《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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今日は6月1日、これからの1ヶ月間が正念場です。一人一人生き方が教団の行く末を決します… (12077)
日時:2020年06月01日 (月) 08時28分
名前:破邪顕正


今回の「通達」によれば、7月7日までに、全ての教化部において、「實相」額の前に、「七重塔」と“造化の三神”の神霊符を収めたお社を設置しなければならないことになっています。

当然、各教化部では、そのための準備に入るでしょう。

もう、既に入っているところもあるやに聞いております。

漏れ聞くところによると、如何に業務とは言え、何でこんなことをしなくてはならないのかと、暗い気分になっている人もあるという話があります。

そういう暗い気分は間違いなく伝染します。

信徒の心にも暗い影を落とすこととなるでしょう。

私は、この6月が正念場だと思っています。

ここで、信徒が声を上げ得るか否か。

唯々諾々と、スンナリと受け入れていくならば、もはや教団に自力更生の道はないし、自浄能力もないと判断せざるをえません。

自分一人が何を言おうが大勢に何の影響力もないからと決して諦めてはなりません。

尊師は、一人の生き方が国運をも動かすのだとこう仰っているからです。

『理想世界』誌・昭和56年1月号所収の「歯列びと国家及び人の運命」と題するご文章をご紹介させていただきます。

《自分一個がどんなに伸びようと、伸びまいと互いに何の関係もないように見えても、それが人類ぜんたいに、また国家のあり方やその運命にどんな影響を与えるかは実にデリケイトな幽微な関係があるのである。
個人は自分の自由意志をもっており、自主的の権利をもつので、どんな生活をしようと勝手だなどと、個人主義的自由を主張する人もあるが、それが大変な間違であり、国家が弱体するのも、大いに隆昌の国運を養うのも一人の国民の生き方が随分影響するものだということを、一国の国民たるものは考えて生活を正しく持って行かなければならない。》

尊師の創始せられた「生長の家」を愛する心が一掬でもあれば、今回の「通達」に決して拱手傍観することはできないはずです。

私自身、性根を据えて、引き続き、今回の「通達」の非真理性を訴え続けてまいります。

この拙稿が、信徒の心を動かすことを信じて…。

一人でもそういう信徒が生まれれば、以て瞑すべしである…。

その覚悟で、この6月も思いの丈を綴ってまいります。


今回の「通達」を徹底批判する上で、極めて重要な尊師の御文章が、『白鳩』誌・昭和48年3月号の箴言です。これに関して連続投稿してまいります… (12082)
日時:2020年06月02日 (火) 11時14分
名前:破邪顕正


表題のご文章については、かつて、

〈「何が正しくて何が間違っているか」その判断を下す前に、谷口雅春先生の御教えをしっかりと学びましょう! (4319)
日時:2016年12月31日 (土) 14時08分〉

でも紹介しています。

そこでは、「十四日の箴言」を引用させていただきました。

《超越的絶対者は、それは絶対者≠ナあるが故に、われらに語りかけて対話を交えることはあり得ない。それ故に絶対者の慈悲を体現したところの相対的に顕現する人格神、又は天使、又は菩薩、又は教祖があらわれなければ絶対者はその救済を具体化することが出来ない。救済を具体化することが出来ないような神は、神≠ニ称されるにしてもハタラキに於ては神ではない。神≠ェ救済を完(まっと)うし得る本当の神となり得るためには、絶対者が相体的人格神としてあらわれて救済の御業(みわざ)を現実になさなければならない。即ち法身(ほっしん)の阿彌陀佛(あみだぶつ)が、報身又は応身(おうしん)の佛如来(ぶつにょらい)として顕現しなければならないし、「天にまします父」なる神が、地に降誕したイエス・キリストとして顕現しなければならないし、天之御中主神が住吉大神として顕現しなければならないし、宇宙普遍の神が、ある教祖として顕現しなければならない。神の神たる慈悲の本来をあらわし、神たる使命を完了するためには色々の宗教に於て教祖神≠ニして神≠ヘあらわれなければならないのである。神の具体的人格的慈悲の完成は応身の教祖となって顕われることによって完成する。》

ここで、私は、“超越的絶対者”(ここでは「天之御中主神」がそれにあたる)では救済を具体化することはできない…。

それより何より、そもそも“超越的絶対者”は神殿に祀られることはないという「神示」そのものにも反する…。

だからこそ、尊師は、“絶対者が相体的人格神としてあらわれて救済の御業(みわざ)を現実になさなければならない”…“天之御中主神が住吉大神として顕現しなければならない”として、総本山のご祭神を「住吉大神」としてお祀りなされたわけです。

その「住吉大神」を外して、本来、祀ってはならないはずの“造化の三神”を礼拝の対象にするというのですから、今回の「通達」は、尊師の、この教えに真っ向から反するものであると申し上げたわけです。

また、「護法の天使」さんも、

〈全国の教化部長及び教区役職者宛に通知した生長の家社会事業団の「見解」です!! (12022)日時:2020年05月24日 (日) 14時40分〉

この投稿の中で、「十九日の箴言 本尊として祭祀する『實相』の由来」の箇所を引用しています。

《『實相』という文字を本尊として安置し、各自の内在の実相たる神聖≠その本尊に移入して、宇宙普遍の神霊との合一点として、そこに内在超越≠フ神霊を礼拝するための心の焦点≠つくることにした》

ここでは、『實相』礼拝の信仰的意義が説かれています。

その『實相』額を隠し、『實相』礼拝の文言まで変えるというのですから、これまた尊師の御教えを無みするも同然のことをやっているわけです。

以上の2つの引用だけでも、これが如何に重要な文書であるかがおわかりいただけることと思います。

それ以外にも、ここには、注目すべき大切な真理が説かれています。

それをこれから、逐次、ご紹介することで、今回の「通達」の非真理性を明らかにしてまいりたいと考えます。


「三日の箴言 人生の厩橋側と上野公園側と」に学ぶ… (12083)
日時:2020年06月02日 (火) 12時41分
名前:破邪顕正


ここで、尊師は、関東大震災に遭遇されたときのことを書いておられます。

こうあります。

《私たちののがれて行く道はただ二つあった。一方は厩橋の方であり、もう一方は上野公園の方であった。どちらを選ぶかは、瞬時を争う危急の場合で理屈はないのである。人間は、ただ「フト思いついた方」へ走り出す。》

幸い、尊師は上野公園の逃れられて九死に一生を得られます。

生か生か、それを決するのは、まさしくその「フト」にあるわけです。

で、尊師はこう言われます。

《果たして何者が「フト思い浮かばす」のであろうか》

人生は選択の連続であると言われます。

あるモノの本によれば、人は、一日、大小とりまぜて9,000回の選択をしていると言います。

人生で如何にすれば間違いのない選択をしていくことができるか。

それには、「フト思い浮かばす」ところが何者であるかを知らなければなりません。

今回の「通達」で言えば、そのまま教団の言うがままに「拝」と言って、「七重塔」と“造化の三神”を礼拝する道を行くのか、それともあくまでも自分は『實相』礼拝の道を行くと決断するのか…。

さて、どちらが、自らの信仰にとって“厩橋”なのか“上野公園”なのか…。

それが問われているのだと思います。


割り込み、失礼します。上の12082で破邪顕正さんがおっしゃっている、「護法の天使」さんの12022記事、〈全国の教化部長及び教区役職者宛に通知した生長の家社会事業団の「見解」です!! 〉は、ここにあります。 (12084)
日時:2020年06月02日 (火) 12時52分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

「護法の天使」さんの12022記事、〈全国の教化部長及び教区役職者宛に通知した生長の家社会事業団の「見解」です!! 〉は、

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2938

二つ目の記事です。

この下に、

現総裁が今日まで無茶苦茶なことをしてきたことの具体的説明、

そーれ!!さんの的確なコメント、

東北地方のひとから「生長の家社会事業団の見解」を100部も送ってほしいとの希望があったこと、

全国の多くの在教団信徒から「生長の家社会事業団の見解」に賛同する声が届いたこと

などを報告するたくさんの子記事がついています。




「四日の箴言 人間の運命を指導する神秘な力」に学ぶ… (12086)
日時:2020年06月02日 (火) 15時33分
名前:破邪顕正


ここでは、フト思いついて株を買って大損する人、逆にフト思いついて事業が大発展する人…。

そういうことが具体的に紹介されています。

で、この不思議な「フト」という声なき声≠フ正体について、心理学者は潜在意識の囁きだと解釈しているが、皇學館大学の佐藤通次博士は『自霊拝の哲理』においてこう述べていると紹介されます。

〈…古代ローマ人が、人には誕生とともに守護の霊(Genius)がつくと考えたのを、まことに道理あることと思う。この守護霊は、各人の誕生と共に活動をはじめ、その人の死と共に消えるのであるから、これを哲学的に説明するならば、普遍的に作(はたら)く生命が、いわばおのれの焦点を定める力がゲーニウスである…ローマの美術では、このゲーニウスを翼をもつ姿に表現している。〉

尊師は、この翼をもつ≠ニいうことから、これは

《天界より降臨した天使を意味していると思う》

と言われます。

ここに“天使”という言葉が出てきますので、それについて、述べておきます。

新編『生命の實相』第36巻「経典篇」にはかくあります(90頁)。

《天使というのは何かと申しますといつも話すように神、−−唯一つの神から、神の念波、即ち神の救いの霊波が送られている。しかしそれを吾々は五感では感じることが出来ませんから、その時に神の霊波が吾々の第六感を通してそこにあるかの如く姿を現す。その現れが救いの天使として姿を現すのであります。仏教でなら観世音菩薩や普賢菩薩や、またキリスト教でならミカエル、ガブリエル、或いはケルビム等々……というのは、皆その天使の名であって、これらは皆神より出でたる救いの霊波の人格的応現なのであります。》

まさしく、天使とは“神より出でたる救いの霊波の人格的応現なのであります。”

今回の「通達」によれば、“造化の三神”を祀って、“救いの霊波の人格的応現”たる「住吉大神」を外してしまったが故に、具体的な救いが現れようのないことにしてしまった…。

そこに、一つの重大な問題があるのです。

つまり、今回の「通達」に従えば、如何にお参りしようとも、そこから具体的な“救いの霊波”は注がれようはずがないということになるのです。


「五日の箴言 吾らは皆天才≠ナある」に学ぶ… (12091)
日時:2020年06月03日 (水) 12時54分
名前:破邪顕正


尊師はここでこう書いておられます。

《…心霊学では、人間の魂が地上に降誕すると、それを指導するための守護神が、祖先霊のうちの霊的に発達したる高級霊に属する霊が産土神により指名せられて、その人間の一生涯の守護神となるのである。
これを正守護神という。
それは一生涯交代することなく、その人につき添うてその人の魂を指導するのである。》

