| 尊師いませば現総裁は“義絶”されるに違いないと私が確信する、その理由を書いておきます… (12240) |
- 日時:2020年06月21日 (日) 08時48分
名前:破邪顕正
ずいぶん、前になりますが、表題の“義絶”の問題に関して、「サマリア人」さんが、こういう投稿をしています。
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他宗教の歴史も参考になるかもしれません (5420) 日時:2017年03月16日 (木) 11時52分 名前:サマリア人
たまに出てくる者です。
実は私も、いわゆる「善鸞義絶」事件など、気になっているところです。 (なお、善鸞義絶については、何分古い話で、諸説あるようですが。)
生命の実相だったか、あるいは雅春先生の他の御著書だったか、忘れてしまいましたが、「善鸞が『親鸞聖人が言い忘れたことを私が知っている』というと、不安に思った信徒たちが集まって話を聞きに来た。しかし、この信徒たちの信仰とは、その程度だったのか……」
みたいな記述があったと思います。 (どの本だったか御存知の方、また記憶違い等ございましたらご指摘下さい。)
その他、禅宗の、米つき男から六祖となられた慧能禅師の話 (これも、生長の家でもよく取り上げられていた話と思います)、
(以下はあまり生長の家では論じられていないと思いますが) さらには、カトリックの腐敗からプロテスタントが生まれた経緯やその後の両派の歴史や現状、
また、そもそも、キリスト教最初期からの異端問題(キリスト仮現説等)、旧約聖書を共通の聖典とする、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の近親性と、それゆえの対立、新興宗教での分裂の歴史(大本教、霊友会、天理教…)等々、他宗の法統継承や、分裂の歴史を考えると、現在生長の家で起きていることも、もちろん、宜しくは無いのだけど、一方、それほど特異なことではない……と思えますし、これらから、何かしら学ぶこともあるのではないか、とも思います。
(後略)
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ここにある「善鸞義絶」事件については、私も関心があり、
〈「諸悪の因 現総裁」というのが私の認識です。そういう総裁を生み出したのは私自身であると自覚しています。その責任を如何にして果たすか、それを問うているのです… (12178)〉
ここに書かせていただきました。
関係ある箇所のみ、引用させていただきます。
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(前略)教義を変えたら、どうなるか。
新編『生命の實相』第21巻「万教帰一篇」に親鸞の子、善鸞のことが出てまいります。(15~18頁)
《善鸞が、極楽往生の秘訣を親鸞聖人から皆伝されたのはこの善鸞だけである、親鸞聖人は自分にだけ本当のことを教えたのであって、ほかの人には好い加減なことを教えていたのだ、本当に救われたいものは、その秘訣を知るために善鸞のところへ来いと宣伝した。すると今迄親鸞聖人の教にしたがって、それで極楽往生が出来ると思っていた門徒たちが、これでは極楽往生が出来ないかも知れないというので大騒ぎして諸方から京都へ馳せ参じた。…それに対して、親鸞聖人は「念仏はまことに、浄土に生るるたねにてや侍るらん。また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもて存知せざるなり。」どうせ自分の力では極楽へ行く力のない地獄行きは必定な自分であるから、法然上人に「念仏となえて極楽往生出来るものだ」と瞞されて、それが嘘であって、結局地獄へ堕ちるようなことがあっても、損得なしである。釈迦がいうたのだから間違はあるまい。善導大師がいうたのだから間違あるまい、法然上人がいうたのだから間違はあるまい--などと空嘯いて頗る頼りないことをいっているのであります。この話を聞いていますと、親鸞聖人を取卷いていた弟子たちがどんなに宗教的に無識な人間どもであって、極楽往生には何か手品の種のような秘訣秘伝があって、その秘伝を教えてもらわねば、極楽往生は出来ないと考えていたかということが判るのであります。…親鸞聖人の悟りの境地に達する人がない。自分の意中を知る弟子が一人もない。》(15~16頁)
この善鸞について、脚注でこう説明されています(15頁)。
《関東で親鸞に背く教義を唱えたとして、父、親鸞から義絶された》
