| 「理證」「文證」「現證」の深い意味を思い知るべし (501) |
- 日時:2016年02月19日 (金) 17時39分
名前:破邪顕正
表題は、『新講「甘露の法雨」解釈』を紐解いて思ったことです。
その339頁に「理證(りしょう)」「文證(もんしょう)」「現證(げんしょう)」の文言が出てまいります。
この三つが一致するところに谷口雅春先生の教えの素晴らしさが証明されています。
「理證」…その教えが真理であることを道理性をもって証明すること
「文證」…その教えが真理であることを経文や論文の上から証明すること
「現證」…その教えが真理であることを現実の上から証明されること
聖経「甘露の法雨」は、ご存知のように、当初は、詩として発表されたものでありました。
ところが、それを読むと様々な「現證」が現れた。
で、これを信徒は「聖経」と称するようになったわけです。
一方、谷口雅宣総裁がつくった「経本」はどうでしょうか。
ご存知のように、谷口雅宣総裁は、この「聖経」を“補強”しなければならないとして、新しい「経本」をつくりあげました。
その結果、「聖経」に匹敵するような「現證」が続々と生まれたでしょうか。
そんな話、寡聞にして知りません。
にもかかわらず、〝SNI教団〟は、この「経本」を「聖経」と同じ扱いにしているわけです。
実際、聖経千巻読誦において、この「経本」の読誦もそれに入るという言い方をしています。
そうです、こういう形にして、〝SNI教団〟はなし崩し的に「経本」を「聖経」化しているのです。
練成会でも、どんどん「経本」の読誦が広がっています。
宇治の練成会では、それに加えて「万物調和六章経」が早朝行事で読誦されてもいます。
そういう動きが強まっている中で、今回、三重での事件が起きたわけです。
果たして、そのまま「経本」を「聖経」化していっていいのか。
〝SNI教団〟のいいなりになって、このまま「経本」を読誦していっていいのか。
「現證」として、よい結果が出ているのならばともかく、却って、問題が出ている、災いすら招いているというのに、それを見て見ぬフリしていいのか。
信徒は、そのことをしっかりと考えてみるべきだと私は思うものであります。
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