《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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「生長の家」との出会い、それは「實相」の御額との出会いと言っていいほどの衝撃を受けたものです、その前に台を設置して台無し≠ノするとは… (12007)
日時:2020年05月22日 (金) 08時19分
名前:破邪顕正

若き日、生長の家と出会い、初めて教化部道場に入ったとき、真っ先に飛び込んできたのは「實相」という大文字でありました。

私のみならず、誰しもが、あの「實相」との最初の出会いは衝撃とともに心に銘記されているのではないでしょうか。

その「實相」の前に、「七重塔」とお社が設置されて、「實相」が隠されてしまうのかと思うと、本当にいたたまれない思いがしてまいります。

しかも、尊師ご揮毫の「實相」の前には、総本山の職員が手書きした(勿論、職員は一所懸命に書いているというのは理解していますが)造化の三神≠フご神名があるわけです。

総裁は、どうして、こういうことを考えるのでしょうか。

総裁は、以前にも「聖経」を補強≠オなければならないとして「経本」を勝手に作りました。

それについて、かつて、私はこう投稿しています。

〈『人生を支配する先祖供養』を拝読して思ったこと (10719)
日時:2019年03月14日 (木) 13時45分
名前:破邪顕正

教団では、総裁がつくった経本≠ナ、浄心行や先祖供養等の宗教行事まで実修しているという情報を耳にしました。

そうであればあるほど、尊師がご教示くださった「聖経」での宗教行の実修が大事になってくると、改めて思った次第です。

「谷口雅春先生を学ぶ会」では、教団のかかる現状を踏まえ、しっかりと本来の、本当の宗教行の実修に更に真心を尽してまいりたいと思います。

ところで、「谷口雅春先生を学ぶ会」の先祖供養では、『人生を支配する先祖供養』を勉強させていただいています。

その中に、次のような一文がありました。

《…恰も、素晴しい傑作の先生の油絵の上に、弟子が再び絵具を塗って拙い絵を描いたために、先生の折角立派に描いた絵が掩い隠されてしまっている…》(新版『人生を支配する先祖供養』120頁)

言うまでもなく、私がここで言おうとしている傑作≠ニは「聖経」の謂いに他なりません。

ところが、弟子が(というのは勿論、総裁でありますが)、その「傑作」に対して、「補強」する必要があるとして、拙い絵≠書いてしまった…、それが、今日の経本≠ネのだと思うのです。

どうして、こういうようなことが出来してしまったのか?

結局、総裁の眼には、それが傑作≠ニは映らなかった…。

もっと言うならば、総裁は、それがただ観世音菩薩がお作りになった真理を歌った詩であります≠ニいうことを信じていなかったがゆえだと思うのです。

『光の泉』誌・昭和33年12月号に聖経『甘露の法雨』の由来≠ニ題して、次のようなご文章があります。

《聖経『甘露の法雨』は私の万年筆を通して書かれたのでありますが、然し私が書いたんじゃないのであります。

だから、『甘露の法雨』は何処にも、谷口雅春著とは書いてないでしょう。

『甘露の法雨』というのは、ただ観世音菩薩がお作りになった真理を歌った詩でありますから、私は只それの万年筆になり、スピーカーになっただけであります。…

『甘露の法雨』は観世音菩薩の作品ですから、観世音菩薩の作られた詩とか歌とかいうものには、観世音菩薩御自身の、精神のリズムというものが其処にうつっている訳であります。

たれでも詩を作ったら、作者の心のリズムというものがその詩に現れているのは当然であります。

それと同じに、『甘露の法雨』には観世音菩薩の心のリズムというものが波動しており、観世音菩薩のリズムが、常に『甘露の法雨』からは雰囲気となって出ているのであります。

