《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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3代目総裁が、尊師と清超先生と決定的に違うのは、それは体験談を少しも重要視しないことである。「救い」への思いが実に希薄なのです… (12069)
日時:2020年05月30日 (土) 14時59分
名前:破邪顕正


「谷口雅春先生を学ぶ会」ブラジル支部の会員からの報告です。

その方は、世界的自動車メーカーの10指に入ると言われるFCA(フィアット・クライスラー・オートモービルズ)通称FIAT(フィアット)社に務めていました。

ブラジルフィアット社が経営危機に陥ったときのことです。

その方は、この難局を生長の家の真理を実践しつつ乗り越えようと決意して、同社の幹部・社員をはじめ関係業者の大切な人への感謝祝福、霊牌供養を熱心に行いました。

その数は優に1000柱にも及びました。

その霊牌供養を2年ほど続けました。

すると他国では経営困難が続く中、ブラジルフィアット社のみが、営業成績が上向きになったのです。

そこで、この先祖供養の功徳の大きさを物語る良き体験例として、ブラジル伝道本部から日本本部に報告されました。

ところが、何の音沙汰もありません…。

後日、その理由がわかりました。

その体験例を読んた総裁が、こう言ったというのです。

「たまたまじゃないの!?ブラジルフィアット社の経営改善と彼が行った先祖供養と何の関係があるの?それを裏付ける、何か根拠でもあるの?」

総裁の、この冷ややかな反応で、その体験はボツになったというのです。

それを知って、その会員は、何のために信徒は御教えを実践しているのか。

総裁の言っていることは、信仰の世界とは全然、違う。

こういう反応しか示し得ない総裁とその指導に従う教団には、尊師・谷口雅春先生の御教えはない…。

そう判断して、教団を退会することにした、ということでした。

ご存じのように、ブラジル生長の家の活動は草創期よりめざましく、人間罪の子のカトリック教から人間神の子の教えに変わって、どれだけの人が救われていったか…。

まさしく、そのあまたの実証、体験こそが、民族を超えて、ブラジル全土に広がっていったわけです。

折角、生まれた素晴らしい体験を「たまたまじゃないの」という、この総裁の感覚、これは尊師や清超先生には全く見られないものであります。

この一事だけを取ってみても、総裁に〝法燈継承者〟の資格なしと断じてもいいぐらいのものであります。

それもこれも、結局、総裁には〝宗教的な救い〟というものへの関心が希薄だからこそなのです。

どこか、そういう体験談というものを、総裁は馬鹿にしている…。

現に、総裁の講話の中で体験談が紹介されたことがありますでしょうか。

だから、総裁の講話を聞いても、何か冷たい雰囲気を感じてしまうのだと思います。

例えば、「遠島流也」さんも、こう書いています。

〈一筋の道 (11153)
日時:2019年07月31日 (水) 16時11分
名前:遠島流也

私が、生長の家の講習会において、初めて三代目の話を聞いたのは、平成10年前後のことであるが、2度とは聞いてない。
雅春先生は、コップの中に箸を入れたら水面から折れて見える話をよくなさったが、実相の世界を理解させるために五官の頼りないことの一例としてであった.
ところが、その講習会で、三代目は、コップの箸の話と同工異曲の話を、延々と多数挙げて話すのである。
インジェクターの映像に、赤点を投影する差棒(今、「パワーポイント」と言っているものか)を使いながら、淡々と話すのである。
味気ないこと限りなく、どういうことかと思った。
神想観の指導はあったが、テキストは瞑想法の翻訳本を挙げていた。
唯神実相を観ずる神想観を、世に一般的に言われている瞑想法と相対化しようとの意図だったのであろうか。
無感動な話の連続だった。
しかし、最後までその講習会に居て深刻にどういうことかと思ったのは、そこには温かさ、ほのぼのとした幸せ感、有り難さ等のこれまで受けた講習会や錬成会で当然のこととしてあった宗教的な雰囲気が皆無であったことである。
無味乾燥で砂をかむような話の連続で、何とも言えぬ冷たさが漂っていたということなのである。(後略)〉