で、尊師は、このゲーニウスが天才(註…英語ではジーニアスと発音します)と訳されるとしてこう仰るのです。

《高級霊なる神秘的叡智者なる霊がわれわれには、生まれると直ぐ吾らと偕にあり、その叡智に感応して天才≠ェ発顕して来るのである。》

ところが、人は往々にして、肉体的、物質的欲望に引っ張られて、守護神の高級な霊的波動に心の波長を合わせることができない…。

そのために、守護神の方は、不測の災難から逃れよと囁いているのに、その声を聴くことができず、惨禍の犠牲者になってしまう、そう仰るのです。

ここで学ぶべきが、「高級神霊の導きを受ける祈り」(『続 真理の吟唱』)であります。

《…ふと思いつかせる神秘者は、人間の脳髄の中には居ないのである。
それは霊界から何らかの霊がわれわれに霊波を送って来てふと思いつかせるのである。
…それは、吾々の運命を良化するために正しいアイディアを常に送ってくれている善霊と、われわれの運命を傷つけんがために間違ったアイディアを送って来る邪霊とに分つことができるのである。
善霊はその人を善導するために神から命ぜられてその人を常に導きつつある正守護神である。
これは概ねその人の先祖霊のうち神通力を得たる高級霊がその任に当たっている。…》
 
ご先祖の御霊が守護神となることについては、『真理は生活にあり』の中で、こう示されています(112頁)。

《聖経の読誦を供養されることによって、その霊魂が愈々一層迷い≠フ束縛から解脱するに至ると、その霊魂は神通力を得て、今まで聖経読誦の供養を受けたことの感謝報恩に、守護神となって、その人を健康と繁栄とに導いてくれることにもなる。》

ご存じのように、「谷口雅春先生を学ぶ会」では、先祖供養に力を入れていますが、守護神による運命の修正、導きを心から信じているからに他なりません。

先祖供養に励むことによって、自らの心の波長を、守護神の高級な霊的波動に合わせてまいりたいと思っている次第です。



「七日の箴言 内なる声≠ノもこんな低級霊の声がある」に学ぶ… (12096)
日時:2020年06月04日 (木) 13時30分
名前:破邪顕正


上記の「高級神霊の導きを受ける祈り」の中で、“ふと思いつかせる神秘者”には、善霊と邪霊とがあるとお示しいただいていますが、ここでは、後者のこと、即ち低級霊に運命が翻弄される話が紹介されています。

で、尊師はこう仰います。

《「七つの燈台の点燈者の神示」に「神を霊媒によんでみて、神が来ると思ってはならぬ」と警告されているのも、このような低級霊になやまされることのないための警告としても受取れるのである。》

この低級霊の障りについては、

〈昔、天之御中主神が降神したと宣言したり、また自己創作の聖経を朗読するような新たな教団を起ち上げた生長の家の信徒がいましたが、その末路はどうなったか、現教団の行く末を占う手がかりになるのでは… (11991) 〉

ここに紹介させていただきましたので、参考にしていただければと思います。

それでは、どうしたら、低級霊に翻弄されない人生を送ることができるのでしょうか。

新編『生命の實相』第19巻「万教帰一篇」にかくあります(48〜50頁)。

《人間でありながら、黴菌という微生物に負けたとか、動物の霊に支配せられたとか、動物の霊に憑かれたとかいって、病気になったり、家に不幸を招いたりするものがありますが、これは人間というものが神の定め給いし万物の霊長であり、他を支配する絶対権を神から与えられているのであって、他の生き物から支配されるものではないという真理を自覚しないからであります。
…悪霊が人間に憑依したり禍いしたりするという現象でもその通りでありまして、人間の心の方で、「自分は悪霊よりも弱い者である」と誤った自覚をして、暗々裡に悪霊に支配権を譲ってしまうがために、吾々は悪霊から災いされる結果となるのであります。
「我れは神の子として万物の上に支配権を有っている」という程の根本的な自覚でなくても、単に「我れは強者であるから悪霊に禍いされない」という自覚があるだけでも、多くの場合悪霊から災いされないものであります。
…自分は神の像として造られ、すべての生き物を支配する権力を神に委ねられているのだという自覚の強い者には、如何なる悪霊でも災いすることが出来ないのは当然であります。
「生長の家」で皆さんに実修して頂いている「神想観」の修行は、この自覚を強めるためにするのでありまして、この自覚が強まって来るに従って、今迄悪霊に支配され、害されていた人間も決して悪霊から害されなくなるのであります。》

「神想観」にますます励んでまいりましょう。


「十日の箴言  迷霊には問答打切り宣言が早いほどよい」に学ぶ (12104)
日時:2020年06月05日 (金) 13時24分
名前:破邪顕正


「八日の箴言 内なる声≠フ分析について」では、ソクラテスに顕れたダイモニオンという守護霊が善霊であることが紹介されています。

「九日の箴言 守護霊の声≠ニ良心の囁き≠ニの差別」では、天理教、金光教の教祖について、いずれも、《高級霊が教祖を選んで、その肉体を使って人類を救済せんとする悲願を達成しようとせられたものであった》とお書きになっておられます。

そして、この「十日の箴言」では、イエスの四十日四十夜断食水行でのサタンとの問答について触れておられます。

イエスの有名な「サタンよ去れ」という言葉について、尊師はこう仰っています。

《イエスは、迷霊が、言葉を弄して、彼にからみついて来るのを突き放しているのである。…迷霊が…話しかけて来ても取り合わぬようにすれば…迷霊は沈黙してしまうという実例でもある。》

この迷霊で思い出されるのが、『聖書』にある蛇のことです。

新編『生命の實相』第19巻「万教帰一篇」にはかくあります(107〜108頁)。

《地上の蛇は人間語を話すことはできない。蛇が言葉を話すというのは霊界の蛇のことであります…蛇の霊その他の動物霊はカミはカミでも幽身(カミ)であって真神(カミ)ではない、「何々竜神」と善き言葉で美称して、その性質を浄めるのは善いことですが、人間がかかる霊を神として拝し動物霊崇拝に陥り実生活上の問題を教えられようと思うのは誤りであります。
だから、蛇は決して本当の真理を教えないのであります。本当の智慧というものは神智であって、神の子たる人間が自己の神性を自覚すると同時に、自然に内から啓けて来るのであります》

イブはイブニング、夜のこと、無明(まよい)だと尊師は言われます。

蛇の知恵に迷わされないよう、常に神智に導かれるような人生を送っていくようにいたしましょう。


割り込み、失礼します。上の12096で破邪顕正さんがおっしゃっている御自身の11991記事、〈昔、天之御中主神が降神したと宣言したり、また自己創作の聖経を朗読するような新たな教団を起ち上げた生長の家の信徒がいましたが、その末路はどうなったか、現教団の行く末を占う手がかりになるのでは…〉は、ここにあります。 (12106)
日時:2020年06月05日 (金) 14時49分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

破邪顕正さんご自身の11991記事、〈昔、天之御中主神が降神したと宣言したり、また自己創作の聖経を朗読するような新たな教団を起ち上げた生長の家の信徒がいましたが、その末路はどうなったか、現教団の行く末を占う手がかりになるのでは…〉は、

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2928
にあります。






すみません。見落としがありました。かなり上にある12082で破邪顕正さんがおっしゃっている御自身の4319記事、〈「何が正しくて何が間違っているか」その判断を下す前に、谷口雅春先生の御教えをしっかりと学びましょう!〉は、ここにあります。 (12110)
日時:2020年06月06日 (土) 13時33分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

上の12082で破邪顕正さんがおっしゃっている、ご自身の4319記事、〈「何が正しくて何が間違っているか」その判断を下す前に、谷口雅春先生の御教えをしっかりと学びましょう!〉は、

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1028
です。


その下に子記事が一件ついています。



「十二日の箴言  役職に従って特命の守護神が与えられる」に学ぶ (12111)
日時:2020年06月06日 (土) 16時02分
名前:破邪顕正


「十一日の箴言 声ある声≠フ霊の導きに警戒せよ」では、正守護神は、声なき$コによって潜在意識を通して導いてくれるが、「声ある声」による霊の声≠ノは関わり合わない方がいいとお説きになっています。

そして、「十二日の箴言」にはこうあります。 

《人には生まれた時から生涯その人を指導し守護するために任命された正守護神のほかに、その人の役職が重大な仕事である場合には、その役職について経験の深い高級霊がその職務遂行の守護の霊として命ぜられて附き添うて来るものである。それを生誕と同時に来った正守護神と区別するために仮に副守護神ということがある。いろいろの宗教の教祖が神示を「声ある言葉」の形や、自動書記的お筆先≠フ形をもって、神の言葉を聞くのは、その教祖たる人の使命に応じて命ぜられて臨(きた)ったところの特命の副守護神を通して神示が伝えられるのである。そういう場合、この神示の伝え手≠天使(てんのつかい)≠ニ称するのである。
 聖経『甘露の法雨』に「ある日、天使生長の家に来りて歌い給う」とあるのは、「特命の守護の神として観世音菩薩が生長の家に来りて真理の法輪を転じ給う」という意味に解することもできるのである。》

「谷口雅春先生を学ぶ会」では、宗教法人を取得した喜びを力に、更に拠点の拡大に尽力しています。

富士山の日本一の高さは、日本一の裾野の広がりによって支えられている…。

同様に、拠点を陸続と生み出していくことが、その裾野を広げることになり、教勢を支える一番の基となります。

『創刊号』を紐解けば、立教当初から、尊師は、全国津々浦々に、真理の燈台、支部をつくっていくことを宣言されていることが分かります。

ぜひ、尊師のこのお心に応えて、自らの住むところに、真理の燈台をつくっていただければと念願する次第です。

「十二日の箴言」によれば、支部長というお役を頂けば、その人の役職が重大な仕事である場合には、その役職について経験の深い高級霊がその職務遂行の守護の霊として命ぜられて附き添うて来る≠ニお示しいただいています。

