| ルソーと福沢の対話。天皇永続の原因と意義【補足1 of 3】『古事記』と『日本書紀』は、思想研究のための立派な史料。 (15867) |
- 日時:2025年11月24日 (月) 15時38分
名前:政治思想マニア
『古事記』と『日本書紀』は、思想研究のための立派な史料
【1】近代的文献批判を開拓した津田左右吉は『記紀』を利用した。
この「ルソーと福沢の対話」は『古事記』や『日本書紀』を利用しています。それがなぜかというと、奈良時代以前を語る本でまとまった本といえば記紀(古事記と日本書紀)ぐらいしか無いからです。
しかし読者のなかには高校や大学で、
「『古事記』や『日本書紀』は天皇制の権威を高めるために書かれた本である。昔の人々が本当に考えたことが書いてある本ではない。だから信用できない。これは記紀批判を確立した津田左右吉いらいの常識だ」
と習った人もおられるでしょう。
ところが、その津田左右吉(1961昭和36年没)が『文学に現はれたる我が国民思想の研究 1 』(岩波書店)という本のなかで『古事記』や『日本書紀』を利用しています。
さらに津田博士は、「わたくしの記紀の研究の趣旨」という論文のなかで、「『古事記』や『日本書紀』には実際に起こったことが書いてあるのではなく物語が書いてある。物語のほうが当時の人々の物の考え方を正確に読みとることができる」と述べて、思想史の研究材料として『古事記』や『日本書紀』を利用することに問題がない旨を書いています。
記紀に記されていることは歴史ではなく物語である。そう して物語は歴史よりもかえってよく国民の思想を語るもの である。 (岩波書店『津田左右吉全集』第二十巻344ページ。 初出は『歴史教育』昭和34年5月)
この言葉はいわゆる「言論の自由」が確保された戦後の発言です。だから津田氏が政府や国家権力に妥協した言葉ではありません。そうすると一部の高校や大学の先生の今の意見はどうなるのでしょうか。
誤解です。
津田博士は誤解されたのです。
いや、誤解されたどころか曲解をされたのです。
博士は今の言葉のあとで怒りを交えて次のように語っています。
この点に於いてもまた拙著は世間から誤解せられている らしい。・・・拙著の考えを、「政治的権力者が皇室を権威 づけようとする政策上の目的を以て故意にでっち上げた 虚偽の物語である」という風に曲解せられているように 見える。 (同書344~345ページ)
実際に津田博士はこのあと自分の発言を曲解した大学の先生たちに対して「私は手套を投げる(決闘する)」といって駁論を発表しました。
さらに博士はこの論文のなかで、「古事記と日本書紀に表れている思想は、当時の国家および皇室に対する心情の誠実なる表現である」とも語っています。
(私は古事記と日本書紀を)上代人の国家および皇室に対 する心情と思想との誠実にして真摯なる具体的表現と見た のであるから、そこに思想史上、精神史上の至大の価値を 認めたのである。 (同書344ページ)
繰りかえしになりますが、この文章は「言論の自由」が確保された戦後に書かれました。津田左右吉のこの問題点に関する主張は戦前も戦後もほとんど変わっていないのです。
ただ…ここから津田博士には失礼になるかもしれませんが……博士が誤解されたのは、博士にも原因があります。津田博士が戦前に出版した本を読むと、「津田左右吉は、古事記や日本書紀に書いてあることを全て否定した」と読者が理解してしまうような書き方が多い……。これが事実です。
精緻な文芸評論家であった小林秀雄も、そのように理解したと思われる感想随筆をどこかで書いていました。わたしも学生時代に津田さんの本を流し読みして、「これでは古事記や日本書紀から何も残らない。『これは嘘。あれもウソ。』ということになって、記紀の中身が空っぽになる…。」と感じたことがありました。しかし津田さんご本人としては、戦前から戦後にかけて自分の意見が全く変わっていないのです。
結局、津田さんの文章記述にも問題があったけれども、やはり変わったのは戦後の知識人たちだった(ここで、それが良い悪いはあえて問いません)のでしょう。戦後の津田さんが、「私は今も昔も変わっていない!」と言って、ひどく怒っているのですから…。それでもなお高校や大学の先生のなかに、「津田左右吉以来の常識だから日本の思想史研究に記紀は使えない」などと言う人がいるならば、その人は博士の著作を読んでいない人です。
【2】 「実証主義の権化」とまで言われた坂本太郎博士も『記紀』を信用した