この〝何とも言えぬ冷たさ〟それは結局、総裁の中に、宗教的な救いへの情熱がない、煎じ詰めれば「体験談」を重要視しないことに起因する、そう思います。

そして、それは、「生長の家」がどうして生まれたのか、それを分かっていないからであると思うものであります。

それについては、また、稿を改めて書きたいと思います。



割り込み、失礼します。上の12069で破邪顕正さんがおっしゃっている遠島流也さんの記事、「一筋の道 (11153)」は、ここにあります。 (12071)
日時:2020年05月30日 (土) 22時46分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

遠島流也さんの記事、「一筋の道 (11153)」は、

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2667
です。


体験談を聞いて「たまたまじゃないの」という感覚は、もはや「生長の家」ではありません。果たして、救いのない、体験の出ない宗教団体があり得るのか… (12074)
日時:2020年05月31日 (日) 09時45分
名前:破邪顕正


上記のように、素晴らしい体験が生まれたから、総裁先生にお喜びいただけるものと思って報告したら、冷たい反応しか返ってこなくて、がっかりしたという話は、枚挙に遑がありません。

また、ブラジルからはるばる憧れの日本にきて、当然、総裁先生にお会いできると思って訪ねたら、面会を拒否されたと言って、唖然としたという話も漏れ聞いています。

なるほど、フィアット社の経営改善は、ただ先祖供養のみによるものとは言えないかもしれません。

しかし、ブラジルフィアット社だけが上向いたというのもまた厳然たる事実なのです。

やはり、霊牌供養による、関係者へのたゆまない祝福の祈りが同社の雰囲気を変えたということは、大いに認め、讃歎していいのではありませんか。

尊師は、ブラジル信徒の御教えへの明るく素直なる信仰の実践、情熱一杯の愛行を常に讃えてこられました。

もし、尊師が、総裁の「たまたまじゃないの」という反応を知られたら、どんなにか悲しまれることでしょう…。

そして、「生長の家」の根本が少しも分かっていないと嘆かれるのではないでしょうか…。

そう思う所以を書き留めておきます。

私は、かつて、こういう投稿をしています。

〈「理證」「文證」「現證」の深い意味を思い知るべし (501)
日時:2016年02月19日 (金) 17時39分
名前:破邪顕正

表題は、『新講「甘露の法雨」解釈』を紐解いて思ったことです。

その339頁に「理證(りしょう)」「文證(もんしょう)」「現證(げんしょう)」の文言が出てまいります。

この三つが一致するところに谷口雅春先生の教えの素晴らしさが証明されています。

「理證」…その教えが真理であることを道理性をもって証明すること

「文證」…その教えが真理であることを経文や論文の上から証明すること

「現證」…その教えが真理であることを現実の上から証明されること

聖経「甘露の法雨」は、ご存知のように、当初は、詩として発表されたものでありました。

ところが、それを読むと様々な「現證」が現れた。

で、これを信徒は「聖経」と称するようになったわけです。

一方、谷口雅宣総裁がつくった「経本」はどうでしょうか。

ご存知のように、谷口雅宣総裁は、この「聖経」を“補強”しなければならないとして、新しい「経本」をつくりあげました。

その結果、「聖経」に匹敵するような「現證」が続々と生まれたでしょうか。

そんな話、寡聞にして知りません。

にもかかわらず、〝SNI教団〟は、この「経本」を「聖経」と同じ扱いにしているわけです。

実際、聖経千巻読誦において、この「経本」の読誦もそれに入るという言い方をしています。

そうです、こういう形にして、〝SNI教団〟はなし崩し的に「経本」を「聖経」化しているのです。

練成会でも、どんどん「経本」の読誦が広がっています。

宇治の練成会では、それに加えて「万物調和六章経」が早朝行事で読誦されてもいます。

そういう動きが強まっている中で、今回、三重での事件が起きたわけです。

果たして、そのまま「経本」を「聖経」化していっていいのか。

〝SNI教団〟のいいなりになって、このまま「経本」を読誦していっていいのか。

「現證」として、よい結果が出ているのならばともかく、却って、問題が出ている、災いすら招いているというのに、それを見て見ぬフリしていいのか。

信徒は、そのことをしっかりと考えてみるべきだと私は思うものであります。〉

その教えから、どんな「現證」が出ているか、これは本当に重要な点です。

だから、尊師も清超先生も、信徒の体験談をとても大事にして来られました。

〝法燈〟を継承しようというのであれば、まずは尊師の、清超先生のなされようを、即ち、信徒の体験を大事にしていくという姿勢を、そのまま学び、受け継がないといけないのではありませんか。