経験があろうがなかろうが、この特命の守護神が必ず導き給うのである…。

それを心の支え、拠り所として、ぜひ、自らの住まう町に真理の燈台を灯す…。

その決意の輪が広がることを心から願っています。





「十三日の箴言  副守護神と司配霊とについて」に学ぶ (12116)
日時:2020年06月07日 (日) 15時15分
名前:破邪顕正


ここには、こう記されています。

《普通、副守護神と称する場合には、誕生の時以来、生涯を通じて守護して下さる高級霊なる正守護神以外に、後からその人に扈従又は憑依している守護霊のあらゆる種類をひっくるめて称する場合が多いのである。
守護霊≠ニ呼ばずして「司配霊」と称する場合がある。
これは実際は守護≠オているのではなく、霊そのものが、その霊自身の目的を実現せんがためにその人間をむしろ司配せんとするのであるからである。
物理的心霊現象を起して心霊研究家を驚かすような離れ業をやって見せるのは、この種の司配霊のやることである。》

この「副守護神」については、『人生を支配する先祖供養』においてこう説明されています(170〜171頁)。

《副守護神という場合は、概して悪い意味をもっています。
動物の霊とか、迷っている人霊とかが、本人の心境が迷った程度で、その想念の霊波が動物霊(又は迷える亡霊)に対して波長が合うというような場合にそれが憑って来て、本人の行動や想念を支配したり、影響を与えたりするのです。》

こういうことを教えていただきますと、生涯を通じて守護して下さる高級霊なる正守護神≠ノお導きいただくことが如何に重要か、改めて思い知らされます。

新版『生活の智慧365章』には「守護神の助力」と題して、こう記されています(27〜28頁)。

《あなたは生長の家≠ノ入信した人たちが無数の奇跡的な体験を、能力増進の体験を、癌の如き難症治癒の体験を、家庭調和の体験を、自己の経営する事業繁栄の体験を発表しているのを度々見られたに相違ないのである。
あなたも生長の家≠ノ入教して聖典神誌聖経を読み、或は誌友会や講習会に出席していられるうちに、人間の霊的実在なる実相を体得して、そのような功徳を自分の体験として得られるようになるのである。
その時、あなたの一切の不幸も病気も消えはじめるのである。
自分の学力で、自分の知識で、このようなむつかしい聖典、神誌を読んでもわからないと思ってはならないのである。
それを読むとき、神が、生長の家の人類光明化運動を指導し給う守護神が、あなたに附き添うていて、不思議に、このむつかしい真理が、実にやさしくあなたの魂にしみ入るようにせられるのである。》

確かに、尊師の御文章を拝読させていただいて、難しいと感ずることがないわけではありません。

しかし、だからと言って、拝読するのをやめてはいけないのですね。

神が、守護神が、ちゃんと分かるように導いて下さる…。

それに力を得て、日々、『聖典』の拝読につとめてまいりたいと思う次第です。

真理が魂にしみ入る…。

それこそが私どもが目指さなければならない世界ですよね…。

その喜びを一人でも多くの方にお分かちしたい…。

その思いが、伝道の力ともなると信ずる次第です。


「十四日の箴言 絶対の神は、相対の人格神となって自己完成する」に学ぶ (12122)
日時:2020年06月08日 (月) 11時50分
名前:破邪顕正


いよいよ、重要なご文章の箇所に至りました。

まず、ここでは、ソクラテスに助言を与えたダイモニオンという霊について、こう言われます。

《「相対を超える絶対者が、自己の内に内在して、その絶対者が声≠ニなってあらわれて来た」と解釈するのが適切であるとは必ずしも断じがたい》

絶対者が具体的な声≠ニなってあらわれることはない…。

あらわれたらそれは、もはや絶対者ではない…。

ということで、この後、以前にも引用させていただいた、このご文章が続くわけです。

《超越的絶対者は、それは絶対者≠ナあるが故に、われらに語りかけて対話を交えることはあり得ない。
それ故に絶対者の慈悲を体現したところの相対的に顕現する人格神、又は天使、又は菩薩、又は教祖があらわれなければ絶対者はその救済を具体化することが出来ない。
救済を具体化することが出来ないような神は、神≠ニ称されるにしてもハタラキに於ては神ではない。
神≠ェ救済を完(まっと)うし得る本当の神となり得るためには、絶対者が相体的人格神としてあらわれて救済の御業(みわざ)を現実になさなければならない。
即ち法身(ほっしん)の阿彌陀佛(あみだぶつ)が、報身又は応身(おうしん)の佛如来(ぶつにょらい)として顕現しなければならないし、「天にまします父」なる神が、地に降誕したイエス・キリストとして顕現しなければならないし、天之御中主神が住吉大神として顕現しなければならないし、宇宙普遍の神が、ある教祖として顕現しなければならない。神の神たる慈悲の本来をあらわし、神たる使命を完了するためには色々の宗教に於て教祖神≠ニして神≠ヘあらわれなければならないのである。
神の具体的人格的慈悲の完成は応身の教祖となって顕われることによって完成する。》

ここで押さえておかなければならないのは、絶対者は相体的人格神としてあらわれてはじめて救済の御業を現実にすることができるということなのです。

ですから、“天之御中主神が住吉大神として顕現しなければならないない”と記されてもいるわけです。

ところが、今回の「通達」は、全ての教化部に、「天之御中主神」を祀るよう強要しているわけです。

しかし、具体的に“救済の御業を現実にする”のは「住吉大神」であるわけです。

その「住吉大神」を外してしまえば、“救済の御業”は現実には顕れてはこないということになってしまうほかはありません。

尊師の教義を無視すると、どんな悪しきことになるか…。

この「十四日の箴言」に、それが、はっきりと示されているのです。

ところで、新編『生命の實相』第20巻「万教帰一篇」には、神が人格的に顕れることの意味が次のように記されています(64頁)。

《神は無量光、無辺光であり、無辺であるから際限がない、際限がないから形がない。
際限のないものは見ることが出来ない。
神示(註…「無限供給の神示」)によりますと、吾々の眼に見る太陽は本当の太陽ではない。
本当の太陽というのは無量光、無辺光なる法身の日之大神、毘盧遮那仏であって、一切の所に充ち満ちていられる。
しかしそれでは吾々の五官では見えないから、吾々は五官のレンズや六感のレンズを通して無限を有限に屈折して見る。
こうして五官や六感のレンズを通して無限を有限に凝縮して見たのが、五官や六感で吾々の見る太陽であります。
しかし本当の神様は無形であり、ただ光明無限であります。
それが色々の化神となり化仏となって人格的にお顕れになっている、この人格的にお顕れになっている神様を毘盧遮那仏とか生長の家の神とか阿弥陀仏とかいうのであります。》

“人格的にお顕れになっている神様を…生長の家の神とか…いうのであります。”

今回の「通達」は、絶対神をお祀りするわけですから、ここに言われている「生長の家の神」を祀るものではないのです。

「生長の家」教団でありながら、「生長の家の神」を祀らない…。

一体、これはどういうことなのでしょうか。

改めて、今回の「通達」によって、尊師の創始せられた「生長の家」は終わったと思うものであります。


「十五日の箴言 宗教にも色々の段階がある」に学ぶ (12159)
日時:2020年06月12日 (金) 14時44分
名前:破邪顕正


ここでの書き出しはこうです。

《すべての宗教の教祖が必ずしも宇宙絶対神の人格化又は応身の如来という訳ではないのである。》

所謂、自動書記とかお筆先≠ニいうのがありますが、だからと言って、それが必ずしも高級霊とは限らない。

霊眼で見れば、白狐の霊や天狗の霊であったりもする、そう述べられて、こうお書きになっています。

《宗教にも高級な宗教から狐狸の類の霊示による宗教に至るまで、色々の段階があり、それに魅せられたり、その教えに同調する心の持主が信者となるのである。
そして色々の新興宗教や疑似宗教的なものが発生するのである。
その指導霊又は支配霊の正邪及び力量によって、最高とはいえないが、或は人間を正しく導く宗教もあらわれ、或は時には淫祠邪教となってあらわれる。》

改めて、どういう教えに出合うかは本当に重大な問題であるということがわかります。

“人間を正しく導く宗教”ならばまだしも、それが“淫祠邪教”であったら、目も当てられません。

人生そのものを棒にふってしまうことになりかねません。

結局、それもこれも、“その教えに同調する心”次第なのですね。

心していかなければなりません。


「十七日の箴言 『自霊拝の哲理』と實相礼拝=vに学ぶ (12164)
日時:2020年06月13日 (土) 09時23分
名前:破邪顕正


「十六日の箴言 このようにして発生する宗教もある」には、所謂、淫祠邪教の婦人教祖の話が出てきます。

人智では量りがたい神秘なことを言うものだから、それに惹かれて、白鳩会の誌友がそちらに入信するようなこともあった…。

しかし、最終的に、その教祖は、衰弱して死んでしまう…。

このように、野心のある邪霊が神示と称して人を惑わすこともあるので、正しい宗教とは何か、しっかりと知っておかなければならないとして、「十七日の箴言」となるわけです。

ここでは、正しい最高の宗教とは何か、それが佐藤通次博士の言葉で定義づけされます。

《『宗教とは内在の位に立つ神が超越の位に立つ神と合一するところの「自覚」にほかならない。
…それは超越の位に対する故に、身構えとしては「帰依」とか帰命とかの形をとり、神を内在せしめる人は下座を行じ、自己に内在する神を上座に超越せしめて仰ぐのである。
それは自己が自己の霊を拝すること、すなわち「自霊拝」である。
よって本質観照の立場から宗教とはすべて自霊拝であると断言することが出来る』》

この定義を受けて、尊師はこう仰るのです。

《個≠ノ宿る超越者≠、自己の實相≠ニして礼拝するのが「自霊拝」であり、生長の家に於ては『實相礼拝』なのである。》

つまり、この『實相礼拝』をもって、「生長の家」が、如何に“正しい最高の宗教”であるか、証明されてもいるのです。

そう考えると、『神真理を告げ給う』にある「實相」についてのお言葉が一層、重みを増してくるのではないでしょうか(14頁)。

《諸君は生長の家≠フ本部道場や練成道場の講壇の正面に『實相』という大文字が掲げられてあることを知っているであろう。
あれはわたし≠ェ掲げるように命じたのである。
…実相とはあなた自身の実相≠ナある。
…自分自身を物質的存在だと思いまちがえないように、『實相』と文字に大書して、自己の実相≠その文字に移入して礼拝するようにしてあるのである。》

