《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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事実認識および論理の修正。則天去私氏の場合。その3。 (15056)
日時:2024年03月06日 (水) 00時50分
名前:修繕屋

【1】 「現代仮名遣い」と「歴史的仮名遣い」

現在、英語のspeakに該当する日本国語を「言う」と書きます。この「言。言ない」が「現代仮名遣い」です。「現代仮名遣い」を「新仮名遣い」さらに「新仮名」というときもあります。

それに対して昔は、「言。言ない」と書くことが多かった。これが「歴史的仮名遣い」です。「歴史的仮名遣い」を「旧仮名遣い」さらに「旧仮名」というときもあります。どちらにしても「仮名遣い」とは、「かなの使い方」という意味です。漢字の使い方ではありません。 



【2】 デタラメな「旧仮名遣い」の実例 (括弧内が正しい旧かな表記)

「立葵様に御禮」 (ブログ「則天去私」2018年6月30日)
http://tecnopla1011.blog.jp/archives/2018-06.html

立葵様からコメントを戴きましたので掲載させていただきます。
  合掌…(以下、立葵様のコメントを省略)
立葵様へ
わざわざの御投稿に感謝申し上げます。旧仮名遣ひは慣れて居られる様ですので、私も間違わ(は)ないやうに旧仮名遣ひを記入させて戴きます。 

まず、新編『生命の實相』ですが、何故反論したのかと云い(ひ)ますと、頭注版などの章立てを変更してい(ゐ)ることであります。簡単に云う(ふ)と、順番を変え(へ)てゐるという(ふ)ことです。これにより、日本教文社の本で頭注版『生命の實相』の何巻で何頁が全て變ってしまう(ふ)という(ふ)ことであります。そ(さ)うなると本来、その全てに於いて変更を余儀なくされますが、著作権という(ふ)のがあり、それが無理だとも光明思想社も理解されてゐます。

そ(さ)うなると、頭注版の『生命の實相』にこのやうに書いてゐると云っても、索引が不可能なんです。

また、頭注版で『生命の實相』を15巻程しか持ち合わ(は)せてゐない人が果して、再び65巻を購入されるかどうかであります。購入者の立場を考え(へ)て欲しいとゐう(いふ)ことであります。

他の著作に対しての配慮が足りないのと、何故新編には「著作はしがき」とゐう(いふ)のがあるのか不思議である。他の文學作品であまり著作に對してのはしがきなど引用例がないのに、何故著作者に対して「はしがき」を付けるのかである。

また、あまり市販されてい(ゐ)ないが、今まで『生命の實相』で救わ(は)れたという(ふ)人が頭注版を規範としてその分類的な研究を為されてゐる人が何人か居られます。

そ(さ)うした本を讀むと頭注版『生命の實相』を幾たびも讀まれ、新しく讀む人に索引輯のやうなを作成されてゐる人もい(ゐ)ます。そ(さ)うした労苦を考え(へ)ると、わざわざ『生命の實相』を變え(へ)る必要がなかったやうな氣がします。

また、光明思想社ではオンデマンド版を利用出来ます。それは頭注版を規範として居り、それならば頭注版のオンデマンド版のみで良かったやうな氣がします。下記の抜粋はトキさんが引用された文章です。私は全く賛成であります。(以下、「トキさん」なる人の文章を省略)

また、今回出版された小冊子が引用部分で間違ってい(ゐ)るのですが、どうしてそれを阪田先生に聽かなかったとゐう(いふ)ことであります。出版する前にゐくら(いくら)でも聽くチャンスはあったのです。阪田先生のよ(や)うな偉い先生でも私が雅春先生のこと詳しいから聽かれるのですから、頭が下がる思い(ひ)です。私も阪田先生にそ(さ)ういう(ふ)ことを注意されます。本当にそ(さ)うだと思って居ります。これを記入した後、光明思想社に行って、私の『谷口雅春先生著作年譜一覧表』(上・中・下)を贈呈しました。

今回の新編『生命の實相』についてですが、出版前に責任者と前理事(2名)とが協議して居り、その席上、前理事は全ての費用は負担するから、今からでも頭注版の『生命の實相』として変更をお願い(ひ)したが、斷は(わ)られたと云う(ふ)。私も今回の件について出版前から記入してゐる内容であります。理事が光明思想社に行き、話合い(ひ)するからという(ふ)ことで10点程問題点を指摘して理事に渡しました。

