《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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何かと言えば生長の家は中心帰一だから…≠ニ言われる向きへ (10804)
日時:2019年03月31日 (日) 19時11分
名前:破邪顕正


ある会員の方から、「生長の家は中心帰一!と言われて返答に窮してしまいました。こういうときには、どう返したらいいのでしょうか?」というご質問をいただきました。

教団では、常に、この中心帰一≠ェ言われているようです。

答えは簡単です。

標題に書きましたが、生長の家は中心帰一だから…≠アの「…」に何を入れるかで全ては決まるということです。

さしずめ、教団は、生長の家は中心帰一だから、総裁先生に中心帰一しなさい≠ニいうように使っていると思うわけです。

で、続けて「生長の家大神−総裁・副総裁−御教」これを頻りに刷り込んでくる…。

しかし、私は、尊師・谷口雅春先生の教えからすれば、こうなると思うのです。

生長の家は中心帰一だから、「大日本神国観」を実修しなさい

生長の家は、「神想観に始まり神想観で終わる」そういう教えだと思うのです。

だから、『人生の秘訣365章』は、こういうわけでしょう。

《生長の家の誌友でありながら、神想観をしない人があるのは誠に不思議なことなのである。

聖典を読むのは、無限の宝が充ちている未知の世界に旅行するための旅行案内書を読んで、どこに行きどうしてその無限の宝を発見し得るかの手段を知らされるようなものである。

神想観は、案内書によって知った「未知の宝庫」に直接触れる途なのである。

神想観を毎日励まないでいて、「私は生長の家です」というのは少々無理である。》(285〜286頁)

生長の家を名乗るには、やはり神想観を実修しなくてはならない。

その神想観の念ずる言葉の中で「中心帰一」が出て来るのは「大日本神国観」であります。

そして、それが如何に重要な神想観であるか。

『生長の家五十年史』はこう言います。

《生長の家の瞑想法である神想観は、まず現象界の存在の完全否定の後、自らを神の個性的顕現者としての自覚に高めて行なわれる絶対力の行≠ナあるが、谷口先生によって、かかる「神我一体」の自覚の深化を主眼とする「基本的神想観」を第一段階として、この「大日本神国観」を最終段階とする十六種の神想観が説かれている。

最終段階の「大日本神国観」は、「天皇」という実相世界の中心者の生命に帰一することを教えるが故に、人類光明化という大業の実現には、極めて重要な役割をもつものであり、言わばその中心的役割を果すものである。

そして人類を最大最勝の中心に帰一せしめるという意味において、この「大日本神国観」は従来の世界の瞑想法はもとより「生長の家」の全ての神想観を完成するものと言えるのである。》(482頁)

神想観を完成するもの

それが「大日本神国観」であるならば、その実修をしないのでは生長の家とは言えないと思うのです。

だから、私はこう応えたらいいと思っています。

教団組織の方が、生長の家は中心帰一だから…≠ニ言ってきたら、だったら、当然「大日本神国観」を実修するようにと徹底的にご指導されているのでしょうね≠ニ言い返したらいい。

もし、そういう指導がなされていないならば、生長の家は中心帰一だから…≠フ本当の教えがわかっていないということになる…。

そう言ってさしあげたらいいというのが私の考えです。

現場での様々な問題、返答に困るようなことがあれば、少しでもお役立ちしていきたい…。

この掲示板をそのような場として、私は活用していきたいと思っております。




「大調和の神示」の中には、どうして師恩に感謝せよ≠ェないのか? (10805)
日時:2019年03月31日 (日) 19時27分
名前:破邪顕正


「総裁先生に中心帰一せよ」というのは、尊師の本当のお心を知らないからこそではないかと私は思っています。

それについては、以前、投稿したことがありますので、これは歴史的に見て、とても重要な資料であると思いますので、改めて、ここに引かさせていただきます。

……………………………………………………………………………

「総裁に中心帰一せよ」という信徒には、尊師のこのご文章を味読してほしい (6248)
日時:2017年05月11日 (木) 18時35分
名前:破邪顕正

『理想世界』誌・昭和45年12月号「十五日のことば 与える心≠ニ受ける心=vにかくあります。

《先日も東京の地方講師や伝道員ばかりの実相研鑽会で、地方講師の一人が七つの燈台の点燈者の神示≠ノ「皇恩に感謝せよ、汝の父母に感謝せよ」とあるその次に「師恩に感謝せよ」を是非入れて貰いたいという要求が出されたのであるが、私は「師恩」を書くことを忘れたのではなかったのである。

