《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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『人生を支配する先祖供養』を拝読して思ったこと (10719)
日時:2019年03月14日 (木) 13時45分
名前:破邪顕正


教団では、総裁がつくった経本≠ナ、浄心行や先祖供養等の宗教行事まで実修しているという情報を耳にしました。

そうであればあるほど、尊師がご教示くださった「聖経」での宗教行の実修が大事になってくると、改めて思った次第です。

「谷口雅春先生を学ぶ会」では、教団のかかる現状を踏まえ、しっかりと本来の、本当の宗教行の実修に更に真心を尽してまいりたいと思います。

ところで、「谷口雅春先生を学ぶ会」の先祖供養では、『人生を支配する先祖供養』を勉強させていただいています。

その中に、次のような一文がありました。

《…恰も、素晴しい傑作の先生の油絵の上に、弟子が再び絵具を塗って拙い絵を描いたために、先生の折角立派に描いた絵が掩い隠されてしまっている…》(新版『人生を支配する先祖供養』120頁)

言うまでもなく、私がここで言おうとしている傑作≠ニは「聖経」の謂いに他なりません。

ところが、弟子が(というのは勿論、総裁でありますが)、その「傑作」に対して、「補強」する必要があるとして、拙い絵≠書いてしまった…、それが、今日の経本≠ネのだと思うのです。

どうして、こういうようなことが出来してしまったのか?

結局、総裁の眼には、それが傑作≠ニは映らなかった…。

もっと言うならば、総裁は、それがただ観世音菩薩がお作りになった真理を歌った詩であります≠ニいうことを信じていなかったがゆえだと思うのです。

『光の泉』誌・昭和33年12月号に聖経『甘露の法雨』の由来≠ニ題して、次のようなご文章があります。

《聖経『甘露の法雨』は私の万年筆を通して書かれたのでありますが、然し私が書いたんじゃないのであります。

だから、『甘露の法雨』は何処にも、谷口雅春著とは書いてないでしょう。

『甘露の法雨』というのは、ただ観世音菩薩がお作りになった真理を歌った詩でありますから、私は只それの万年筆になり、スピーカーになっただけであります。…

『甘露の法雨』は観世音菩薩の作品ですから、観世音菩薩の作られた詩とか歌とかいうものには、観世音菩薩御自身の、精神のリズムというものが其処にうつっている訳であります。

たれでも詩を作ったら、作者の心のリズムというものがその詩に現れているのは当然であります。

それと同じに、『甘露の法雨』には観世音菩薩の心のリズムというものが波動しており、観世音菩薩のリズムが、常に『甘露の法雨』からは雰囲気となって出ているのであります。

それでこれを持っている人は色々の危害を免れることが出来たことには無数の体験談があるのです。…》

「聖経」は持っているだけでも功徳があるのですね。

だから、お守りにもなるわけです。

写経∞読経≠サして持経≠フ功徳と言われるのがそれです。

このようなご文章を拝読したら、とてもではありませんが、これを補強≠オようなどとは到底、思い得ないところであります。

ところが、ご存じのように、総裁はあろうことか、勝手に経本≠つくってしまったわけです。

こういうところにも、総裁が、如何に尊師のことを軽んじているか、思い半ばに過ぎるものがありましょう。

創始者をここまで軽んずる人に、唯々諾々と随って行っていいのか…。

そういう人の勝手につくった経本≠ニいうシロモノを、浄心行や先祖供養等で読誦して本当にいいのか…。

ぜひ、熟考していただきたいと心から願うものであります。



「和解派」の方に、『生命の實相』第30巻にあるご文章をご紹介します (10732)
日時:2019年03月15日 (金) 11時26分
名前:破邪顕正


「トキ」さんがこういう投稿をしています。

〈和解はやはり大事です (11132)
日時:2019年03月15日 (金) 00時51分
名前:トキ

少し前に聞いた話です。

信徒の中には、教団と本流復活派の分裂を憂い、両者の和解を願う人は少なくありません。

その願いにつけ込んで、和解のための「工作費」の名目で金銭を集めていた人がいたと聞きました。〉

この情報には、私もビックリでした。

悲しいかな、こういうことを企むような人も、世の中にはいるのですね。

問題は、「トキ」さんの次の一文なのです。

〈そもそも、和解を願うのは信徒である以上は当たり前のことです。〉

本当に、そうでしょうか。

本当に、当たり前のこと≠ナしょうか。

私はそうは思わないのです。

もちろん、「大調和の神示」は別名「和解の神示」とも称せられるように、「大調和」「和解」は、生長の家の教えとしてとても重大であることは、私なりに認識しております。

しかし、その一方で、尊師・谷口雅春先生は、次のようなことも、同時に、ご指摘になられているのです。

《…この「みんな救われている、みんな神の子である」という教えに反対してそれに駁論してくる者に対してはどうしたらいいかというと、イエスも、こういう者に対しては、やはり手酷しく駁論を加えておられる。

生長の家は他人をわるく言わない教えであるのに、ある場合においては生長の家でも生長の家に対するまちがった批評に対して弁駁して応えている−−あんなことするのは大人気ないじゃないか、真理は真理みずからを証明するから非難は黙殺して黙っておればよい−−こういわれる人もあります。

