない間に、「谷口雅春先生を学ぶ会」は大きく発展し、もはやその存在を否定し得ないところまできている…。

教団の受け皿≠ニしての、確固たる地歩を築きつつある…。

そういう認識に変わったというのです。

本当に有難いことです。

もっともっと声高らかに「宗教法人になりました!」という声を発していきたい…。

とりわけ、それを教団信徒の皆さんに訴えていきたい…。

そう思っていたところに、教団から、今回の「通達」が出たわけです。

しかも、これまでの、どの「通達」にも比して、超弩級の衝撃的な内容となっているわけです。

「破邪顕正」というハンドルネームは、まさに、このときのためにあったのだと思うほどの、それこそ驚天動地≠フ内容であるわけです。

もともと、このハンドルネームの由来は、総裁、並びに現教団のどこがどのように間違っているのか。

そして本当に正しいものとは何なのか(この場合はもちろん、尊師の御教えでありますが)。

常に、それを明らかにするための投稿でありたい。

それによって、心ある信徒の気づきに資するような投稿でありたい。

と同時に、時の移ろいにも耐え得る内容のものでありたい。

そんな思い、願いを込めてつけさせていただいたものであります。

因みに、この「破邪顕正」という言葉は、新編『生命の實相』第38巻「質疑篇」に出てまいります(167頁)。

《眼を瞑って神想観のつもりで精神を統一して、破邪顕正の無声の気合いを…》

「破邪顕正」には気合いが伴う、それが私の心に響いたという次第です。

この名前自体「傲慢だ」等、いろんな批判を受けてまいりましたが、それこそ自らの「気合い」を示したものとしてご寛恕願えればと思っております。

ともあれ、今回の「通達」によって、現教団がもはや「生長の家」とは言えない。

少なくとも、尊師が創始せられた「生長の家」とは似て非なるものであることを満天下に晒すこととなりました。

この問題をクローズアップさせることで、私は、広く、教団信徒の皆さんにも、「谷口雅春先生を学ぶ会」が、なぜ誕生したのか。

なぜ、創設されなければならなかったのか。

ひいては、なぜ、宗教法人の取得を目指したのか。

そういう一切合切の事柄を、すべて説明し得ると考えています。

教団は、最もいいときに、最もいいタイミングで、実に有難い、格好の材料を提供してくれたものだと、私は今回の「通達」に大いに感謝している次第です。

そうであるからこそ、私は、全力を尽くして、この「通達」の問題に取り組み、ここから透かし見えてくる総裁、並びに現教団の本質的な、宗教上、信仰上の深刻な問題を剔抉していきたいと考えています。

これによって、必ずや、尊師の教えを護らんとする私たちの思い、熱意、信念が教団信徒の皆さんにも相通ずる、そう確信しているからです。

もとより、教団信徒の皆さんにしてみれば、この「通達」を無視していきたい、スルーしていきたいと思うかもしれませんが、それを許しては、偽物を掴まされて詐欺にあっている被害者を傍観するも同然のことなのだと私は認識しています。

ですから、「目ある者は見よ、耳ある者は聞け」ではありませんが、教団信徒の中には、そういう目をもった、耳をもった人が必ずいる、そう信じて前進していきたいと思っております。

「そーれ!!」さんの投稿に意を強くして、私の今の思いを述べさせていただきました。


現総裁の、我流の、勝手なお社の祀り方の押しつけ≠ノ異議あり… (11850)
日時:2020年04月26日 (日) 16時01分
名前:破邪顕正


表題は、今回の「通達」に出てくる、お社の祀り方についての説明を読んで感じたことです。

まず、6頁にこうあります。

〈※お社の前には供物は必要としませんが、教区の判断で備える場合は神道色が濃厚とならないよう(容器などに配慮し)簡素にして下さい。〉

“造化の三神”をお祀りするのに神道色が濃厚とならないよう≠ニわざわざ付け加えるところが、実に、総裁流なのだと思います。

(やっぱり、総裁は神道が嫌いなのではないでしょうか。)

これが、尊師・谷口雅春先生の教えと如何にかけ離れたものであるか。

『白鳩』誌・昭和45年10月号にこうあります。

《日本人ならキリスト教の人でも、仏教の人でも、神社参りをするので、神社の式典的な儀式なら、仏教の人でもキリスト教の人でも反感なしに集まり易いので、万教帰一を目標とする生長の家では、その葬祭の儀式的作法は、特別のことは除き、だいたい神社式典の儀礼作法に則って行うことになっているのである。

だいたい神社式典は、宗教のように思う人もあるが、神ながらの道−すなわち、自然の道がそのままに生活習慣にあらわれたものであって、何宗というような教義を宣布するところのものではないのである。》

総裁が、それほど「万教帰一」に拘るのであれば、この尊師の教えに従い、神道色≠ェ濃厚であっても何の問題もないのではありませんか。

そういことに引っかかっていること自体、却って、本気で総裁は「万教帰一」を弘めたいと思っているのか、実に怪しいものであります。

また、「通達」の21頁には、こういう文言もあります。

〈Cサカキなどの常緑樹を飾り、祀る側の人間と自然のつながりを明確に意識する。〉

既述したように、「通達」では、お社に神鏡はおかないと言っていますが、サカキなどの常緑樹≠ヘ飾る、というわけです。

その理由が自然のつながりを明確に意識する≠スめに、というわけです。

これまた、実に、総裁流の勝手な理屈づけのように思えてなりません。

尊師は、そんな薄っぺらい次元のお話など、決してなさいませんでした。

『叡智の断片』にかくあります(235頁)。

《正月には松を立てる。

松とは何であるかと言えば、それはときは木であって、永遠に栄える木、即ちサカキ(榊)である。

コトバの力で今年一年の栄えを象徴するために立てるのである。

神前に立てるサカキは、永遠に栄える「生命の樹」を象徴している。

門前に門松を立て、神に榊をそなえるのは、実は自分の心の中にサカキ(栄える木)を立てることである。

榊は所謂「神様」にささげるものではなくして、かえって「自分自身」に捧げるものなのである。

それ故、榊をそなえる場合には美しい生き生きとした緑の葉をみんな自分の方に向けて供える。

「神様」の方には裏のきたない方が向いている。

されば「神様」は自分以外の建物の中に在ますのではなくして、自分自身の心の中に存在するのであることを知らねばならぬ。》

先にご紹介した『白鳩』誌にはこうあります。

《サカキは栄木*狽ヘ賢木≠ニ書き、無限の栄えと無限の叡智(賢)を象徴するのである。…

榊を見て、この栄木≠フ如く永遠に栄える常緑の生き生きとした心をもって神に対すべきである。》

『古事記と日本国の世界的使命』にもこう記されています(134頁)。

《『真賢木(まさかき)』と云うは『御栄(みさか)えの木』であります。

『御栄えの木』の一番上部に御統丸(みすまる)の珠を繋けたのは、皇祖皇宗の御霊の御陰で吾々は幸福に暮らし得るのでありますから、御栄えを皇祖皇宗の御霊に帰し奉ったのであります。》

このような尊師の御教えに触れた者にしてみれば、とてもではありませんが、総裁の恣意的な理屈づけには違和感しか覚えないのであります。

それより何より、私がたまらなく嫌なのは、このお社が置かれる位置なのです。

普通、神棚は高いところに置くべきものでしょう。

ところが、今回の「通達」が示す、お社の位置は、こんな感じで實相礼拝を邪魔する (11820)≠フ図に明らかなように、祈る人の目線と同じところに置かれるのです。

これでは、仰ぎ見るという感覚は生まれ得ません。

何度も言って恐縮ですが、宗教上、信仰上、とての大切な敬虔な雰囲気というものが、これでは台無しになってしまうのではないかと思うわけです。

お社をどの位置におくかは、これはこれで、とても大事な観点ではないでしょうか。

そして、「通達」は、これを信徒個人にも押しつけ≠謔、としているわけです。

例えば、「實相」の掛け軸のある信徒のお宅であれば、わざわざ、その前に“造化の三神”のお社をおかなくてはならないわけです。

果たして、これを信徒は、そのまま受け止め得るでしょうか?

この「通達」が第一線に伝わったとき、信徒がどんな反応を示すか、私には実に興味あることであります。


尊師は始めに神の啓示≠り。現総裁は始めに自己の思惑≠り。神様もそのために利用する…  (11858)
日時:2020年04月27日 (月) 11時39分
名前:破邪顕正

表題は、長年にわたって現総裁の言動を注視してきた、私なりの結論です。

尊師・谷口雅春先生の教えと現総裁のそれとの決定的な違いが、まさにここにあると私は思っています。

ご存じのように、尊師は、本当の神様を求め続けられ、その求道の果てに神様からの「啓示」導きを頂かれて立教されました。

その後も、尊師に天降った数々の「神示」に導かれ、それに基づいて御教えを説かれ、また教団組織を構築してこられました。

その尊師を導いた神様が住吉大神であることを確信なさり、尊師は生長の家総本山のご祭神としてそれを顕齋なされたわけです。

その際、住吉大神の御霊様をどうやってお祀りなされたか。

そのことについて記してあるのが、『生長の家』誌・昭和54年2月号です。

当時、総本山幹事長であられた、八日市屋二三雄先生がこうお書きになっています。

《「生長の家総本山の中心として、住吉大神を顕齋し、龍宮住吉本宮≠建立する」と先生は宣言された。

故山口悌治先生が、「住吉神社から、御分霊を戴かれてお祀りされるのでしょうか?」とお伺いしたら、先生は、「私が龍宮のうみの底から、大神の御霊を頂いて来て、高く地上に掲げ御出御を仰ぎます」と仰せられた。》

一方、現総裁はどうか。

他の掲示板で、総裁のやっていることは「仏作って魂入れず」ではないか、とのご意見がありましたが、私も全く同感です。

今回の「通達」でもそうですが、全ての教化部に、新たなお社を設けるというのに、特別な儀式等は必要ありません≠ニ言ってのける感覚…。

どうしてそういう発想になってしまうのか…。

実は、それこそが、現総裁の本質を考える上で、根本的に問われなければならないことなのだと私は思っています。

そして、その結論が、表題に書いたように、総裁にとっては、神様は利用するものであって、ただ使えばいいという考え方の持ち主なのだということなのです。

即ち、神様から導きを受けて、それに基づいて指導していこうなどとは、露程も思っていやしない…。

もし、そういう姿勢であれば、かかる非常時、「コロナバスターズ」などと称したシールを使うようなことを提唱するわけがありません。

https://www.facebook.com/Seichonoie.Sosai/

つまり、全てが、自分の思いつきであり、自分の考え、思惑から来ているということなのです。

そして、それだけならばまだしも、そこに神様を利用しようとしているから、それがたまらなく嫌なのです。

有り体に言えば、実に不謹慎なのです。

前置きが長くなりました。

今回、私が、総裁は神様を利用しているに過ぎないと判じたのが、「通達」のこの文言なのです。

実相の「ムスビ」の働きを表現した神道の“造化の三神”

「通達」は一方で、きちんと「天之御中主大神は唯一絶対神である」と記しています。

本来ならば、唯一絶対神≠ニは、どういうことを意味するのかをこそ、まずは示すべきでありましょう。

ところが、その唯一絶対神≠ナあるはずの神様を実相の「ムスビ」の働きを表現した≠ニいうことにしてしまっているのです。

私は、そこに、ある種の思惑≠感じないではいられません。

そう思う根拠について、少々、長くなりそうなので、稿を改めて書いていきたいと思います。


今回の「通達」は、総裁が教団に乗り込んで来て以来の、長年にわたるの思いの集大成としてある… (11859)
日時:2020年04月27日 (月) 13時43分
名前:破邪顕正


ここで、総裁が教団に乗り込んできて以来のことについて触れておきたいと思います。

現総裁は、これまで一貫して、「生長の家」から、「愛国書」「愛国運動」「愛国者」を排除、追放することを念願としてやってきました…。

そのために、「愛国書」を絶版にし、生政連・青年局を解体し、「日本を守る会」からの脱退をはかり、そして「愛国者」の左遷や追放を画策、主導してきたわけです。

その総仕上げとして狙ったのが、実は住吉大神の否定ではなかったかと私は見ます。

住吉大神が、宇宙浄化・鎮護国家の神様であることが、総裁にとっては実に都合の悪いことであった…。

鎮護国家はそのまま愛国聖典、愛国運動、そして愛国者を許す拠り所になってしまうからです。

だからこそ、総裁は、総本山を何とか貶めようとして、「総本山を聖地とは呼ばせない」と言ってみたり、顕齋殿を土足履きにしたりもしたのです。

しかし、そうしたからと言って、既にご祭神とされているものを、いかな総裁と言えども勝手に否定することまではでき得ない…。

そこで、総裁が考えついたのが、新たに“造化の三神”を勧請することによって、住吉大神を押し込める、脇神様にしてしまうということであった…。

そして、そのために利用されたのが、“造化の三神”ではなかったか。

その働きを「ムスビ」にあるということにすれば、総裁にとっては実に具合がいい。

これで信徒を説得し得ると、総裁は、そう踏んだのだと思うのです。

確かに、『生命の實相』には、「ムスビ」も「造化の三神」も出てまいります。

それが、新編『生命の實相』第19巻「万教帰一篇」のこの箇所です(41〜42頁)。

(※なお、「造化の三神」は、全巻中、ここの一カ所にしか出てきません。)

《「創造」即ち「産霊(むすび)」というのは、どうして成り立つかといいますと、ムスブ即ち陰と陽とを結び合わすことによって成り立つのであります。

すべてのものは、「陰」と「陽」とが揃わねば成り立たない。

日本の古典を見ますと、造化の三神といって、始めに唯一つの根元神「天之御中主之神」があり、それから陽身(たかみ) 産霊之神、陰身(かみ)産霊之神、という陰陽の作用神が顕われ給うて万物を御創造になっているのであります。》

(※細かいことを言うようですが、『生命の實相』では「天之御中主之神」であって、教団のいうような「天之御中主大神」とはなっていません。)

しかし、尊師の教えを紐解けば紐解くほど、“造化の三神”を「ムスビ」の働きだけに「限局」するのは、如何にも無理があると思うのです。

そもそも、尊師は、“造化の三神”について、こう述べておられるのですから…。

『前掲書』から引きます(104〜105頁)。

《この天之御中主神が「独神成り坐して」というのは、既に申しました通り固有名詞の神ではない、独りの神、唯一絶対の神様であるという意味であります。

絶対神であって相対の神様でない。

それから「身を隠したまいき」即ち身体を隠しておられた、言い換えると五官に触れるような相のない神様であった。

絶対神にして無相の神様、これが天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、この三柱の神様であったというのであります。》

ここにはっきりと「五官に触れるような相のない神様」「絶対神にして無相の神様」と示してあるのです。

それなのに、「通達」21頁には、既述したように、わざわざ、こう書いてあるわけです。

〈A神霊符を納めるお社に御簾がある場合は御簾を上げ、拝礼の際に神名が見えるようにする。〉

とにかく「神名」が見えるように、視覚的に訴えるようにと、実に「五官に触れるよう」に祀らないといけないと、「通達」はいうわけです。

『生命の實相』に示されていることに反するようなことを平然と「通達」し得るのも、結局、総裁が自分の都合のいいように神様だって利用できると思っているからではないでしょうか。