今回の「通達」は、その『實相礼拝』をなくそうというのですから、その意味で、これは「生長の家」をして“正しい最高の宗教”から“淫祠邪教”へと転落せしめるも同然の愚行というほかはありません。

この「生長の家」の尊い教えを、“淫祠邪教”の類いに貶めさせてなるものか、そんな思いでいっぱいです。



「十八日の箴言 神の間≠ヘ空≠ナある」に学ぶ (12175)
日時:2020年06月14日 (日) 11時53分
名前:破邪顕正


ここでは、「光明の塔」のことが紹介されています。

《これは七階につくられていて、その最上階が神の間≠ナあり、そこには何も物質的な形あるものは安置していない。
本尊の像も象徴もない。
全然無一物≠ナあり空≠ナある。
…神の間≠ェ何もなく空であるのは、普遍の超越神の御座所であり、何かを安置すればそれだけ超越神を、人間の観念で限定することになるから、それを避けるためである。》

このご文章と、今回の「通達」を読み比べてみてください。

「通達」が言う“造化の三神”とは、言うまでもなく、ここにある“普遍の超越神”にほかなりません。

実際、「通達」にも

「“造化の三神”の神霊符の真ん中には宇宙の本源の普遍神である天之御中主大神」

と記されているからです。

ところが、「通達」はこういうわけです。

〈実相を仏教的に表現した七重塔と、実相の「ムスビ」の働きを表現した神道の“造化の三神”をともに實相額の前に祭祀〉

それを祭祀する理由というのが、

「万教帰ーの教えを視覚的に現す」

そのためにやるというわけです。

もう一度、「十八日の箴言」を見てください。

《神の間≠ェ何もなく空であるのは、普遍の超越神の御座所であり、何かを安置すればそれだけ超越神を、人間の観念で限定することになるから、それを避けるためである。》

尊師が、わざわざ「避けるため」と仰っているのに、今回の「通達」は、それを無視して、それこそ

《超越神を、人間の観念で限定》

してしまおうとしているのです。

“視覚的に現す”というのが、まさにそれに当たると思うのです。

こんなことが許されていいのでしょうか。

今回の「通達」を黙過することは、そのまま尊師の教えを裏切ることになると思うものであります。

「十九日の箴言 本尊として祭祀する『實相』の由来」に学ぶ (12192)
日時:2020年06月15日 (月) 15時00分
名前:破邪顕正


「十四日」に続く重要なご文章がこれです。

まず、こういうご文章から始まります。

《生長の家は、物質的な偶像的なものを何一つ置かないで、「内在の位に立つ神が超越の位に立つ神を實相≠ニして礼拝し、個¢ヲ普遍=A普遍¢ヲ個≠フ自己を、今此処のわが身に自覚するを主目的とする最も純粋な、「一宗一派に偏らない宗教」なのである。
礼拝の本尊として何か形のあるものを安置したならば、他の宗教と衝突して別異の宗教であることをあらわすので、生長の家では如何なる形ある本尊も安置しないことにしてあったのである。》

「一宗一派に偏らない宗教」それが生長の家であります。

“何か形のあるものを安置したならば”却って、その教えを否定することになりかねない、逆効果になってしまう…。

だから、“形ある本尊”は安置しないことになっていたわけです。

これが戦前の話であります。

ところが、戦後になると、新たに宗教法人法というものができます。

で、それに認證されないと、色々と不都合が生ずる…。

そういう事情が出てきたので、どうしても「礼拝の対象として何か本尊を安置しなければならなくなった」として、こう仰るのです。

《さて、何を本尊として安置しようかと考えた揚句、形ある本尊を安置しては、超越的内在の超越者を象徴することは出来ないし、といって、神は無相であるといっても、形ないものを安置する訳にも行かないので、形がありながら、形なき超越的内在の意味をもつものを本尊として祭祀するほかはない。》

ここにある、“形がありながら、形なき超越的内在の意味をもつものを本尊として祭祀するほかはない”というご文章が、実に重要であります。

まさしく、それが「万教帰一」を説く生長の家だからこその、尊師のお悩みであったのです。

“考えた揚句”

このお言葉が、それを如実に物語っています。

で、尊師はこう仰るわけです。

《そのためには『實相』という文字を選んで本尊として掲げるのが適当であると考え、私の自筆の『實相』という文字の額*狽ヘ、掛軸≠本尊として掲げ、地方の教化部や道場は勿論、相愛会等のごとき信徒の集会ある場所には、その『實相』という文字を本尊として安置し、各自の内在の実相たる神性≠その本尊に移入して、宇宙普遍の神霊との合一点として、そこに内在超越≠フ神霊を礼拝するための心の焦点≠つくることにしたのであった。》

まさしく、尊師がお悩み、お考えになられた結果が、尊師の“自筆の『實相』という文字の額*狽ヘ、掛軸≠本尊として掲げ”るということであったわけです。

『實相礼拝』とは、このような歴史的な背景をもち、かつ重要な宗教的意義をもって定められ、しかも、それを90年もの長きにわたって信徒は守り続けてきたわけです。

ところが、今回の「通達」は、それを根底から覆そうとするものであるわけです。

覆そうとしているどころか、“形ある本尊”は安置しないことになっていたのを反故にして、「七重塔」やお社という“形ある本尊”を設置しようとしているわけです。

尊師の教えとは真逆もいいところ、「一宗一派に偏らない宗教」の教えがこれでは吹っ飛んでしまいます。

今回の「通達」、尊師が御覧になったら、決してお許しにはならないと私は確信をもって断言させていただきます。


「二十日の箴言 神饌捧献の儀式について」に学ぶ (12277)
日時:2020年06月26日 (金) 10時11分
名前:破邪顕正


ここの書き出しはこうです。

《『實相』という「形≠超越した文字」を掲げるにしても、それを掛軸とか扁額にする場合には、やはりそこに人間は「形」を見出すのである。そしてその形が愛の神≠ニか智慧の神≠ニか生命の本源神≠あらわすものであると思うと何かを献げたくなるのである。これは人間の自然感情というものである。》

で、本部では、儀式のあるときには、野菜や果物やお菓子などを三宝にのせて『實相』の本尊にお供えするようになっていると記されています。

ここでも、はっきりと“『實相』の本尊”とありますし、お供えはよろしいということであって、「七重塔」やお社を置いてもいいとは書いてありません。

『實相』額の前に置いていい“モノ”とは、お供えのことなのです。

ところが、「万教帰一の神示」には、こうあるわけです。

《嘗てわれ汝に告げたのである『吾れに神殿は不要である』と。われは神殿がないとて身の入れ場所に困るような神ではない。供え物も要らぬ。》

お供えすることは、この「神示」に反するのではないのか。

そういう質問が、実はアメリカの信徒から出てくるわけです。

これについての答えが翌日の箴言となります。


『二十一日の箴言 ~は「物質」の食物を食し給はない』に学ぶ… (12285)
日時:2020年06月28日 (日) 13時44分
名前:破邪顕正


尊師は、アメリカの信徒の質問に対して、こうお答えになっておられます。

《宇宙普遍の神に対して、物質的食物等をお供えすることは不必要である。神は霊≠ナあるから物質の食物をお喫(あが)りにならないからである。だから神御自身の方から言えば「われに供え物は要らぬ」と仰せられるのは当然のことである。》

「万教帰一の神示」にある通りであると尊師は仰います。

しかし、日本という国には、もう一つの精神文化があるとして、続けてこう仰るのです。

《しかし日本には、「収穫の初穂を神にお供えする」という行事が自然発生的にあり、従来、それは国家的祝祭日として神嘗祭≠ニ名づけられていたのである。》

この神嘗祭≠フ意義について、尊師はこうお説きくださっています。

《霊なる神が物質的食物をお喫りにならないのは明かであるけれども、収穫の初穂をお供えするのは、「この収穫は、神樣あなたの恵みの結実として得られたものでございます。こんなに立派に出来ましたから御覧下さいまして、お悦び下さいませ」という気持で、神にその結実の立派さをお見せ申してお礼を申上げるほどの気持で献饌するのである。》

私が、ここで注目するのは、尊師はアメリカの信徒に対して、はっきりと日本の文化の心をお伝えになっておられることなのです。

その真逆が、そうです、現総裁なのであります。

外国の信徒から何か言われると、そちらの方に合わせようとしてしまう。

「聖旗」がナチスの旗と誤解されると言われれば(それを言ったのは、たった一人の信徒であったと聞いたことがあります)、それを受け入れて、替えてしまう。

だったら、仏教寺院が卍を改めましたか。

改めてはいないわけです。

「聖旗」が問題だと言うならば、卍の方が余程、問題でありましょう。

顕齋殿の土足履きのときだって、そうです。

靴を脱ぐ文化は世界にはないから、とか言って、愚にも付かない理由をもって、それを強行してしまったわけでしょう…。

靴を脱ぐ日本の文化がコロナ感染者の増大を防いでいるという説だってあるわけですよ…。

素晴らしい文化ではありませんか。

つまり、問題なのは、誤解があれば、ちゃんと説明して誤解をとくようまずは努力する…。

その努力を、総裁は、一切、端っから放棄してしまっているということなのです。

尊師のご姿勢を学べばいいのに、総裁はそれをしない…。

どうしてでしょうか。

答えは明らかです。

総裁はただ替えたい、すべてを替えたい、そういう思惑をもっているからなのです。

一事が万事、それが今の教団の変質の元凶なのです。


「二十二日の箴言 神よりも民を優先さす民主主義」に学ぶ… (12289)
日時:2020年06月29日 (月) 09時24分
名前:破邪顕正

尊師は、ここで新嘗祭≠ノついてこうお説きくださっています。

《こうして日本には神祭りの日に神饌を捧げる儀式が行われる習慣になっていたのである。そして人間が最初の収穫を神に感謝して食する祭日を新嘗祭≠ニして国家的大祭日と定められていたのである。》

この新嘗祭≠、昔の日本人は強く意識していました。

ですから、新米ができても、新嘗祭≠ェ済まない間は食さない…。

天皇陛下がお召しにならないのに、国民が天皇陛下より先に食すわけにはいかない…。

そういう精神文化、伝統というものが生活の中にしっかりと根付いていたのです。

しかし、今や、そういうものはどこにも見られません。

その引き金となったのが占領政策でした。

尊師は、こう言われます。

《ところが占領軍が上陸して来て信仰は自由であるが、国家が宗教的行事に触れるのを禁ずる指令を出して国祭日≠ヘなくなり、神嘗祭、新嘗祭の代りに「勤労感謝の日」という国民的休日が設けられることになった。神嘗祭、新嘗祭とも神に感謝する祭日であったのであるが、それに代置せられた「勤労感謝の日」というのは神に感謝し神を讃える祭日ではなくなり、収穫のために労苦した人間に感謝する意味の休日となったのであって、全然違質のものとなったのである。》