それと、私のタイトルが巖しいのは、今後改める所存であります。お許し下さい。ただ、今回の間違い(ひ)は光明思想社において訂正されると思ってい(ゐ)ます。私も雅春先生が間違ってい(ゐ)るなどとゐう(いふ)大口は申し上げるつもりはありません。それはその当時、もしかしてそのよ(や)うにしてい(ゐ)たのかも、知れないという(ふ)ことであります。反対にそのままで云いと思ってい(ゐ)ます。

勿論、その疑問も私も正式にデ−タベ−スにて調べてお(を)りますので、その学校や企業が掲載してい(ゐ)る内容です。もしかしてその團體が間違い(ひ)してい(ゐ)る可能性もあります。

ただ、今回の販賣された部分は自傳篇には御記入されてい(ゐ)ない文章で、今迄の著作に對して引用がない文章でありますので訂正をお願い(ひ)した。

私も大本には7回程通って著作の漏れや間違い(ひ)がないかを何度も古い資料にて探究させていただきました。『大本新聞』は全て讀みましたので、發行された時期も間違い(ひ)ないか何度も確認してお(を)ります。それでも間違い(ひ)があるかもしれないので再度確認させて戴きます。
(續)



【3】 上記引用の「旧仮名遣ひ」は、自己矛盾のかたまり

上の(2)で、則天去私さんの「旧仮名遣い」を修正しました。

そもそも、この記事の最初の一文、「旧仮名遣ひは慣れて居られる様ですので、私も間違わ(は)ないやうに旧仮名遣ひを記入させて戴きます。」が、すでに間違っていました。「私も間違わないように書きます」と宣言した文が間違えているのです。どうにもこうにも…。

しかも、この記事のなかの「言う(いふ)」の表記は混乱を極めています。普通の人間ならば、たとえ「思いつき」で書いたにしても、「思いつき」なりの一貫性が見られるものです。ところが、この記事の「旧仮名づかひ」は、思い付きなりの一貫性さえも見られません。「いう」が「ゐう」になったり、その「ゐう」が「いう」にもどったりしています。則天去私氏の「旧仮名づかひ」は無茶苦茶です。たとえば、この記事の上記引用文は、初めは、

何故反論したのかと云いますと
順番を変えてゐるということ
全て變ってしまうということ
著作権というのがあり

のように、「言」で一貫しています。もちろんこれは間違いです。本来、speakの意味を表す日本国語は、旧仮名で書けば上述のように「言」です。だから則天去私氏はまちがっている。しかし上の合計4行の間違いは、間違いなりに「いう」で一貫しています。それはそれなりに立派です。ところが、このあと則天去私氏は、

購入者の立場を考えて欲しいとゐうこと
何故新編には「著作はしがき」とゐうのがあるのか

と、突然、「いう」を「ゐう」に変えてしまいました。「ゐう」などという表記は旧仮名にも新仮名にもありません。おやおや…です。しかしこのあと則天去私は、

『生命の實相』で救われたという

と、初めの表記「いう」にもどしました。どうせ間違えるにしても、初めから一貫している方が、筋が通ります。良かった。良かった。…と思っていたら、そのあとまた、

阪田先生に聽かなかったとゐうこと…。

と、「ゐう」に変えてしまいました。「ゐう」などという表記は旧仮名にも新仮名にも存在しないのです。一体、則天去私氏はどういうつもりで「ゐう」などと書いたのか。どうにも不思議です。…しかし、則天去私氏は阪田先生とかいう人を尊敬しているようだから、ここで則天去私氏は阪田先生に対する特別な敬意を表するために『ゐう』を使っているのでしょう。それは立派な阪田先生への気配りです。則天去私氏はえらい…と思っていたら、このあと、

阪田先生にそういうことを注意されます

と書いて、氏は阪田先生への特別な敬意を消してしまいました。これでは阪田先生に対して失礼になりかねません。相手は阪田先生です。「立派な人には、特別な敬意を表す『ゐう』を使え!」…と思っていたら、さすがに氏は、谷口雅春先生には特別な敬意を表して、