それは、私自身が「師」という立場に立っているから、「師恩に感謝せよ」とあったら、「私に感謝せよ」といっていることになるので、特にそれを消してしまってあったのである。

愛を施す者は、人から感謝されたいと思ってはならないが、施されて何らかの益を受けつつある者は、「施される権利が自分にはあるんだ」などと高い姿勢をとることなしに、感謝の念を起こすようにすることによって、周囲との調和が得られ、自分自身も幸福感を享受することができるのである。》

尊師がこういうご姿勢であればこそ、信徒は自ずと「尊師に中心帰一」し得たのであろうと拝察する次第です。

声高に「中心帰一せよ」と言わなければならないのは、それだけ却って「中心帰一」できていない現実があるからでありましょう。

なぜ、そういう現実が出来したのか。

本当はそういうところにこそ、深刻な組織上の問題が横たわっていると思うものであります。

……………………………………………………………………………

「中心帰一」の真理が本来の意味から外れて、組織維持のために援用されてしまったところに、今日の歪な組織の硬直化が出来してしまったように思えてなりません。

大変、失礼な言い方になりますが、そのために盲目的に「総裁先生に中心帰一していけばいい」という考えない$M徒を生み出してしまったのではないのか…。

本来、神示にあった「師恩に感謝せよ」を敢えて消してしまわれた尊師の御心を、今ほど噛みしめなければならないときはないように思うものであります。


言葉はよく吟味するべき (10807)
日時:2019年04月01日 (月) 05時02分
名前:関東の信者

現教団が「中心帰一」という言葉を使うとき、非常な違和感、否、それ以上に憤りさえ覚えてしまいます。

「真理」を愚弄しているのではないかと思うのです。

なぜなら、「中心帰一」に背反してきたのは、現総裁ではないのか、と思うからです。


尊師がご存命のときは「中心帰一」してきたと言うのであれば、なぜ今は、「日本国憲法礼賛」なのでしょう?

なぜ、尊師のご著書を出版禁止にしているのでしょう?

明らかに矛盾しているとしか言いようがありません。

また、もし、尊師ご存命のときから「日本国憲法礼賛」だったというのであれば、何をかいわんや、その時から「中心帰一」の真理に背反していたことを証明するようなものです。


ですから、今も、「谷口雅春先生に中心帰一している」、「日本国憲法は諸悪の因」であるという信念を持っていることが、唯一の、自分は現在も変わらず中心帰一の真理に生きていることを証明するものではないでしょうか。

つまり、谷口雅春先生の御教えに背反するようなことを信条とする方は、「中心帰一」の真理に生きていないことを証明しているのだと言うべきでしょう。


では、「中心帰一」に背反している人が言う「中心帰一」をどのように考えるべきか?

この場合、明らかに、真理としての「中心帰一」を説いているのではなく、政治的に「中心帰一」という言葉を「利用」していると考えるべきではないでしょうか。

どんなに邪な人間でも、言葉は自由に使えます。良い言葉でも悪事に利用できます。振り込め詐欺など、その典型でしょう。

ですから、現教団の方から「中心帰一」ということを声高に言われれば言われるほど、あなたは「中心帰一」の真理に生きてきたのか、と思わずにはいられません。

「中心帰一」の真理を破った者が、「中心帰一」を言うなど、許されのでしょうか。

この真理の言葉を真理の言葉として説くことができるのは、谷口雅春先生の御教えに生きようとする者だけ、と言うべきではないでしょうか。




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