違質≠ニ言えば、今の教団がそうですね。

何でも、教団では今「自然の恵みフェスタ」という名称で、収穫をお祝いしているそうですが、その名称からもわかりますように、そこで、尊師がお説きになられたような「神嘗祭」「新嘗祭」の意義が教えられるわけではありません。

自分達が収穫したのを楽しむのであって、何も神に感謝し神を讃える≠ニいう意義を学ぶものではない…。

即ち、占領軍が設けた「勤労感謝の日」と何の違いもない…。

そのように思ってしまうのです。

で、尊師はこう仰るのです。

《こうして日本人は占領軍によつて神に感謝する日を奪われ、神を失ったのである。民主主義というものは、神≠ェ主ではなく、民≠ェ主≠ナあるから民≠ノだけ感謝すれば足りるという訳である。神を見失って、自我(小我・肉体我)だけを認めることによって、日本人の道徳的墜落は始まったのであった。》

この占領政策への悲しみ、それが尊師の、その後の愛国運動の思いとなって展開されていくわけです。

その占領政策の基盤であり、根幹ともなったのが言うまでもなく「現行憲法」に他なりません。

だから、尊師は、その憲法を「占領憲法」だとして諸悪の因≠ニまで仰って、その非を訴え続けられたのでした。

ところが、総裁は、あろうことか、その「占領憲法」を平和憲法≠セとして擁護する側に立ったのであります。

尊師に対して、これほどの裏切りはありはしません。

この一事をもってしても、総裁が法燈≠継承するのは不適格である…。

そう烙印を押してもいいほどの重大問題、背教そのものであると、私はそのように思っております。



「二十三日の箴言 宗教運動に参加する霊の組織群」に学ぶ… (12298)
日時:2020年06月30日 (火) 14時33分
名前:破邪顕正

ここで、尊師は、人類を救う運動というものには、霊界からの応援というものが必ずあるとこう述べられます。

《ある教祖が霊感を得て宗教的な人類救済運動が起ると、その運動に共鳴するところの現実界の人々がその運動に集って来て参加し、能力に応じて適当なる部署につく組織が発展してくるのは当然であるけれども、その人々の役職に応じて、特命の守護霊がその人々に配属して守護したり、指導したり、することになり、そこに霊界に於ても、その宗教それぞれに参加する霊たちの組織群ができることになるのである。これらの霊の組織群≠ェ人類光明化にあたることになるのである。》

だからこそ、立教当初、次から次と奇蹟が続出したわけです。

もとより、尊師のお悟りからくるお導きがそれをもたらしたわけですが、決してそれだけではない、霊の組織群≠ェ大きく貢献していたと言えるのです。

翻って、今日の教団はどうでありましょうか。

私は、ここを読んで、尊師とともに働いた霊の組織郡≠ェ教団を離れてしまった…。

その結果として、今日の教勢の低迷が現れた、そう見るべきではないかと思った次第です。

続けて、尊師は、霊にもいろいろあるとこうお説きくださっています。

《その霊たちのうちには、「お供えものは要らぬ」と言う程度の高級霊界の位にある(仏教で謂えば無色界≠ノ属する色身(幽体及び霊体)を超越せる)神通自在の霊もあるが、尚、幽界に属していて、幽体を具えていて、肉体を具備した時代の食習慣を忘れかねて、何か食べねば、腹が減ったような気がして精力減退し、何かたべたい≠ニ考える程度の霊も混っているのである。それ故にこれらの霊に対して食物を供えてあげることは、まことに合理的であり、また必要な事であるのである。》

『谷口雅春先生を学ぶ』誌・7月号の特集は、「ご先祖への感謝で運命が好転する」です。

その中に、「先祖供養Q&A」というのがあります。

ここに「供え物」についての問いが出てきます。

それに対して、こう回答されています。

〈求めや必要に応じて、応病与薬的≠ネ対応が先祖の心を和ませることになります。〉

明日から7月です。

これから盂蘭盆の季節を迎えます。

尊師のこのような御文章を読ませていただくと、改めて先祖供養の大切さを思い知らされます。

生長の家独特の霊牌供養の意義を尊師はこうお説きくださっています。

《本人は霊界にいるので自筆で署名することはできませんが、子孫が代わりに戒名又は俗名等を書きますと、子孫の霊波は本人の霊波と全く同調する波長の部分があるので、充分媒体となってその霊に感応するのであります。》(「聖使命」新聞・昭和32年8月1日号)

霊牌供養によって、先祖のみ護り、お導きに心から感謝し、ともに幸福人生を歩んでまいりましょう。


「二十四日の箴言 霊魂の食する食物について」に学ぶ… (12304)
日時:2020年07月01日 (水) 13時44分
名前:破邪顕正


昔、我が家では、何かいただき物があったら、必ず、仏様にお供えすることになっていました。

まずは仏様にお供えしてから、いただくのはその後で…。

小さい頃、何でそういうことをするのか、さっぱり、分かりませんでした。

仏様が食べるわけでもないのに、何故、お供えしないといけないのか…。

誰しもが思う、その疑問に対して、尊師はこうお諭しくださっています。

《霊≠ノ物質的食物をお供えしてあげても、霊は肉体をもたないから、肉体の栄養分になる成分をおあがりになることはないのである。また悟りをひらいて、「自己は物質に非ず肉体にあらず、幽体にも非ず、霊的実在なり」と悟ったところの高級霊は物質的食物には関心をもたないのである。しかしまだ充分悟りをひらかず、まだ自己を一種の幽体的存在であるという自覚で、食物に関心をもつ程度の霊魂は、物質的食物を供えられれば、その食物の幽体を食するのである。すべて「生きている食物」(化学的食品ではないこと)には人間と同じく幽体があり、まず念の作用により幽体が発生して後、その念の形に幽体の被覆層として物質の体≠ェつくられるのである。幽界の霊魂≠ヘ果物なら果物の物質の体≠ヘ食しないで、その果物の幽体(幽質といってもよい)を食するのである。肉体が死して後、まだ長期間の浄化の過程を経ない霊魂には食欲が存続し、食物の幽体を食してそこから活力を得るのである。それ故、死後、まだ短年月の霊魂を祭祀する際には食物を供えておいてから、聖経を読誦してあげるがよいのである。》

なるほど、食物にも幽体があるのか、それを食するのか。

また、食欲が存続している霊魂もあるのか。

だから、仏様にお供えすることが大事なのですね。

ところで、そういう宗教的な意義とは別に、教育的意義もあるということを記しておきたいと思います。

所謂、「マシュマロテスト」のことです。

こういう実験です。

付属幼稚園の4歳の子ども186人。

机の上には皿があり、マシュマロが一個載っている。

実験者は「私はちょっと用がある。それはキミにあげるけど、私が戻ってくるまで15分の間食べるのを我慢してたら、マシュマロをもうひとつあげる。私がいない間にそれを食べたら、ふたつ目はなしだよ」と言って部屋を出ていく。

マシュマロを食べた子ども、我慢した子どものその後の追跡調査でわかったこと。

それは…マシュマロを食べなかったグループが周囲からより優秀と評価されていること、さらに両グループ間では、大学進学適性試験の点数には、トータル・スコアで平均210ポイントの相違が認められるというものでした。

このことから、幼児期においてはIQより、自制心の強さのほうがはるかに大きく影響するということが結論づけられたのでした。

子どもの頃に鍛えるべきは、腹筋や背筋よりも、どうも我慢筋≠フようです。

で、この我慢筋≠培う上で、「いただきものはまず仏様に供える」という文化は、教育上、大きな役割を果たしているのではないのか…。

仏様にお供えすることでご先祖さまを敬う心、そして合わせて欲望を抑える心も育てる…。

日本人が大切にしてきた文化を、今、見直すべきであると思った次第です。



「二十五日の箴言 餓鬼道に墜ちるということ」に学ぶ… (12314)
日時:2020年07月02日 (木) 14時10分
名前:破邪顕正


ここで、尊師は餓鬼道について、こうお説きくださっています。

《盂蘭盆に施餓鬼の供養をする時に、先ず食物をお供えしておいてから読経がはじまるのは、餓鬼の境涯にある亡霊には先ず食物を供養する必要があるからである。若し食物を供養しないで読経をしても、飢餓感の切実さに心を奪われていて経文の意義が心に理解されないからである。》

「腹が減っては戦はできぬ」という表現がありますが、「腹が減っていては読経にも耳を貸さぬ」ということなのでしょうね。

だから、「お供え」が大事…納得です。

「備えあれば憂いなし」と言いますが、御霊さまにとっては「お供えあれば嬉しいな」というところでしょうか。

続いてこうあります。

《餓鬼という位は必ずしも、餓鬼道という、六道輪廻の境涯中の一種の生活状態に陥っている者だけを謂うのではないのである。》

ここにある「餓鬼道」について、以前、私はこういう投稿をしています。

関係あるところだけ引用しておきます。

…………………………………………

「死んだら終わり」では先祖供養は成り立ちません! (9988)
日時:2018年08月16日 (木) 14時32分
名前:破邪顕正

『維摩経解釈』の本を拝読しておりますと、娑婆世界に住む衆生を導く方便がいろいろと示されています(453頁)。

《世尊は、自分の念(おもい)や言葉や行いの報いが物質的環境に斯れ斯れの姿であらわれて来るということを説いて、念と言葉と行いの三業を調和統御して、想念、悪言、悪行の起らないように導くのであります。

すなわち、地獄はこんな所である。

畜生道に堕ちると斯うなるぞ。

餓鬼道に堕ちるとこんなに苦しまなければならない。

八難処(註…@地獄 A餓鬼 B畜生…この三つは苦しみが多くて仏法を聞くことができない C長寿天 D北倶盧洲ほっくるしゅう…この二つは楽しみが多くて求道心が起こらない E聾盲瘖瘂ろうもうおんあ F世智弁聡せちべんそう…世俗智にたけて正理に従わない G仏前仏後…仏が世にましまさぬとき)とはこんなところである。