もし、尊師が今の総裁の言動を具にご覧になられたら、必ずや義絶されるに相違ないと私は確信をもって言うことができます。
ここまで教義を変えられたら、それは義絶に値する…。
その根拠を明らかにしたいという思いがあって、今、こうして投稿し続けてもいるわけです。
(後略)
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今の教団は“血脈”のみを拠り所として、その組織維持を図っているというのが私の見立てです。
それに対して、私は“法脈”に立つものであります。
それについても、
〈「あめのうずめ」さんも、お帰りなさい… (12188) 日時:2020年06月15日 (月)〉
この中で言及しています。
これまた関係のある箇所のみ、引用しておきます。
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(前略)
私は、今の教団は、もし縦糸があるとすれば、それは尊師の“血脈”を継いでいるという一点しかないと見ています。
もはや、教団は、その縦糸に縋るしかなくなっている…。
それに対して、私たちは、所謂、尊師の灯された教えを護り抜く、即ち“法脈”を第一義にしていく立場だと思っています。
そういう私たちにとっての根本精神が、新編『聖光録』にある〝人類光明化運動のパテントは諸君に譲られた〟であると私は思っています。
尊師が神から啓示を受けられて始められた「人類光明化=日本国実相顕現運動」を尊師だけに頼るのではなく、運動として、組織として吾々一人一人が住吉大神の全身全霊となって推し進めていかなくてはならない…。
これは、その歴史的なご文章であると思っています。
当然、総裁は、今回の『“新しい文明”を築こう』からは、見事にこれを削除しています。
総裁にとっては、実に、それは都合の悪いご文章だからでありましょう。
言うまでもなく、私たちにとって、何より大事なのは、尊師の御教えであります。
この御教えが総裁によって変質せしめられ、このままでは後世に伝え遺されていかない、それを心底、危惧したからこそ、私たちは起ちあがったのです。
その危惧は、もののみごとに当たりました。
それが、今回の『“新しい文明”を築こう』なのです。
これが、今後の「生長の家」のバイブルとなっていくのかと思うと、それこそいてもたってもいられない思いに駆られます。
先の「通達」と言い、今回の『“新しい文明”を築こう』と言い、これは“法脈”を断ち切る以外のなにものでもありはしません。
それを、総裁は“血脈”を笠に着てやろうとしているのです。
果たして、信徒が本気で護るべきは何なのか?
“血脈”なのか“法脈”なのか?
それが今、このとき、問われているのです。
これまでの私自身の半世紀近い信仰に賭けて、これに立ち向かわなくてはならない、そう決意している次第です。
(後略)
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この“血脈”か“法脈”か、それを考えるとき、“義絶”はとても重要な観点となります。
“血脈”より“法脈”をとる、それを明らかにしているのが、この“義絶”だからです。
前置きが大変、長くなりました。
今回、ご紹介したいのは、『生活と人間の再建』にある、このご文章です(254頁)。
《すべての善き宗教はこの「幸福の法則」と調和する道を説いている。
然し多くの既成宗教は其の教祖の教えた、原理を後世の祖述者によって歪められて伝えられたため、教祖の教を晦まし、人間の心を啓蒙せず、却って混乱に導き「法則」へ調和する道が判らなくなってしまって教祖時代と同じような奇蹟的治療があらわれなくなっているのである。
生長の家の出現の理由は、すべての宗教よ、その宗祖の教えにかへれと云うことである。》
読まれて、如何ですか?
最後の一行を読んでハッといたしませんか。
“宗祖の教えにかへれ”といわなければならない「生長の家」なのに、総裁は、それをしも「原理主義」というレッテルを貼って排除してしまったのですから…。
それによって“教祖の教えた、原理”が“歪められて伝えられたため、教祖の教を晦まし、人間の心を啓蒙せず、却って混乱に導き…教祖時代と同じような奇蹟的治療があらわれなくなっている”…。
それが今の教団の偽らざる現状でありましょう。
そうであれば、“血脈”の総裁に取って替わって“宗祖の教えにかへれ”と言い続けなくてはならない…。
それが“法脈”に立つものの使命であると思うものであります。
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