その津田左右吉と多くの点で学問的な論争をくりひろげて、『古事記』や『日本書紀』の記述をどこまで信用するかについても津田氏を批判した坂本太郎(1987昭和62年没)という日本史の学者がいました。
坂本博士は東京大学で国史(日本史)を教え、着実で手堅い学風から「実証主義の権化」とまで言われた人ですが、この人も『古事記』や『日本書紀』を思想史研究の材料に利用することを認めています。
坂本博士は「歴史事実」を「狭義の歴史事実(いつ・どこ・だれ等)」と「広義の歴史事実(思想・風潮・文化)」の二種類にわけます。
そして、「広義の歴史事実」は古い役所の文書や記録だけでは解らないが、文学書のようなものから知ることができる。だから『古事記』や『日本書紀』を、広義の「歴史事実」を伝える史料として捨てることはできないと語っています。
…歴史事実と称するものには、もっと広い意味のものも あるはずなんです。たとえば、その時代の精神、社会、 文化の状態というものは、そういうこまかい文書・記録 だけでははっきりわからない、大づかみにできない場合 があるのです。
…文学書のようなものは、狭義の意味の史料には役立た ないが、その時代の様相はよく示しているということが できます。……文学書や新聞のようなものも、広い意味 の歴史事実を伝える史料として捨てる事はできません。 (『日本歴史の特性』248ページ)
さて、それでは『古事記』や『日本書紀』には本当に古代人の思想や風潮が表れているのでしょうか。『古事記』や『日本書紀』は当時の朝廷が自分に都合よく作り上げた(あるいは編集した)ものなのではないでしょうか。
坂本博士は、『日本書紀』や『古事記』が作成されたときに、そのもとになった材料である『帝紀』『旧辞』を朝廷が整理したことは考えられるが、朝廷がその『帝紀』『旧辞』などの神話を勝手に作り上げたのではない、と主張します。
そして、『古事記』や『日本書紀』の内容は諸外国の説話とも符合するものがたくさんあるのだから、『古事記』や『日本書紀』は、特定の人間が自分に都合がよいように作りあげたものではないと断言しています
たしかに、『日本書紀』や『古事記』のもとになったもの は、天武天皇が整理したいわゆる『帝紀』『旧辞』という 材料です。これはだいたい、六世紀ごろの成立とみられ ます。しかも、その時はじめて書いたわけではなく、昔か らの伝承を基にしてこの時書いたものです。それに異説が できたので天武天皇が整理して歴史を編纂しようとした。
これがだんだんと後に発展して、元明、元正天皇の時に でき上がった。だから、今のように整然たる組織になるに は、朝廷で伝説、神話などをいろいろ整理した、という事 は当然、考えられます。
しかしそれだからといって、その基になっている『帝紀』 『旧辞』、いわゆる神話の類が全部朝廷で作られたという のは大変なまちがいです。……それは、だれだかわからな い名もない人々によって伝えられた。こういうものが元に なっているのです。そのもとまで否定しては困る。
ところが、世間では、日本神話は朝廷が作ったものだと言 うと、全部そうだと思って、全然、価値がないという。 とんでもない話です。伝承として古くから伝えられている 立派なものなのです。事実、内容を見ても、諸外国の説話 とも交渉するものがたくさんあるわけで、特定の人々が これを作ったというものでは、絶対にありません。 (『日本歴史の特性』249~250ページ)
さて、それでは……しつこいようですが……坂本博士は『古事記』や『日本書紀』からどのような思想の事実が判明すると言っているのでしょうか。
まず、坂本博士は講演のなかで明治以降の日本の歴史教育について語っています。
博士はそのなかで、日本敗戦以降のいわゆる科学的歴史学が歴史教育から神話を追放したことを「重大な失敗である」と述べています。そして、「神話は古代人が国家や皇室の起源について抱いた素朴な歴史観である」と断言しています。
この博士の断言は、「記紀は古代人の思想をしらべるときの有効な材料になる」という前提をもたなければ出ない断言です。また、津田左右吉博士の発言とよく似た内容の断言です。
坂本博士は津田博士をいろいろの点で批判しましたが、この問題点においては両者が一致しているといって良いでしょう。
(歴史学や歴史教育が)科学的でなければならぬという ことにも、よほど注意する必要がある。……神話を捨てる ことが科学的だと速断するのはおかしい。むしろ神話を 無視し、神話についての知識を歴史教育で与えないという のは、重大な失敗である。
