《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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教団内“本流派”は、なぜ、「和解論」から「諦め論」へと変わってしまったのか、そこから見えてくる教団内“本流派”の根本的問題とは… (12196)
日時:2020年06月16日 (火) 08時56分
名前:破邪顕正


表題は、「トキ」さんのこの投稿を読んで思ったことです。

関係箇所のみ引用します。

〈雑感 (29402)
日時:2020年06月16日 (火) 00時21分
名前:トキ

(前略)現在の組織内での士気の低下は著しく、総裁の言動には匙を投げるという反応を示す人が多いです。教化部長についても、立派な人もいますが、保身第一の人もいて、責任を他人に平気でなすりつける卑劣な人物もいて、信徒から「あんな人がどうして指導者でいるのか」と嘆く声も出ています。職員の中には、年金と退職金だけが関心事で、谷口雅春先生のお気持ちとか、日本国の実相とかよりも、自分の老後だけが心配だという悲しい人もいます。

最近、問題になっている「造化の三神」についても、部内では諦めの声が多いです。ここで言う「諦め」とは、総裁の権力に盛られないと言う意味もありますが、それ以上に、もう生長の家という組織は崩壊が確実だという「諦め」もあります。

大東亜戦争で言えば、サイパン島陥落、レイテ決戦の敗北、硫黄島の玉砕と続き、沖縄の先頭が最終段階になっているような段階でしょう。

このような状況下でオンライン行事が成功したとしても、それで全ての行事を補えるものではないと感じております。

残念ですが、一度、現在の教団は行き詰まり、その上で再起をする事により、教えが復活すると思っています。〉

思えば、「トキ」さんとは、長い付き合いです。

こうしてお付き合いができたのは、立場こそ違え、「尊師の教えに帰れ!」という思いだけは同じだと感じてきたからこそです。

そういう観点から、私は、「トキ」さんのことを教団内“本流派”と称することにしました。

その「トキ」さんが、このような投稿をするにいたったことは、私なりに、大変、重大に受け止めています。

「和解論」から、これは「諦め論」への大転換に他ならないと思うからです。

何故、そうなったのでしょうか。

一言にして言えば、「和解」派は、総裁を完全に見誤った、これに尽きます。

話せば判る人である…。

そのうち目覚めるときがくる…。

総裁も生長の家を良くしたいという善意に溢れた人である…。

私は、「和解」派の心底には、そういう思いが大なり小なり、あったと見ています。

それがなければ、そもそも「和解論」などということが成立しようはずがありませんから…。

で、私は、それに対して、総裁はそういう人ではない…。

総裁は、生長の家を自分の思うような教団に取って替えるべく乗り込んできた〝確信犯〟である…、一貫してそう言い続けてきました。

そういう総裁であってみれば、教団に残っても“本流に帰れ”の声は潰されるだけ…。

いくら、「トキ」さんが、こうあるべきだの“べき論”やこうしてほしいの“願望論”を述べ立てても、それが総裁に受け入れられる余地は全くない…。

そう言い続けてきたのでした。

で、今回の「トキ」さんの投稿を見て、これは「和解論」の終焉であり、敗北宣言なのだと私は見ました。

言うなれば、それだけ、総裁の“独裁”体制の壁は厚かった、ということなのでしょう。

で、「トキ」さんは、最後にこういうわけです。

〈残念ですが、一度、現在の教団は行き詰まり、その上で再起をする事により、教えが復活すると思っています。〉

これを読んで、私が思ったことは何か。

“残念ですが”「トキ」さんの文章には、主語に“自分”“私”がない…。

どうして、“教えが復活する”と“教え”を主語にするのですか。

何もしないで、勝手に“教えが復活する”わけがないでしょう。

本気で“教え”を復活させたいと思うならば、そのために自分はどうする、それが大事なのではありませんか。

教団愛に溢れているはずの「トキ」さんともあろう人が、もうこの教団は駄目だ、落ちるところまで落ちないと目が覚めない、そこまで行かないと再起もできない、だから、それまでじっと待っていましょう…。

そこまで落ちれば、勝手に“教えが復活する”…。

我が子が駄目になっていくのがわかっていて、この子は落ちるところまで落ちないと目が覚めない、だから落ちるのをじっと黙って見ている…。

そんなものは“愛”ではないでしょう。

この投稿に対して、私が何に怒っているか、「トキ」さん、判りますか。

その駄目になっていく教団の中には、数多の信徒がいるということなのです!