どうして、こういうことが教団では罷り通るのか。

どうして、総裁は、尊師の教えを無視して、好き放題、得手勝手なことをなしえるのか。

今の教団が抱える宿痾について、稿を改めて、私の思うところを書いておきたいと思います。


今日のエセ生長の家教団=雅宣教団≠生み出した元凶こそ「人類光明化運動指針」の「第九条」なり (11860)
日時:2020年04月27日 (月) 15時27分
名前:破邪顕正


どの宗教団体にあっても、一番の重大なポイントは、教義の解釈権を誰が握っているかにあると言われます。

それが「生長の家」にあっては総裁≠ニいうことになっています。

総裁≠アそが、教義の全ての解釈権を一手に握っているのです。

それを支えているのが、表題に掲げた「人類光明化運動指針」の「第九条」に他なりません。

だからこそ、教団は何かにつけ、これを持ち出すのです。

《生長の家大神−総裁・副総裁−御教。

この三つを結び貫く神意の展開が、光明化運動の不動の中心である》

何が大事かと言って、ここに尊師の御名がないことなのです。

「生長の家大神」は、直接、時の「総裁」に教えを授けるのであり、それがそのまま「御教」になるというのが、この字義どおりの解釈なのです。

つまり、その解釈に従えば、創始者のご存在を無視してもいい、たとえ尊師の教えと違っていてもかまわない、そういう建前が成り立つ、その論拠がここから生まれるのです。

時の総裁の説くことが生長の家の御教≠ナあり、それがまた神意≠ナあり、光明化運動の不動の中心≠ニみなされる…。

この「第九条」がある限り、たとえ、それが如何に尊師の教えに反していようとも、それを止め得る手立てはありません。

「第九条」を楯にされたら、それこそ何を言ってものれんに腕押し、結局は負け犬の遠吠えにしかならないのです。

この「第九条」が厳然としてある限り、教団内にあっての変革はなしえない、それはあり得ないと思い切らざるをえないのです。

さればこそ、新たに、その受け皿≠ニなるような団体を別途、起ち上げるに如くはなし…。

それしか、尊師の教えを護る手立てはない…。

その心意気で生まれたのが、私は本流なのだと思っています。

私は、その本流の中で、「谷口雅春先生を学ぶ会」を選択させていただいたという次第です。

今、宗教法人を取得し得て、堂々と、今の教団に対して、はっきりとモノを言うことができます。

教団の中にいたら到底、言い得なかったことを、です。

それは、尊師の御存在を外した「第九条」を金科玉条の如くにしている限り、教団は、いつでも創始者の教えに反したエセ生長の家教団≠ノ堕す恐れなしとはしない。

そして、その危惧がまさしく露わとなって立ち現れたのが今回の「通達」なのだ、と。

そうなのです、この「第九条」に守られているが故に、総裁は、創始者の教えを無視して、勝手に換骨奪胎して、自分の考えを、自分の思想を「生長の家」の教えとして押し通すことができるのです。

総裁にとって、まさに葵のご紋≠ンたいなもの、それがこの「第九条」なのです。

これを示されたら、信徒は黙って「ハイ」と拝跪するしかない、そういうように仕向けられてしまっているのです。

改めて、思います。

この「第九条」は、尊師の御名がないばっかりに、時の総裁の思い次第で、自分の思うような教団を勝手に創始しえる、その可能性を、その芽を常に孕んでいたのだと。

総裁は、そこをきちんと見抜き、そこに見事につけ込んできたのです。

今回、「谷口雅春先生を学ぶ会」が宗教法人を取得して、新たな宗教団体が生まれたことを見て、ある信徒が「勝手に教団をつくっていいのか」とうそぶいたそうですが、それを言うならば、その言葉、そっくりそのまま、今の教団に献上したいと思います。

「第九条」をいいことに、谷口雅宣総裁こそ、創始者の教えを無視した、それに反した勝手な教団、エセ生長の家教団=雅宣教団≠作り上げたではないかと。

今、「生長の家」を冠した宗教団体は、2つあることになりました。

そういうところに、教団は、有難いことに今回の「通達」を出してくれました。

この「通達」をどう読み取るか。

それ次第で、どちらの「生長の家」がその名に相応しいか、よき判断材料を提供したのではないかと私は期待しています。

ですから、心ある信徒の皆さんには、ぜひ、この「通達」に関心をもっていただきたいのです。

ここに、今の総裁の本質が如実に表れているからです。

この「通達」がもっともっと信徒の関心の的となるよう、そのために私なりに尽力していきたいと思っています。

教団も「通達」の1頁にあるように

〈本通達を熟読、ご理解いただき、各教区における今後の祭祀、及び運動を展開して下さいますようにお願いします。〉

第一線にまで、この趣旨を周知徹底くださいますよう、よろしくお願いいたします。



住吉大神−久遠の谷口雅春先生−生長の家の本来の御教=u第九条」がこうなっていたら… (11867)
日時:2020年04月28日 (火) 10時35分
名前:破邪顕正

歴史にたられば≠ヘ禁物であるとは、よく言われることでありますが、それでも現教団の余りの変質ぶりを目の当たりにすると、表題のようなことをどうしても言ってみたくなります。

このような「第九条」であれば、総裁の言っていることが尊師の教えに照らして合致しているのか、常に検証されていったと思うのです。

つまり、いくら総裁であろうとも、尊師の教えを無視はし得ない。

ましてや、それに反するようなことまでは決して説き得ない。

「第九条」がこのようなチェック機能、教えのガードレールの如き役割を果たしていれば、総裁のここまでの暴走もあり得なかった、どこかでブレーキが働いたのではないのか。

そう思ってしまうのです。

もちろん、今となっては、このたられば≠ヘ詮ないこと、愚痴にしかなりはしません。

その愚痴をどうしたら愚痴で終わらせないようにできるか。

それには、どうしても、教団に対して、表題の如き「第九条」を信念とするような別団体を誕生させるしかない…。

それができてはじめて、現教団を相対化し、どちらが本来の「生長の家」であるのか、それを信徒の前に提示することができる。

提示されたものを、信徒がどう判断するか。

そこからは先は、もちろん、信徒それぞれの判断です。

大事なことは、信徒の前に教団とは別の、違う団体を提示することなのです。

その意味で、今回、「谷口雅春先生を学ぶ会」が宗教法人を取得して、新たな教団となったことは、本当に、本当に大きな歴史的な出来事なのだと、私は思っています。

2つあるということは、自ずから、違いがなければなりません。

その違いを、私は「第九条」のそれで示すことが、最も説得力を持ち得るのではないのか、そう思っています。

もとより、表題に掲げたものが、本流の精神であり、「谷口雅春先生を学ぶ会」の信条であることは論を俟ちません。

一方、教団の方はどう表現し得るか。

現総裁は、既に書きましたように、神様からの啓示とかお導きとかを頂いて、そこから教えを説くというような人ではありません。

端っから、総裁が当てにしているもの、頼っているものは「朝日新聞」とか「左翼学者」の本とか、様々なインターネットからの情報とかであります。

それを使って、ただ現象世界のことを批評、評論しているに過ぎません。

さしずめ、教団の「第九条」を現状の実態に即して表現するならば、こういうことになりはしないでしょうか。

唯物左翼思想−谷口雅宣総裁−今の教え

そもそもの出発が「唯物左翼思想」なのです。

住吉大神からの啓示からはじまった「生長の家」が、「唯物左翼思想」に端を発している教えにすり替えられてしまった…。

そここそが根本的な問題であり、決定的な違いなのだと、私は思っています。

そうです、だからこそ、今の教団は、「左翼唯物思想」を根元とするエセ生長の家教団≠ナあり、新たな雅宣教団≠フ誕生と言うしかないのです。



ああ!天も泣いた「ご神像」撤去 (11868)
日時:2020年04月28日 (火) 12時01分
名前:なんだこれはっ!



もはや、今の生長の家には、住吉大神さまはおられないのでは?

原宿本部会館での「ご神像」撤去の映像を見れば、誰もがそう思うのでは?

https://www.youtube.com/watch?v=D54cU6B0PpA



「ご神像」が悲しそう (11869)
日時:2020年04月28日 (火) 12時52分
名前:なんだこれはっ!

「光明の塔」を残すんだったら、「ご神像」を外さなくてもよかったのでは?

八ヶ岳に移された「ご神像」が寂しそう (11870)
日時:2020年04月28日 (火) 12時57分
名前:なんだこれはっ!


信徒から拝まれないで、野ざらしにされて、嗚呼

「ご神像」の撤去は、住吉大神を教団から外す、その前兆、前触れであり、象徴としてあった… (11877)
日時:2020年04月29日 (水) 10時14分
名前:破邪顕正


「なんだこれはっ!」さん、映像と写真を掲載していただき、心から感謝御礼を申し上げます。

「ご神像」が撤去された、あの日の悲しみは、いまもって忘れることはできません。

それを心に刻みつけるために、「谷口雅春先生を学ぶ会」では、この5月30日を「御神像を取り戻す誓いの日」と定め、毎年、この日に、みんなで聖経を読誦させていただいております。

表題に掲げたことは、『「生長の家」教団の30年史−なぜ3代目総裁は教えを改竄したのか』を紐解いてみて、改めて実感したことであります。

この撤去があったのが、平成25年5月30日。

その翌年の平成26年11月21日に、龍宮住吉本宮のご祭神が変更になり、同じ日に「宇宙浄化の祈り」が廃されています。

平成27年6月3日には、「聖使命感謝奉納祭の祝詞」から住吉大神∞聖経読誦≠ェ外されます。

そして、平成28年の元旦から総本山で「住吉大神」の御神符がなくなっています。

その6月には、総裁が自らのブログで「自民党に投票するな」という趣旨の内容を表明。

事実上の共産党容認の姿勢をここで明らかにするわけです。

それから4年の歳月を経て、今回の「通達」が出されたことになります。

それまで、総本山だけのご祭神変更であったのが、いよいよ、これからは全ての教化部において執り行われることになったわけです。

即ち、これによって、「生長の家」教団のご祭神が、はっきりと「住吉大神」から“造化の三神”へと取り替えられたことを内外に宣言することとなったわけです。

このことを歴史的に俯瞰してみると、今回の「通達」の始まりは「ご神像」の撤去にまで遡ることができるのではないのか。

そして、「光明の塔」にあった「ご神像」が皇居の方角を向いていたことを考え合わせると、この撤去は、「生長の家」から鎮護国家、国体護持の使命をも外した、その象徴的出来事としてあったのではないのか。

改めて、「ご神像」の撤去、取り外しは、教団から住吉大神を外す前触れとして、実に深い意味をもっていたのだということが理解されます。

神様が取り替えられるという、いわば、「宗教改革」ともいうべきことが、今、「生長の家」教団において、現総裁によって執り行われようとしているのです。

ここまで尊師の教えが踏みにじられて、それでも黙っているというのは、到底、耐え得るものではありません。

今回の「通達」は、まさしく新たな雅宣教団≠フ創立宣言にも等しいものです。

これに、異を唱えず、唯々諾々と従うようでは、この先、どんなことが起きても、信徒はもはや起ちあがることはないでしょうし、最後の最後まで総裁に付き従う、新たな雅宣教団≠フ信徒になったも同然だと私は見ます。

尊師の創始せられた「生長の家」の信徒として人生を全うしようと思うのであれば、この「通達」に断固、拒否の姿勢を貫いてほしい。

決然として起ちあがってほしいと心から願って已みません。

尊師の創始せられた「生長の家」の信徒として生きるか、それとも総裁の作り上げたエセ生長の家教団≠フ信徒として生きていくのか。

今回の「通達」は、その試金石にもなる、これまでのどの「通達」よりも重大な意味をもったそれであると思うものであります。


「第九条」の生長の家大神の神意が総裁に天降る≠ニいうのは、信徒の勘違い≠セと総裁自身が認めたという話を… (11878)
日時:2020年04月29日 (水) 15時14分
名前:破邪顕正


私は、先にエセ生長の家教団=雅宣教団≠生み出した元凶こそ「第九条」であるということを申し上げました。

そもそも、この「第九条」とは、次の一文こそが本来の趣旨であったと思うのです。

《光明化運動に於いては人は中心ではない。

神意が中心である。》(『菩薩は何を為すべきか』52頁)

あくまでも神意が中心であって、人ではない。

それを教団ではどう説明しているか。

〈生長の家大神様の神意は、面授によって法燈継承された総裁を通してしか現れません。

ですから、総裁先生に中心帰一することが、神意の展開なのです。〉

この説明で、私には、忘れようにも忘れ得ない、鮮烈な思い出があります。

それは、総裁のブログ記事について、ある信徒がコメントしたことへの総裁の返信、それが実に衝撃的だったのです。

件のその信徒は、「中心帰一」の洗脳教育を徹底して受けていたのでしょう。

総裁のブログ記事に「先生のお言葉を住吉大神の言葉と思って云々」とコメントしたのです。

教団信徒としては、これは、当然の反応です。

そういう建前になっているのですから…。

ところが、総裁は、間髪を入れず、こう返信したのです。

〈勘違いしてもらっては困りますが、私は谷口雅宣であって住吉大神ではありません。〉

そうなのです、総裁がいみじくもここで言い切っているように、総裁に住吉大神の神意が天降るというのは、信徒の勝手な勘違い≠ネのです。

これは、総裁自身による「第九条」の完全な否定にほかなりません。

何故と言って、総裁の言っていること、書いていることは、住吉大神とは全く関係のない、谷口雅宣自身の考えであると、いみじくも自ら宣言してしまっているのですから…。

つまり、総裁にとっては、自分の考えを「神意」とされることが実に耐えられないことであったのです。

それが証拠に、総裁は、自分の書いたものを『聖典』とは呼ばせないと言ったではありませんか。

更に凄いのは、「私の書いたものを『聖典』と言うのであれば、私にもそれなりの考えがあります」と言って、副総裁職(当時)を辞することもありうると仄めかしたことであります。

その、脅迫じみた物言いにより、それを受け入れるしかないと判断された谷口清超・総裁先生は、運動方針に、すべて『聖典等』と『聖典』の後に等≠入れられたのでありました。

これだけを見ても、谷口雅宣総裁が如何に「神意」とは全く関係の無い、無縁の存在でいたいと願っていたか、思い半ばに過ぎるものがありましょう。

とにかく、現総裁は、自分の自由な思い、考えを中心にしてやっていきたいと欲していたのです。

そういう事実≠目の当たりにしてきたからこそ、私は先に、総裁は「神意」を受けてなどいないと断じたのです。

もし、総裁の言っていることが「神意」から来ているということになれば、総裁の書いたものはすべて『聖典』とされるべきでしょうし、総裁が主導した聖典の絶版もまた「神意」ということになってしまいます。

