《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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ルソーと福沢の対話。天皇永続の原因と意義【補足2 of 3】日本神話を天皇制イデオロギーの産物と流布した丸山眞男への批判と是正(この掲示板のための本邦初の書き下ろし ということです) (15875)
日時:2025年11月29日 (土) 15時57分
名前:政治思想マニア

日本神話を「天皇制イデオロギーの産物」と規定した故丸山眞男氏の論理を合理的に否定・是正します。

戦後の日本を知的にリードした人の一人が故・丸山眞男氏であったことに異論を唱える人はいないでしょう。その丸山眞男氏は日本神話を「天皇制イデオロギーの産物だ」と強引に規定し、さらに戦後日本人の頭のなかを「学校で日本神話を教えることは危険だ~」との思考硬直に導きました。

その氏の主張は思想史として見るかぎり間違いであり、氏の態度は学者として極めて不誠実でした。以下、丸山氏の、「日本神話は天皇制イデオロギーの産物だ」という主張が間違いであることを批判し是正します。(なお、丸山氏が戦後の日本人の発想を「学校で日本神話を教えることは危険だ~」との思考硬直に導いた、その導き方が学者として極めて不誠実な態度であったことの紹介と批判は次回の記事で行います)

(1)丸山眞男氏は東京大学法学部の講義で、「日本神話は天皇制イデオロギーの産物だ」と解説しました。

   記紀の神話は一面において、こうした〈天皇統治を正統化するという〉
   高度な政治的目的の産物として抽象的な思弁の産物であると同時に、その
   素材として征服された地域の民間信仰や説話がかなりとり入れられており、
   目的意識性と自然生長性の奇妙な結合を示している…。
   (『丸山眞男講義録・別冊1 日本政治思想史1956/59』。東大出版会発行の
    「第一章 神国思想の端初的形態」p.32。括弧内は丸山)

   大和政権の形成を発生史的に根拠づけ、かつは天皇家の最高支配者としての
   正統性にイデオロギー的基礎を与えようとしたのが、記紀の説話の根本目的
   であった。
    (同書同章p.36~p.37)

(2)ここで丸山(故人ゆえに敬称略)が述べている「イデオロギー」とは、簡単にいうと、「政治権力層が自分に都合が良いように作った政治思想」です。

本来、イデオロギーideologyという言葉は「良い悪い」と関係のない単なる「政治思想」さらにもっと広い「思想形態」という意味だったのですが、19世紀に入って社会科学とくにマルクス主義が勃興したころから、このような「政治権力層が自分に都合が良いように作った政治思想」の意味で使用されるようになりました。さらに丸山が逝去したあとには、「自分に都合が良いように作った政治思想」という意味でも使用されるようになっています。したがって、「イデオロギー」という言葉を使う人は、その意味が単なる「政治思想」なのか「政治権力層が自分に都合が良いように作った政治思想」なのか、少なくともこの区別を明示して持論を展開することが必要です。また、読者は「イデオロギー」の意味が三者のうちのどれなのかに注意して読むことが必要です。

ところが…ここから少し話がそれますが…丸山はこの「第一章」のなかで「イデオロギー的基礎」の「イデオロギー」がどの意味なのかを全く説明していません。その理由で丸山は学者として(もっとも『講義録』だから教育者として?)甚だ不誠実でした。これは付言しておきます。そのうえで、それでは丸山はどの意味で「イデオロギー的基礎」と言ったのか。丸山は、「政治権力層が自分に都合が良いように作った政治思想」の意味で言いました。その理由と証明をここで提示することができます。しかしこの記事の読者には無用で面倒なことだろうと思うので省略します。

(3)丸山の、「記紀の説話は天皇制イデオロギーの産物だ」という断言は間違い。その実証的理由(ア)と、論理的理由(イ)。

(実証的理由ア)
すでにこの掲示板の記事【補足1 of 2】
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelo...
で説明したように、
『古事記』下巻には、たった七歳の子供に殺されたという「だらしない安康天皇」の話が書いてあり、『日本書紀』の武烈天皇の条には同天皇が繰り広げたエログロ・ナンセンスの姿が露骨に描かれ、さらに雄略天皇の条には多くの日本国民が雄略天皇を「大変悪い天皇だと非難した」と、はっきり書いてあります。このような内容が書いてある記紀の説話が天皇制イデオロギーの産物であるはずがありません。丸山はこの『講義録・別冊』のなかで色々めんどうな理屈を展開していますが、これらの記述が丸山のすべての小理屈を裏切っています。 


(論理的理由イ)
ここから少し堅苦しい表現と内容になります。もし丸山のように、「記紀の説話は政治的イデオロギーの産物だ」という前提に立って記紀を読解するならば、確かに「記紀の説話は天皇制(天孫系)イデオロギーの産物だ」という結論が出る。

しかし、それとともに、「記紀の説話は出雲系イデオロギーの産物だ」という結論も出る。つまり、「地上の日本国は出雲系神話の神であるスサノオ神や大国主神が苦労・努力して造った。それにも関わらず、天照大神たち(天孫系の神々)が大国主と武力闘争や条件交渉を行って大国主の日本統治権を奪った。だから日本国の国王(天皇)には、本当は出雲大社の子孫が就くべきだ」という結論も出るのである。

   ……と申すと、激怒する読者もおられるかもしれないので……この結論は、
   あくまでも丸山のように、「記紀の説話は政治的イデオロギーの産物だ~」
   という立場に固執して記紀を読解した場合の結論です。実際に、『古事記』
   にも『日本書紀』にも、「初めに地上の国を大国主が中心となって苦労して、
   不完全だが統一に近づけた」と読むことができる説話や神話が多くあります。
   つまり『古事記』によっても『日本書紀』によっても、初めに乱れた地上
   を統一しようと努力し、なんとか一応の成功を収めた神は大国主の神です。
   天孫系の神々ではありません。

   このことを逆にいうと、『古事記』にも『日本書紀』にも、「天孫系の神が
   最初に地上を統一しようと努力して成功した」という説話や神話は一つも
   ない…。これが事実です。
   
このように日本神話が、相対立するはずの二大集団(天孫系集団と出雲系集団)のどちらの集団にも都合が良いイデオロギーの産物だという結論が出てしまう。これは合理的にはありえない結論である。

このように不合理な結論が出た原因は根本的に、丸山のように「記紀は政治的イデオロギーの産物だ」と前提して(はっきり言うと、決めつけて)読解しようとする態度にある。丸山が東京大学で講義したような、「記紀の神話は…天皇統治を正統化するという高度な政治的目的の産物…である」という見解や、「天皇家の最高支配者としての正統性にイデオロギー的基礎を与えようとしたのが、記紀の説話の根本目的であった。」という見解は、幼稚な偏見から出発して到着した間違った見解にすぎない。

M・ウェーバーが社会科学の基本的態度の一つとして「ヴェルト・フライハイト」(価値判断を一旦排除すること)を提唱したように、記紀を論じるときにも政治的イデオロギーなどというそれこそ政治に流れやすい前提を離れて、「イデオロギーフリー」(フリーは「無い」の意味)を基本的な立場として読解してから論じるべきである。 





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