私がなぜ、投稿し続けているか。

尊師の教えを眩まされ、総裁によってニセモノを「生長の家」の教えのように教え込まれて、それに信徒が騙されていくのを黙過するのが耐えられないからです!

教団が駄目になろうが、そんなことは私にとってはさほど重要なことではありません。

総裁が自ら蒔いた種だから、因果の法則の、それはしからしむるところだと思うだけです。

私にとっての第一義は、それは尊師の教え、それ以外にはありません。

だから、“教えが復活する”などと、評論家みたくそうなるようなことを、いとも簡単に、安易に言ってもらいたくはないのです…。

尊師の教えを護る、復活せしめるために、“今”自分は何をするか。

今の自分にできることは何か。

その“今”に生きないで、どうするんですか、それを言いたかったということです。



割り込み、失礼します。上の12196で破邪顕正さんがおっしゃっているトキさんの〈雑感〉は、ここにあります。 (12199)
日時:2020年06月16日 (火) 11時44分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

12196で破邪顕正さんがおっしゃっている、トキさんの〈雑感〉は、
https://bbs5.sekkaku.net/bbs/toki2/mode=res&log=6561
の3件目の記事です。




「トキ」さんの「諦め論」を拝見して、これは“デジャブ”どこかで見た光景だということを思い出しました… (12211)
日時:2020年06月17日 (水) 17時11分
名前:破邪顕正

その方は、総裁の言動に呆れてこう言われたのでした。

「もう駄目だ。これで生長の家は、あと100年は立ち直れない…。どこかで中興の祖が出て来るのを期待するしかないな…」

こういう「諦め論」は、その裏に、中興の祖の出ることを期待する、いわば僥倖頼みのところがあるように思うのです。

何を申し上げたいか。

そこには、自分でこの閉塞せる状況を切り拓いていこうという、主体性ある意志、決意、覚悟がみられない…。

それを何よりも憂えるのです。

それは、尊師の立教の精神に、真っ向から反すると思うのです。

『創刊号』で尊師はこう言われました。

《如何にせば境遇の桎梏から脱け出し得るか、如何にせば運命を支配し得るか、如何にせば病気を征服し得るか、また如何にせば貧困の真因を絶滅し得るか、如何にせば家庭苦の悩みより脱し得るか…》

まさしく、この“如何にせば”それこそが、立教の志、そのものではないでしょうか。

だから、吾々には「諦め」ているヒマなどはないのです。

《如何にせば総裁の桎梏から脱け出し得るか、如何にせば生長の家の運命を好転せしめ得るか、如何にせばサヨク路線を改めせし得るか、また如何にせば教勢低迷の真因を絶滅し得るか、如何にせばニセモノの信仰の苦悩より脱し得るか…》

やらなきゃいけないことがいっぱいあるではありませんか。

どうして、その現実を前にして「諦め」の世界に逃げ込もうとするのか。

たとい、自らの力は小なりといえども、尊師の立教の志だけは受け継ぐ…。

その気迫、迫力、意気込みだけは、どんな状況に立ち至ろうとも、決して捨ててはならない、そう思うものであります。



「諦め論=行き詰まり論」に陥るのは、はじめに「退会しない」と決めつけてしまったからではないのか。だから、選択肢が狭まってしまった… (12216)
日時:2020年06月18日 (木) 10時32分
名前:破邪顕正


私の投稿が「トキ」さんいじめであるかのように言う方があるそうですが、実に心外であります。

私が「トキ」さんのことを重要視しているのは、目指す方向が“本流”として同じと思えばこそなのです。

そのことだけは、是非、ご理解いただきたい。

その上で、どうして「和解論」は「諦め論」へと変わってしまったのか。

私なりに考えていることを更に提起したいと思います。

誤解を恐れずに言わせて貰えば、「諦め論」は、結局、すべてが行き詰まったということの何よりの証左に他ならない、私はそう見ています。

こうあるべき、こうして欲しい、そういう“べき論”“願望論”が悉く、総裁“独裁”体制の前で跳ね返されてしまった…。

もう、何ともしようもない、お手上げ状態に陥った…。

それが「諦め論」の背景にある厳然たる現実なのではないでしょうか。

私の好きな「打つ手は無限」という詩の中にある言葉を紹介します。

〈…どんな時でも、どんな苦しい場合でも、愚痴を言わない。
参ったと泣き言を言わない。
何か方法はないだろうか、
何か方法はあるはずだ、
周囲を見回してみよう。
いろんな角度から眺めてみよう。
人の知恵も借りてみよう。
必ず何とかなるものである。
何故なら打つ手は常に無限であるからだ。〉

