尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第二十一章 <致富原理の中心となるもの> (634) |
- 日時:2016年03月04日 (金) 06時25分
名前:平賀玄米
よくお考え下さい。「無限供給」そのものは「物質的かたまり」ではないのであります。 「物質的かたまり」というのは無限供給どころか単なる消耗品なのであります。それは消ゆるべきものなのであります。
例えばここに立派な美しい美味しいサクランボを一籠もらったとします。「あぁ無限供給が来た、有難い」と、ともすれば人々は喜ぶのでありますけれども、それは無限供給ではないのであります。それは無限供給のかげでありますから、じきに消えてなくなるのであります。
食べても無くなりますし、食べないでほっておいても腐って無くなってしまうのであります。 無くなるものは無限供給ではない。さらばサクランボそのものは無限供給ではないのでありまして、 たんに反影(かげ)に過ぎないのであります。
所がサクランボの樹に流れている生命は、そして又、果実を生み出す法則は、又来年も再来年も無限にながくサクランボを生み出すのであります。即ちサクランボの樹を流れている生命とか法則とかいうものこそ「無限供給」なのでありまして、形あるものは唯その影に過ぎないのであります。
つづく
<平成28年3月4日 謹写> ありがとうございます 合掌。
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