《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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総裁の深層心理裡にはサヨク思想特有の〝破壊願望〟即ち、自分を縛るものをすべて破壊しないことには自由になれないという思いがあるのでは… (12095)
日時:2020年06月04日 (木) 09時46分
名前:破邪顕正


表題は、ある知人の言葉です。

彼によれば、総裁をサヨク思想の持ち主と捉えれば、総裁がやってきたことは、何一つ、驚くには当たらない…。

サヨクとは、全てからの解放、自由を求めて已まない人たちである…。

だから、まずは破壊ありき、破壊から創造がはじまると考える…。

国家権力はもちろんのこと、権威あるものも破壊したくてたまらない…。

総裁にとっては、それが「生長の家」だったのでは…。

生まれたときから、ずっと自分を縛ってきたもの、それが「生長の家」であった…。

それを破壊しないことには、自分は自由になれない、総裁がそう思い込んでいたとしても何の不思議もない…。

知人の話を聞きながら「なるほど」と大いに納得がいった次第です。

さて、この話を紹介したのは他でもありません。

「トキ」さんの、この投稿が目に止まったからです。

〈コロナバスターズのボードゲームについて (28994)
日時:2020年06月04日 (木) 00時30分
名前:トキ

生長の家の組織会員で、機関誌の令和2年6月号を読まれた方ならご存知でしょうが、総裁が考案された「コロナバスターズのボードゲームについて」と題する文章が掲載されています。

このゲームを考案された趣旨については、総裁のブログを一読されるといいですが、主観的にどんなに良いことを考えたとしても、コロナウイルスを題材にして、宗教団体のトップがこの手をゲームを考案するのは、かなり誤解を招く危険性があると考えます。

彼自身がブログ上で書いているように、このコロナバスターズのデザインはかなり評判が悪いです。彼自身は、それらの批判を「誤解」だと書いているし、そうなのかもしれませんが、世界中で600万人以上の人が感染し、30万人以上の人が亡くなっている現状を見ると、軽率だという印象を個人的には、持っております。

自身が感染しなくても、コロナの影響で経済的に苦境に陥っている人も多いです。この時期に、コロナを題材に「遊ぶ」ようなゲームを作り、会員向けの雑誌に掲載して紹介するのは、一つ間違えば、批判が集まる危険性が高いと、個人的には考えております。実際、私の周囲の人には、このゲームに批判的な人は存在しております。

世人に広まると、生長の家自体が誤解される可能性もあります。できれば、おやめくださるように、お願いいたします。〉

教団愛に溢れた「トキ」さんにしてみれば、総裁のやっていることは一般社会の常識から外れている…。

総裁がこれでは、何という宗教団体かと、周りから眉をひそめられてしまう…。

これでは、信徒の立つ瀬が無いではないか…。

そう憂えての投稿だということは、私なりに理解します。

しかし、そこから先は、結局は、いつものように、こうすべき、こうしてほしいの〝べき論〟〝願望論〟で終わる…。

本気でそう思うのだったら、本部にガンガン投書でも電話抗議でもすればいいのです…。

しかし、多分、そういう〝行動〟に打って出るようなことはしないでしょう。

「トキ」さんは、そういうことを言ったということが歴史に残ればいいという立場ですから…。

そういう立場の「トキ」さんに、何も私はここで文句を言おうという気は無いのです。

そういう立場を私なりに良しとしていますから…。

今回、私が言いたいのは、「トキ」さんが、いくらそう言う投稿をしたとしても、私と同じ意見の信徒もいますよといくら言い募っても、総裁がそれに耳を傾けることはないということなのです。

何故か。

上に述べた、総裁の体質からして〝生長の家自体が誤解される可能性もあります〟こういう意見をこそ、総裁は最も忌み嫌うと考えるからです。

こういう声こそが、実は自分をずっと呪縛し続けてきたものであり、それからの解放をこそ願って自分はやってきたのだ…。

振り返れば、総裁にとって、愛国運動の柱・生長の家、こう言われることが、一番の、何よりの苦悩だったのではないでしょうか。

だから、当初、総裁は教団に寄りつこうともしなかったのです。

しかし、様々な経緯から、3代目に就かざるをえなかった段階で、だったら、その呪縛を自ら断ち切ってやる、そう思って乗り込んできたのだと私は思います。

あれから30年…。

ようやくにして、自分の思うような、自分の好きなことが自由にやれる教団に取り替えることができたと言うのに、今度は「総裁がこんなときにこんな遊びに興じて…これでは生長の家の名が廃れる」というようなことを外野席から言ってくる…。