「トキ」さんに、申し上げたいのは、ここにある“いろんな角度から眺めてみよう”ということなのです。

今回の「諦め論=行き詰まり論」のネックとなったのは、それは「トキ」さんが、「退会しない」と決めつけたところにあるのではないのか。

そのために、実に選択肢が狭まってしまった…。

戦闘〈戦術〈戦略

この図式は、何よりも戦略こそが一番、大事だということを示しているものですが、「退会しない」という戦略そのものに問題があった…。

これを『生命の實相』の観点から見れば、「退会しない」に拘ったことによる弊害である、そう思うのです。

新編『生命の實相』第21巻「万教帰一篇」にかくあります(162~163頁)。

《何にでもかかることは自分を縛る事になります。生長の家では何にも引掛かるなという教えです。「かかる」という字は「拘わる」ことで、くだいて言うと引っかかるということであります。病気にかかる、詐欺にかかる、犯罪に引っかかる、どうも、この「かかる」という奴はあまり感心しないのであります。拘らなくならなくてはならないのであります。引っかかるからいけない。サラサラとしていのちの流れのままに本当に生きて行ったならば、それでそのままサトリである。そのままそこに仏が現成している。現にそこに仏が成就しているのであります。生長の家では「そのまま」という言葉をよく遣う、そのままに到るところに仏があり、ここに仏があり、本当に有難いのです。》

手前味噌になりますが、「谷口雅春先生を学ぶ会」が今日あるのは、まずは、教団の外に出たからである…。

外に出たから、自由を勝ち得た、そう思います。

次に、教団と徹底して対峙していくという戦略をとった…。

どんなに「恩知らず」「不満分子」「裏切り者」等、罵られようとも、何故、外に出たのか…、それを信徒に理解してもらうには、徹底して、総裁の、教団の非真理性を剔抉してくほかない…。

その正当性、正統性を訴えていくには、時として、敢えて、裁判になるのも辞さない、その覚悟をもって対峙した…。

そして、決定的だったのが、教団と真っ正面から対峙していくという戦略をとる以上、宗教団体になるしかないと腹をくくったことにある、そう思っています。

「打つ手は無限」

それが可能なのは、自由だからこそなのです。

その貴重な自由を、「退会しない」ということで、自ら手を縛ってしまった…。

それがために、最終的に「諦め論」に陥らざるをえなくなってしまった…。

何故、ここまで「トキ」さんの投稿に私が注目するのか。

それは、「トキ」さんが、他ならぬかつての私の姿だからです。

一歩、選択を誤れば、もしかしたら、私もまた「トキ」さんと同じようなことになっていたかもしれない…。

それが決して他人事ではないからこそ、そして、そういう「トキ」さんのような考えが多くの支持を得ていると思うからこそ(所謂「トキ」掲示板に集まる人を見たらそれが窺えます)、ここに彼我の違いを明らかにして、問題提起していきたいと思っているのです。



今の教団を支える信徒集団は大まかに3つのグループに分かれる。それぞれのグループの特徴について考える… (12247)
日時:2020年06月22日 (月) 08時27分
名前:破邪顕正


表題は、「トキ」さんのこの投稿を読んで感じたことです。

………………………………

私の友人の発言です。 (29612)
日時:2020年06月21日 (日) 13時45分
名前:トキ
 谷口雅宣総裁が、教義の改竄を始めた頃は、信徒の多くは憤りを感じて、彼を批判しておりました。

 しかし、彼の暴走が止まらない状態になりますと、信徒の側も心境の変化がありました。

 確かに、谷口雅宣総裁はおかしな珍説を並べているが、彼の愚行に波長を合わせても、時間の無駄であるという点です。総裁や本部がどんなにおかしな事を言っても、そんなものは無視して、自分たちは、正しい谷口雅春先生の教えを学び、それを教団内部で残す方向で努力をしようという人が増えてきました。