絶版となった聖典の中には、『神ひとに語り給ふ』という神示講義の本も入っています。

「神示」を学ぶことを禁ずる、それが「神意」だなどとどうして言えましょうか。

今回の「通達」だってそうです。

総裁のやること、なすことが「神意」から来ているということになれば、住吉大神をご祭神から外すことだって、それこそ「神意」だということになってしまいます。

住吉大神からの「神意」で、ご祭神から住吉大神を外すことになりました…。

こんな自己矛盾も甚だしい、馬鹿げたこと、さすがの総裁だって到底、言えないでしょう。

何を申し上げたいか。

総裁は「神意」に縛られることが最も嫌だったのであり、それから自由であること、尊師の教えからも自由であることを何よりも欲したということなのです。

その自由の謳歌の表れの一端が、心ある信徒の顰蹙を買った、あのかぶり物であったり、仮装であったりしたのだと私は見ています。

そういう人≠総裁として中心にしてしまった。

「第九条」は「神意」を中心とすべきであると言っているにもかかわらず、それを無視した総裁という人≠中心にして、あまつさえ、その人への「中心帰一」まで、教団は強要してしまったのです。

そうなると、どんなことが惹起するか。

「第九条」は、人≠中心とした弊害をこう述べています。

《若しも人を中心とすれば、その人が理解し把握している以上の運動の展開は不可能となり、歪んでいれば運動も歪むほかなく、その人とそりの合わぬ者、反対意見の者は身を引くか、対立して禍根を残すであろう…》(『前掲書』52頁)

まさしく、今の教団がそうではありませんか。

全ては、「第九条」の本来の趣旨であった「神意」を中心にすべきであるということが蔑ろにされ、総裁という人≠中心にしてしまったこと、今日の教団の変質はそれに尽きるということを改めて申し上げておきたいと思います。



割り込み投稿ですみません。すぐ上の11878のなかの総裁の発言、「勘違いしてもらっては困りますが、私は谷口雅宣であって住吉大神ではありません」は、ここにあります。 (11879)
日時:2020年04月29日 (水) 17時00分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

すぐ上の11878のなかの総裁の発言、「勘違いしてもらっては困りますが、私は谷口雅宣であって住吉大神ではありません」は、「小閑雑感」
http://masanobutaniguchi.cocolog-nifty.com/monologue/2011/03/post-9686.html#comments
の、
「上田」という人への返信文のなかにあります。
おそらくこれだろうと思います。

私は昔、この文を見ておどろきました。

「一体、総裁はどういうつもりで総裁の仕事を行っているのだろうか。生長の家を自分のおもちゃのように考えているのではないか…」

それ以前から「おかしい。変だ」と思っていましたが、この返信文をみて私の総裁不信が確定しました。



「神意」を伺おうともしない人≠中心としたばかりに、神様まで取り替えられるような事態が生まれたのです… (11881)
日時:2020年04月30日 (木) 09時14分
名前:破邪顕正


「破邪顕正さんの愛読者です」さんには、ここまで典拠をお示しいただいて、ただただ感謝の思いでいっぱいです。

この返信は、総裁の本質を知る上で、またとないとても重大な、歴史的な文書であると思っています。

改めて、ここに引かせていただきます。

〈>>住吉大神様、雅春先生、清超先生のお言葉として、有難く深く受取らせて頂き、ぜひ友人にも伝えさせて頂きます<<

何か誤解があるようですが、ここに私の名前で書いたことは住吉大神の言葉でも、雅春・清超両先生の言葉でもなく、私自身の言葉です。

投稿: 谷口 | 2011年3月20日 13:31〉

谷口雅宣総裁という人は、ここに明らかなように、自分の言うことは、住吉大神の言葉でも、雅春・清超両先生の言葉でもな≠「…。

換言すれば、住吉大神の神意を伺うことも、或いは尊師や前総裁先生のお説きになられたことに対して自分の主張がそれに合致しているかどうか、一々、意に介するようなことはしない…。

自分は自分の考えで書くのだし、またやっていくのだということを総裁は宣言したのだと思います。

さて、ここで考えたいのは、神様の導きを得ようしない、「神意」を伺おうともしない姿勢は、いったい、どういうことを意味するのかということなのです。

ざっくり言って、それは自分が絶対的な神≠ニなることではないのか。

即ち、恐れ慎むという姿勢がない、ということを意味するのだと思うのです。

総裁の著書に『神を演ずる前に』というのがありました。

この書名をもって言うならば、まさしく、谷口雅宣総裁は、みずから神を演ずる≠ェ如く振る舞っているのではないのか。

そういう人が、教団権力を握り、教義の解釈権のみならず、人事権も財産も独り占めにしたらどうなるか。

まさしく、総裁という名の専制体制≠フできあがりです。

そういう体制下にあっては、信徒はもはや愚痴をこぼすのが関の山。

この「こぼす」、漢字では「零す」と書きます。

零、つまり、ゼロの漢字なのです。

こういう愚痴というのは、腹に貯めたら、却ってよくない。

病気とか事故とか、そういう形に変えて、業を消そうとするから、なるべく貯めないようにしないといけない。

だから、愚痴を零すというのも、考えようによっては大事なことなのです。

零して、ゼロにしようという心の自然な働きなのですから…。

しかし、ここで大事なのが、愚痴を零す相手を間違ってはいけないということなのです。

今の教団には、密告制度が張り巡らされていて、それがいつどのような形で本部に陰口、告げ口、たれ込みされるか分かりません…。

愚痴は零したいけど、その相手に気をつかわないといけない…。

なかなかやっかいな、気疲れする世界です。

今、教団信徒の中で、体調を崩す人が増えているという話しを耳にしますが、さもありなん。

古今東西を問わず、独裁に恐怖政治はつきもの。

総裁専制≠フ今の教団もまた例外にはあらず。

そういう中で、どうして、内からの改革が生まれ得ましょうか。

教団の内情を具に体験してきた者からすれば、教団に残ることは、ただひたすら我慢、辛抱、忍耐…それしかありません。

その先に、教団が変わるという希望の灯でも見えているのであれば、ちゃんとその保証があるというのであればまだしも…。

それはそれで我慢、辛抱、忍耐のしがいもありましょう。

しかし、本当にその日が来るのか。

その何らかの兆しでも見えているのか。

何のあてもないことに、あたら時の過ぎるのを待つだけでいいのか。

現教団が総裁専制♂コにあり、その力をもって神様の取り替えまで押しつけようとしている今、どういう選択を為すべきなのか。

今回の「通達」は、その決断を否応なく、信徒に迫るものではないのか。

そういうときに、「谷口雅春先生を学ぶ会」が宗教法人を取得したこと、心ある信徒にとって明るい兆し、何かの支えになることができればと願っております。

信徒の皆様の賢明なる判断を期待したいと思います。



「第九条」の問題を未然に防ぐには、「第十二条」とワンセットとして捉えるべきであった… (11883)
日時:2020年04月30日 (木) 13時15分
名前:破邪顕正


そもそも、「第九条」は、当初「神意」を少しも顧慮しない、或いは顧慮しようともしない人が「生長の家総裁」に就くなどとは、露程も考えてはいなかったと思います。

ところが、そういう人が総裁に就いてしまった…。

まさしく、想定外のことが起きてしまったのです。

更に悪いことに、総裁は、尊師・谷口雅春先生の御名がそこに入っていないことをいいことに、それを悪用≠オて、自分の好き放題のことをしはじめたわけです。

このあたり、明治憲法下の統帥権の問題を想起させます。

明治維新の元勲が健在な頃は、うまく機能していたそれも、そういう人たちが鬼籍に入った昭和となると、俄に、統帥権干犯問題として軍部の台頭を許す、抜き差しならぬ大きな政治問題と化して浮上していきました。

同様に、「第九条」が生まれた昭和30年代は、総裁とは言うまでもなく尊師・谷口雅春先生のことを指し、しかもご健在でありましたから、ここに何の不安も、心配も、憂慮も差し挟む余地はありませんでした。

ところが、尊師が神去られるとともに、この「第九条」が孕んでいた、もし「神意」を無視するような人が総裁に就いたら、その人の思うがままの教団が生まれてしまう…その危惧の念が一気に高まることとなったのです。

全ては、総裁が「神意」を中心にしようとはしない、総裁の「神意」ならぬ恣意≠ェ罷り通るような、それを許す「第九条」があったからなのです。

どうしたら、この弊害を防ぐことが可能だったのでしょうか。

これを「第十二条」とワンセットとして考えていたら、ここまでの総裁の得手勝手な暴走を許すことはなかったのではないのか…。

つまり、人を中心にしてはいけないための、その守るべき心得というものを「第九条」に追記すべきであった…。

それが「第十二条」にあると思うのです。

「第十二条」に、こうあるからです。

《自分みずからは、さしたる修行、誇るべきいささかの行持もなきに、ただただ谷口雅春尊師所悟の仏果の光に包まれて今日を過すおのれの心の奥底を深く厳しくみつめ、ひたすらに日々の行事をつつしみ、聖典を読誦し實相の観入に懈怠あるべからざる事を心に決しなければならない。》(『菩薩は何を為すべきか』97頁)

そもそも、この「光明化運動指針・十三箇条」なるものは、当時の理事会が策定したものであります。

それを尊師がご覧になられて、最終決定に至るわけですが、尊師は、ここである文言の削除を願われます。

それがこれです。

ただただ谷口雅春尊師所悟の仏果の光に包まれて

これは余りにも大袈裟に自己礼讃≠ノ過ぎると尊師は思われたのです。

ところが、周りの理事たちが、尊師に対して、「吾々が救われたのは…ただただ谷口先生の悟りによらなかったら吾々は救われなかったのであるから…この一節は是非吾々の心の反省の拠り処として是非残して置きたい」と強く要望したので、尊師はやむを得ずそのまま残すことになったと仰っているのです。(『前掲書』108頁)

この当たりにも、尊師の謙虚なお人柄を偲ばせるものがあります。

謙虚なお人柄と言えば、当初、「大調和の神示」の中には師恩に感謝せよ≠ェ入っていたのですが、尊師はこれでは「私に感謝せよ」となるから、それは良くないとして削除されたことがありました。

ご参考のために、そのことを記した投稿記事を紹介させていただきます。

〈「大調和の神示」の中には、どうして師恩に感謝せよ≠ェないのか? (10805)
日時:2019年03月31日 (日)〉

ともあれ、この「第十二条」を読めば、「生長の家」とはただただ谷口雅春尊師所悟の仏果の光に包まれて≠ヘじめて成り立つのだということが理解されます。

そして、それは「総裁」につく者とて決して例外ではない。

否、「総裁」につく者こそ、信徒の先頭にたって率先して聖典を読誦し實相の観入に懈怠あるべからざる事を心に決しなければならない≠フです。

そういう「第十二条」の精神が「第九条」とワンセットとして掲げられていれば、さしもの総裁だって、少しは尊師のご存在を気にしなければならなかっただろうし、暴走しようにもどこかでブレーキがかかったのではないのか。

勿論、これが実に希望的観測に過ぎるということは百も承知です。

現に、教団は、「第十二条」があるにもかかわらず、そんな条文なんか、まるでなかったかの如く、「第九条」ばかりしか強調していませんから…。

だから、その「第九条」の中に「第十二条」の精神を入れるべきであったと思うのです。

ワンセットにすべきであったというのは、まさにそういう意味です。

さしずめ、「第九条」はこういうことになりましょうか。

「生長の家大神−谷口雅春総裁・副総裁−御教」

将来、尊師がお隠れになったときのことまで考慮して、「谷口雅春先生」の御名をしっかりと入れておく…。

しかし、これまた今となっては詮ないこととなってしまいました。

かくなる上は、この「第十二条」の精神こそは、私ども「谷口雅春先生を学ぶ会」の根本信条とすべきであると思った次第です。

こうして今、宗教法人を取得できたのも、ただただ谷口雅春尊師所悟の仏果の光に包まれて≠「ればこそ、尊師のお導きあらばこそ、でありますから…。

現教団と「谷口雅春先生を学ぶ会」との決定的な違い、それは「第十二条」の精神が今、そのまま受け継がれているか、否か。

それもまた大きな判断材料の一つとしてお考えいただければと思う次第です。



たびたびの割り込み、失礼します。上の11883で破邪顕正さんがおっしゃっている10805記事、「〈大調和の神示〉の中には、どうして師恩に感謝せよ≠ェないのか?」は、ここにあります。 (11885)
日時:2020年04月30日 (木) 19時51分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

上の11883で破邪顕正さんがおっしゃっている10805記事、「〈大調和の神示〉の中には、どうして師恩に感謝せよ≠ェないのか?」は、
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2552
の子記事です。

最初の記事から「関東の信者」さんの最後の記事まで読むと理解が深まります😊


サムハラ神社では造化の三神が祀られているから教団が祀ってもおかしくない≠ニいう「通達」擁護論に反駁する! (11888)
日時:2020年05月01日 (金) 14時39分
名前:破邪顕正


所謂「トキ掲示板」に、表題のような投稿がありました。

〉谷口雅宣先生が竜宮住吉本宮に造化の三神を祭祀したことは、決して間違っていなかった、ということをこのサムハラ神社は証明してくれています。〈

他の掲示板ではありますが、その内容が、私の一連の投稿への「反論」とも受け取られましたので、私なりの駁論を書いておきます。

この論は、一見、もっともらしいように思われますが、たった一言で反駁できます。

「だったら、そういうあなたは、そのサムハラ神社の氏子さんなんですか?」

私が問題にしているのは、「生長の家の教え」に照らして、それがどうなのか、を問うているのです。

この問題を、わかりやすい例え話で説明することにいたしましょう。

ある宗教団体では、「罰が当たる」「地獄に落ちる」などと脅して、信徒をその団体に引き留めようということをやっている。

だから、「生長の家」でも、脱会しようとしている信徒に対して、そうやって脱会を思い留ませるようなやり方をしても許されるんだ。

あなたは、他でもやっているからという理屈で信徒を脅迫することを是認するのですか?

尊師・谷口雅春先生は、そういうことについては、徹底して批判なされました。

例えば、新編『生命の實相』第30巻「宗教問答篇」にはこうあります(191頁)

《そんな霊媒的修験者の中には、この宗教を信じておれば最後の審判にもたすかるが、この宗教をやめたら最後の審判に焼きほろぼされるなどと言って脅して信者を恐怖心で釣って行こうとするのがありますが、宗教というものは金剛不壊の法身を自覚せしめ恐怖心をなくするためのものであって、恐怖心をそそるだけでも、かかる宗教は邪教だと言わねばなりません。》

よろしいですか、尊師は恐怖心をそそるだけでも…邪教だと@@されているのですよ。

何を申し上げたいか。

他の神社でどういう神をお祀りされていようと、それをもっての正当化は何の説得力ももちはしないということです。

だって、これはあくまでも「生長の家」においてのお祀りの話なのですから。

「生長の家」の教義に照らして、そういうお祀りが成立するや否や、それが問われているのです。

第一、“造化の三神”を祀っているとかいうサムハラ神社では、“造化の三神”について、どういう見解を述べているのですか?