こういうことで、何かと掣肘を受けるのが一番、嫌なんだ…。

外の世界が「生長の家」をどう見ようが、どう言おうが、そんなことは関係ない…。

そんなことで、自分の好きなことをやる自由を奪うな…。

そんなに「生長の家」のことが心配なら、自分たちで、勝手に「生長の家」をやったらいいじゃないか…。

私には、総裁の、そういう内なる声が聞こえてくるのです…。

そうです、自分に中心帰一できないならば、辞めてもらって結構…。

その方が、自分も嫌な顔を見ないで済むから、却って好都合…。

信徒が減ろうが一向に構わない…。

大事なのは、自分が好きなように何でも自由にできる、この自由なんだ…。

そういう、総裁の声が聞こえてくるから、かくなる上は、もはや、この教団に残っても意味は無い…。

そう見切りをつけることができたのです。

総裁が言うように、外で、自分たちの守りたい「生長の家」を取り戻すしかない…。

総裁が、本来の「生長の家」から自分の好きな「生長の家」に取って替えたのであれば、今度は私たちが、その「生長の家」を取り戻すまでだ…。

そう腹を括ることができたからこそ、教団に恋々とすることなく、スッキリと飛び出ることができたのです。

総裁にとっても、そして私たちにとっても、それが一番、良かったのです。

今、「宗教法人」を取得して、この道を選択して本当に好かった…。

総裁の内なる声、嫌だったら早く出て行け、この声に従って間違いはなかった、改めてそう思っている次第です。

外に出て、自分たちでどれだけのことがやれるか、やれるもんならやってみろ。

そういう総裁の声が、今は、聞こえてきますので、そのご期待に応えるべく、いやそれ以上の世界を作り上げるべく、力一杯、魂を込めてまいりたいと思っている次第です。


割り込み、失礼します。上の12095で破邪顕正さんがおっしゃっているトキさんの記事、〈コロナバスターズのボードゲームについて〉は、ここにあります。 (12097)
日時:2020年06月04日 (木) 15時18分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

トキさんの記事、〈コロナバスターズのボードゲームについて〉は、
https://bbs5.sekkaku.net/bbs/toki2/mode=res&log=6554
にあります。

なお、その記事の中でトキさんが紹介している総裁のゲームは
https://www.facebook.com/pg/Seichonoie.Sosai/notes/

と同じような物だろうと思います。





自分の王国(雅宣教団)をつくりあげた総裁。「やれるもんならやってみろ」と思っていた総裁が、今、2つの誤算に臍をかんでいるのでは… (12103)
日時:2020年06月05日 (金) 10時49分
名前:破邪顕正

今や、総裁の思い通りにならないことは何もない…。

何でも自由、やりたいことは何でもできる…。

まさしく、自分の一人天下、それが今の教団の実情ではないでしょうか。

しかし、そういう総裁にも、何の悔いもないかと言えば、決してそうではない…。

私はそのように思っています。

その一つは、やはり、『生命の實相』等の著作権をめぐる裁判で、最高裁で敗訴したことでありましょう。

あれだけの弁護人を揃え、聞くところによれば、億を超えるとも言われる浄財をそれこそ湯水の如く注ぎ込んでの、その上での敗訴でしたから、総裁にしてみれば、それは悔しかったことでしょう…。

ところで、この裁判結果について、未だになんやかやと言っている方がありますが、現実をしっかりと見据えてほしいものであります。

教団あげて、顧問弁護士の総力を傾注して、その上で裁判に負けたということは、結局は、教団の言い分が通らなかったという、何よりの証左ではないでしょうか。

つまり、そこには、裁判官を説得、納得させるだけのものがなかった…だから証拠として採用されるに至らなかった…そういう他はないと思うのです。

何を申し上げたいか。

教団の言い分にもとずいて、色々と言ってきても、何の説得力も持ちはしないということです。

結果がすべてなのです。

だったら、それがたとい意に添わないことであったとしても、ひとまずは、最高裁での決定を受け入れるしかないというのが、本来のあるべき姿ではないでしょうか。

何故、教団の言い分が通らなかったのか…。

考えてみれば、理由は簡単なのです。

それは、自分たちの都合のいい、勝手な解釈でしかなかったから…。

それに尽きるのです。

にもかかわらず、それでも、未だに、著作権問題について色々とモノを言いたいということは、それだけ教団側にとっては痛手だったということでしょう。

それはまさしく総裁にとってもそうであったと思う次第です。

もう一つの誤算は、それはこの度の「谷口雅春先生を学ぶ会」の宗教法人の取得ではなかったでしょうか。

まさか、宗教法人となって、新たな宗教団体が生まれるとは…。

しかも、その登録名は「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」で、きちんと「生長の家」が入っている…。