真理を知らない迷信に陥った愚人は、今度肉体が死ぬとこんなところに生まれる。…》

このように説いて衆生を導いていくのでありますが、拝読していて思ったのは、これはすべて死んだ後を信じているが故に効力を発するものばかりではないのか。

もし「死んだら終わり」と考えていたら、果たして、この説法は衆生の心に響くであろうか。

そう思うと、この世の倫理・道徳が成り立つには、「死んだら終わり」ではない、死んでも次の境涯が待っている。

それが大前提にならなければならないのではないのか、そう思った次第です。

………………………………………………

しかし、「餓鬼道」とは何も死んでからの苦しみだけを言うのではないと、次のように、尊師はお諭しくださっています。

《通俗には餓鬼道に墜ちた者は、飢餓狀態で空腹でたまらないが、食物を供養されてそれを食しようと思って、食べようとすると、その食物が焰となって燃え去ってしまうので、いつまでたっても空腹感が癒やされないような霊界での境涯にある者を謂うのであるが、それは死後の事であるが、現実界に於ける人間の道徳生活にこれを当て嵌めていうならば、いくら儲かっても、いくら昇給されても、いつまでも「足らぬ、足らぬ」といふ飢餓感になやまされている心境にある者を餓鬼道に墜ちた亡者≠セと譬喩的に謂うのである。》

この餓鬼道に墜ちた亡者≠ノついて、『善き人生の創造』はこう言います(314〜315頁)。

《たんに利己目的を以て富を蓄積するということは自分の性格を汚なくし、魂を汚し、餓鬼道の様な心境にならしめるに過ぎないのであります。餓鬼は決して富者ではないのである。如何に富が蓄積されていようとも、餓鬼の心境であるものは、それは貧しき者であり、ただ蒐集狂の如く多く物をかきあつめるにすぎないのである。彼は貨幣や、株式や、社債や、骨董品や、不動産をかきあつめる。そしてそれを失わざらんとして始終戦々兢々としているのです。彼らは常に貧乏の恐怖におそわれているのであって、決して富める人ということはできないのであります。なぜ彼は貧乏の恐怖におそわれるかというと、現象の富だけをにぎっていて、實相の富−−即ち神の無限供給の本源をつかんでいないからであります。神を無限供給の本源として常に神より供給を受け、常に神にその一部分をお礼として返しているものには、常に無限供給の道が開かれているのであるから、かくの如き貧乏の恐怖におそわれるということはないのであります。》

生きながらにして餓鬼道に堕している、その背景には、貧乏の恐怖≠ニいうのがある…。

このご指摘は、実に重大です。

何故と言って、その心持ちで生きている限り、次の境涯でもまた同じ餓鬼道の世界で苦しまなくてはならない、そう思うからです。

次生で餓鬼道に落ちて苦しむことがないよう、この世で生きているときから、魂を浄めていく生き方を目指していきたいものであります。

それには、何より、与える愛に生きることだと改めて思ったことでした。


「二十六日の箴言 肉体死後に於ける病氣の継続」に学ぶ… (12320)
日時:2020年07月03日 (金) 17時07分
名前:破邪顕正


ここには、死んだ後、霊魂がどうなるかが示されています。

《霊魂の肉体死後、間もなくの状態は、現実世界の臨終のつづきの状態を経験するのである。心境が急激に変ることはないからである。霊魂が肉体を脱皮して新たなる境涯に入る過程は、毛虫が蛹の状態から脱皮して翅の生えた蝶の状態に移行する過程にも似ている。それは霊界への出産≠ニもいうべき狀態で、出産の陣痛ともいうべき断末魔の苦しみを経驗する。(もっとも悟境に入っている霊魂は無痛分娩とでも謂うべき安楽の状態で、意識を持続しながら霊界に移行する)断末魔の苦しみを味う霊魂は、神の慈悲により、ある程度以上の苦痛を免除するために、霊界移行時に意識を中断せしめられて無意識の感覚麻醉状態に入り、肉体を脱皮してある期間(人により長短があり、間もなく意識を回復する者もあるが、長きは数十年にわたって人事不省のまま継続するのもある)それは各自の過去の業因の相違によって業果が異るのである。その人事不省の無意識状態が長きにせよ、短かきにせよ、いずれにせよ、霊界に於て意識を回復したときには、(その人にとっては無意識中のことは心の中に存在しないのであるから)生前、臨終の際の状態が、記憶の世界に蘇生って来て、癌の苦痛で死んだ人は心に癌の苦痛が復活して来、霊界で癌の症狀をその幽体に継続する状態で苦しまなければならないのである。》

ここに霊界への出産≠ニいう表現があります。

私たち、日本人は、死んだら終わりとは考えていません。

死はピリオドではない、コンマである…。

その先がある…。

だから、死んだ日のことを“命日”「命の日」と言うのです。

“往生”という言い方もあります。

次の世に「往って生まれる」とわかっているからでしょう。

“一巻の終わり”ということは「第二巻がある」ということでしょう。

事ほど左様に、日本人は、「死んだら終わり」とは思っていないのです。

死んだら、今度は、霊界で生まれるのです。

供花もあの世での誕生日の花輪なのです。

だから、昔の日本人は、誕生日よりも命日を大事にしたのです。

それで、「谷口雅春先生を学ぶ」では、大事な人の命日供養に力を入れているわけです。

さて、ここに「臨終の際の状態が、記憶の世界に蘇生って来て」とあります。

だから、聖経『甘露の法雨』の「霊」の項にこうあるわけです。

《病める霊あり、
苦しめる霊あり、
胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊あり、
心臓も有たざるに心臓病にて苦しめる霊あり》

この霊の苦しみを子孫が受けると、それが霊の障りとなってしまう…。

そういう、所謂、霊病と言われるものについては、どうしても先祖供養が大事になってくるという理由がそこにあるわけです。


「二十七日の箴言 臨終の苦しみは過去の業因の清算である」に学ぶ… (12323)
日時:2020年07月04日 (土) 16時43分
名前:破邪顕正


ここでは、まず、病気は業を清算浄化するためとしてあると、こう説かれます。

《寿命と病気とは別なのである。三十年もそれ以上も病苦に悩みながら、なかなか死なぬ人もあれば、殆ど病気をしたこともない頑健そのもののような健康体でいながら突然死ぬ人もある。病気は人間を殺すのではなく、人間が死が近づくにしたがって自己の生涯の業因をある程度清算浄化し、整理し、調整するために必要な仕事として各人それぞれの病苦をあらわすのである。》

死ぬ前に苦しむのもまた、次の境涯に行く前に少しでも業を清算しようという心の現れなのですね。

続けてこうあります。

《そして病気となるべき業因が清算し尽されたり、真理を悟って「病気本來無」の境地に達したりして、病気が消え去った後でも、その人の地上の予定された寿命が尽きれば、その人の霊魂は肉体を去って(所謂る肉体の死)霊界に移行するのである。このような場合には「病気が消えて」(従って病気≠フ想念を持続せずに)霊界へ行くのであるから、その人の霊魂は霊界に於て、その幽体に病気を顕わすことなく健康そのものの快適な霊界生活を営み、時来れば、またその霊魂が今までとは異る環境の地上に生れて来て、今までとは異る方面の魂の能力が研かれることになるのである。》

ここの文中に、真理を悟って「病気本來無」の境地に達したり≠ニいうお言葉があります。

ぜひ、このような境地で次の境涯を迎えたいものであります。

どうしたら、そのような境地に立つことができるか。

新編『生命の實相』第16巻「霊界篇」にはこうあります(150頁〜)。

《「神の子」なる人間の実相を現象世界(現界、幽界、霊界等を通じて)に実現するのが人生の目的である。…「神の子」なる実相人間もその投影の現象界に完成するのには大体一定の時間を要し、植物が日光に逢い、雨露に遇うが如く、或は幸福に恵まれ、或は逆運と戦うことによって、ついに実相人間の現象界への投影を完成するのである。しかし、その投影が完成するには、その投影は「念波の集積」で成立っているし、人間は心の自由を有ち、自由に実相の悟りによって念波を浄め得もすれば、迷いによって念波を汚すことも出来るのであるから、現象世界に実相人間を顕現する過程(進化の過程)を、心次第で縮めることも長くすることも出来るのである。霊魂進化の過程を短縮するのは念の浄化による。念の浄化には実相を悟ることが第一であり、物質欲に捉われざることが第二である。物質欲に捉われざるためには「物質本来無し」の真理を悟るが第一である。「物質本来無し」の真理を悟る程度に達せざる者には、物質の快に捉われざるために自ら進んで苦を求めて喜ぶか、物質の快を求めて却って苦難を得る体験を通して、ついに物質欲に捉われざるに到るかの二途しかない。前者は自ら進んで嘗める苦行であり、後者は他動的に業運として来る苦難である。その他に過去の宿業の自壊する過程として、霊的流動体に擾乱を起す病苦もある。苦難がみだりに取去られず、多くの霊魂が苦行の価値を力説しているのはこれらの色々の理由によってである。》

改めて、念の浄化が如何に大事か、思い知らされます。

それには、尊師の御教えを学ぶこと、それに尽きます。

この尊い御教えに出合えたことに心から感謝申し上げて、ともに精進してまいりましょう。



「二十八日の箴言 病気が治って健康状態で霊界に移行する魂」に学ぶ… (12330)
日時:2020年07月05日 (日) 13時29分
名前:破邪顕正


ここでは、まず、喉頭結核の病気をもった方が真理によって病が癒やされた話が紹介されます。

《ある喉頭結核の患者があったが、生長の家の教えに触れ、毎日『生命の實相』を読み、且つ聖経『甘露の法雨』を読んで、「病気本来無」の真理を每日々々、自己の潜在意識の中に印象蓄積して往ったのであった。その結果、彼は喉頭結核をいやされたのであった。癒やされたけれども、地上生活の死期は迫って来たのであった。》

病気が癒やされたからと言って、いつかは肉体生命は終わる…。

問題は、どのようにして最期を迎えるか。

この方は、クリスチャンで、こういう最期であったと記されます。

《彼は、クリスチャンであった。生長の家は万教同根共通の根本的真理を説くのであるから、クリスチャンはクリスチャンの侭で、イエスの教への根本的真理に入ればキリスト教そのものが一層深くなり、病人は病気が癒え、不幸は消え幸福は来るのである。彼は病気が癒ったけれども地上生活の寿命が終えつつあることを自覚した。彼は朗々と讃美歌を朗唱して神をたたえ、唱い終ると家族及び周囲の人たちに感謝の言葉を述べて瞑目すると、魂は霊界に移行したのであった。
 彼は重症の喉頭結核を患っていたので、ふだんは、低いカスレた聞きとれない程の声で物言うのであったが、死の直前、彼が朗詠した讃美歌は、まことにハッキリした朗々たるひびきを立てて周囲の人々を驚嘆せしめたのは、既に彼が喉頭結核の治った證拠であった。》