尊師の教えと同じなのですか?

それを明らかにせずして、サムハラ神社で祀っているからいいんだというのは、余りにも軽率に過ぎるというのか、尊師の教えを知らな過ぎるというほかはありません。

因みに、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で調べてみると、サムハラ神社のことがこう出てまいります。
主祭神
天御中主大神
高産巣日大神
神産巣日大神

1935年(昭和10年)に田中富三郎が出身地の岡山県苫田郡西加茂村(現・津山市加茂町)にて旧い小さなほこらの荒廃を嘆き再興したのが本社の起源。

しかし翌年岡山県特高課から無許可神社で商品広告しているとして自主撤去を求められ、11月27日に解消し、撤去を行った。

戦後1946年(昭和21年)にほこらは再建され、当神社は大阪中之島の豊国神社隣接地に自費で1950年(昭和25年)に建立。

いやはや、こういう神社に祀られているからと言って、今回の「通達」を正当化するというのが何ともはや。

折角の機会ですから、一緒に、新編『生命の實相』第21巻「万教帰一篇」をテキストにして“造化の三神”について学んでまいりましょう。

《一切事物の根元たるコトバは、「ス」であり「枢」であり「主」であり、キリストであり、これを日本古典では天之御中主神と申し上げたのであります。この天之御中主とは固有名詞ではなく天球の御中にまします主なる神という内容をあらわす言葉であります。》(89頁)

※サムハラ神社の説明に、「キリスト」が出てきますか?

《この天之御中主神といわれる神様はどこにおられるかといいますと、高天原におられる、…高天原はどこであるかといいますと、これは実相の世界であります。》(106頁)

※実相の世界におられるという説明がありますか?

《この大宇宙に成り坐せる神が天之御中主神である。成りませるというのは鳴り響いているということであります。…大宇宙高天原に鳴り響いているところの神様、それが天之御中主神そのものである》(108頁)

※「鳴り響いている」という説明がありますか?

《その真ン円い大宇宙に張り満ちて、鳴り響いておられるところの神様がこれが天之御中神様であります。大宇宙に張り満ちていると申しますと、大宇宙という容器(いれもの)に天之御中主神という神様が入っていられるように考えられるかもしれませぬが、そうではない》(108〜109頁)

※「通達」の言うように、お社という容器(いれもの)に入れていいのですか?

《天之御中主神は全ての全てであり、絶対神であって、別に他に神はない、天之御中主神一元であるということになるのであります。その一元の天之御中主神様が、高御産巣日神、神産巣日神とこう二つの働きを現わし出されて、三神一体の働きをせられる。》(109頁)

※サムハラ神社でも、絶対神で「三神一体」と説明していますか?

《「彼の仏如来は来って来る所なく、去って去る所なく、生なく滅なく、過、現、未来に非ず、ただ願に酬いる」ために如来として現われている、と『無量寿経』に書いてある。この願とは心のヒビキである、コトバである、コトバの展開として一如の仏が相対的にあらわれる−−これが報身仏である。すると天之御中主神のコトバの響きの展開として八百万の神々が生まれるというのと、一如の世界から願に報いるために十方の諸仏が生れたというのと同じであります。…一如の神から高御産巣日神、神産巣日神の両神が願に酬いんがために発生して、陰陽の働きをせられるということになるのであります。ですからここには実相の宇宙が如何なる相に於て現れているかという、その根本の理が示されてあるのであります。》(109〜110頁)

※サムハラ神社に、このような法身仏、一如の話が出てきますか?

《天地の初発に先ず、一如の世界からコトバの展開として陰陽二柱の神様、言い換えると陰陽二つの原理が交錯してそこに回転運動が始まり、至大天球(たかあまはら)即ち真ン円い宇宙が出来上がったのであります。》(110〜111頁)

※宇宙が如何にして出来上がったかの原理が説明されていますか?

《天之御中主神様という神様はどういう働きの神様であるかということを一纏めにして申しますと、中心に帰一する作用をもつ神様であり、陰陽二つ揃った働きのある神様であります。これが宇宙の最深最奥に存在する基本設計とでもいうような理念でありまして、この理念に随うとき一家が栄えるのであります。》(117頁)

以上、『生命の實相』から学んできましたが、これだけでも、尊師の「古事記解釈」がそんじょそこらの解釈とは全く異なる、古今独歩の教えであることが分かりましょう。

で、問題の「通達」では、こう説明しているわけです(6頁)。

〈@實相額の手前に“造化の三神”の神霊符を納めた三社造りの社を祭祀するのは、高御産巣日神と神産巣日神が、無限内容をもつ実相のうち、「ムスビ」の働きを表した神名だからです。この二柱の神々(を天之御中主大神の両側に配置した“造化の三神”の神霊符)を實相額の手前に祭祀することにより、高御産巣日神と神産巣日神が無限内容の実相の「ムスビ」の働きを表したものであることを、視覚的に表現しています。そして、“造化の三神”の神霊符の真ん中には宇宙の本源の普遍神である天之御中主大神が祀られており、生長の家では、宇宙本源の唯一絶対神への中心帰一を重視しますから、その「中心帰ー」を視覚的に表現するため、實相額を中心に見立てて、その正面に“造化の三神”の神霊符を祭祀します。〉

この文章の何が重要か。

「通達」でも、宇宙の本源の普遍神である天之御中主大神≠ニ言っているのです。

ところが、そういう所謂、第一義の神はお祀りしてはならないというのが、実は「神示」の説いていることなのです。

何度も引用して恐縮ですが、非常に重大なので、改めてお示しさせていただきます。

《宇宙創造の大神は、神示に、『われに神殿は不要である』と仰せられているのである。絶対者にまします大神にとっては神殿は不要であるが、住吉大神と名を示して個別的にあらわれ給うた神については又別の相対的意義があるのである》

よろしいですか、「神示」に反することを、今回の「通達」は押しつけ≠謔、としているのですよ。

「神示」から生まれた「生長の家」であるのに、それに反したら、もはや「生長の家」とは言えないでしょう。

だからこそ、この「通達」は新たなエセ生長の家=雅宣教団≠フ誕生を宣言しているのだと言うのです。

お分かりいただけましたか?


ちょっと一息・石油のお話し。 (11890)
日時:2020年05月02日 (土) 01時47分
名前:そーれ!!

原油が無ければ、ガソリンは作れません。

でも、ガソリン自動車は原油では動きません。

デイ一ゼル車は軽油で動きます。

灯油でも動きますが、やがて壊れてしまいますね。

○宣さんの思い付きに付き合う信徒は可哀想。

そのうち、思い尽きになりません様に・・・。

〈すでに天照大御神や住吉大神のお礼を祀っている場合は天之御中主大神を一番手前に重ねて祀ります。〉これでは、現代の岩戸隠れ≠ナはないのか…? (11893)
日時:2020年05月02日 (土) 12時19分
名前:破邪顕正

表題のことは、総本山のホームページにある神棚への祀り方の動画で確認できます。

今回の「通達」は、生長の家の信徒に、その祀りの仕方を押しつけ≠謔、としているものであります。

これは、言うなれば天照大御神や住吉大神のお礼≠隠すようにしなさいということであり、それは取りも直さず、そのお働きに蓋をしなさいというも同然ではないのか。

今の教団では、「大日本神国観」も「宇宙浄化の祈り」も実修することが禁じられていますが、私はこのことと決して無縁ではない、一対のものだと見ています。

本来ならば、武漢コロナ禍≠フ非常時の今こそ、天照大御神や住吉大神のご出御を仰がなければならないときなのに、それに逆行するようなことを、今回の「通達」は信徒に強要しようとしているわけです。

こんなことが許されるのか?!

私は、表題に掲げたように、これは教団による、現代の岩戸隠れ≠ノ他ならないと思います。

この岩戸隠れ≠、新編『生命の實相』第25巻「人生問答篇」はどう伝えているか?

こうあります(21〜23頁)

《諸君も知らるる通り、日本古典の『古事記』によれば、天照大御神が天岩戸に御隠りましたとき、万物悉く暗黒の中に沈衰してしまったのである。

その時、心の岩戸を開いて天照大御神の出御を促したところのものは、天宇受売命の明るい動作に促された八百万神々悉く高天原を揺り動かすような哄笑であったのである。

諸君はこれを単なる神話だと思うか。

然らず、これは生命の創化作用を説明する深淵なる象徴劇であったのだ。

「生長の家」では吾々人間は皆神の子であるという。

吾々が神の子であるとは、各人は「天照大御神」を各自の魂の底に包蔵しているという事である。

言い換えれば皆が天照大御神の御子であるという事である。

では、吾らは今日から神の子らしく朗らかに生き、各自に宿る天照大御神を岩戸を開いて導き迎え奉り、この大御神の子たる実をあらわし、吾々は太陽の子だという実相を現実にあらわそうではないか。…

本当の善人は心が明るくならなければいけないし、いつまでも暗を見詰める心を捨てなければならないのである。

禍を転じて福とするのが日本精神である。》

この「日本精神」を今こそ、勃興させなければならないのではないでしょうか。

何故、このことを私が強調するのかというと、所謂「トキ掲示板」にこういう投稿があったからに他なりません。

今回の「通達」を擁護するにしても、こういう擁護論があるのかと、本当に衝撃を受けました。

まずは、その投稿を、ここに引かせていただきます。

〈「天然のご神体」 (26687)
日時:2020年05月01日 (金) 13時12分
名前:yume-uranai
造化の三神をお祀りすることは、出雲式の三柱鳥居とキリスト教における三位一体の信仰と実質的に同じである。

ご祭神を変更することによって、特に近代以降の大和の血腥い残滓を一掃したいという考えが背景にある。

きな臭い時代に立教されていることと住吉大神がお祀りされていることは併せて考慮すべき事柄である。〉

読んで如何ですか?

大和の血腥い残滓を一掃したい

きな臭い時代に立教されていることと住吉大神がお祀りされていることは併せて考慮すべき

なるほど、だから、谷口総裁は、「住吉大神」を外したかったというわけですね。

案外、「yume-uranai」さんこそが、総裁の本音≠代弁しているのかもしれない、そう思いました。

現に、総裁は、後継総裁の資格として、近現代史に関して、自分と同じ見方を取るものを挙げていましたからね。

具体的にそれを言うなれば、大東亜戦争を侵略戦争≠ニ捉える歴史観をもった人ということでありましょう。

血腥い≠ニいいきな臭い≠ニいい、まさしく侵略戦争史観を代弁するような表現ではありませんか。

こういう方こそ、私の言う、新たな雅宣教団≠フ信徒さんの感性ということなのでしょう。

「サムハラ神社」を持ち出しての擁護論といい、この「yume-uranai」さんのそれといい、尊師の教えは一体、どこに行ったのだろうか?

そのかけらすら、もはや認めることはできません。

この二つの擁護論で、私ははっきりと、尊師の創始せられた「生長の家」は終わった!

新たな「生長の家」とは名ばかりのエセ生長の家=雅宣教団≠ェ誕生したのだと確信するに至りました。

この掲示板をご覧の皆さん、この二つの擁護論を通して、現教団で、今、どういうことが起きているのか、ぜひ、考えていただれければと思う次第です。



後継総裁が、所謂面授≠ナ決まる以上、それは4代目総裁ではない、新たな雅宣教団≠フ2代目総裁なり… (11895)
日時:2020年05月02日 (土) 15時06分
名前:破邪顕正


「今の総裁は駄目だけど、4代目になれば変わるから…」

教団信徒からよく聞く言葉です。

こういう人に申し上げたいことはただ一つ。

後継総裁が面授≠ナ決まることをご存じですか?

実は、現総裁が後継総裁について言及したことが、私の記憶では1度だけあります。

それが、雑誌『SAPIO』に掲載されたインタビュー記事です。

これまた、歴史的に重要なもので、当時、私も関心を抱いて、こう投稿しています。

『SAPIO』の総裁インタビューに対して私はこう考えます (4825)
日時:2017年02月06日 (月)の子記事で、


〈B「生長の家総裁」の後継者に、谷口雅春先生の御名が出て来ないというオソロシサ (4827)
日時:2017年02月06日 (月) 18時26分
名前:破邪顕正

今回のインタビューで、改めて「総裁の本質、本性を見た」と思ったのがこのくだりです。

《後継者については…現代史をきちんと勉強した人間に継いでほしい》

この一言で、総裁は、生長の家を「宗教」とは見ていないというのがよくわかりました。

「生長の家総裁」に就く人に求められるのは、宗教のセンスなんか関係ない!

神想観も関係ない!

どれだけ聖典を拝読しているかも関係ない!

ただ、現代史を勉強していればいいといってのけたのです。

さて、総裁の言う「現代史」とは一体、何でありましょうか。

そうです、大東亜戦争≠ネのです。

ズバリ、言わせてもらうと、大東亜戦争は侵略戦争であったという見方に立つ人でなければ、4代目にはしないと言っているのです。

もっと言うならば、これは、谷口雅春先生に還れ!というような人は、4代目にはしないと言う意味でもあります。

今、振り返ってみれば、谷口雅宣氏をこのまま「3代目」にしていいのか?

その不安が一気に高まったのが、あの、総裁の大東戦争侵略論の展開でありました。

全てのボタンの掛け違い、それはまさしくそこに起因していると言っても過言ではありません。

そして、今、総裁は再び、後継者について「現代史」という言い方で、自分と同じ歴史観をもった人間に継がせたいといったわけです。

何を申し上げたいか。

今の総裁に絶望して、密かに「4代目」に期待している信徒の皆さんがおられます。

残念ながら、その期待も泡と消えるしかない。

総裁の一手支配の教団に、もはや、希望の灯を見出すことは困難であるということです。

谷口雅春先生に還れ!