そのことは、『生命の實相』にもはっきりと記されています。

例えば、新編『生命の實相』第22巻「教育篇」にはかくあります(10~11頁)

《宗教を実生活に生きるということ、これこそ「生長の家」の示した一つの新しい行き方であります。
学術上、哲学上、宗教学上に於てのみならばともかく、さて実生活に於て、人間を直下にそのままで神であり、仏であると見ることは既成宗教では実現し得なかったことであります。
…宗教が単なる学説になってしまって生活と渾然一つに合一しないのが今迄の宗教でありましたが、それを生活の上に現すのが、「生長の家」であり、それを実際に生活に現すことが出来るように導くのが本当の教育であります。》

最後の行は、〝実際に生活に現すことが出来るように導くのが総裁の使命であります〟と読み替えてもいいところではないでしょうか。

何度も申し上げて恐縮ですが、個人の「救い」よりも地球環境を守ることが大事だというのであれば、何も宗教団体であるはずはないのです。

〝実生活に於て、人間を直下にそのままで神であり、仏であると見…それを生活の上に現すのが、「生長の家」であり〟ます。

であれば、当然、それが具体的に実生活に現れたところの体験を重視するが本来の「生長の家」のあるべき姿だと思うものであります。

ふたたび割り込み、失礼します。上の12074で破邪顕正さんがおっしゃっている、ご自身の501記事、「理證・文證・現證の深い意味を思い知るべし」は、ここにあります。 (12079)
日時:2020年06月02日 (火) 01時42分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

上の12074で破邪顕正さんがおっしゃっている、ご自身の501記事、「理證・文證・現證の深い意味を思い知るべし」は、

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=122
にあります。

これには、

>もう、遊びの世界ではすみません。

という熱烈なる感慨を込めたレスポンス記事が一件ついています。



総裁は何故、信徒の体験談に関心がないのか。〝蛇の知恵〟のせいなのでは… (12223)
日時:2020年06月19日 (金) 08時56分
名前:破邪顕正


表題のことは、『幸せは今ここに』(北尾巳代次・著)を読んでいて思ったことです。

この中に、姫路市の白鷺道場を建てられた田中久子先生の話が出てきます。

ある時、誌友会に誌友4、5人と出講されて、最終バスに乗り遅れたことがあった…。

帰るに帰れなくなった誌友さんが、オロオロしている中、田中先生だけは落ち着き払って、「バスは必ず来る、神さま有難うございます」と祈っておられた。

そんなもの、祈ったって、どうなるものでもない…。

誌友さんが呆れかえっていると、何とバスが来たのです。

そこの部分を引用しましょう。

〈「いやもう、誌友の皆様が飛び上って一斉に歓声を挙げましてね。びっくりするやら喜ぶやらで一時はもう本当に大変なことだったんですよ。偶然にしてはあまり出来すぎておりますものね。しかし実を言えばこれは奇蹟でも何でもなくて、後で車掌さんに伺ってみると、その日の午後上の方に昇っていたバスが田圃の中に車輪をにえこませて、それを引き上げに行ったバスが最終バスの後にたまたま戻って来たのにすぎなかったのです。でも考えてみると神様の御業というものは実に行届いていて素晴らしいものだと思いました。あのことがあってから私達はお互いに〝蛇の知恵〟と言って戒め合うことにしているんです」
 さすがに姫路道場を建立された方々の心境の高さに頭が下がります。
 私達は谷口先生から常に実相を観よ、と教えられていながら、何か事にぶつかればすぐ現象の不完全な状態に心が引っかかって行詰まってしまいます。そんなとき田中さんじゃないが〝吾れ神と偕にある〟信念を常に心の底深く想い浮べて事に処さなければなりません。》(83頁)

この文中にあった〝蛇の知恵〟という言葉が目に止まりました。

総裁が体験談に対して「たまたまでしょ」と言ってしまうのも、まさしく〝蛇の知恵〟に毒されているからではないのか…。

私たちの心中にも、この〝蛇の知恵〟が盤踞していはしまいか。

昔の信徒さんのように「〝蛇の知恵〟と言って戒め合う」ようにしていかなければならないと自らに言い聞かせたことでした。




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