《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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一筋の道 (11153)
日時:2019年07月31日 (水) 16時11分
名前:遠島流也

私が、生長の家の講習会において、初めて三代目の話を聞いたのは、平成10年前後のことであるが、2度とは聞いてない。雅春先生は、コップの中に箸を入れたら水面から折れて見える話をよくなさったが、実相の世界を理解させるために五官の頼りないことの一例としてであった.ところが、その講習会で、三代目は、コップの箸の話と同工異曲の話を、延々と多数挙げて話すのである。インジェクターの映像に、赤点を投影する差棒(今、「パワーポイント」と言っているものか)を使いながら、淡々と話すのである。味気ないこと限りなく、どういうことかと思った。神想観の指導はあったが、テキストは瞑想法の翻訳本を挙げていた。唯神実相を観ずる神想観を、世に一般的に言われている瞑想法と相対化しようとの意図だったのであろうか。無感動な話の連続だった。しかし、最後までその講習会に居て深刻にどういうことかと思ったのは、そこには温かさ、ほのぼのとした幸せ感、有り難さ等のこれまで受けた講習会や錬成会で当然のこととしてあった宗教的な雰囲気が皆無であったことである。無味乾燥で砂をかむような話の連続で、何とも言えぬ冷たさが漂っていたということなのである。一体これはどういうことであろうか、何でこのような人が三代目になるのであろうか、それとも、それはそう感じた私の方が可笑しいのであろうか、と何とも言えない暗澹たる気持ちになったのである。その素直な感想を、そのまま当時教団内に居た尊敬する教えの先輩に手紙に書いた。特にそれに対する返事が来た記憶はないが、その後その先輩にお会いしたとき、「そのような問題はある。」旨の簡単な感想を頂いただけだったと記憶している。その先輩は、その後、講義の際に環境問題に触れなかったとの教団職員からのご注進があって、閑職に回され、結局は教団をお辞めになったと教団外に居る別の先輩から聞いた。非常に素晴らしい方であったが、環境問題原理主義は、このような優れた人も排除していったのである。また、三代目の大東亜戦争侵略発言などもあり、教団への思いは薄くなり、聖使命会費も止めた。そして、そもそも我が家の宗旨である曹洞宗の行を行うようになった。しかし、雅春先生の御本は常に読み続けていたし、聖教は、仏前で上げていた。その後も、宇治宝蔵神社へは、時々行っているが、年始のお参りの時は、真理の吟唱の雅春先生御朗読の肉声が全山に木霊し、尊師一色の様子にとても嬉しい思いがした。今、第2の仕事も終わり、いよいよ人生最終章を迎えて数年経った今、生長の家の教えを更に真剣に生きたいと思っている。そのための覚悟も兼ねてこの投稿をしようと思った。その切っ掛けの一つとなったのは、三代目が書いたというお経らしいものついての、実に素晴らしい分析と論述にまず出会ったことである。
 その論述は、「清流の民」との名前で、愛国掲示板に出されていたものである。別人の投稿(平成31年2月23日午前5時4分投稿。名前 志恩)の後ろの方に引用されていたものである。それで見ると、清流の民が投稿したのは、2017年7月8日である。それを見て頂ければ良いが、要するに甘露の法雨にある、「絶対の神の真性にして、神が現れれば即ち善となり義となり慈悲となり、調和おのずから備わり、一切の生物所を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし。」との実相世界の風光、これは甘露の法雨全編に響く実相の風光である.しかし、三代目が書いたという「観世音菩薩賛歌」なるお経仕立てのものの「善」の項目には、「大規模な火山活動にて、山崩れて海に入るとも、その結果に善悪なし、猛獣走りて鹿を倒し、カマキリの鎌、小虫を捕らうれども、その結果、必ずしも悪に非ず、善に非ず、定められた法則の産物に過ぎざるなり。」との文言が有るという。全てが調和した実相絶対の善を、明白に否定する文言である。霊感皆無の五官の常識に埋没している普通の言である。清流の民は、その他、その「観世音菩薩賛歌」の内容が、いかに雅春先生の教えと矛盾するものであるかを分かりやすく的確に指摘していて、何とも素晴らしい方だと思った次第である。それは、私があの講習会で感じた三代目の行き着く先だったのである。清流の民は、次の如く指摘する。先の「甘露の法雨」の冒頭、「神」の項の言葉の他、「全ての不調和不完全は畢竟悪夢に過ぎず。」との言葉、生命の実相「倫理編」にある「 物質の法則や自然界の法則は神の法則ではない。」との言葉を記し、三代目の前記記述は、生長の家の唯神実相の世界とは全く違うものであることを指摘している。そして、むしろ三代目の「猛獣走り手鹿を倒し、カマキリの鎌、小虫を捕ら売れども、その結果、必ずしも悪に非ず、善意非ず、定められたる法則の産物なり。」との最後の部分は、「「無明が自働自展する世界なり。」とするべきでしょう。それに続けて「有るように見えても本来なき世界なり。」と書くべきです。」と言う。雅春先生は、蛇が蛙を食べようとしているのを見、こんな弱肉強食の悲惨な世界を創造したのが神ならば、そんな神は否定する、として大本教での人気を博していた講話を決然と止め、大本教を去った。そして、遂に唯神実相の永久平和の世界を見いだした。このことは、生長の家の信徒なら誰でも知っていることではなかろうか。三代目は、何と、この雅春先生が否定した、蛇が蛙を食べることは、善に非ず悪に非ずなどと言い、雅春先生の唯神実相世界を否定しているのである。雅春先生によってエデンの楽園に再び帰る道を教えられたのに、法灯継承を自称する三代目は、再び蛇の智慧によって人類をエデンの楽園から追放しようというのである。朝日新聞、野党統一候補支持にまで繋がる一筋の道である。ところで、この清流の民の論述では、蛇が蛙を食べたのを見た雅春先生の出来事には言及していなかった。それで、その出来事に触れつつ「清流の民」に賛同の投稿をしようと思いつつ、荏苒時を過ごしていたら、今年2019年3月2日、清流の民が、まさに、この出来事に触れつつ再度の投稿を愛国掲示板にしてくれたのである。そこには、三代目の言っているのは、「環境倫理学」というものなのだという。環境倫理学では「自然と人間の共生」というところを、三代目は、宗教的装いを着けて「神・自然・人間の大調和」と言っているという。私は、この「神・自然・人間の大調和」との標語は、もともと、生長の家では、出てくるはずのないものだと思っている。人間神の子、唯神実相の世界を宣布するのが生長の家である。「神こそ渾ての渾て、神は渾てにましまして絶対なるが故に、神の外にあるものなし。神は実在のすべてを蔽う。存在するものにして神によって造られざるものなし。」を信じる世界に、神と自然と人間とが相対的に並べられる標語の生まれようがないではないか。以下、次回での投稿を許されたい。

ご参考のために、割り込みをお許しください。 (11154)
日時:2019年07月31日 (水) 21時00分
名前:管理人

遠島流也 様

真理の神髄に直入するご投稿をくださり、ありがとうございます。

上の親記事の中で仰っている

>清流の民が投稿したのは、2017年7月8日である。それを見て頂ければ良いが…

のなかの「清流の民」氏の投稿文は、

「観世音菩薩讃歌には『聖経・甘露の法雨』と矛盾したことが書かれている (6908)」
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1612#
だろうと思われます。これは2017年7月8日の投稿です。

以上、遠島流也様と一般閲覧者のために投稿しました。

とつぜん割り込んで、どうも失礼しました。どうぞお続けください。


管理人 拝





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