 今は、権力でおかしな珍説を「真理である」と無理やり広めていますが、お金と権力がなくなれば、偽物は消えます。

 その時こそ、本物が再び、光を浴びるでしょう。

……………………………………

この投稿の“キモ”は、「お金と権力がなくなれば」でしょうね。

そういうトキがくるのを待つ、僥倖に期待する…。

それしか、「本物が再び、光を浴びる」時代の到来はない…。

つまり、「トキ」さんの「諦め論」は、今度は「僥倖論」へと変わってきた、そう受け止めることができます。

かつて、学生運動が激しかったころ、〝三派全学連〟という言い方がありました。

それになぞらえて、今の教団には〝三派総裁体制〟があるような気がしております。

即ち、今の教団は、3つのグループによって支えられている…。

①教団内“本流派”(教団側からみれば〝不満分子〟であり、ガス抜きに利用されている)

②教団“主流派”(実質的に教団を支える母体で〝雅宣原理主義者〟)

③教団“傍流派”(「総裁なんか関係ない」と言う無関心派)

まずは、①教団内“本流派”について、私の感ずるところを書いておきます。

言うまでもなく、その代表格が「トキ」さんです。

教団は退会しないけれども、しかし、今のままでは教勢はじり貧の一途を辿る。

教勢を挽回するには尊師の教えに帰るしかない、そう言い続ける信徒さんがいます。

勿論、「トキ」さんのように、それを声高に、こういう掲示板で開陳する人もいますが、殆どの人は、心を許す仲間内の間でだけ隠れて語っている…。

“隠れ本流派”とでも言ったがいいでしょうか。

表だって言うと、それこそ、厳しい処分を受けかねませんから…。

確かに、その主張は“本流派”ではありますが、しかし、残念ながら、教団内でその勢力が“主流派”になることはない…。

だから、何を言っても、それが教団に受け入れられることはない…。

こうすべきなのに…。

こうあるべきなのに…。

こうして欲しいのに…。

こうしたら良くなるのに…。

いつも、最後は、この“のに…”で終わってしまう。

言っていることは、同じ“本流派”として「正論」だと私も思います。

その「正論」が今の教団では通らない、それを肌で感じたからこそ、私どもは教団に見切りをつけたわけです。

しかし、教団内“本流派”の皆さんは、それでも教団に留まっているわけです。

するとどうなるか。

言っていること、願っていることが、全然、通らなければ、人は鬱屈するしかありません。

私自身、かつては教団内“本流派”でしたから、その気持ちがよく分かります。

総裁、教団に対する、不平、不満、不信ばかりが募って、本当に心の晴れない日々を過ごしておりました。

“燻る”という言い方がありますが、まさにこういうことを言うのだと思ったことであります。

総裁の言動を具に見ていれば、少しも将来に希望が見えないわけです。

現に、それで病んでいった同僚もいました。

もしかしたら、それは明日の我が身なのかも…。

そういう体験をしてきた者からすれば、教団内“本流派”の皆さんは、いつ、その自己処罰から、心身の健康を損ないはしないかと案じられるのです。

中には、いや、言うだけでいい、願うだけでいい、願望を述べるだけでいい…。

そんなことが実現しないことは百も承知、ただ言挙げするだけでいいのだ…。

そう割り切って、開き直っているのであれば、それはそれで、何の心の痛みも感じないですむのかもしれません。

そういう生き方を無下に否定しようとは思いませんが、それが人を動かすことはないだろうなと思うだけです。

本当に、本気でそれを願うのであれば、何とかして、それを実現させたいと思うのが本来のあるべき姿なのではないかと思うのですが…。

それは、最終的には生き方の問題なのでしょうね。

②教団内主流派(〝雅宣原理主義者〟)

教団を実質的に支えているグループです。

とにかく、二言目には「総裁先生に中心帰一しましょう」それを言う人たちです。

こういう信徒が指導幹部として役職者になっていきます。

で、こういう人たちは、まっすぐに、総裁のつくった「ニセ経本」等を読誦していますから、その〝毒〟が心身を蝕むという危険性を常に秘めることになります。

「トキ」さんの身の回りでは、実際、そういう被害者が出ているそうです。

③教団内無関心派(〝総裁のことなんかどうでもいい、関係ない〟と言う人たち)