これは総裁にしてみれば、カチンとくる出来事だったと思うのです。

私は、総裁は、いずれ「生長の家」の看板を外せるものなら外したいと思っていたに相違ないと睨んでいます。

生まれたときから、この「生長の家」の呪縛に苦悩し、苦闘し、苦痛を感じてきた総裁にしてみれば、この看板を外すことが、何よりの解放の証しに他ならなかったでしょうから…。

できるものなら、“地球環境保全団体”という名称にでも衣替えしたい…。

頃合いを見計らって、いつかは宗教団体から環境団体へと名称変更を願い出たい…。

そう思っていたところに、思わぬところから、「谷口雅春先生を学ぶ会」が宗教法人を取得したという話が飛び込んできた…。

しかも、そこには「生長の家」が入っている…。

もし、ここでこちらが「生長の家」の看板を外したら、「生長の家」が完全に向こう側に取られてしまう…。

それは、何としても避けなければならない…。

ということで、総裁としては、意地でも、「生長の家」の看板を降ろせなくなってしまった…。

外に出た連中が、ここまで自分に楯突いてくるとは…。

これがまた、総裁の怒りを買ったのではないのか、そんな気がしています。

以上、2つの誤算について述べてまいりましたが、今回、私が申し上げたいのは、ぜひ、総裁には3つめの誤算を新たにもたらしたい、ということなのです。

その3つめとは、新たに誕生した宗教法人が生長・発展して教団に伍していく、否、それを上回るほどの存在感を示すようになる、ということです。

私は、それは決して不可能ではないと思っています。

何となれば、今の教団は「救い」を放棄している…。

「救い」の放棄は、そのまま宗教団体としての使命を放棄するも同然のことであると思うからです。

新編『生命の實相』第19巻「万教帰一篇」にある次の御文章を拝読させていただいて、改めて、宗教的使命の大切さを思い知らされました(79頁)。

《以前「生長の家」を始めた当座は、実に多忙な会社生活を有ちながら、毎月、神誌を一冊ずつ書いて行き、それでいて夜晩くまで訪問客に接し、誌友の複雑な質問に長文の手紙で答え、その上霊的治療をしてあげたりなどしていて、睡眠時間は極々短いのでありますが、それで生来蒲柳の体質だといわれていた私の精力がともかくもつづいて行ったというのは、一つは「生長の家」の仕事が私の使命として楽しめるからでもあり、自分の生命は神の無限生命から連っていて、使っても使ってもいくらでも補給されるものだということを、幾分悟らせて頂いていたからであります。
この悟りの深い人ほどその人の仕事を為し得るエネルギーは多くなって来るのであります。》

私どもが、尊師の仰った、この燃えるような使命感に溢れていけば、総裁に第3の誤算を与えることも決してあり得ない話ではないと思うものであります。



総裁の「自分の好きな教団にしたい」その萌芽をまざまざと見せつけられた瞬間がここにあった… (12108)
日時:2020年06月06日 (土) 11時50分
名前:破邪顕正

私の中で「総裁ってわがままな人だな」と思った瞬間というのがあります。

それが、自分の書いたものを「聖典と呼ばせない」と言い張ったときであります。

それについては、過去の投稿でも言及しています。

〈「聖典と呼ばせない」「聖地と呼ばせない」と言ってのけた総裁が「新経本」だけは「聖経」化を許す…?! (10659)
日時:2019年02月21日 (木) 18時13分〉