それでこれを持っている人は色々の危害を免れることが出来たことには無数の体験談があるのです。…》

「聖経」は持っているだけでも功徳があるのですね。

だから、お守りにもなるわけです。

写経∞読経≠サして持経≠フ功徳と言われるのがそれです。

このようなご文章を拝読したら、とてもではありませんが、これを補強≠オようなどとは到底、思い得ないところであります。

ところが、ご存じのように、総裁はあろうことか、勝手に経本≠つくってしまったわけです。

こういうところにも、総裁が、如何に尊師のことを軽んじているか、思い半ばに過ぎるものがありましょう。

創始者をここまで軽んずる人に、唯々諾々と随って行っていいのか…。

そういう人の勝手につくった経本≠ニいうシロモノを、浄心行や先祖供養等で読誦して本当にいいのか…。

ぜひ、熟考していただきたいと心から願うものであります。〉


これまた一字一句、訂正しようとは思いませんが、今、思うのは、総裁の潜在意識裡に、もしかして、聖なるものを貶めたいという願望があるのではないのか。

「権威」あるものを破壊したいという、衝動願望が渦巻いているのではないのか

だから、尊師のご揮毫の「實相」の前に、職員の手書きをもって相対せしめる…。

そうとでも考えなければ、なかなか納得のいく説明がつかない、そのように思うのです。

今回の「通達」には、そういう、総裁の、尊師の創始せられた「生長の家」に対する根深いルサンチマン(恨み・妬み・嫉み)を感じないではいられません。

だって、「實相」額の前に、こんなものを置いたら、全てが台無しになるではありませんか。

台無しにしたいから、そうするまでのこと…。

そういうことではないかと私は受け止めています。



新版『今を生きる』(中島省治篇著)にこんな話が出てきます… (12009)
日時:2020年05月22日 (金) 09時16分
名前:破邪顕正


傑作に素人が手を加えて台無しにする…。

今回の「通達」がまさにそれに当たると思うものでありますが、それでは、尊師が手を入れられたらどうなるか。

そんな話が表題の本に出てきます。

ある時、服部仁郎先生(あの「ご神像」をつくられた先生です)が、尊師のご実父様をお写真だけをもとにして銅像をおつくりになった。

それは、尊師がご要望されたことでありました。

粘土での原型ができたので、尊師にもご覧いただくこととなりました。

すると、尊師は、「ちょっと手を入れてもいいですか」と仰った。

芸術家が最も忌み嫌うのは、自分の作品に素人≠ェ手を入れることだと言われます、

当然、服部先生もそう思われた…。

しかし、仰ったのは他ならぬ尊師です。

「どうぞ」と言ってへらをわたされた。

で、結果はどうだったか。

『今を生きる』にはこうあります。

〈谷口先生がチョッ、チョッとあちこちお手をお加えになりましたものを、あとで拝見しましたら、本当に生き生きとした御尊父様の姿がそこに表れた。

自分の作が本当に生きて来た。

どこまで先生はお偉いのかと、私は本当に心から今さらでないけれども先生の偉大さに感心しました〉(]VU頁)

薬師如来の再来と謳われ、あの鳩山一郎をも指導なされたことで知られる服部仁郎先生の素晴らしさが、この本を読んでいただけばよく理解されます。

勿論、尊師の偉大さも。

また、その教えの素晴らしさも服部先生を通して実感できます。

ぜひ、ご一読ください。



割り込み、失礼します。上の12007で破邪顕正さんがおっしゃっている10719記事、「『人生を支配する先祖供養』を拝読して思ったこと」は、ここにあります。 (12010)
日時:2020年05月22日 (金) 12時06分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

破邪顕正さんが上の12007でおっしゃっている、10719記事、「『人生を支配する先祖供養』を拝読して思ったこと」は、
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2526
です。


子記事でのトキさんや日野君の発言への言及もおもしろいです。




「破邪顕正さんの愛読者です」さんのナイスフォローに感謝、感謝です。 (12012)
日時:2020年05月22日 (金) 15時59分
名前:破邪顕正


こうして、私の投稿のみならず、「トキ」さんや「日野智貴」さんのことにまで触れていただくと、立場の違いがより鮮明になって、読者にもよりわかりやすくなるのではないかと感謝申し上げる次第です。

両者とも、「教団」にいる人であるのは間違いありません。

で、いつも思うことですが、「教団」にいるのだから、まずは総裁先生にこそ自らの思いをぶつけたらいいと思うのです。

どうして、私どもにばかり言うのかな…。

まず、相対すべきは総裁先生ではありませんか?

総裁先生に対して、自らの思い、信条を質問状として提出するのです。

両者とも、それぞれ「掲示板」をもっているのですから、それを公開して、その上で、総裁先生に対して質問状を提出する…。

それに対して、総裁先生がどういう回答をして下さるか。

これは、これで、実に多くの読者の関心を呼ぶと思いますよ。

実際、岡正章氏は、以前、それをやられましたよね。

私は、実に、立派な行動であったと心からの讃辞を惜しみません。

岡正章氏に続け。

それを両者に大いに期待するものであります。


「トキ」さんの返信に感謝するとともに、それに関して私が思うこと… (12014)
日時:2020年05月23日 (土) 09時30分
名前:破邪顕正

私が、こちらに投稿するようになって、ずいぶんと長い月日が経ちました。

その間、「トキ」さんからは、ずっと様々な刺激を与えていただき、それがまた私の投稿の励みにもなってきました。

私にとって、「トキ」さんの投稿はいつも関心の的でありつづけました。

「トキ」さんとのやりとりによって、互いの立ち位置の違いが鮮明となったことは、本当に有難いことでした。

ですから、その長い間のよしみ≠ナ、「トキ」さんの投稿は、許可無く使わせていただいてもいいのではないかと、私なりに勝手に判断し、そのご厚意に甘えさせていただいている次第です。