それを教団に託すのではなく、自らの手で成し遂げなくてはならない。

そのことを改めて、今回のインタビューで確信した次第です。〉


以上が、その内容ですが、あれから既に3年以上が経っていますが、一つも訂正しようとは思いません。

それどころか、ますます、その確信が深まって、信念にまで至っているという感じです。

このインタビュー記事で、私が改めて痛感したことは、現総裁にとって、件の「第九条」にあった神意≠ネど、何の意味もないということであります。

現代史をきちんと勉強した人間≠ノ継がせたいということは、そんな神意≠謔閧熈思想(私に言わせれば唯物左翼思想ということになりますが…)≠アそが大事だということでありましょう。

つまり、現総裁は、端っから神意≠ネど意に介してはいなかったということなのです。

げに、恐るべき人が「生長の家」の総裁に就いたものです。

逆に言えば、こういう人だからこそ、「生長の家」を乗っ取り、自らの新たな教団を作りあげることができたのでもありましょう。

ということで、私のこの投稿の結論。

この先、後継総裁が誕生したとしても、それはもはや「生長の家」4代目総裁ではありません。

新たな雅宣教団≠フ2代目総裁と言うべきが至当であると思うものであります。



毎度、割り込みで失礼いたします。破邪顕正さんが上の11895でおっしゃっている4825記事、「SAPIOの総裁インタビューに対して私はこう考えます」は、ここにあります。 (11897)
日時:2020年05月03日 (日) 03時11分
名前:破邪顕正さんの愛読者です。

11895でおっしゃっている4825記事、「『SAPIO』の総裁インタビューに対して私はこう考えます」と、
その子記事、「〈B「生長の家総裁」の後継者に、谷口雅春先生の御名が出て来ないというオソロシサ (4827)」は、

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1147
にあります。

このスレッドは最後の記事、「E「海外に向け緊張を高めており…」それは安倍首相のせいなのですか? (4864)」まで、面白いです。




本部の狂態≠ニいうのであれば、その本質は現総裁の狂態≠ネのです…そこを誤魔化してはならない… (11900)
日時:2020年05月03日 (日) 11時13分
名前:破邪顕正


「破邪顕正さんの愛読者です。」さん、度々、私の過去の投稿をご紹介くださり、感謝に堪えません。

過去に投稿したことが決して無駄ではなかった…。

現総裁の本性、本質を抉り出す上で、その時々に感じたことを書いておいて本当に好かった、今、改めてそう思っています。

総裁という人を見るとき、その時々の点だけで見てはならない。

点と点とを線にし、面にして、はじめて見えてくるものがある。

「まさか、総裁先生がそんなことを考えておられるわけがない」

そう思っていた人も、「総裁はやっぱりそうだったのか…」

そういうふうに変わってくる。

今回の「通達」は、その極めつけではなかったか。

実際、あの「トキ」さんまでもが、こういう投稿をしていますからね。

〈追伸 (26714)
日時:2020年05月02日 (土) 22時46分
名前:トキ

「造化の三神」への祭祀の切り替えは7月7日と決まっているとかで、祭壇の準備などを教区では着々(でも、やっている人たちは嫌々)進めております。

七重の塔も順次、教区に配布されるみたいです。

肝心の教区への説明ですが、「谷口雅春先生も”造化の三神”をお認めになっておられたのだ。だから、「造化の三神」を祀るのは当然である。」という説明で乗り切ろうとしているみたいです。普段は「原理主義は間違っている」とか言いながら、都合の良い時だけ「谷口雅春先生」のお名前を使うのですから、本部の人たちは面白いです。

ちなみに、私どもの教区では、火事場泥棒よろしく、コロナウイルスの騒ぎに乗じて、内々に祭祀の変更をするという本部のやり方に唖然とする人がかなりいます。結果、いよいよ本部の狂態に愛想がつき、真面目に本部のいうとおりするのがバカバカしく思う人が増えております。コロナ騒ぎがおさまっても、真面目に運動をする人はかなり少なくなるでしょう。〉

「トキ」さんには、いつも教団の内部情報をお知らせくださって本当に重宝しております。

で、今回の投稿ですが、教団の中にいるからなのでしょう、本部の狂態に愛想がつき≠ニ言ってあるところが、何とも残念というか、これが精一杯の表現なのかなと思ってしまいます。

「トキ」さんだって、今の教団が総裁専制≠ナあることぐらい百も承知の筈です。

どんな「通達」だって、最終的なゴーサインは総裁が出すわけで、総裁の与り知らぬところで、出されるわけもない。

であれば、表題にも書きましたが、本部の狂態≠ナはない、現総裁こそが狂態≠ネのだと見るべきなのです。

そこを誤魔化すから、失礼ながら、和解論≠ノずっと固執するようなことになってしまったのです。

狂態≠ニ和解などできるわけがないではありませんか。

もう、その和解云々は、私の中では既に終わったことですから、これ以上は言いませんが、私が申し上げたいのは、教団がここまで狂態≠ヤりを呈してしまった以上、その狂態≠ノ、善良なる信徒を巻き込んでしまっていいのか、この一点に尽きます。

中には、「谷口雅春先生を学ぶ会」に対して、教団信徒に手を出すな、みたいなことを言う人がいますが、私だって、かつては教団信徒だったのですよ。

教団でどんな思いをしてきたか。

また、退会してからも、どういう言われ方をしてきたか。

中島代表が受けられた屈辱、そして流された悔し涙を私は決して忘れはしません。

だからこそ、教団信徒の皆さんに、この狂態≠ケる教団にいていいのですか、そう言える資格があると思うのです。

狂態≠ヤりがわかっているのに「構うな」、それはないでしょう。

そういうことを言ってのける人こそ、私に言わせれば愛のない人≠ノしか映りません。

だから、どう言われようとも、これから先も、狂態≠ケる教団から信徒を救う、そのための投稿をし続けてまいります。


〈谷口雅春先生も”造化の三神”をお認めになっておられたのだ。だから、「造化の三神」を祀るのは当然である〉に正当性があるや否や? (11901)
日時:2020年05月03日 (日) 12時27分
名前:破邪顕正


「トキ」さんの投稿で、重要なのは、表題にかかげた、この文章です。

この論法で、教団は、今回の「通達」を信徒に納得させようとしているそうですが、果たしてそこに正当性があるのでしょうか。

信徒の皆さんは、教団がこのように説明してきたら、ぜひ、こう問い返してください。

〈「谷口雅春先生も”造化の三神”をお認めになっておられた」というのであれば、それを証し立てる文書、その典拠となる聖典をきちんと示してください。〉

何故、これが大事なのか?

尊師は、昭和60年5月26日の最終のご講話で(総本山顕斎殿にて)冒頭、こうお話なさっているからです。

《私がお話し申したいようなことは、みんな僕の著書に書いてあるのであります。

ですからそれを読んでいただければ、僕の口から聞かないでもそれで済むわけなんであります。

しかしながら、こうして皆さんにお目にかかることができること、そのことが有難いのであります。(拍手)》

つまり、尊師が、本当に、教団が言うように、“造化の三神”をご祭神として祀ってもよいと認めておられたのであれば、その文書がどこかになければならないのです。

尊師は、みんな僕の著書に書いてある≠ニ仰ったわけですからね。

果たして、教団は、それを信徒の前に提示し得るでありましょうか。

もし、提示し得ないまま、その論をもって、信徒に押しつけようとするのであれば、それは、紛う方無き、尊師の御名を騙った詐欺≠ニ言われても致し方ないのではありませんか。

これは決して大袈裟ではなくして、「生長の家」の教団を上げての詐欺″s為に他ならないと思うからこそ、私はこの問題を重要視しているのです。

ここまで書いてきて、この話、「デジャブ」どこかで聞いたような気がしてきました。

ありました。

〈「なないろ」さんへ−11月号を読んでいただけるそうで、ありがとうございます! (10347) 日時:2018年10月11日 (木) 09時14分〉

これです。

この投稿の中で、こういう下りが出てきます。

〈(前略)>楠本加美野先生が造化の三神の勧請の意義についてご講話され、「総裁先生が造化の三神を勧請されたことは谷口雅春先生の御心にかなったことである」ということをお話された<

という話は、実に残念というほかはありません。

俄には信じがたい話であります。

よし、百歩譲って、それが事実だとしても、私は、そう言うように仕向けられたのだと見ています。

そうでなければ、神の三義に通暁されている楠本先生が、そんなことをお話になるわけがありませんから!(後略)〉

もし、教団が、この楠本先生のお言葉を根拠にするのであれば、楠本先生がお認めになられたとすべきで、尊師の御名を持ち出すのは、これまた不当というほかはありません。

さて、このことについて、教団がどう説明するのか。

本当に、その出典を明らかにし得るのか。

この件については、ぜひ「トキ」さんにも頑張ってほしいですね。

だって、この「通達」は、信徒に向けて“造化の三神”の神霊符を購入させようともしているのですから…。

はっきりと、「奉納金2000円以上随意」とまで書いてありますからね。

ありもしない“ウソ”で、信徒を騙して、購入させたら、それは“詐欺”でしょ。

そんな“詐欺”を黙って許していいのか。

もう一度、言います。

ここは、「トキ」さんの出番ではないでしょうか。


破邪顕正さんのストーカーのようですが、すぐ上の11901でおっしゃっている、「なないろさんへ。11月号を読んでいただけるそうで、ありがとうございます! (10347)」の記事は、ここにあるのでした。 (11902)
日時:2020年05月03日 (日) 15時20分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

破邪顕正さんが上の11901でおっしゃっている、「なないろさんへ。11月号を読んでいただけるそうで、ありがとうございます! (10347)」の記事は、

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2384
のレスポンス記事にあるのでした。

このことはすでに割り込み報告をしていたのですが、念のために再報告させていただきます。

それとともに、すぐ上で破邪顕正さんがおっしゃっている

>もう一度、言います。ここは、「トキ」さんの出番ではないでしょうか。

を、私も強く「トキ」さんに申し上げたいと思います。

さらに「トキ」さんを尊敬しているらしい「志恩」さんにも強く申し上げたい。「志恩」さんはトキさんの掲示板上で、「私と実際に会っていただけませんか」という願いを過去二回ほど受けたのに、二回とも「会いません」と拒否なさった。これは愛が乏しい行為だったのではないでしょうか。

「志恩」さんは「トキ」さんと違って現職の教団職員ではないはずです。ましてそろそろ霊界に旅立たれるような年齢なのでしょう。それならば、自分を頼って「会ってほしい」と言ってくる人の希望をかなえてあげるのが愛のある行為というものではないでしょうか。

「志恩」さんは、自分だけ良ければそれでよい。自分が安泰ならば、それが自分にとっての生長の家だ……というようなお考えなのでしょうか。そのようなお考えではないと信じます。ぜひ「志恩」さんには「『生命の實相』の勉強会」などを実際に行って、若い人たちの相談相手になっていただきたいと願います。


破邪顕正さん。どうも余計なことを言ってお邪魔しました。



造化の三神を勧請されたことは谷口雅春先生の御心にかなったことである%本先生は「そう言うように仕向けられた」と思う根拠を見つけました! (11904)
日時:2020年05月04日 (月) 12時06分
名前:破邪顕正


「破邪顕正さんの愛読者です」さんがご紹介したいただいたおかげで、今回の「通達」が如何に尊師の教えに反しているか、改めて確認することができました。

それと同時に、楠本先生が言われたことが事実≠セとして、私は、それを「仕向けられた」ものだとも書いたわけですが、それには過去に、同様のことがあったからなのです。

『歴史から何を学ぶか』がまさしくそれです。

総裁の意に添うように、何度も書き直しを命ぜられた…。

あの本が、そうやって出来上がったことなど、今、どれだけの人が知っているでしょうか。

総裁という人は、権力を笠に着て、そういうことを平気でやる人なのです。

だから、楠本先生にも、同様の圧力がかかっていたとしても何ら不思議はありません。

そして、表題に掲げたように、宇治別格本山の生き字引のような楠本先生が、“造化の三神”の勧請をお認めになられるわけがないのです。

そのことは、宇治の宝蔵神社落慶式のことを見たら、一目瞭然です。

『生長の家』誌・昭和35年11月号の「明窓浄机」に、尊師は、こう書いておられます。

この時も、神示に「われに神殿は不要である」と訓(おし)えられているのに、どうして宝蔵神社を建立するのか、神示と矛盾するではないか?

そういう人がいるかもしれないとして、尊師はこうご説明になっているのです。

《宝蔵神社は、信徒及び、祖先の霊廟としてつくられた神社であって、生長の家大神を祭祀する神殿ではないのである。

しかし信徒の諸霊を祭祀する限りに於いて、諸霊ばかり沢山祭祀しても、霊界の諸霊を悟りに導き給う神霊及び仏霊の降臨がなければ、迷っている霊たちがウジャウジャしているだけで、長くその迷いの状態から脱することができない。

そこで導きの神霊の降下を願う為のアンテナたる役目をするための宝蔵神社の本尊神霊の鎮座式を行ったのである。》

ここにはっきりと示されていますように、宝蔵神社は信徒及び、祖先の霊廟としてつくられた神社であって、生長の家大神を祭祀する神殿ではないので≠キ。

こういうことを十二分にご存じのはずの楠本先生が、所謂、第一義の神である“造化の三神”をお祀りすることをお認めになるわけがないのです。

更に加えて、今回の「通達」が尊師の教えに反しているのは、「實相」額の前に、「七重塔」と“造化の三神”の神霊符を収めたお社を設置することを押しつけようとしていることであります。

そのことは、新編『生命の實相』第21巻「万教帰一篇」を読めば明確に理解できます(197〜198頁)。

《「実相」という掛軸が道場に出ておりますけれども、これは皆さんに宿る「実相」を思い出させるためであって、御賽銭を払わすためではない。

どこにも皆さんに拝んで下さいというような社は拵えてないのであります。

それは…皆に拝ますところの殿堂を拵えて拝ますと、生長の家の神様はあのお堂の中にのみいらっしやって、自分の中にいないのだと誤解をする人が出来ることがある。

そして自分のいのちの中に宿る塩椎之神を忘れ、自己に宿る「如意宝珠」を忘れてしまって、何か他物に対して奴隷の如く平身低頭して、或は賄賂の如く金銭を供えて、神様から、何か御利益を貰おうというような人が出て来る惧もあるので、そういうようなことのないように拝むように、生長の家では一般礼拝のための祭壇は拵えていないのであります。》

「生長の家」の根本聖典である『生命の實相』にここまではっきりと示されてあるのに、尊師が今回の「通達」にあるようなことをお認めになるわけがないのであります。

あくまでも、私は、一貫して、今回の「通達」が、尊師の教えに照らしてどうなのかを問うています。

尊師のお書きになられたものが全ての拠り所であります。

そして、尊師の教えこそが、本当の、本来の「生長の家」であると思うものであります。

それから外れてしまえば、もはやそれは「生長の家」と言い得ない。

今回の「通達」は、それが著しく顕著であり、しかも、それを全国の信徒に押しつけようとしているからこそ、これは実に重大な由々しき問題である。

「生長の家」と信じて教団に残っているのに、いつの間にか、総裁によって、似ても似つかぬ「生長の家」に変えられてしまっていた…。

それでもいいというのであれば、それはそれでいいのです。

しかし、知らないうちにそうされていた、その変質に少しも気づかないでいたというのでは余りにも悲しいし、極めて残念なことであります。

何としても、それだけは避けたい…。

だから、今回の「通達」が持っている深刻な問題点について、広く知らしめていきたい…。

その一念で、投稿し続けている次第です。


尊師の御名をもって“造化の三神”の祭祀を押しつける…こんな得手勝手が許されるのか、「トキ」さんが難ずるのも無理はない (11905)
日時:2020年05月04日 (月) 16時18分
名前:破邪顕正

「トキ」さんの上記の投稿は、本当に重要で、今回の「通達」の本質を見事に抉り出しています。

まず、これです。

「造化の三神」への祭祀の切り替えは7月7日と決まっている

「トキ」さんは、「切り替え」という表現を使いました。

私は、一貫して、神様の「取り替え」と言ってきました。

果たして、こんなことが好き勝手にできるものなのでしょうか。

わかりやすい例えで言うならば、これは「7月7日をもって親が変わりました」と言うも同然のことではありませんか。

言われた子どもは、どう思います?