今の教団には、面白いことに、仲間と楽しくやっていければそれでいい、そういう人たちがいます。

「今の総裁のことをどう思っているの?」と水を向けても、「総裁なんか関係ない。総裁が何を言おうと無視することにしているから」そう言って憚らない人たちがいます。

言うなれば、信仰集団というよりかは同好会のような雰囲気で、そこに宗教的な救いとか奇蹟とかを求めているわけでもない。

当然、使命感とか伝道意欲とか、そういうものがあるわけでもない。

ただ、仲間と楽しくやっていっていければいい…。

今回の「トキ」さんの投稿によれば、①と③の合体グループが出てきたというところでしょうか。

“総裁や本部…そんなものは無視して、自分たちは、正しい谷口雅春先生の教えを学び、それを教団内部で残す方向で努力をしよう”というのですから。

何か、これで「トキ」さんが組織内でどういう方向で生きようとするのかが、見えてきたように思います。

しかし、それに水を差すようですが、一番の問題は“教団内部で残す”、どうやって残すかなのです。

実際、「トキ」さんと同じ思いで、「勉強会」をなさってきた方がいます。

しかし、その「勉強会」が残ったでしょうか。

それについて、私はこう投稿しています。

……………………………………………

「生長の火」をどう〝永続的に〟バトンタッチしていくかこそが大事… (11806)
日時:2020年04月15日 (水) 09時11分
名前:破邪顕正

知人から、青木新門さん(映画「おくりびと」の原案者として知られます)の「いのちのバトンタッチ」という詩を教えていただきました。

〈人は必ず死ぬのだからいのちのバトンタッチがあるのです

死に臨んで先往く人が「ありがとう」と云えば

残る人が「ありがとう」と応える

そんな一瞬のバトンタッチがあるのです。

死から目をそむけている人は見そこなうかもしれないが

そんないのちのバトンタッチがあるのです〉

この詩のポイントは、ちゃんと、残る人、応える人がいるというところにあるのではないでしょうか。

何故、この詩が私の心に響いたかというと、尊師・谷口雅春先生の灯された真理の火、それにきちんと応えることのできる所を用意しておくことが何よりも大事なのだと思うからです。

本来ならば、その負託を、使命を担って教団は造られた筈だし、そのためにこそ存在しているのだと思うのです。

ところが、現教団は、それを意図的に忘失し、全く創始者の意図とは異なる教団へと変質させてしまった…。

私は、そのように捉える者ですが、中には、そうは見ない信徒がいるのもまた事実です。

そういう方は、よく、こういう言い方をなさいます。

〈時代によって、教えの説き方は当然、変わるべきであって、それをなさっているのが総裁先生である。

しかし、教えの本質(教団の表現を借りれば卵の黄身)は、いささかも変わってはいない。〉

そう見る、というよりかは、そう〝見たい〟という心理の働きなのだと思いますが、そうでないと教団に留まることが苦しくなりますから…。

総裁を擁護するには、「教えは変わっていない」と、あくまでもそこに立脚するしかないという理屈は、それなりにあり得るとは思います。

そう思える、思い込める人は、それでいいのです。

問題は、そうは思い得ない信徒のことなのです。

例えば、神様まで変えてしまって、それで「黄身は変わっていない」とは、どう強弁しても成り立たない、そう思う信徒だっているわけです。

つまり、その立場に立てば、教団は尊師の灯された真理の火を受け継ぐ資格を喪失しているとなるのです。

そういう人の中に、現教団に失望し、絶望し、敢えて、その火を消してはならないと、勉強会を主宰なさっている方があることを私も耳にしております。

それはそれで貴いことですし、有難いことだとも思います。

問題は、そういう勉強会の〝永続性〟なのです。

もし、その勉強会の主宰者なり、指導者がお亡くなりになったら、その会はどうなるのでしょうか。

私は、これまで、そういう方のご逝去とともに、会そのものが消えてしまったという事例をいくつか見てまいりました。

それほどまでに、継承、受け継ぐ、バトンタッチしていくということは、困難を伴うものなのです。

尊師がお説きになられた真理の〝いのちのバトンタッチ〟そのことに思いを致せば、如何にして〝永続性〟を保っていくのか、それは決して無視し得ない、とても重要なことなのだと申し上げたいのです。