ここでは、こう書いています。

〈総裁は、かつて、副総裁のとき、自分の書いたものを「聖典」と言われることに異常な抵抗を見せたことがあります。

あくまでも「聖典」扱いするのであれば、副総裁を辞するとまで脅して、当時の運動方針に〝「聖典」等〟という表記に変えたことがありました。〉

もう一つ、ここでも書いています。

〈副総裁(当時)は、なぜ自分の書いたものを「聖典とは呼ばせない」と言ったのか? (10664)日時:2019年02月22日 (金) 10時27分〉

ここでは、こう書いています。

〈まず、「聖典」とは〝真理〟が書かれている書物と定義づけてみたいと思います。

そうすると、「聖典と呼ばせない」と言うことは、取りも直さず、自分の書く物は〝真理〟ではないと言っているも同然ということになります。

つまり、総裁は、端っから〝真理〟、もっと言えば〝宗教的な悟り〟の世界には関心がなかった?

専ら、関心があったのは〝現象界〟のこと。

環境とか政治とか、そういうものにこそ関心があった。

そう考えると、総裁は当初から、一つの恐れを感じていたのではなかったか。

そうです、そんな現象のことばかりを書いて何が「聖典」か?

そういう批判を浴びることを、一番、恐れていたように思うのです。

だから、前もって、自分の書いたものは「聖典」ではないと、言い訳しておく必要があった?

そして、自分の関心のある〝現象界〟のことをずっと書き連ねてきたというわけです。

当然、それについては、もっと真理を、もっと谷口雅春先生の教えを…という欲求、要望が信徒の間から澎湃としてわき起こって来るであろう。

しかし、そういうものに応える気持ちは少しもない。

(中略)

自分の書いたものは「聖典」と呼ばせない…。

そういうことを言っていた段階で、現総裁に、尊師の御教えをそのまま継承しようという気は毫もなかったし、今日の教団の萌芽は既に生まれていたと思うものであります。〉

今、改めて、この「聖典と呼ばせない」という総裁の発言は、いつかは自分の思うような、何でも自分の好きに出来る教団に取って替える…という、その“独立宣言”ではなかったかと思います。

とにかく、尊師の教えと比較されるのが一番、嫌だった…。

自らの書いたものが「聖典」とされたら、それこそ、尊師の「聖典」と常に比べられてしまう

それでは、自らが最も忌み嫌う“呪縛”に、ますます絡め取られてしまうほかはない…。

それはどんなことがあっても拒絶する…

今にして思えば、「副総裁を辞する」というのは、決して単なる“脅し”だったのではない…。

3代目になる決意を固めたのは、自分の好きな教団にすると覚悟したからであって、尊師のご存在を常に意識させられるのではとても耐えられない…。

それからの解放なくして本当の自由なし…。

勿論、それは総裁にとってみればですが…。

そういう思いからの発言だったのだと、今、捉え直しています。

総裁にとっては、全ては、解放=自由のための歴史だった…。

そう見ていくと、いろんな出来事が「なるほど」と納得がいくのです。

そして、今、私はこう思います。

総裁にとっての“「生長の家」の呪縛からの解放=自由”は、信徒にとっては“「中心帰一」という名の呪縛”に取って替えられたのであると。

そして本来の「生長の家」の終わりとなって顕れたのであると。

そうであるからこそ、吾々は、このまま本来の「生長の家」を終焉させてはならない…。

“本流復活”の使命を果たさなければならないのだと。



上の12108で破邪顕正さんがおっしゃっているご自身の10659記事と10664記事は、ここにあります。 (12109)
日時:2020年06月06日 (土) 13時12分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

上の12108で破邪顕正さんがおっしゃっているご自身の10659記事、〈「聖典と呼ばせない」「聖地と呼ばせない」と言ってのけた総裁が「新経本」だけは「聖経」化を許す…?!〉は、
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2504

上から2番目の記事で、


10664記事、〈副総裁(当時)は、なぜ自分の書いたものを「聖典とは呼ばせない」と言ったのか?〉は、
同じスレッドの上から3番目の記事です。


なお、その下に「紙風船」さんと「潮」さんと「ムラカミ」さんの真剣な意見交換があります。

この人たちの言葉のなかには「総裁よりかな?」と思わせる投稿もあるようですが、

「自分の意見が正しい。貴方の意見はまちがっている」
「いや。私の意見が正しい」
「帰りましょう掲示板のだれそれは反論できない所で威張っているだけだ…」
というような言葉のやりとりではなく、

真剣に相手の信仰や心情を気遣う言葉にあふれているので、読んでいても心が安まります。






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