私も雅春先生が間違っているなどとゐう大口は申し上げるつもりはありません。

と、ふたたび「ゐう」を使いました。

さすがです。則天去私氏は谷口雅春先生に対する礼儀を知っています。立派なものだ。…と思っていたら、このすぐあとの文が、

もしかしてそのようにしていたのかも、知れないということであります。

となって、ああ無情。則天去私氏は谷口雅春先生に対する敬意も消してしまいました…。

…要するに、この人の「旧仮名遣ひ」はデタラメで無茶苦茶なのです。則天去私氏の「旧仮名遣ひ」は単なる「思いつき」にすぎません。気分次第でコロコロ変わる「旧仮名遣ひ」です。



【4】 「旧仮名遣い」の捏造

則天去私氏は旧仮名遣いの「捏造」も行っています。その実例が、

出版する前にゐくら(いくら)でも聽くチャンスはあったのです。
と、
頭注版の『生命の實相』として変更をお願いしたが、斷は(わ)られた
です。

ここで確認しておきます。現代語の「いくらでも」は旧仮名で書いても「いくらでも」です。また、現代語の「断わる」は旧仮名で書いても「ことわる」です。新旧の「仮名遣い」が一致しています。これが事実です。これ以外の事実はありません。

ところが則天去私氏は、「旧仮名」にも「新仮名」にも存在しない(つまり日本国語に存在しない。世界中の国語辞典・古語辞典に載っていない)「くら」、「ことる」という表記を捏造して、それを堂々と使っています。この事実を知った国語愛好家は激怒する、あるいは苦笑するでしょう。

そもそも「旧仮名遣い」の研究は、古くは鎌倉時代初期の藤原定家による研究から800年ほどの研究と苦闘を重ねています。則天去私氏は800年の研究と苦闘をまったく知りません。知ろうともしていません。もちろん、則天去私氏が知らないのは仕方がないことです。しかし則天去私氏は何も知らないにもかかわらず、自分が知っていないことに気付かず、単なる思いつきと気分次第でコロコロ変わる「旧仮名遣ひ」を捏造して文章を書いているのです。ひょっとすると、この人は著作者人格権(同一性保持権)についても単なる思いつきを語っているのかもしれません。

…ということで話が終われば良いのですが、残念ながらまだ終わることができません。この人が書いている旧漢字(正漢字)もデタラメです。ほとんどが思いつきで書いているにすぎません。



【5】 則天去私氏の旧漢字使用法も、単なる思い付きのデタラメ

(ア) 新漢字と旧漢字(正漢字)

「礼」「変」「対」「聴」は、現在使っている新漢字です。それに対応して、
「禮」「變」「對」「聽」は、昔使っていた旧漢字(正漢字ともいう)です。

則天去私氏は上の(2)で引用した記事のなかで旧漢字を使っています。それは、おそらく立葵様が旧漢字を使っていらっしゃるので、則天去私氏がそれに啓発された結果でしょう。ここで、このような野暮な文章のなかに再び立葵様のお名前を出すことを立葵様にお詫びしますが、則天去私氏が立葵様に感化されて歴史的仮名遣いや旧漢字を使い始めたことは素晴らしいことです。ご両者は立派だとも言えるでしょう。

つまり則天去私氏は、旧仮名を使う人に対しては自分も礼儀正しく旧仮名を使用している…。まことに美しい態度です。則天去私氏は今後もこの礼儀正しい態度を守って、相手が誰であっても旧仮名を使う人に対して自分も旧仮名や正漢字を使う…という美しい態度を貫徹なさることでしょう。

…ところが、まことに残念ながら則天去私氏の旧漢字の使い方は旧仮名と同様にデタラメです。則天去私氏は、ときには「變」を使い、ときには「変」を使っています。ときには「巌」を使い、ときには「厳」を使っています。則天去私氏の旧漢字使用法は一貫した原則のない「思いつき」と「気分次第」の使用法です。次に、その実態を紹介します。

(イ) 新旧漢字の混同実態

まず確認しておきます。直上の(ア)までに引用してきた記事は2018年6月30日の記事でした。これを「6.30記事」と略称します。ここからは同じブログの同年7月7日の記事、
「(立葵様に)御禮申し上げます」
http://tecnopla1011.blog.jp/archives/76259750.html
も引用します。この記事を「7.7記事」と略称します。