それは、余りにも身勝手過ぎるではないかと、普通、怒りますよ。

今まで、ずっと「住吉大神」が親様だと思っていたのに、これからは“造化の三神”が親様です…。

それが、しかも、単なる一通の「通達」だけで決まるなんて…。

信徒を馬鹿にするのも程がありますって…。

次に「トキ」さんは、こうも言っています。

〈普段は「原理主義は間違っている」とか言いながら、都合の良い時だけ「谷口雅春先生」のお名前を使うのですから、本部の人たちは面白いです。〉

ここも、面白い≠ナはすまないところですよ。

そもそも、この「原理主義」なるものが、どうして突然「生長の家」に入り込んできたのか。

『「生長の家」教団の平成30年史』にはこうあります(62頁)。

〈原理主義の立場をとらないと言明し、「聖典」を貶める(11月…筆者註:平成13年)〉

つまり、この「原理主義」なる言葉は、意図的に聖典『生命の實相』を貶め、尊師を心から慕う信徒を「原理主義者」として教団から放逐するための用語として使われたのです。

それがよく分かるのが、総裁の著書『信仰による平和の道』(2003年、平成15年刊)です。

〈原理主義の特徴は三つあります。一つは「聖典の一字一句が真理であって、それを文字通り解釈すべきである」というのが基本的な立場です。二番目の特徴は…「他の教えはみな間違いである」と考えることです。さらに三番目の特徴は、真理の選り好みです。〉(36〜37頁).

で、結局、総裁が言いたいのは何か、これなのです。

〈宗教者が犯罪を起こす、あるいは残虐な事件を引き起こす…聖典の解釈における「原理主義」である。〉(196頁)

如何にも、「原理主義は怖いもの」という先入観念を植え付け、尊師を慕う人がまさしくそうであるかのようなイメージを作り上げ、その上でレッテル貼りを行い、そういう信徒を左遷、教団から追放することがその目的だったのです。

まさしく、この「原理主義」こそは、宗教用語のフリをした全くの政治権力用語≠ニして用いられたのです。

それをよく知っているが故に、「トキ」さんも、総裁はこの「原理主義」で尊師を慕う信徒を追い出し、今度は、その尊師の御名を使って“造化の三神”の祭祀を押しつけるのかと呆れているわけです。

確かに、「トキ」さんが呆れるのも無理はありませんが、問題は、総裁のこの得手勝手な、恣意的な用語使いは、何も今に始まったことではないということなのです。

それが如実に表れたのが、言うところの「聖典絶版事件」であります。

これについては、過去にも投稿したことがあります。

〈中島代表を重版未定にした共犯者′トばわりする向きには、ぜひ、この真実≠知ってほしい! (10679)日時:2019年02月27日 (水) 〉

ここに詳細にわたって書かせていただきました。

その要点を申し上げれば、総裁は、当時の総裁・谷口清超先生に「中心帰一」することなく、尊師の聖典を事実上の絶版にしてしまった…。

そのことを、こう表現しています。

〈何という悲しい事実であろうか。

創始者谷口雅春先生をこれほど疎んじ、かつ教団最高位の谷口清超総裁をも裏切るという、この驚くべき宗教的大罪。

一体、如何なる宗教団体がこのような大罪を犯し得るであろうか。…

この一連の事実経過は何を意味するか。

明らかに谷口雅春先生に反逆し、生長の家総裁・谷口清超先生の反対を平然と無視する谷口雅宣氏の独断専行であったということである。…

何が「総裁先生・副総裁先生への中心帰一」か。

自らは平気で「中心帰一」を無視しておきながら、信徒には徹底的な「総裁先生・副総裁先生への中心帰一」を説く。

ここまで生長の家の教えを弄び、谷口雅春先生を、谷口清超先生を、そして信徒を愚弄しているのである。…

谷口雅宣先生のこのような姿勢そのものが、今日の教団をおかしくしてしまった元凶とは言えないでしょうか…?〉

ここにも、典型的な、総裁の「中心帰一」の恣意利用を見るのです。

何度も言って恐縮ですが、総裁という人は、純粋な宗教用語すらも、このように権力を乱用するための政治権力用語≠ヨと変えてしまう人なのです。

そういう人にしてみれば、神様の「取り替え」なんて、何の痛痒も感じない…。

ましてや、尊師の教えに反するようなことをやっているという、その良心の呵責すら感じていないのではないでしょうか。

「トキ」さんは、それをもって狂態≠ニ言ったわけですが、私に言わせれば、そんなことはこれまでにも何度もあったではないかと申し上げたいくらいです。

記憶に新しいところでは「与党を支持しない」云々の政治宣言通達だって、そうだったのではありませんか。

何を申し上げたいか。

そう、今の教団では、それは決して狂態≠ナはない、常態≠ナはないかということなのです。

だから、この常態≠ゥら信徒を解放するために、本気で起ちあがらないといけないと私は申し上げているのです。



たびたびの割り込み、恐縮です。破邪顕正さんおおせの10679記事はここにございます。 (11906)
日時:2020年05月04日 (月) 20時41分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

破邪顕正さんが上の11905でおっしゃっている10679記事、「中島代表を重版未定にした共犯者′トばわりする向きには、ぜひ、この真実≠知ってほしい! 」は、

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2510
の子記事です。

以上、ご連絡まで。



総裁が「原理主義」を持ち込んだ本当の目的は『生命の實相』、そして尊師の排除をこそ狙っていたのだと今にして実感します… (11915)
日時:2020年05月05日 (火) 14時00分
名前:破邪顕正


「破邪顕正さんの愛読者です」さんが、こうして、前後の文脈の中で、私の投稿をご紹介くださるので、流れが掴めて、本当に有難く思っております。

さて、今回、私が書きたいと思ったことは、総裁は何故、「原理主義」を持ち込んだのかということなのです。

最初、この言葉を聞いたときの違和感は、今でも鮮烈に覚えています。

だって、「原理主義」なんて、当時は「イスラム原理主義」しか脳裏には浮かびませんでしたから。

そういうものと、「生長の家」とを同列に扱うのかと、本当に訝しく思ったものであります。

で、問題は、この「原理主義」が持ち込まれて、第一線でどういう変化が生まれたのか、なのです。

今でも忘れ得ない光景があります。

『生命の實相』を読んでいる信徒に対して、白鳩会幹部が一言、こう言い放ったのです。

「あなた、そんな本を読んでいると原理主義になるわよ」

『生命の實相』がそんな本∴オいされる…。

本当に衝撃的でした。

で、分かりました。

総裁が「原理主義」を持ち込んだのは、こういう雰囲気をこそ教団内に蔓延らせるためだったのだと…。

実際、『信仰による平和の道』に、こうあります。

〈真理の表現は人・時・処で変化するのであるから、真理を学ぶ我々は、聖典等の表面の言葉にとらわれないようにしようということです。背後に、もっといろいろな情報があるに違いない。特に、古い時代の文章は、現代の我々には分らない事情のもとで書かれた可能性がある。それを全部捨象してしまって、「ここにこう書いてあるから、これが絶対の真理だ」というのでは、独善に陥る危険性があるということです。〉(261頁)

古い時代の文章

これが具体的に『生命の實相』を指すことは言うを俟ちません。

総裁自ら、「『生命の實相』は古い」と言ってのけた人でありますから。

だから、それを意識して、自分の説いていることを今の教え≠ニ言ったのでもありましょう。

総裁は、端っから『生命の實相』を排除したいと思っていた…。

そして、『生命の實相』を典拠として「ここにこう書いてあるから」と言われることを最も忌み嫌っていた…。

私がそう思う理由を具体的に申し上げましょう。

例えば、総裁の肝いりで始まった肉食禁止。

新編『生命の實相』第25巻「人生問答篇」にはこうあります(132〜133頁)。

《神は愛であるから、苦痛を感ずる動物を憫れむという上から、それを食べないというのなら、万物の霊長として動物の上に君臨する人間としての愛深き生き方ですけれども、肉食をしたら衛生に悪いと思って食べないのなら、人間の方が動物の肉に敗けたことになります。何を食べても食べ物に敗けるようでは本当の人間ではない、本当の人間は何物にも敗けない自由自在な円満完全な生命である。これを自覚した上での生活が「生長の家」の生き方なんです。》

皆さん、読まれて如何ですか。

総裁は、肉食は環境に負荷を与えるから止めるべきであると説いたのではありませんか。

『生命の實相』とは、その趣旨が全然、違うでしょう。

或いは、今回の「通達」だってそうです。

既に、『生命の實相』では、「實相」の掛軸の前に神殿は置かないことが記されていることをご紹介いたしました。

更に、「通達」では、新たに設置するお社に鏡は置かないようにと言っていますが、これについても、新編『生命の實相』第27巻「人生問答篇」はこう言うわけです(20頁)。

《吾々が神を祭祀するのに一点「私」の姿を映さないで、立ち向かうものすべてを自分の内に映す「鏡」を御神体として拝するということは誠に意義あることだと思います。神はすべてを包容して無相であると同時に、拝む人の心の通りに顕われ給うのですから、鏡を以て象徴するのに相応しいのです。》

こうしてみてくると、総裁の言っていること、やろうとしていることは、『生命の實相』に記されていることとは随所で、違っていることが分かります。

つまり、総裁にとって、『生命の實相』は実にやっかいなもの、下世話な言い方を許していただくならば、目の上のたんこぶのようなものではなかったか。

しかし、だからと言って、それを正面切って言うわけにはいかない。

なにしろ、この『生命の實相』こそは、「生長の家」の根本中の根本聖典と言われているわけですから。

しかも、こうも言われているわけです。

《各宗の諸神諸霊が聖典『生命の實相』を護持していられる》(新編『生命の實相』第25巻121頁)

《『生命の實相』や『甘露の法雨』の聖典は幾回でも交替に繰り返して読むべきものであって、一回位読んで書いてある事の意味だけが解った位では駄目なんです。…幾回でも繰返して読んで頂かねばならぬのが「生長の家」の聖典であります。》(『前掲書』170頁)

いかな総裁と言えども、今の地位があるのは、曲がりなりにも法燈≠継承したというのが、その前提となっているわけですから、『生命の實相』を排除し得るわけがありません。

しかし、だから言って、『生命の實相』をそのままにはしておけない。

『生命の實相』を、何としても、いわば神棚から引きずり下ろさないといけない。

そこで、総裁が持ち出したのが、この「原理主義」ではなかったか。

これが適用されれば、『生命の實相』に何と書いてあろうとも恐るるに足らない。

『生命の實相』を意に介せず、自分の言いたいこと、考えを今の教え≠ニいうことにして、新たな「生長の家」の教義に仕立て上げることができる…。

それを、更に補強(総裁の好きな表現です)するために、自分の意に添わない『聖典』は次から次と絶版にし、その上、念には念を入れて、尊師の新刊書を一切、出させないようにする…。

誠に、用意周到であります。

何を申し上げたいか。

そう、所謂「聖典絶版事件」とこの「原理主義」とは表裏一体をなすものである…。

そして、その本当の狙いは、尊師の追放にこそあった、ということなのです。

ざっくりと言うならば、総裁にとって、最大の「原理主義者」それは尊師そのものに他ならなかった…。

「原理主義」は、確かに、尊師を慕う信徒の排除のために使われましたが、決して、それだけではなかった。

尊師そのものの排除、それが総裁の本当の狙いだったのです。

そのことが、今回の「通達」で、はっきりと見えてきました。

『生命の實相』を排除し、尊師を排除し、そして住吉大神までをも排除し、神様を取り替える…。

総裁が持ち込んだ「原理主義」の全貌がまさにこれだったのです。

それが、いよいよ今回の「通達」で露わになった…。

そんな気がしております。


今回の「通達」が、コロナ禍のただ中で出された背景について考える−既成事実を固めたら「後は何とでもなる」というヨミが教団にはあったのでは… (11916)
日時:2020年05月06日 (水) 12時01分
名前:破邪顕正

「トキ」さんが、上の投稿において、現場では、火事場泥棒よろしく、コロナウイルスの騒ぎに乗じて、内々に祭祀の変更をするという本部のやり方≠ノ非難の声が上がっていると伝えていましたが、今回、こういう投稿をしています。

〈少し追加します (26782)
日時:2020年05月05日 (火) 10時34分
名前:トキ

今回の「造化の三神」についての通達の決定は1月にされていたので、コロナウイルスの騒ぎに乗じたわけではありません。ただ、結果として、コロナ騒ぎと時期が重なったので、現場にいる人間としては、本部がコロナウイルスの騒ぎに乗じたような印象を与えてしまいました。

コロナウイルスの影響で、会員の減少が起きつつある状態で、このような「造化の三神」の祭祀の変更をするのは、ますます会員の減少が起きると思われます。〉

教団の衰退を憂うる、教団愛にみちた「トキ」さんにしてみれば、本部に対して、言いたいことが山ほどあることでしょう。

しかし、その一方で、教団側の弁明もしておきたい…。

それが、今回のこの投稿となって表れたものと拝察いたします。

しかし、如何に1月に決定されていたとは言え、かかる状況下に鑑み「通達」の発表を見送る、延期する…。

東京オリンピックだって、そうしたのですから、そういう配慮も、当然あり得たのではないのか。

どうして、本部は、こんな非常時に、こんな「通達」を出すようなことをしたのか。

私なりに、考えたことをここにご紹介させていただきます。

@新年度の運動方針として示したかった…

まずは、今回の「通達」が4月7日付けでしたので、当初は、そう思いました。

しかし、考えてみれば、現教団は年度初めを4月から1月に既に変えていますから、これは見当違いということになります。

Aそもそも、教団は出す時期について何も考えてはいなかった…

誰がどう考えても、こんな非常時、これほどの重大な「通達」を出すというようなことは差し控えるものではないでしょうか。

それが普通の感覚でありましょう。

信徒さんにしてみれば、武漢ウイルス≠ナ何かと自粛せざるを得ないとき、それでなくとも心が不安・恐怖で萎縮しているときに、どうしてこんな「通達」を出すのか、また出さなければならなかったのか、その必然性がどこにあったというのか…。

