| 「トキ」さんの「諦め論」を拝見して、これは“デジャブ”どこかで見た光景だということを思い出しました… (12211) |
- 日時:2020年06月17日 (水) 17時11分
名前:破邪顕正
その方は、総裁の言動に呆れてこう言われたのでした。
「もう駄目だ。これで生長の家は、あと100年は立ち直れない…。どこかで中興の祖が出て来るのを期待するしかないな…」
こういう「諦め論」は、その裏に、中興の祖の出ることを期待する、いわば僥倖頼みのところがあるように思うのです。
何を申し上げたいか。
そこには、自分でこの閉塞せる状況を切り拓いていこうという、主体性ある意志、決意、覚悟がみられない…。
それを何よりも憂えるのです。
それは、尊師の立教の精神に、真っ向から反すると思うのです。
『創刊号』で尊師はこう言われました。
《如何にせば境遇の桎梏から脱け出し得るか、如何にせば運命を支配し得るか、如何にせば病気を征服し得るか、また如何にせば貧困の真因を絶滅し得るか、如何にせば家庭苦の悩みより脱し得るか…》
まさしく、この“如何にせば”それこそが、立教の志、そのものではないでしょうか。
だから、吾々には「諦め」ているヒマなどはないのです。
《如何にせば総裁の桎梏から脱け出し得るか、如何にせば生長の家の運命を好転せしめ得るか、如何にせばサヨク路線を改めせし得るか、また如何にせば教勢低迷の真因を絶滅し得るか、如何にせばニセモノの信仰の苦悩より脱し得るか…》
やらなきゃいけないことがいっぱいあるではありませんか。
どうして、その現実を前にして「諦め」の世界に逃げ込もうとするのか。
たとい、自らの力は小なりといえども、尊師の立教の志だけは受け継ぐ…。
その気迫、迫力、意気込みだけは、どんな状況に立ち至ろうとも、決して捨ててはならない、そう思うものであります。
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