(@) 頭注版『生命の實相』の何巻で何頁が全てってしまう。(6.30記事)
    ↓
    私がどうして反論したか…「章立て」を更したことです。(7.7記事)

(A) 私のタイトルがしいのは今後改める所存であります。(6.30記事)
   ↓
   雅春先生に対するしい言葉で書けば「冒涜」…。(7.7記事)

(B) 今回の販された部分は自傳篇には…(6.30記事)
    ↓
    野尻稔…賭博、春、麻薬とあらん限りの惡への道…。(7.7記事)

…もっとも、この3つの実例では読者から反論の声があがるかもしれません。「たった3件だけではないか。しかも別の記事だから混乱しているように見えるだけなのだ」と。それはもっともな反論です。しかしこのほかにも極端な混同があります。

則天去私氏は、同じ記事の中で同じ漢字を新旧混同して使っているのです。それどころか、同じ一つの短い文のなかで同じ漢字を新旧混同して使っているのです。ここまで来ると、則天去私氏は気分次第の思い付きで旧漢字をもてあそんでいると言わざるをえません。

(追加実態@) 簡単に云うと、順番をえてゐるということです。これにより、日本教文社の本で頭注版『生命の實相』の何巻で何頁が全てってしまうということであります。そうなると本来、その全てに於いて更を余儀なくされます…。(6.30記事) 

この三つの文は連続しています。このなかで「」が「」に変わり、そのあとで「」にもどっています。なんとも杜撰な漢字使用法です。さらに、これ以上に杜撰な漢字使用法があります。それは7.7記事です。次の引用はすべて7.7記事からです。

(追加実態A) 今回の騒動で本当に「嫌惡」さへ出て來ました。

「觀」は「観」の旧漢字です。ところがこのあと…

ネット社会というのは…先入だけでその人のる方向を間違ってしまうのです。

と、「観」に変わり、さらにそのわずか8字あとで「觀」に変わりました。おや。またか…と思って読み進むと、そのすぐ次の文で、

また、人の先入でその言葉を簡単に信じてしまうのです。

と、ふたたび「観」に変わってしまいました。

…要するに、則天去私氏は漢字の新旧の区別についても「思いつき」と「気分次第」なのです。デタラメといってもよいでしょう。まことに何とも…批評のしようもありません。

…ということで終わることができれば良いのですが、まだ終わることができません。なぜならば、則天去私氏は新漢字の「厳しい」と「巌(いわお)」の違いがわかっていないからです。まして、旧漢字の「嚴」と「巖」の違いについては無知といってもよいくらいに解っていません。



【5】 「厳」と「嚴」と「巌」と「巖」の混同

新漢字の「厳」は「きびしい」という意味を表します。その旧漢字は「嚴」です。この「嚴」も「きびしい」という意味を表します。歴史的にいうと、「嚴」が「厳」に変わりました。

それに対して、新漢字の「巌」は「いわ。いわお」という意味を表します。その旧漢字は「巖」です。この「巖」も「いわ。いわお」という意味を表します。歴史的にいうと、「巖」が「巌」に変わりました。この「いわ。いわお」は、新旧どちらの漢字も「山の岩」のイメージを持ちます。だから、どちらも「やまかんむり」です。それを確認したうえで、先ほどの(A)をふたたび引用します。

(A) 私のタイトルがしいのは今後改める所存であります。(6.30記事)
   ↓
   雅春先生に対するしい言葉で書けば「冒涜」…。(7.7記事)

実は…読者が混乱することを避けるために…わざと触れなかったのですが、則天去私氏はこの6.30記事のなかで、「厳」(きびしい)の旧漢字を使うつもりで「巌」(いわお)の旧漢字「巖」を使っていたのです。これにはどうにも…苦笑する以外にありません。おそらく則天去私氏は今もこの調子で、「新編『生命の實相』の章立てがどうのこうの…」と論じているのでしょう。





事実認識および論理の修正。則天去私氏の場合。その1。
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=3725

事実認識および論理の修正。則天去私氏の場合。その2。
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事実認識および論理の修正。則天去私氏の場合。その3。
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事実認識および論理の修正。則天去私氏の場合。その4。
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