この〝永続性〟を考えたとき、主宰者・指導者個人の資質に委ねてはならない、それには自ずと限界があり、〝永続性〟は保持しえないと考えるべきではないのか。

やはり「組織」をつくってこそ、その〝永続性〟を保持し得る…。

しかし、それも単なる任意団体では不十分である…。

そこには、どうしても公的な認証が必要である…。

そう考えたとき、「宗教法人」の認証を得るということは、その要件を満たすベストの道である…。

だからこそ、この度の「宗教法人」の取得は本当に有難くて有難くて嬉しく嬉しくてならないのです。

……………………………………

どうやって「残す」のか、それを考えたとき、教団内ではとてもそれは至難のことなのだということを敢えて申し上げておきたいと思います。


割り込み、失礼します。上の12247で破邪顕正さんがおっしゃっている記事は、ここにあります。 (12250)
日時:2020年06月22日 (月) 20時21分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

トキさんの記事、「私の友人の発言です」は、
https://bbs5.sekkaku.net/bbs/toki2/mode=res&log=6561

上から6番目の記事です。


破邪顕正さんの11806記事、「『「生長の火』をどう〝永続的に〟バトンタッチしていくかこそが大事…」は、

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2864

上から25番目の記事です。





「トキ」さんの投稿に注目するのは、教団内“本流派”が生き残る道を考えてのことだという思いを書いておきます… (12254)
日時:2020年06月23日 (火) 09時49分
名前:破邪顕正


私がここで、申し上げたかったことを整理しておきます。

①まず「真理」は永遠でなければならない、ということです。

だから、「真理」のバトンタッチが大事なのであり、常に拡大再生産されていかなければならない…。

そう考えたときに、教団内で尊師の教えを護り抜こうとすることは、必然的に、隠れキリシタンのようになるしかないのではないのか。

そこで、真の行が行い得るか。

誇りある活動が行い得るか。

教団方針に、いわば〝面従腹背〟のような抵抗運動から、果たして真のリーダーが生まれ得るか。

指導者のご逝去に伴い、「真理」の勉強会が消滅していった事例を見知っているが故に、「トキ」さんの思いが、同じような運命を辿らないという保証はどこにもない…。

そういうことを申し上げているわけです。

②次に、教団内“本流派”は、いずれ教団本流派によって干上がらせられる運命にあるのではないのか。

総裁、自ら〝スリーパーセル〟と言って、“アカ狩り”ならぬ“本流派狩り”をやった人なのです。

教団主流派が、果たして、教団内“本流派”の活動を黙過してくれるとは到底、思えません。

どんどん、追い詰められて、折角の「勉強会」も尻すぼみになっていくのではないのか。

③今一つ、考えておかなければならないことは、「トキ」さんが指摘するような“お金と権力がなくな”るような事態が、そう俄には生じないと思われることです。

思えば、「トキ」さんは、最初が「和解論」。

それが困難と見るや「諦め論」に。

そして、今度は「僥倖論」へと変わっていきました。

問題は、その「僥倖」があり得るのか、ということなのです。

教団資産の潤沢さを見れば、そういう僥倖は、はっきり言って望み薄…。

また、総裁の後継者として、長女の名前が取り沙汰されていることを思えば、今の体制が急に揺らぐことを期待するのもまた実に甘過ぎるのではないのか。

総裁体制は、今、しばらくは続いていくとみておいた方がいい…。

となれば、「トキ」さんの言っている路線は実に険しい道とならざるをえない…。

すべては、この厳然たる状況認識から出発すべきではないのか。

それでは、もうどうすることもできないのか。

私は、唯一、教団内“本流派”が生きる道があると思っています。

それは教団外“本流派”と手を結ぶことです。

何故、私が「トキ」さんの投稿に注目してきたかと言えば、実は、その思いがあったからなのです。

だから、何度も、方向性は同じということを申し上げてきたわけです。

ただ、それをどうやって実現するのか。

その一点が詳らかでない、そのことを問い続けてきたのです。

このままでは、教団内“本流派”は潰される運命にあると私は見ています。

だから、同じ“本流派”として何とか生き残る道はないものか。

そう考えたときに、「トキ」さんたちとは、それこそ“和解”できる道があるのではないのか。

そう提案したいということなのです。

明治維新の成功は何によるか。

幕府内にあって力をつけた薩摩と脱藩した浪人とがともに手を結んだからではありませんか。

そのように、内と外との“本流派”が手を結ぶ…。

それが局面を打開する大きなきっかけとなる…。

勿論、それが今すぐ成るとは思ってはいません。

ただ、そういう可能性を内に秘めながら、事に処していってはどうか。

そう思っているということです。

物事は、Timing、Feeling、Happeningの3つの“ing”で動いていくと言います。

教団の現状を見ていれば、案外、それは大きな力をもつ、そう思っている次第です。




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