むろん黙っておってよい時もあれば、黙っていないで駁論するのがよい時もあります。

その駁論を見て、かえってそれによって救われたという人もあります。

まちがった批評に応酬するのは別に怒りによって相手をやっつけるつもりでするのではない。

あるいは人類の実相、本質そのものに対して「お前は悪人である」というわけでもない。

まちがっていることをまちがっていると指摘し、外道を外道であると指摘し、正法を正法であるとして主張するということは、必要なことである。…》(『生命の實相』第30巻203頁)

「和解派」の皆さんに申し上げたいことは、皆さんは、今の総裁、並びに教団をどう認識されているのかという、そのことへの根本的な問いかけなのです。

今の状態では、「まちがっていることをまちがっていると指摘し、外道を外道であると指摘し、正法を正法であるとして主張する」ことこそが、最も重要なことなのではないのか、そう申し上げたいのです。

幸い、「トキ」さんもこう言われています。

〈同時に、現在の状況ではすぐに「和解」が実現するとも思えません。

ましてや、何らかの工作で和解が成立すると期待するのも安易でしょう。

それではどうしたら良いか、と言う問題ですが、私は、「本物は生き残る」と言う発想を持っています。…〉

私も、全く、同感です。

要するに、本物が残る、本物しか残れない、それにすべて賭けるしかないということなのです。

今というトキに、「和解」とかの話をするというのは実に愚の骨頂であって、却って、事の本質を眩ますことにしかならない…。

今は、ひとまず、そういう「和解」などという話は脇において、教団、本流派がどういうことになるのか、その両者の行く末が自ずと答えを出してくる…と考えたがいいと私は思っているのです。

私は、何度も申し上げて恐縮ですが、『生命の實相』のあるところこそが残ると思っています。

そう思うと、『生命の實相』等の著作権裁判において、最高裁が、その著作権は公益財団法人・生長の家社会事業団にあると判決を下したことの意味が如何に大きかったか…。

今、改めてしみじみと痛感しております。

(株)光明思想社から、新編『生命の實相』が続々と発刊され続けているのも、或いは「谷口雅春先生を学ぶ」誌に、毎月、『生命の實相』等からの引用が掲載されているのも、すべてはそこに依拠しています。

公益財団法人・生長の家社会事業団と「谷口雅春先生を学ぶ会」とはまさに一蓮托生、車の両輪のようなものであると私は思っております。

この固き絆がある限り、必ずや、「谷口雅春先生を学ぶ会」は生き残る、生々発展し続けることができると私は確信しております。

その大いなる希望こそが、私どもの何よりの支えとなっているのです。




兵庫教区では、青少年見真会の浄心行で「観世音菩薩讃歌」を読誦するようで…。 (10959)
日時:2019年05月10日 (金) 09時38分
名前:破邪顕正


〈生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)〉所謂〈トキ掲示板〉で、日野兄が、こういう投稿をしています。

〈【正式決定】生長の家兵庫教区青年会は『観世音菩薩讃歌』で浄心行をします (12817)
日時:2019年05月09日 (木) 21時39分
名前:日野智貴

(前略)

青少年見真会は8月10日(土)〜11日(日)に生長の家兵庫県教化部で開催されます。

『観世音菩薩讃歌』の功徳で救われること、必至です!

青少年の皆様はぜひ、ご参加ください。〉

どういう功徳≠ェ生まれるか、続報を楽しみに待ちたいと思います。

教団に残ると、自分にとって大事な子弟が、どんどん、総裁の教えに染められていくということの、これは、何よりの証左ではないでしょうか。

自分たちは、今の総裁、教団はオカシイと思っても、我慢すると言って、退会はしないという方の話をよく聞きます。

それはそれで一つの考え方ではありましょう。

しかし、それでは子供たちはどうなるのでしょうか?

私もそうですが、若き日、尊師・谷口雅春先生と出合って、本当の日本と出合うことができました。

「天皇国日本」に生を享けたよろこびを真から体得させていただきました。

そして、「元号法制化」という歴史的な局面にも立ち会うこともできました。

法制化が成ったときに流した感激の熱い涙は、いまもって、忘れることができません。

それがあったからこそ、今日のような、スムーズな御代替わりもあり得たのだと思うと、これまた感慨一入のものがあります。

しかし、今の教団にいては、かつての私たちが味わったような「祖国とともなる人生」の感激、感動は味わいたくても味わい得ない、そう思うのです。

時間経過とともに、どんどん、総裁の色に染められていく…。

ことここに至っては、もはや、それは避け得ない… 。

以前にも申し上げたことですが、極めて、重要なことだと思うので、改めて書き留めておきます。

今の教団においては、総裁の説くことが今の教え≠ニされ、どんどん左傾化が露わとなり、あの日本共産党が反安倍・反改憲≠ナともに連帯しようとのメッセージまで贈るような教団となってしまいました。

共産党と言えば、9日の記者会見で、志位委員長が、「『御代』は天皇の治世という意味になり、日本国憲法の国民主権の原則になじまない」とまで言った政党です。

私に言わせれば、日本共産党こそ、日本になじまない=I

そういう政党に歓迎されるような「生長の家」とは何なのでしょうか。

尊師・谷口雅春先生の創始せられた「生長の家」とは、似ても似つかぬ教団となってしまっていることを決して看過してはならないと思うのです。

そういうところから、これから先、どんな青少年が育っていくのか。

それを考えたら、自分だけ我慢していればいいではすまされないのではないのか…。

浄心行に「観世音菩薩讃歌」の読誦が入り込んだとの報に接し、今後への危惧の念、黙しがたく、一筆、認めさせていただいた次第です。





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