人生の最期を周りの人への感謝の言葉で締めくくるというのは、実に神々しい感じがしてまいります。

こういう話を伺うと、やはり信仰というのは人生にとって大切なことだなとそう思ってしまいます。

何故、こういう話をするのかと言いますと、先日、こういう話を聞いたばかりだからです。

その方は、実に信仰深い方で、いろいろと求道されてきて、最近、谷口雅春先生の御教えと出会い、その素晴らしさにぞっこん惚れ込んでいらっしゃる方です。

その実の妹さんが亡くなられた。

妹さんは、栄耀栄華を極めて、豪邸に住み、外車を何台ももっておられる…。

信仰の話をしても、「私は神も仏も信じないから…」と言って拒絶されてきた。

その妹さんが、今際の際に、ぽつりとこう言われたのだそうです。

「お姉さんがうらやましい」

この話を伺って、『人生最後の日にガッツポーズして死ねるたったひとつの生き方』という本にある言葉を思い出しました。

〈命とは「時間」のことです。こうしてページをめくる間にも、あなたの寿命は縮まりました。100年後、あなたはこの星にいません。死ぬと決まっているのに、なぜ、僕らは生まれてくるのでしょう?人生の最後の瞬間、これまで得たモノ、すべてを手放すのが人生のゴールです。しかし、人生最後の瞬間、持って還れるものがひとつだけあります。それが…「思い出」です。人生最後の日、あなたはどんな「思い出」を持って還りたいですか?〉

いい「思い出」…。

私は、この御教えと生きる中に、それがあると信じています。

この世で、尊師と出会い、その御教えを護るために人生を捧げる…。

それが必ず好き「思い出」となると信じております。



「二十九日の箴言 精霊崇拝の原始人的信仰」に学ぶ… (12339)
日時:2020年07月06日 (月) 08時43分
名前:破邪顕正

ここで、再び、佐藤通次博士の文章が紹介されます。

博士の論文で目を引いたのは、「原始民族のアニミズム(animism)」のことであると、尊師はこのように述べられます。

《アニミズムとは精霊説とか精霊崇拜とか訳されているものであり、人間にも霊魂と称する精霊をみとめるが、人間のみならず自然界の一切の存在物に超越的な霊異*狽ヘ精霊≠フ存在をみとめる信仰であり、
「温帯の恵まれた土地に、人性の素直な開展に乗じて成立する健かな宗教は、アニミズム的な基盤に立ち、その要素をすこしも失わずに、稚ない宗教心の発露を、そのまま高い道義心、また真実を深く洞察する心と一致せしめるのである」と佐藤氏は言われて、「その道義を言い表わした珠玉の文字」だと称讃して若林強齋著の『~道大意』から次の如き一節を引用していられる。
「おそれある御事なれども、神道のあらましを申したてまつらば、水ひとつ汲むというても、水の神霊がましますゆえ、あれあそこに水の神ミヅハメ様が御座なされて、あだおろそかにならぬ事と思い、火ひとつ焼くというても、あれあそこに火の~カグツチ様が御座なさる故、大事のことと思い、わずかに木一本用うるも、ククノチ様が御座なさる、草一本でも、カヤヌヒメ様が御座なさるものをと、何につけ、かくにつけ、触るる所まじわる所、あれあそこに在ますと、戴きたてまつり、崇めたてまつりて、やれ大事とおそれつつしむが神道にて、こういうなりが即ち常住の功夫ともなりたるものなり。」
 これは神道≠フ神髄を説いたものであるが、釈尊成道の悟り「山川草木國土悉皆成佛」と全く同じことである。自然界の一切の事象及存在を佛≠フいのちの現成と見るのである。》

ここで、尊師は、神道の神髄とお釈迦さまのお悟りの一致を見出されて、次のようにお説きになられます。

《水を水の神≠フ現成であり、火を火の神≠フ現成であり……等々と見、それを単なる物質と見ないのである。そこに恐懼し謹んで使わして頂くのである。このような恐懼畏敬礼拝の心をもって自然界のものを使わして頂くならば、今、日本を始め全世界の物質文明国がなやんでいる工業公害の問題など起らなかった筈である。現在の公害の起っている原因は自然界とそこから産み出される資源をただの「物質」として見て自然を征服し、利用し、今の段階で利用価値のないものは流し棄て、吹き棄てさへすればそれでよいと考えて「拝む心」を失って、「使い棄て」にした結果、使い棄てられたものが反撃して復讐に出たという因縁因果のあらわれが公害であり、人類のエデンの楽園£ヌ放なのである。》

これをお書きになられたのは、昭和48年です。

このときの公害問題、それは今日の環境問題へと繋がっています。

公害問題で、尊師がお諭しくださった「拝む心」…。

この観点から、今日の環境問題を訴えていれば、こんな教団になってはいなかった…。

そう思うのは、決して私ばかりではないと思います。

尊師が仰る、この「拝む心」について、例えば、頭注版『生命の實相』第29巻「女性教育篇」にはこうあります(109頁〜)。

《いっさいの事物を観るに、これは釈迦牟尼仏の生命が顕現しているのだ、とわかりましたならば、一枚の紙でも粗末にできない。それに内在する百パーセントの力を発現させることになります。一枚の紙といいますけれども、一枚の紙でもこの本当に拝む心で手紙をお書きになるといたしましたならば、その一枚の紙がどんな働きをするかしれない。それはお守りみたいな神秘的な働きをしてその手紙を受け取った人の病気が治ることもある。あるいは一枚の手紙によって何万円という金を貸してくれるかもしれない。この一枚の紙ですら、それをいかに拝んで生かしたかということに、無限の力が出てくるわけであります。生長の家で物質はないないと言うのもそこであります。物質はないというのはこれは紙であるから、物質であるから粗末にしようというのでは、その「無い」に捉われたのであります。われわれは一切の事物を見るに神の生命だと見れば無限の価値が出ますが、これは何グラムの目方で何と何との原素が寄り集まってできたものである、これは単なる物質であると見れば、それだけの価値しかないのであります。ところが、紙を物質と見ない人は往々この一枚の紙を無限の力に変化することができる。この一枚の紙に手紙を書く、愛の念波をこめて書けば、これが何万何十万の人の命を生かすようにも変化する、そうすると本来物質という限定されたものは何もないのでありまして、われわれが拝む程度にこの物質の価値が変化するのであります。これが物質がないと知った人のできる手品で、無一物中無尽蔵という手品であります。「無一物」といっても、着のみ着のままになれというのではありません。「物質なし、ただ神のみある、ただ仏のみある」と知ることです。それがわかると、われわれは何を見ても、本当にこれを拝まずにはおられない。いっさいのものはそれを拝むとき、物質ではないところの物質以上の無限の神の大生命の力を現わしてくるのであります。およそ生長の家の「物質はない」という言葉は非常に尊い、やさしい、しかもむつかしい言葉でありまして、往々誤解されるのでありますけれども、こういうふうに考えていただけばその大要は掴めると思うのであります。》

「物質はない」とは「物質ではない」ということなのですね。

こういうご文章を拝読させていただきますと、私たちの日々の生活も間違いなく一新してまいります。

これがまさしく、宗教生活なのだと思います。

改めて『生命の實相』の素晴らしさを噛みしめている次第です。


「三十日の箴言 精霊信仰と大乗仏教」に学ぶ… (12348)
日時:2020年07月08日 (水) 18時14分
名前:破邪顕正


まず、ここでは、アニミズムと大乗仏教とが似ているようで違うことが指摘されます。

《山には山の神があり、野には野の神があり、川には川の神があり、井戸には井戸の神があり、竈には竈の神があるという信仰は、「山川草木国土悉皆、仏性の顕現である」という大乗仏教的な信仰とは多少異るのである。精霊信仰は多少二元的なところがあり、ある「物」に「精霊」が宿っていると信ずるのである。しかし後者の「悉皆仏性」又は「悉有仏性」(道元禅師)の大乗仏教は「有るもの悉く仏性そのものの現成」と解するのである。しかし両者は同一系統に属するもので、そのプリミティーヴ(幼稚)なものが、精霊信仰(アニミズム)であるといえる。》

続けて、聖経『天使の言葉』にもある心霊現象のことが出てきます。

《精霊信仰が一層具体化して、人格的顕現として、降霊会又は実験場にあらわれ、肉体から分離した霊魂が霊媒者を通して吾々に話しかけ、或は物理的心霊現象を起して、暗室で、空中にメガホーンが舞い上って物を言ったり、写真霊媒を通して、死者の霊魂が生前の容姿をもつて写真にあらわれ、霊魂が肉体死後も、個別的個性ある人格としてあらわれるという実證を示すものが、スピリチュアリズム(神霊主義とも訳するが適訳ではない)である。(谷口雅春訳『霊界の妻は語る』『人間死んでも死なぬ』『生命の實相』霊界篇☆メ照)》

ここにある心霊現象について、新編『生命の實相』第36巻「経典篇」は次のように説明しています(145頁)。

《「物質無し」ということは「霊のみ実在である」という絶対認識即ち実相覚によって悟るほかはないのですが、ここには物質がこんなにあると見えてるが、物質は本来無いものであるということを分りやすく説明するのに、方便として心霊現象の実例が手近なためにここに引いて書いてあるのです。この心霊現象に起る体に触れないで物体が動くということは真理なのではない、ほんの一つの譬喩なのであります。》

また、霊魂が肉体死後も、個別的個性ある人格としてあらわれるという≠アとについては、新編『生命の實相』第1巻「総説編・光明篇」にこうあります(11〜12頁)。

《肉体の死は個性として今までありし一切のすがたを消してしまって何一つ残らないようになるのであるとしますならば、何のために吾々は個性としてこの世に苦しんできたのか、吾々が切実に個性(ひとりひとり)として経験し、切実に個性として苦楚(くるしみ)を嘗め、切実に個性として生長を闘いとってきたところの、その切実な個性感がただの幻影(まぼろし)であってウソであったということになるのでありまして、どうもそれは各々個性として特徴をもっているところの、吾々生命の必然の要求として不合理であることが直感されるのであります。ところがこの吾々の生命の必然の要求として認めねばならない肉体消滅後の個性生命の不滅ということが最近次第に科学的に肯定されつつある「霊界通信」によって明らかになってきたのは喜ばしいことであります。》

