| 体験談を聞いて「たまたまじゃないの」という感覚は、もはや「生長の家」ではありません。果たして、救いのない、体験の出ない宗教団体があり得るのか… (12074) |
- 日時:2020年05月31日 (日) 09時45分
名前:破邪顕正
上記のように、素晴らしい体験が生まれたから、総裁先生にお喜びいただけるものと思って報告したら、冷たい反応しか返ってこなくて、がっかりしたという話は、枚挙に遑がありません。
また、ブラジルからはるばる憧れの日本にきて、当然、総裁先生にお会いできると思って訪ねたら、面会を拒否されたと言って、唖然としたという話も漏れ聞いています。
なるほど、フィアット社の経営改善は、ただ先祖供養のみによるものとは言えないかもしれません。
しかし、ブラジルフィアット社だけが上向いたというのもまた厳然たる事実なのです。
やはり、霊牌供養による、関係者へのたゆまない祝福の祈りが同社の雰囲気を変えたということは、大いに認め、讃歎していいのではありませんか。
尊師は、ブラジル信徒の御教えへの明るく素直なる信仰の実践、情熱一杯の愛行を常に讃えてこられました。
もし、尊師が、総裁の「たまたまじゃないの」という反応を知られたら、どんなにか悲しまれることでしょう…。
そして、「生長の家」の根本が少しも分かっていないと嘆かれるのではないでしょうか…。
そう思う所以を書き留めておきます。
私は、かつて、こういう投稿をしています。
〈「理證」「文證」「現證」の深い意味を思い知るべし (501) 日時:2016年02月19日 (金) 17時39分 名前:破邪顕正
表題は、『新講「甘露の法雨」解釈』を紐解いて思ったことです。
その339頁に「理證(りしょう)」「文證(もんしょう)」「現證(げんしょう)」の文言が出てまいります。
この三つが一致するところに谷口雅春先生の教えの素晴らしさが証明されています。
「理證」…その教えが真理であることを道理性をもって証明すること
「文證」…その教えが真理であることを経文や論文の上から証明すること
「現證」…その教えが真理であることを現実の上から証明されること
聖経「甘露の法雨」は、ご存知のように、当初は、詩として発表されたものでありました。
ところが、それを読むと様々な「現證」が現れた。
で、これを信徒は「聖経」と称するようになったわけです。
一方、谷口雅宣総裁がつくった「経本」はどうでしょうか。
ご存知のように、谷口雅宣総裁は、この「聖経」を“補強”しなければならないとして、新しい「経本」をつくりあげました。
その結果、「聖経」に匹敵するような「現證」が続々と生まれたでしょうか。
そんな話、寡聞にして知りません。
にもかかわらず、〝SNI教団〟は、この「経本」を「聖経」と同じ扱いにしているわけです。
実際、聖経千巻読誦において、この「経本」の読誦もそれに入るという言い方をしています。
そうです、こういう形にして、〝SNI教団〟はなし崩し的に「経本」を「聖経」化しているのです。
練成会でも、どんどん「経本」の読誦が広がっています。
宇治の練成会では、それに加えて「万物調和六章経」が早朝行事で読誦されてもいます。
そういう動きが強まっている中で、今回、三重での事件が起きたわけです。
果たして、そのまま「経本」を「聖経」化していっていいのか。
〝SNI教団〟のいいなりになって、このまま「経本」を読誦していっていいのか。
「現證」として、よい結果が出ているのならばともかく、却って、問題が出ている、災いすら招いているというのに、それを見て見ぬフリしていいのか。
信徒は、そのことをしっかりと考えてみるべきだと私は思うものであります。〉
その教えから、どんな「現證」が出ているか、これは本当に重要な点です。
だから、尊師も清超先生も、信徒の体験談をとても大事にして来られました。
〝法燈〟を継承しようというのであれば、まずは尊師の、清超先生のなされようを、即ち、信徒の体験を大事にしていくという姿勢を、そのまま学び、受け継がないといけないのではありませんか。
そのことは、『生命の實相』にもはっきりと記されています。
例えば、新編『生命の實相』第22巻「教育篇」にはかくあります(10~11頁)
《宗教を実生活に生きるということ、これこそ「生長の家」の示した一つの新しい行き方であります。 学術上、哲学上、宗教学上に於てのみならばともかく、さて実生活に於て、人間を直下にそのままで神であり、仏であると見ることは既成宗教では実現し得なかったことであります。 …宗教が単なる学説になってしまって生活と渾然一つに合一しないのが今迄の宗教でありましたが、それを生活の上に現すのが、「生長の家」であり、それを実際に生活に現すことが出来るように導くのが本当の教育であります。》
最後の行は、〝実際に生活に現すことが出来るように導くのが総裁の使命であります〟と読み替えてもいいところではないでしょうか。
何度も申し上げて恐縮ですが、個人の「救い」よりも地球環境を守ることが大事だというのであれば、何も宗教団体であるはずはないのです。
〝実生活に於て、人間を直下にそのままで神であり、仏であると見…それを生活の上に現すのが、「生長の家」であり〟ます。
であれば、当然、それが具体的に実生活に現れたところの体験を重視するが本来の「生長の家」のあるべき姿だと思うものであります。

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