神話は古代人が国家や皇室の起源について抱いた素朴な 歴史観であり、それが後世の歴史の展開に寄与した力は 偉大であった……。 (『日本歴史の特性』235ページ)
なお、このついでに触れておきます。文学部で国史学を教えていた坂本博士と同じ東京大学の法学部で日本政治思想史を教えていた丸山眞男教授は、学校で児童生徒に日本神話を教えることに強く反対していました。
これを詳しく言うと、丸山眞男教授は日本敗戦から20年ほど経った1964(昭和39年)の6月に、自分の恩師にあたる南原繁教授(東大政治学)と対談しました。そのなかで、南原は条件付きながらも日本神話を好意的に解説して、「あの神話においては…われわれの…日本民族の永遠性を信じ…ことに神国といっているところに、象徴的意味がある。これをどう批判的に意味を汲み取っていくか(が、今後の日本人の重要な課題だ。だから学校で神話を教える意義がある)」と、神を信じるクリスチャンらしいけれども今では猛反発を食らいそうな意見を出しました。
それに対して丸山眞男教授は、「断ち切るという決断がなければ、そもそも革命にならない。しかし断つといったところで、われわれがタコの糸がきれたように、祖国と祖国の歴史から離れて空中に飛んでゆくわけではない…」と述べて、南原の意見を全面的に否定しました(どちらの発言も岩波書店『丸山眞男座談5』)。つまり、日本敗戦を転機として東大法学部(政治学)の主要教員のあいだに、「日本神話に関する意識の革命的転換」があったわけです。
また、その丸山眞男教授は、東大文学部で国史(日本史)を教えていた井上光貞教授とも対談しました。その対談でも丸山教授は、「学校で神話を教えるべきではない」という主張を井上教授に語り、井上教授も基本的に同意しました(同書。ただ、井上教授はのちに考えを変えたようです)。実は、井上教授は先の坂本博士の後継者と言っても問題ない大物の国史学者でした。つまり、東大文学部(国史学)の主要教員のあいだでも法学部と同じように、日本敗戦を転機として「日本神話に関する意識の革命的転換」があったのです。 このような革命的転換は日本の教育・マスコミあらゆる面で遂行されました。「日本神話は古くさい。危険である」という合言葉のもとで日本神話が教えられることがなくなりました。日本神話を根拠にして自分の思想や政治を語る者がいると必ず危険人物あつかいされて猛烈に批判される時代がつづきました。その傾向は基本的に今も続いています。
【3】 『記紀』には「天皇批判」や「天皇の価値を落とす話」も書いてある。
・・・ということで説明を続けます。実は、実際の『古事記』や『日本書紀』には、天皇制の権威を高めるどころか天皇制の権威を低める内容がたくさん書いてあります。たとえば、すでにこの「ルソーと福沢の対話」で紹介したことですが、『古事記』下巻には、たった七歳の子供に殺されたという「だらしない安康天皇」の話が書いてあります。
また『日本書紀』には、武烈天皇が妊婦の腹を割いて胎児を見た、人の生爪を抜いて山芋を掘らせた、また人を池の樋の中に入らせて、外に流れ出てくるのを三つ刃の矛で刺し殺して喜んだ、さらに、あろうことか女たちを裸にして、その面前で馬に交尾させ、そのあと女の陰部を調べ、潤っている者は殺し、潤っていない者は官婢として呼び上げるのを楽しみとしていた……という話が書いてあります。
もし、このような話が「天皇制の権威を高めることになる」と言う人がいるならば、その人たちはすこし変わった「人に言えない趣味」を持っているにちがいありません。
またさらに、『日本書紀』雄略天皇の条には、粗暴な雄略天皇の挙動を具体的に列挙して、「ほとんどの人民が雄略天皇を『大変悪い天皇だ』と非難した」と、はっきり書いてあります。この点から見ても、「日本書紀は天皇制の権威を安定・高揚させるために書かれた本だ。」と言うことはできません。
もしこれでもなお「記紀は天皇制の権威を高めるために書かれた本だ。」という人がおられるならば、その人はたとえ高校の先生であろうが大学院の教授であろうが、「高める」と「低める」という簡単な日本語のちがいが解らなくなった人なのでしょう。そのような先生たちには、失礼かもしれませんが高校に再入学して現代国語の勉強をしなおすことを勧めるほかに手がありません。いや、「高める」と「低める」だから、小学校に再入学がふさわしいでしょう。いずれにせよ、『古事記』と『日本書紀』は扱い方をまちがえなければ、思想史研究のために有効で確実な史料となりうるものです。
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