却って、不信感を抱くばかりではないでしょうか。

それでも出したということは、案外、第一線の信徒のことなんか少しも考えていなかった…。

信徒のことなんか何ら意に介さず、ただ、参議会で決定したから出したまで…。

単純に、そういうことだったのかもしれない…。

余り、深く、穿鑿するほどのことでもないのではないのか…、そんなふうにも考えました。

しかし、それでは、余りにも教団に対して失礼に当たると言うのか、見くびりすぎではないか。

やはり、ここは、教団としての、それなりの計算があった、そう考えてみる必要がある…。

で、私の出した結論がこれです。

Bコロナ禍による、この非常時を、却って奇貨としたかった…

教団は、敢えて、この機をチャンスと見て出したのではないのか。

教団としては、この機を逃したくなかった…。

この「通達」が出されれば、当然、信徒間に動揺が起きるであろうことは想像に難くない…。

その動揺を必要最小限にとどめるには、このコロナ禍は、却って都合がいいのではないのか。

これを奇貨として、神様の「取り替え」そのものを、既成事実化してしまおう。

そういう計算が働いたのではないのか。

そう考えると、この「通達」がこの時期に出されたのも合点がいきます。

今回の対応が、何か、急ごしらえの感を否めないのは、「通達」の4頁にある、この文章を見ても看取できます。

〈7.七重塔の縮小模型の設置について

(1)七重塔の縮小模型(石膏製、高さ70cm)を順次製作し、該当する教化部には本年6月末までに教区番号順に配備を完了する。(担当:環境共生部)〉

用意周到に事を進めるのであれば、順次製作し≠ナはなく、きちんと製作済みにしておいて、一気に配備することだってできたはずです。

全ては、この配備、設置を7月7日の「万教包容の御祭」までに済ませることにしたことから来ています。

今の段階で、果たして、7月7日までに武漢ウイルス≠ェ終熄しているでしょうか。

それを願うのに、私も決して吝かではありませんが、まだまだ予断を許さない状況が続くものと思われます。

ということは、無観客ならぬ、信徒が誰もいない中で、「實相」額の前に、新たな祭壇が設置される可能性なしとしません。

つまり、信徒が集まらない中で、教化部で、寂しく、執り行われる…。

それもまたよし、そう踏んだのではないのか。

もう一つ、重要なことがあります。

それは、「通達」の7頁にあるこの文章です。

〈※神霊符は、通常、総本山のお受け所のみで授与しており、郵送、宅配便による授与はしておりません。

しかし、今般の新型コロナウイルスの感染拡大防止対策に協力するため…当面、特例の措置として神霊符の郵送、宅配便を行います。〉

全ての教化部で、新たな祭壇を設置するには、どうしても、神霊符を郵送、宅配≠キる必要があった…。

しかし、本来、それはお受け所のみで授与≠キべきものであって、決して郵送、宅配便による授与はして≠ヘならない…。

その点、今回のコロナ禍は、特例の措置≠とる格好のチャンスとしてあった…。

教団にとって、これは実に具合のいい話であります。

ということで、教団は、これによって、神様の「取り替え」を一気にやり遂げ、その既成事実をつくりあげ、「もう決まったことですから」で凌ごうと考えたのではないのか。

教団信徒は、「中心帰一、何でもハイ」と教育されているから、既成事実の前には、ただ従うほかはない。

現教団は、信徒のことをそう見ているが故に、この時期に「通達」を出した、そのように考えた次第です。

振り返れば、教団は、これまでにも、「もう決まったことですから」でやり過ごしてきた過去があります。

原宿本部会館を解体し、八ヶ岳への本部移転を強行したのもそうです。

あのときも、反対意見が色々と出ました。

しかし、最後は、「もう決まったことですから」の一言で封殺されました。

今回の神様の「取り替え」も、これと同様のやり口で乗り切ろうと言うのでしょう。

信徒を、余りにも見くびった、教団のこのようなやり口…。

必ず、手痛いしっぺ返しを受ける…。

少しでも、拙稿がその一助にでもなればとの思いで書き続けている次第です。



“造化の三神”では救い≠ェ生まれないし、高級霊からのご守護、お導きもない、だから益々教勢が落ちていくことでしょう…それが尊師の教えだからです (11917)
日時:2020年05月06日 (水) 15時01分
名前:破邪顕正

新編『生命の實相』第30巻「宗教問答篇」の中に、田中さんという誌友が、祈りとは何かについて質問します。

それに対して、尊師がこうお答えになっています(176〜177頁)。

《現に招神歌にも「生きとし生ける者を生かし給える御祖神、元津霊ゆ幸え給え」と「給え」という祈りの言葉を使ってあります。既にみたまを与え給うているのであるから、今更みたまを幸え給えと祈るのは間違っている。この招神歌は「幸え給う」と改むべきだと生半可な理屈を言った方がありますが、決してこの招神歌は間違っていないのです。実相の神は南無阿弥陀仏と呼べば、阿弥陀仏の姿を現じ給う神様であり、生長の家の神様と呼べば生長の家の神様の姿を現じ給う神様であります。吾々が実相の神に祈るのは、現象界へ実相の神を呼ぶのであります。…神は実相界に遍満し給う神でありますが呼んでも呼ばなくとも満ちてい給う神様でありますが、呼ぶときそこに人格的交渉があらわれ人格神として応現し給うのであります。》

最後にある「人格神として応現し給う」、だからこそ、そこに救い≠ェもたらされるのですし、霊界の高級霊からのご守護、お導きもいただけるのです。

そのことが、新編『生命の實相』第35巻「経典篇」にこうあります(84〜87頁)。

《生長の家の人類光明化運動には人間だけが参加しているのだと思うと間違いでありまして、霊界に於ける高級のスピリットが参加していて、霊界からこの光明化運動を護念しているのであります。…念の世界に不幸が起ると、最も鋭敏にそれを感知するのは、肉体人間よりもむしろ霊界の人間でありますから、救いたいという念が霊界に起る。そして地上に人類光明化運動が起されると、それと協力して霊界の高級な霊魂が光明の念波を送って悲惨を緩和してくれるのであります。…その実相の世界に於ける神、つまり本当の、宇宙に遍満する大生命そのものが、迷いの念の世界に混乱状態が起って来た時にその状態の救いの神として仮の姿を現し給うことがある。…これは、化身または応化身の神であります。…この応化身の救済の活動に、霊界の高級霊が参加して活動するのは地上では悟りに近い現世の人々が参加して活動するのも同じであります。…実相の神が、地上に応現し給うと、地上の迷いが自然に消滅してしまうということになるのであります。》

ここにありますように、救い≠フ働きは化身または応化身の神≠ノよってもたらされるものなのです。

ですから、祀ってはならない“造化の三神”では、具体的な救い≠ェ生まれないのです。

このことは、極めて重要なことなので、私はかつてこう投稿したことがあります。

〈「何が正しくて何が間違っているか」その判断を下す前に、谷口雅春先生の御教えをしっかりと学びましょう! (4319)
日時:2016年12月31日 (土) 14時08分

(前略)

谷口雅春先生の御教えからしたら、絶対にしてはいけないこと、有り得ないことをやってのけたわけですから、これを背教≠ニいわずして何と言おう!…

その理由が、『白鳩』誌・昭和四十八年三月号の「十四日の箴言」にあります。

《超越的絶対者は、それは絶対者≠ナあるが故に、われらに語りかけて対話を交えることはあり得ない。

それ故に絶対者の慈悲を体現したところの相対的に顕現する人格神、又は天使、又は菩薩、又は教祖があらわれなければ絶対者はその救済を具体化することが出来ない。

救済を具体化することが出来ないような神は、神≠ニ称されるにしてもハタラキに於ては神ではない。

神≠ェ救済を完(まっと)うし得る本当の神となり得るためには、絶対者が相対的人格神としてあらわれて救済の御業(みわざ)を現実になさなければならない。

即ち法身(ほっしん)の阿彌陀佛(あみだぶつ)が、報身又は応身(おうしん)の佛如来(ぶつにょらい)として顕現しなければならないし、「天にまします父」なる神が、地に降誕したイエス・キリストとして顕現しなければならないし、天之御中主神が住吉大神として顕現しなければならないし、宇宙普遍の神が、ある教祖として顕現しなければならない。

神の神たる慈悲の本来をあらわし、神たる使命を完了するためには色々の宗教に於て教祖神≠ニして神≠ヘあらわれなければならないのである。

神の具体的人格的慈悲の完成は応身の教祖となって顕われることによって完成する。》


「天之御中主神が住吉大神として顕現しなければならない」と尊師は仰っておられるのに、背教総裁≠ヘその「天之御中主神」と「住吉大神」とを一緒に祭ってしまったのです。

ましてや、それを「住吉大神」を外す意図をもって行ったのです。

生長の家の神様は住吉大神である、この尊師のお言葉を何と心得ているのでしょうか。

このことを私なりに、分かりやすく「招神歌」でご説明します。

生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)

「御祖神」これが絶対神ということになります。

そして

天地(あめつち)の祖神(みおや)の道を伝えんと顕(あ)れましし

生長の家大神(せいちょうのいえのおおかみ)守(まも)りませ

「顕(あ)れましし」

これが大事なのです。

絶対神が「顕(あ)れまし」て、つまり“応化神”となる。

それが「生長の家大神」ということなのです。

そして、“応化神”となってはじめて「守る」というハタラキをしてくださる。

「絶対神」では、具体的なハタラキはなしえないのです。

だから、谷口雅春先生は、「天之御中主神が住吉大神として顕現しなければならない」とご教示くださっているのです。

背教総裁≠ヘその「住吉大神」を外してしまったわけですから、当然、守(まも)りませ≠ニいうハタラキは望み得ない。

「造化の三神」を合祀して、「住吉大神」を脇に追いやり、押し込め、その上、ご神符すらも下賜しないというのでは、もはや「住吉大神」は消されたも同然です。

結局、今の教団にあっては、「住吉大神」のご守護を願っても、残念ながら叶わない、そういうことになるしかないと思うものであります。〉

これを書いた時は、総本山のご祭神が取り替えられた際のことでありました。

ところが、今回の「通達」は、それを全ての教化部で行おうというのです。

本来、祀ってはならない「絶対神」をお祀りし、あまつさえ、それをしも信徒に、新たな神様として礼拝させる…。

これでは、救い≠ェ生まれ得ないということになるのではないのか。

「神の具体的人格的慈悲の完成は応身の教祖となって顕われることによって完成する」

ここに言う応神の教祖≠フお一人が、尊師・谷口雅春先生であることは論を俟ちません。

その尊師をも排除せんとするのが、今の教団であってみれば、果たして高級霊は、これまでのように光明化運動を護念≠キるでありましょうか。

ここで、信徒の皆さんに申し上げたいのは、今回のこの神様の「取り替え」によって、新たな神殿を如何に礼拝されようとも、もはや具体的な救い≠ヘもたらされないし、高級霊からのお導きもいただくことはできないのではないかということなのです。

つまり、尊師の教えからすれば、今回の「通達」は、宗教団体、信仰団体としての存立の意義、そのものを自ら否定するものではないのか。

そう思うが故に、今回の神様の「取り替え」は、「生長の家」の信仰そのものの本質にかかわる重大な問題であると申し上げているのです。


「實相」=谷口雅春先生、そのイメージを払拭して新たな雅宣教団(=エセ生長の家教団)≠つくるには礼拝対象を取り替える必要があった… (11920)
日時:2020年05月07日 (木) 11時06分
名前:破邪顕正


今回の「通達」の4頁にこうあります。

〈7.七重塔の縮小模型の設置について
(1)七重塔の縮小模型(石膏製、高さ70cm)を順次製作し、該当する教化部には本年6月末までに教区番号順に配備を完了する。(担当:環境共生部)
(2)七重塔の縮小模型を乗せる台座(木製)、並びに“造化の三神”の神霊符を納めた三社造りのお社の台座(木製)は、環境共生部が提供する基本図面(資料1, 2)に基づいて、教区は原則として自教区のSNIクラフト倶楽部のメンバーに依頼して製作する(製作費用は教区の負担)。但し、材料は地産または近隣都道府県産の木材を使用するものとし、台座のサイズは教化部の實相額のサイズや高さ等に合わせて変更することを可とする。〉

また、その14頁、15頁には、「七重塔」と「造化の三神」のそれぞれの台座の展開図が示されています。

前者の幅が90p、高さが70p、奥行が70p。

後者は幅は同じく90p、高さが55p、奥行が55p。

つまり、この本部案のままだと、「七重塔」は70pの土台の上に70pの高さですから、合計140pとなってしまいます。

また、“造化の三神”の神霊符をお祀りする三社造りの神棚は、縦41p、横52p、奥行き22pですから、高さが96pということになります。

このままだと、結構な高さとなって、中には「實相」額の相≠ェ見えない、ということもあり得ます。

だから、「通達」では、それはまずいと思ったのでしょう。

教化部の實相額のサイズや高さ等に合わせて変更することを可とする。

そう、断り書きが記してあります。

で、問題なのは、「實相」額の前に、これだけのものを設置したとき、それが、どう信徒の目に映るのか、ということなのです。

目の前に飛び込んでくるのは、「實相」ではなく、まずは“造化の三神”の神霊符であり、そしてその先の「七重塔」であるわけです。

その奥に「實相」額がある…そういうことになるわけです。

で、「通達」は、その設置の意味を「万教帰一の教えを視覚的に現す」(1頁)ためというわけです。

そして、またこうも言うわけです。

「宗教の様式や形式の相違を超えてその奥にある実相を礼拝する」(同1頁)

確かに、「實相」額は、文字通りその奥≠ノ置かれることになります。

このことを、全面的に肯定する投稿がありましたので、ご紹介します。

所謂「トキ」掲示板には、教団信徒の声がよく見られるので、私も重宝しておりますが、これもまたその一つかと思います。

〈 (26850)
日時:2020年05月07日 (木) 04時48分
名前:はてさて,,,,,
また、「實相」の象徴であるところの實相額を奥に置し、造化の三神を祀るという形態で象徴したところに、連綿と続く宗教法人「生長の家」全体性の心が顕れていると、信頼しているところです。〉

一体、何を根拠に全体性の心が顕れている≠ニいうのか、私には皆目、見当もつきませんが、こういう信徒さんこそ(総裁のお好きな表現で敢えて言わせてもらえば)雅宣総裁原理主義者≠ネのではないでしょうか。

総裁先生の仰ること、なされることは、無前提に無条件に、すべてを信頼する…。

そういう信仰形態、私は何も否定しようとは思いませんし、それはそれでいいとも思っています。

しかし、そうは思えない人が一方にはいるわけです。

教団の中にも、今回の「通達」は、尊師の教えに反すると感じている信徒さんだっている…。

それはそうでしょう、「實相」礼拝したら、目の前に、神霊符が、塔が、飛び込んでくるわけですから。

しかも、それを視覚的に現す≠ニ言うのですから、余計に、戸惑ってしまう…。

例えば、新版『栄える生活365章』には、こうあります。

《常識の世界は、五官の感覚によって築かれているのであるから、物質は存在し、物質に力があり、物質に権威があるという信念の下に、普通の人間は育てられて来たのである。》
(193頁)

常識≠ナは却って「實相」が分からなくなってしまう、だから「神想観」では五官の世界を去って≠ニ念ずるわけでしょう。

更に、『前掲書』はこうも言うわけです。

《吾々は時々、五官の眼を瞑じて、神の心の中にある「理念人間」(実相の人間)を見るようにしなければならない。これが神想観であり、「No(無相)A(実相)の方舟(はこぶね)」に乗ることであり、目無堅間の小船に乗って龍宮海に渡ることであり、釈尊の「実相無相の微妙の法門」に乗托することである。イエスは五官の眼で現象を観る人のことを非難して、「汝は視ゆ≠ニいう罪は残れり」といって、むしろ肉体が盲目の少年を賞讃していられるのである。》(201頁)

視ゆ≠ニいう罪は残れり、そこまでご教示くださっているというのに、なぜ「視覚的に現す」必要があるというのでしょうか。

で、ここまで書いて来て、ふと思ったのは、総裁はこれで「實相」そのものをも排除しようとしているのではないのか、ということなのです。

先に、投稿しましたように、総裁はまず『生命の實相』をはじめとする聖典を排除しました。

「聖経」も補強≠オなければならないとして自ら「経本」を作ってしまいました。

「原理主義」の名のもとに尊師、並びに尊師を慕う愛国信徒をも教団から排除しました。

今度は、尊師を導き「神示」を授けたところの住吉大神まで排除し、神様を取り替え“造化の三神”を新たな神として礼拝するようにしました。

そして、とうとう「實相」額まで覆い隠そうとしている…。

そのやり口は、これとそっくりです。

〈すでに天照大御神や住吉大神のお礼を祀っている場合は天之御中主大神を一番手前に重ねて祀ります〉

つまり「實相」額の前に、「七重塔」「お社」を重ね≠ト設置することで、「實相」を奥に追いやるということにした…。

何を申し上げたいか。

「實相」=谷口雅春先生(尊師のご揮毫ですから当然です!)

