「聖典と呼ばせない」「聖地と呼ばせない」と言ってのけた総裁が「新経本」だけは「聖経」化を許す…?! (10659) |
- 日時:2019年02月21日 (木) 18時13分
名前:破邪顕正
総裁は、かつて、副総裁のとき、自分の書いたものを「聖典」と言われることに異常な抵抗を見せたことがあります。
あくまでも「聖典」扱いするのであれば、副総裁を辞するとまで脅して、当時の運動方針に「聖典」等≠ニいう表記に変えたことがありました。
また、生長の家総本山を「聖地とは言わせない」と言ったこともあります。
「聖地」と言うと、「聖地」争いが起きるからというような理由だったかと記憶しております。
その流れの一貫なのでしょうか、宇治では「神域清掃」が「境内清掃」に名称変更となったそうです。
そのことを「奉仕員L」さんの投稿で教えていただきました。
〈宇治も「神域清掃」という部署が無くなり「境内清掃」に。 (552) 日時:2016年02月24日 (水) 23時17分 名前:奉仕員L
>谷口雅宣総裁と言えば、神癒≠ニいう言葉が嫌いで、本部から神癒祈願≠なくした人です。
それでですか。
昨年、8年ぶりに宇治の大祭の奉仕に行きましたら「神域清掃」という部署が無くなり「境内清掃」に。
「神」が嫌いなら、生長の家から出て行けばいいのに。〉 当然、そうであれば、総裁は自分のつくった「新経本」を絶対に聖経≠ニ呼ばせてはならなかった筈です。
聖経≠ノ取って代わるような扱いをしたら、それこそ、かつてそうであったように「総裁を辞する」ぐらいの脅しをかけなければならなかった筈です。
それであってはじめて論理は一貫するというものです。
ところが、今やどうでしょう…。
「聖典」とは呼ばせない、しかし「聖経」と同じような扱いをするのは許す!
それでは、余りにも得手勝手すぎると言うものではないでしょうか。
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