| 自分の王国(雅宣教団)をつくりあげた総裁。「やれるもんならやってみろ」と思っていた総裁が、今、2つの誤算に臍をかんでいるのでは… (12103) |
- 日時:2020年06月05日 (金) 10時49分
名前:破邪顕正
今や、総裁の思い通りにならないことは何もない…。
何でも自由、やりたいことは何でもできる…。
まさしく、自分の一人天下、それが今の教団の実情ではないでしょうか。
しかし、そういう総裁にも、何の悔いもないかと言えば、決してそうではない…。
私はそのように思っています。
その一つは、やはり、『生命の實相』等の著作権をめぐる裁判で、最高裁で敗訴したことでありましょう。
あれだけの弁護人を揃え、聞くところによれば、億を超えるとも言われる浄財をそれこそ湯水の如く注ぎ込んでの、その上での敗訴でしたから、総裁にしてみれば、それは悔しかったことでしょう…。
ところで、この裁判結果について、未だになんやかやと言っている方がありますが、現実をしっかりと見据えてほしいものであります。
教団あげて、顧問弁護士の総力を傾注して、その上で裁判に負けたということは、結局は、教団の言い分が通らなかったという、何よりの証左ではないでしょうか。
つまり、そこには、裁判官を説得、納得させるだけのものがなかった…だから証拠として採用されるに至らなかった…そういう他はないと思うのです。
何を申し上げたいか。
教団の言い分にもとずいて、色々と言ってきても、何の説得力も持ちはしないということです。
結果がすべてなのです。
だったら、それがたとい意に添わないことであったとしても、ひとまずは、最高裁での決定を受け入れるしかないというのが、本来のあるべき姿ではないでしょうか。
何故、教団の言い分が通らなかったのか…。
考えてみれば、理由は簡単なのです。
それは、自分たちの都合のいい、勝手な解釈でしかなかったから…。
それに尽きるのです。
にもかかわらず、それでも、未だに、著作権問題について色々とモノを言いたいということは、それだけ教団側にとっては痛手だったということでしょう。
それはまさしく総裁にとってもそうであったと思う次第です。
もう一つの誤算は、それはこの度の「谷口雅春先生を学ぶ会」の宗教法人の取得ではなかったでしょうか。
まさか、宗教法人となって、新たな宗教団体が生まれるとは…。
しかも、その登録名は「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」で、きちんと「生長の家」が入っている…。
これは総裁にしてみれば、カチンとくる出来事だったと思うのです。
私は、総裁は、いずれ「生長の家」の看板を外せるものなら外したいと思っていたに相違ないと睨んでいます。
生まれたときから、この「生長の家」の呪縛に苦悩し、苦闘し、苦痛を感じてきた総裁にしてみれば、この看板を外すことが、何よりの解放の証しに他ならなかったでしょうから…。
できるものなら、“地球環境保全団体”という名称にでも衣替えしたい…。
頃合いを見計らって、いつかは宗教団体から環境団体へと名称変更を願い出たい…。
そう思っていたところに、思わぬところから、「谷口雅春先生を学ぶ会」が宗教法人を取得したという話が飛び込んできた…。
しかも、そこには「生長の家」が入っている…。
もし、ここでこちらが「生長の家」の看板を外したら、「生長の家」が完全に向こう側に取られてしまう…。
それは、何としても避けなければならない…。
ということで、総裁としては、意地でも、「生長の家」の看板を降ろせなくなってしまった…。
外に出た連中が、ここまで自分に楯突いてくるとは…。
これがまた、総裁の怒りを買ったのではないのか、そんな気がしています。
以上、2つの誤算について述べてまいりましたが、今回、私が申し上げたいのは、ぜひ、総裁には3つめの誤算を新たにもたらしたい、ということなのです。
その3つめとは、新たに誕生した宗教法人が生長・発展して教団に伍していく、否、それを上回るほどの存在感を示すようになる、ということです。
私は、それは決して不可能ではないと思っています。
何となれば、今の教団は「救い」を放棄している…。
「救い」の放棄は、そのまま宗教団体としての使命を放棄するも同然のことであると思うからです。
新編『生命の實相』第19巻「万教帰一篇」にある次の御文章を拝読させていただいて、改めて、宗教的使命の大切さを思い知らされました(79頁)。
《以前「生長の家」を始めた当座は、実に多忙な会社生活を有ちながら、毎月、神誌を一冊ずつ書いて行き、それでいて夜晩くまで訪問客に接し、誌友の複雑な質問に長文の手紙で答え、その上霊的治療をしてあげたりなどしていて、睡眠時間は極々短いのでありますが、それで生来蒲柳の体質だといわれていた私の精力がともかくもつづいて行ったというのは、一つは「生長の家」の仕事が私の使命として楽しめるからでもあり、自分の生命は神の無限生命から連っていて、使っても使ってもいくらでも補給されるものだということを、幾分悟らせて頂いていたからであります。 この悟りの深い人ほどその人の仕事を為し得るエネルギーは多くなって来るのであります。》
私どもが、尊師の仰った、この燃えるような使命感に溢れていけば、総裁に第3の誤算を与えることも決してあり得ない話ではないと思うものであります。

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