そして、いよいよ、この3月も最後の箴言となっていくわ:
けです。



「三十一日の箴言 霊媒現象に接した時の注意」に学ぶ… (12351)
日時:2020年07月09日 (木) 16時08分
名前:破邪顕正

このシリーズで紹介してきた箴言も最後となりました。

ここでは、まず、心霊現象に溺れることの危険性が指摘されます。

《霊媒による心霊現象は、肉体死後にも各人は各ゝ個性をもった霊魂として存続し、次の生まれ変りの時期が来るまで霊界で生活をつづけるという霊魂の個性存続の立證をその実験で見て、霊魂不滅の信仰を高める上に必要な資料として、その実験記録や、心霊現象実験会に接することは有用な場合もあるが、心霊現象におぼれてしまうと、その霊媒に出て来る霊魂の言うことを無差別に何でも彼でも信じてしまって、大変な間違を引き起すことになるのである。》

霊媒に出てくる霊魂を信じて運命が狂わされた実例を、私は先に投稿させていただきました。

〈昔、天之御中主神が降神したと宣言したり、また自己創作の聖経を朗読するような新たな教団を起ち上げた生長の家の信徒がいましたが、その末路はどうなったか、現教団の行く末を占う手がかりになるのでは… (11991)
日時:2020年05月18日 (月) 〉

その霊がどの階級の霊か、低級霊なのか高級霊なのか、それによってその後の運命が全然、違ってまいります。

そこで、尊師はこう仰るのです。

《霊媒に接する場合には、霊媒にあらわれた霊が「如何なる階級の霊か、高級霊か、迷える亡霊か、動物変化の霊であるか充分審判した上で、その霊に対応すべきである。この霊の等級、種類等を審判する者を「審神者」というのである。審神者となる資格は自己に天眼通的霊能があって、相手の霊がどんなに変化して出現して、恰も高級霊の如く変貌して来ようとも、天眼によって看破り得る霊能がなければならない。また自分自身が霊媒となった場合には、自分自身を自己審神して、如何なる霊が憑って来ているかを知って、徒らに天地創造の神≠セとその霊が自称しても、そんな事を信じてはならないのである。創造の神は勿論高級の霊は滅多に、そこらあたりにいる一般の汚れた心の普通人にかかってくるものではないのに、普通人ほど高慢な心≠もっているために、創造神≠セとか何某の命≠ネどと自称して出て来ると直ぐ、それを本当かと思い上がり狐狗狸蛇蟇等の変化の霊に翻弄されていながらそれを自ら知らないで有頂天になったり、自称教祖になったりするのである。
「七つの燈台の点燈者の神示」に本当の神は霊媒にはかからぬ≠ニ訓示されている條に留意しておくべきである。》

ここに“天眼通的霊能”という言葉が出てまいります。

これで思い出されるのが、お釈迦様の十大弟子の一人、目連です。

谷口輝子先生が、『白鳩』誌・昭和39年10月号に、こういうご文章を書いておられます。

《『あのね、お釈迦さまの十大弟子の一人に目蓮さまと仰有る偉い坊さんがあってね。その坊さんは天眼通と言って肉眼で見えない世界も見えたのよ。目蓮さまが天眼力で幽界を御覧になったところ、亡くなったお母様が地獄で「倒懸(とうけん)」の苦と言って、さかさまに吊り下げられて苦しんで居られる姿が見えたのですって。親思いの目蓮さまは驚き悲しがり、お釈迦さまに教えて頂いて、尊いお経をあげたり色々の食物をお供えしたりして御供養をなさって、お母様を苦しみから救ってお上げになったのが七月十五日だったのよ。そのことに倣って、後の世の仏教信者たちが、自分の肉身たちの亡者を幽界からお招きして愛情をこめて盂蘭盆のお供養をして上げているのです。(略)目蓮尊者は偉いお坊さんだと言われているが、その母君は高い悟りの境涯に達しないうちに亡くなられたと見えて、あの世で地獄に堕ちて、しかも最も苦しい責苦の一つである「倒懸」(ウランバナ)の苦を受けて居られたのであったが、息子の孝心によって真理の教をきき、「さかさま」だった心が「真直ぐ」の心に立ち直られたのであろう。「さか吊り」は誰かがしたのではく、自分の心で自分が「さか吊り」をしていたのであった。
 これは目蓮尊者の母君の昔話だけではない。現代に生きる人たちの中にも、心が顛倒しているために、さかさまに物ごとを見たり、人の善意をさかさまに受取ったり、真実をゆがめて嘘をついたり、いろいろと神の御心に反する行いをして、自分自身を苦しめている人が沢山あるように思う。
 盂蘭盆の十五日の近づいて来た今日此頃、私たちは一層反省を深めて、すべてのもの、すべてのことを正しい眼で見、正しく処して行きたいと思う。》 

ここにある「倒懸」(ウランバナ)が“盂蘭盆”となったわけです。

何故、目蓮さまのお母さんは、地獄で「さか吊り」の苦しみに遭わなければならなかったのか。

それは、心が顛倒してい≠スからではないのか。

「顛倒妄想」まさしく迷い≠ノ囚われていたからではないのかと輝子先生は仰るのです。

そして、そのお母さんの姿は、明日の自分の姿なのかもしれない。

だから、すべてのもの、すべてのことを正しい眼で見、正しく処して≠「くようにしなければならないと、輝子先生はお諭しになっておられるのです。

盂蘭盆は、ただ単にご先祖様の霊をお祭りするばかりではありません。

ともすればさかさまに物ごとを見たり、人の善意をさかさまに受取ったり、真実をゆがめて嘘をついたり、いろいろと神の御心に反する行い≠しがちな自らの心を省み、改め、「真直ぐ」の心に立ち直らせるよき機会としていく、そういう日なのですね。

さて、箴言は続いて、こう言います。

《佐藤通次博士は「内在の位に立つ神と、超越の位に立つ神との合一するところの自覚」が本当の宗教の本質であるということを言っていられることは既に述べたが、其の「内在の神」を、霊媒現象に出て来て宇宙神だとか、何某の神だとか自称する神のことだなどと考えると、とんでもない間違を犯すことになるのである。また自然物の奥にその精霊≠ニ称する超越内在的な神≠拝するアニミズムの信仰は、必ずしも霊媒現象に於ける個別亡霊≠フ言葉を悉く信ずる淫祠邪教とは一致しないのである。ヨーロッパ中世の宗教暗黒時代には霊媒現象を起す巫女を悪鬼に憑かれたる汚れたる者≠ニして、キリスト教牧師がそれを処刑して殺すことがキリストに忠誠だと信じられて合法的に行われたのであった。これらは霊媒現象の何たるかを知らない心霊学的迷蒙時代の出来事である。霊媒は一種の霊的ラジオセットのようなものであり、霊媒自身の心境の変化にしたがってラジオセットの受信周波数が変って来て、時には高級霊の霊示があり、時には低級動物霊の悪戯的放送による下らない霊界通信≠烽るのである。》

尊師が、このような霊の世界に大変、お詳しいことは、『生命の實相』に霊界篇があることでも知られます。

その背景には、大本教でのご修行がありました。

そのことは、箴言にある次の御文章でも窺えます。

《私は或る宗教の教祖の霊媒的自動書記によるお筆先の神示をその全冊にわたって調査したことがあるが、本当に神ならではこんな真理は書かれないと思われる深い意味をもつ神示もあれば、その反対に詰らない予言の適中しないのに、毎年老いの繰り言のように臆面もなく書き綴った部分もあるのを発見したのであった。霊媒の予言は時として驚くほど適中することもあるが、全部信じて、実行するならば、その一つでも間違った場合に取返しのつかない結果を招くことがあるから霊媒の予言を全部信ずる位ならば、全部信じない方が優しなのである。》

最後のお言葉が実に重たいですね。

このご文章の終わりに、註がありますので、それもご紹介しておきます。

《(註。古事記の仲哀天皇の項に審神者(さにわ)の語源が見られる。「天皇(すめらみこと)、筑紫の詞志比宮(かしいのみや)に坐して、熊曽国(くまそのくに)を撃(ことむ)けたまはんとせし時に、天皇、御琴を控(ひ)かして、建内宿彌大臣(たけうちのすくねのおおおみ)、沙庭(さにわ)に居て、神の命を請ひまつくりき。是に大后(おおきさき)、帰神(かんがかり)して・・・・・・云々」とある。帰神≠ニ書いて「かんがかり」と読むのであるが、大后即ち神功皇后さまが霊媒狀態におなりになり、天皇さまは霊を招びむかえるために皇后さまの精神を統一すべく一絃琴をお弾きになる。この場合、霊媒は神が憑(うつ)りてくる主(ぬし)≠ノなるので、神主≠ニいうのである。皇后さまが神主(霊媒)になられるので、上段の間に坐したまい、その神と問答する健内宿彌は臣下であるから、一段と下座して沙庭即ち沙の庭≠ノすわって、神主に憑(かか)ってくる神と問答する役を仰せつかっている。神と問答する役即ち審神者のことを沙庭≠ニ呼ぶようになったのは、このような故事による。)》

以上で、3月号の箴言は終わっているのですが、私の心に残っているのは「淫祠邪教」という言葉です。

尊師の創始せられた「生長の家」の神様が、この度、住吉大神から造化の三神に替えられた…。

本来、絶対にあってはならないことが起きたわけです…。

尊師を導いた神様は、言うまでもなく住吉大神であります。

そういう神様を取り替える…。

一体、どうしてそういうことが出来るのか?

それこそ、何か、変な霊の障りを受けているからではないのか…。

そういうことすら思ってしまうのです…。

それほどのことを総裁はやってしまったわけです。

もし、そういう変な霊に引っ張られて神様の取り替えが行われたとしたら、今の教団は完全に“淫祠邪教”に墜ちた、そう言われても致し方ないのではないのか。

そういう危惧の念すら覚えるのです。

ともあれ、今回の神様の取り替えがどういう結果をもたらすか。

それによって、私の言っていることが、果たして杞憂に過ぎないか、どうか…。

いずれ、時が明らかにしてくれるでしょう。

神様を取り替えたら一体、どういうことが起きるのか…。

信徒の皆さんは、それに否応なく、巻き込まれていくわけです。

とても無関心ではいられまぜん…。

これからも注視してまいります。




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