「和解派」の方に、『生命の實相』第30巻にあるご文章をご紹介します (10732) |
- 日時:2019年03月15日 (金) 11時26分
名前:破邪顕正
「トキ」さんがこういう投稿をしています。
〈和解はやはり大事です (11132) 日時:2019年03月15日 (金) 00時51分 名前:トキ
少し前に聞いた話です。
信徒の中には、教団と本流復活派の分裂を憂い、両者の和解を願う人は少なくありません。
その願いにつけ込んで、和解のための「工作費」の名目で金銭を集めていた人がいたと聞きました。〉
この情報には、私もビックリでした。
悲しいかな、こういうことを企むような人も、世の中にはいるのですね。
問題は、「トキ」さんの次の一文なのです。
〈そもそも、和解を願うのは信徒である以上は当たり前のことです。〉
本当に、そうでしょうか。
本当に、〝当たり前のこと〟でしょうか。
私はそうは思わないのです。
もちろん、「大調和の神示」は別名「和解の神示」とも称せられるように、「大調和」「和解」は、生長の家の教えとしてとても重大であることは、私なりに認識しております。
しかし、その一方で、尊師・谷口雅春先生は、次のようなことも、同時に、ご指摘になられているのです。
《…この「みんな救われている、みんな神の子である」という教えに反対してそれに駁論してくる者に対してはどうしたらいいかというと、イエスも、こういう者に対しては、やはり手酷しく駁論を加えておられる。
生長の家は他人をわるく言わない教えであるのに、ある場合においては生長の家でも生長の家に対するまちがった批評に対して弁駁して応えている--あんなことするのは大人気ないじゃないか、真理は真理みずからを証明するから非難は黙殺して黙っておればよい--こういわれる人もあります。
むろん黙っておってよい時もあれば、黙っていないで駁論するのがよい時もあります。
その駁論を見て、かえってそれによって救われたという人もあります。
まちがった批評に応酬するのは別に怒りによって相手をやっつけるつもりでするのではない。
あるいは人類の実相、本質そのものに対して「お前は悪人である」というわけでもない。
まちがっていることをまちがっていると指摘し、外道を外道であると指摘し、正法を正法であるとして主張するということは、必要なことである。…》(『生命の實相』第30巻203頁)
「和解派」の皆さんに申し上げたいことは、皆さんは、今の総裁、並びに教団をどう認識されているのかという、そのことへの根本的な問いかけなのです。
今の状態では、「まちがっていることをまちがっていると指摘し、外道を外道であると指摘し、正法を正法であるとして主張する」ことこそが、最も重要なことなのではないのか、そう申し上げたいのです。
幸い、「トキ」さんもこう言われています。
〈同時に、現在の状況ではすぐに「和解」が実現するとも思えません。
ましてや、何らかの工作で和解が成立すると期待するのも安易でしょう。
それではどうしたら良いか、と言う問題ですが、私は、「本物は生き残る」と言う発想を持っています。…〉
私も、全く、同感です。
要するに、本物が残る、本物しか残れない、それにすべて賭けるしかないということなのです。
今というトキに、「和解」とかの話をするというのは実に愚の骨頂であって、却って、事の本質を眩ますことにしかならない…。
今は、ひとまず、そういう「和解」などという話は脇において、教団、本流派がどういうことになるのか、その両者の行く末が自ずと答えを出してくる…と考えたがいいと私は思っているのです。
私は、何度も申し上げて恐縮ですが、『生命の實相』のあるところこそが残ると思っています。
そう思うと、『生命の實相』等の著作権裁判において、最高裁が、その著作権は公益財団法人・生長の家社会事業団にあると判決を下したことの意味が如何に大きかったか…。
今、改めてしみじみと痛感しております。
(株)光明思想社から、新編『生命の實相』が続々と発刊され続けているのも、或いは「谷口雅春先生を学ぶ」誌に、毎月、『生命の實相』等からの引用が掲載されているのも、すべてはそこに依拠しています。
公益財団法人・生長の家社会事業団と「谷口雅春先生を学ぶ会」とはまさに一蓮托生、車の両輪のようなものであると私は思っております。
この固き絆がある限り、必ずや、「谷口雅春先生を学ぶ会」は生き残る、生々発展し続けることができると私は確信しております。
その大いなる希望こそが、私どもの何よりの支えとなっているのです。
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