そのイメージを払拭して、自ら新たな雅宣教団≠つくりあげるには、礼拝対象そのものを替える必要があった…。

それが、今回の「通達」に隠された総裁の本音ではなかったか。

今回の「通達」は、総裁の総裁による新たな雅宣教団(=エセ生長の家教団)の設立宣言なりという所以です。




「視覚的に」ということで「七重塔」やお社を設置するのは偶像崇拝≠ナある、やはりこれでは新たな雅宣教団=エセ生長の家教団≠ニいうしかない (11933)
日時:2020年05月08日 (金) 09時59分
名前:破邪顕正


岡正章氏の「近況心境」に561「天之御中主神」とは、「久遠の今」、無にして絶対なる神。偶像崇拝は最も重い罪である≠ニいう重要な記事が掲載されました。

関心のある方は、それをお読みいただくとして、私は表題に掲げたところを引用させていだたきます。

〈(前略)『生命の實相』 第十三巻 「倫理篇 上」 82頁以下に、次のように書かれている。

≪宗教争いは偶像崇拝より起こる

 物質的な形あるものを礼拝の的にするようになりますと、物質的な形あるものは有限でありますから、ここまでは自分の領分であって、お前の領分でないというような争いができてくるのであります。…(中略)…

 つまり、すべての争いの第一の萌芽は、物質的な形あるものを崇拝すること――すなわち偶像崇拝――よりくるのであります。

「すべての罪のうち最も重きものはなんであるか」 と問う人がありますならば、「偶像崇拝をもってその第一とす」 と 「生長の家倫理学」 は答えるのであります。(後略)〉

今回の「通達」は、まさしく偶像崇拝の勧め≠ニ言われても抗弁のしようがないものであります。

「視覚的に」と言い切っていますから…。

ここまで、尊師の「倫理学」に反することを、全ての教化部、信徒に強要するとなれば、それはもう完全な、新たな教団というほかはないでしょう。

更に、申し上げたいことは、現総裁こそは原理主義≠サのものである、ということなのです。

だって、総裁は自著『信仰による平和の道』で何と言っていますか。

〈原理主義の特徴は三つあります。…三番目の特徴は、真理の選り好みです。〉(37頁)

総裁こそ、その「真理の選り好み」を徹底してやってきたではありませんか。

だからこそ、尊師の聖典を絶版に処したし、また新たな尊師の聖典発行をも阻止してきたのではなかったですか。

結局、総裁は、尊師の教えが嫌い≠セったのでしょう。

自分の考えとは相容れない≠ニ思ったのでしょう。

そういうものがあっては、自分の教えを説くのに不都合だ≠ニ感じたのでしょう。

よし、本当に、「通達」が言うように、実相の「ムスビ」の働きを表現した神道の“造化の三神”≠フ意味を伝えたいというのであれば、『古事記と現代の預言』は決して絶版にしてはならないものではありませんか。

因みに、『生長の家』誌・昭和46年11月号「十二日の法語 原理神と人格神」にはこうあります。

《タカミムスビノ神は陽≠フ原理神であり、カミムスビノ神は陰の原理神である。そして陽の原理神が人格的にあらわれられたのがイザナギノ神であり、陰の原理神が人格的にあらわれられたのがイザナミノ神である。…それは既に…『古事記と現代の預言』という本にまとめてあるから読んで頂くとよい。》

本当に「ムスビ」の働き≠学ぼうと思うならば、ここに言われているように『古事記と現代の預言』は外せないテキストではありませんか。

しかし、それが絶版になっている。

学ぼうにも学べないようにされているわけです。

つまり、総裁は、心から「ムスビ」の働き≠説こうと思っているのではないのです。

まずは、住吉大神排除ありき。

それが出発点なのです。

しかし、勝手にそれを排除することはなしえない。

だって、既に「龍宮住吉本宮」と命名されていますから。

で、どうするか。

そこで思いついたのが、“造化の三神”を合祀するという形にして、住吉大神を無化する…。

それでは、なぜ、“造化の三神”を合祀するのか。

そこに「ムスビ」が入っている、これはなかなか具合がいい、これで何とか説明がつく…。

おそらくは、そういうことで、合祀ということにしたのでしょう。

総裁という人は、神様だって自分の都合のいいように利用≠キる人ですから…。

でも、実は、そこに大きな落とし穴があった…。

即ち、絶対神は祀ってはならない、これです。

上に引用した表現をもって説明させていただけば、祀られるべきは、あくまでも人格神であって、原理神は祀られるべきものではない、ということです。

しかし、総裁にとって、そんな尊師の「教義」なんておかまいなし。

とうとう、総裁は、岡氏も嘆くように偶像崇拝≠ノまで走ってしまった…。

ここまできたら、これはもう完全に、尊師の創始せられた「生長の家」とは異なる、新たなる雅宣原理主義教団≠ニいうしかありません。

岡氏をはじめとして、尊師の教えに学んだ者にとってみれば、今回の「通達」は、驚天動地、本当にあり得ないことをやろうとしているのです。

信徒の皆さん、このまま偶像崇拝≠ノ拝跪してしまうのですか。

今、そこが、問われようとしています。



「切り替え」とは線路の行き先の変更、「取り替え」とは線路そのものの変更、総裁は後者であり新たなる雅宣教団=エセ生長の家教団≠フ設立をはかったのです… (11935)
日時:2020年05月09日 (土) 10時40分
名前:破邪顕正


ここで、再度、踏み込んで検証してみたいのが、この投稿です。

〈本部の狂態≠ニいうのであれば、その本質は現総裁の狂態≠ネのです…そこを誤魔化してはならない… (11900)
日時:2020年05月03日 (日)〉

この中で「トキ」さんは

「造化の三神」への祭祀の切り替えは

と書いていますが、今回の「通達」は、「トキ」さんが指摘するように、本当に「切り替え」ということなのでしょうか。

鉄道の分岐線の所に「転轍機」というのがあります。

これを、具体的に佐賀県の鳥栖駅で説明します。

博多発の列車が、この鳥栖駅において、鹿児島本線と長崎本線とに分かれます。

博多駅から鳥栖駅までは同じでも、ここから先が、熊本、鹿児島方面行きと、佐賀、長崎方面行きとに分かれるわけです。

それを分けるのが「転轍機」。

つまり、「転轍機」というのは、途中までは同じでも、そこから先の行き先を切り替え≠驍スめにあるわけです。

何を申し上げたいか。

「トキ」さんが、切り替え≠ニいう表現を使うのは、潜在意識裡に、どこかで現総裁も途中までは同じだったのだが…という思いが潜んでいるからではないのか。

しかし、私は、決してそうは思わないのです。

総裁は、最初から、尊師の創始せられた「生長の家」の線路とは、また別の線路を歩む決意で教団に乗り込んできた、そう思っているのです。

だから、私は、敢えて切り替え≠ナはない、それは取り替え≠ネのだと言っているわけです。

だからといって、何も、私は、ここで「トキ」さんと論争しようという思いはないのです。

ただ、総裁をどう見るか、それで自ずと立ち位置が違ってくるし、それが表現の使い方にも微妙な違いとなって表れてくる…。

切り替え≠ニ取り替え

一見、どうでもいいような違いに見えて、案外、そこに、それぞれの立つ位置の違いが象徴的に表れている…。

そう思えて、私なりに興味を覚えたという次第です。

おそらく、「トキ」さんは、教団信徒の方で、教団から退会しようという気は更々ないでしょうし、これからも教団信徒として人生を全うされるでありましょう。

それはそれで一つの生き方ですし、私はそれを無碍に否定しようとは思いません。

教団を退会して、こっちに来い、などという説得をしようなどとも思いません。

ただ、私は、総裁という人は、一貫して尊師とは全く違う線路をつくり、それを歩もうとしている人だと見、それでは尊師のこの尊い御教えが後世に伝わらない恐れがある…。

だから、それとは訣別して、尊師の教えを、そのまま、過たず、純粋に伝え遺す道を歩ませていただこう…。

信徒の皆さんには、それぞれの、この違いをよく見ていただいて、それでは自分はどの道を歩むか、その参考にでもしていただければ有難い、そう思っているだけなのです。

なるほど、総裁は、一見、尊師と同じような道を歩んでいるかのようなフリはしていました。

法燈′p承者としては、そう演ずるしかなかったのだと私は見ています。

だから、「生長の家総裁」として、講習会だってこなしていっているのだと思います(「こなしている」という言い方をしたのは、他でもありません、そこに迸るような使命感というか、情熱を感じ得ないからです)。

しかし、それはあくまでも演じる¢ヲち、そのフリをする、その格好を見せていただけで、本音は、いずれは自分の好きなようにやりたい、そのきっかけをずっと狙っていたのではないのか。

それが、『「生長の家」教団の平成30年史』を紐解いての、私の実感なのです。

やはり、総裁の本質を見抜くには、歴史的に俯瞰する必要がある…。

ですから、総裁という人がどういう人なのか、それを知りたいと思う方は、ぜひ、この本をご一読いただきたいと思うばかりです。

そうすれば、なぜ、「谷口雅春先生を学ぶ会」が生まれたのか、生まれざるをえなかったのかも、ご理解いただけるものと思いますし、今回の「通達」がどうして生まれてきたのかも手に取るようにわかる…。

なるほど、これは、総裁の最初からの念願、自らの教団を作り上げたいという思いの結実として出されたのだという、私の見解にも首肯していただけるのではないかと思っている次第です。



毎度お邪魔します。すぐ上の11935で破邪顕正さんがおっしゃっている11900記事、「本部の狂態≠ニいうのであれば、その本質は現総裁の狂態≠ネのです…そこを誤魔化してはならない…」は、ここにあります。 (11936)
日時:2020年05月09日 (土) 12時41分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

すぐ上の11935で破邪顕正さんがおっしゃっている11900記事、「本部の狂態≠ニいうのであれば、その本質は現総裁の狂態≠ネのです…そこを誤魔化してはならない…」は、

このスレッドの上から36番目にあります。

36番目……。




「視覚的に」という、この偶像崇拝≠フ押しつけが、信徒の眼にどう映るのでしょうか?とりわけ、総本山の顕齋殿にこれが設置されたときのことを思うと… (11938)
日時:2020年05月10日 (日) 16時18分
名前:破邪顕正

以前、「七重塔」の話が出たとき、私は直感的に、これは「七つの燈台」の相対化にほかならないと思い、それを並べてみたことがあります。

 「七つの燈台」        「七重塔」

天孫降臨皇御国成就燈     万教帰一(七つの宗教)
伊邪那岐文化成就燈      国際平和の象徴(七つの大陸)
伊邪那美文明成就燈      多様な民族の調和(七つの民族)
三界万霊悉皆実相開顕成仏燈  多様な文化の調和(七つの文化)
万物一元万教帰一成就燈    世代間の調和(七つの世代)
地上天国世界連邦成就燈    生物間の調和(七つの生命)
君民一体地上天国成就燈    拠点・組織間の調和と発展(七つの拠点)

これで、はっきりと見えたこと、それは後者には国がない、日本がない、天皇がないということでありました。

ここにも、総裁の日本嫌い≠顕著に看て取ることができます。

そう言えば、顕齋殿を土足履きにしたのも、国際的には靴を脱ぐ習慣がないから…ではなかったでしょうか。

さて、今回の「通達」は、この「七重塔」並びに「お社」を、顕齋殿のあの「實相」額の前にも設置するよう強要するものであります。

当然、総本山は、そうするでしょう。

抗うことなどできないでしょう。

その光景を思い浮かべてみて、何か異様な感じがしてなりませんでした。

見たくないものを見せられた、そんな嫌な気分になってしまいました。

「生長の家は変わったなあ。いやあ変わったどころか、もはやこれでは別の宗教団体ではないのか」

心ある信徒であれば、きっと、そう思うのではないでしょうか。

それこそ、「視覚的に」それを実感されるのではないでしょうか。

礼拝する神様が完全に取り替えられるのですから。

この瞬間、尊師が「宇宙浄化・鎮護国家」の願いを込めて造営された「生長の家総本山」が、新たな雅宣原理主義教団=エセ生長の家教団≠フ総本山になってしまうのだと私は見ます。

原宿本部会館から「ご神像」が撤去されたときもショックでしたが、今度は総本山において神様が取り替えられ、偶像崇拝≠フ礼拝が始まるのかと思うと、本当に暗澹たる思いに駆られます。

今こそ、新版『栄える生活365章』にある、次のお言葉を思い起こすべきときでありましょう。

《ノー≠ニ言うべき時には勇敢にノー≠ニ言い得る者が勇者であり、己れに克ち、他からの誘惑に克つことのできる者である。

イエスは無抵抗の徳を説いたが、ノー≠ニ言うべき時には常に敢然としてノー≠ニいっているのである。

…「天地一切のものと和解せよ」とは決して、自己の明確な判断と決意とを不明瞭にして他に妥協することではないのである。》(54〜55頁)


割り込み、失礼します。上の11917で破邪顕正さんがおっしゃっている、ご自身の4319記事、〈「何が正しくて何が間違っているか」その判断を下す前に、谷口雅春先生の御教えをしっかりと学びましょう!〉は、ここにあります。 (12099)
日時:2020年06月04日 (木) 15時46分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

紹介が前後しますが、上の11917で破邪顕正さんがおっしゃっている、ご自身の4319記事、〈「何が正しくて何が間違っているか」その判断を下す前に、谷口雅春先生の御教えをしっかりと学びましょう!〉は、

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1028
です。

破邪さんの投稿スピードがすごいので、うれしいけれどもなかなかフォローできません…。

ほかにも見落としがあったら、ご勘弁ねがいます。





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