今回、私の注文に、「トキ」さんが早速、応じていただきましたこと、望外の喜びであります。

内容的に、実に重要な投稿だと思いましたので、失礼を顧みず、2つの投稿、全文、引用させていただきます。

〈雑感 (28412)
日時:2020年05月23日 (土) 01時57分
名前:トキ
 岡正章先生は、在職中はもちろん、現在も正しい生長の家の教えの存続のために奮闘されている偉大な先輩です。榎本恵吾先生の顕彰にもご尽力され、信念に基づいた行動には尊敬の念を持っています。

 岡先生は、在職中は職務を通じて現在の総裁や理事長とも面識があり、谷口雅宣副総裁が「大東亜戦争侵略論」を理想世界誌上に発表した時は、援護論を発表されるなど、現在の総裁に近い立場におられたと聞いています。

 しかし、現在の本部が谷口雅春先生の本来の教えから逸脱したことに強い危機感を覚えられた岡先生は、実名で谷口雅宣総裁に直接手紙で、疑念を手紙にして送られました。が、反応は全くなしでした。再三に渡り、誠実にお伺いを立てましたが、全く何の反応もないため、やむなく、実名で公開質問状と言う形で本部にご自身の意見を伝えられました。この正々堂々とした岡先生の真摯な態度と、その正論に対して、まともな反論ができなかった本部は、あろうことか、電話一本で講師資格剥奪という暴挙に及んだのでした。

 つまり、本部は岡先生の真面目な訴えを葬り去ったのです。

 では、岡先生の行動が無意味だったのか、というと、そうではありません。岡先生の正論を読んで、本流復活派には嫌悪感を持っていた信徒も、本部の間違いに気が付いた人がたくさんでました。また、歴史においても、現在の本部の民主主義とか立憲主義とはかけ離れた独裁的な体制に対して、抗議をした信念のある人物がいたことは、生長の家の歴史にとっても幸いなことです。後世の歴史家は岡先生を高く評価するでしょう。

 一般に広く意見を発表するのは、教団や本流復活派の人たちに教団の信徒の現在の考えを伝えることにありますが、それ以上に一般の信徒さんに呼びかけること、さらには、歴史においての責任を果たしていると考えております。

 歴史における責任と一般の信徒さんへの責任ということを考えると、軽率な行動をとることなく、慎重にことを運びたいと考えております。〉


〈追伸 (28432)
日時:2020年05月23日 (土) 08時28分
名前:トキ
 現在、教団本部は谷口雅春先生の教えからかけ離れた内容の言説を「これが生長の家の教えである」と宣伝しております。そのため、多くの真面目な信徒が正しい谷口雅春先生の教えから逸脱した言説を取っています。ですから、確かに、未だ本部の誤説を信じる人に真実を伝えることは大事だとは思います。

 しかし、現在、生長の家の雰囲気を見ると、同じ同志でありながら、総裁援護の人たちと、本流復活派を支持する人たちの間で、深刻な対立が生じております。個人的には何も利害の対立のない人たちが争っているのはおかしな話です。谷口雅春先生は、大調和を説かれました。その弟子が争うのは悲しむべきことです。

 世間に目を転じると、コロナウイルス感染拡大に伴い、世界が逼迫した状況にあります。このような時に、宗教がなすべきことは、心の平和を説くことだと思います。

 すると、リアルの世界では、今、悩んでいる人々のためにできることをすることが大事だと考えます。

 また、多くの人の目に、本部のおかしな言動は明らかになりつつあります。教団が衰退し、崩壊の危機にあるのも事実ですが、逆にそうなれば一般の信徒さんも、何が原因かを知ることになると思います。

 本流復活派の方々のご指摘には感謝しますが、このような状況下では、これ以上対立を激化させることは良いこととは考えないので、現状での行動にとどめたいと思います。〉

「トキ」さんの投稿を読ませていただいての私の感想を率直に申し上げます。

「トキ」さんは、眼前の対立を避ける余り、信仰の本質の問題から眼を背けようとしているのではないのか、それをとても残念に思います。

もっと言うならば、対立して初めて、本当の理解も生まれるのではないのか。

対立を畏れていては、そこからは本物は生まれ得ない、時には、その覚悟も必要ではないのか。

そう思うのです。

「トキ」さんは言います。

このような時に、宗教がなすべきことは、心の平和を説くことだと思います。

その通りです。

ところが、教団は、そういうときに、神様を取り替え、私に言わせれば「偶像崇拝」を信徒に強要しようとしているのですよ。

「心の平和」どころか、心がかき乱されるようなことを、教団はやろうとしているのですよ。

その「事実」を目の当たりにして、それでも「対立」はよくないからと、そういう世界に逃げるのですか?

また、こうも言っていますね。

谷口雅春先生は、大調和を説かれました。その弟子が争うのは悲しむべきことです。

これまた、何度も言ってきたことですが、人との大調和と教えとのそれとは、はっきりと弁別すべきであります。

「総裁」とは教えを説く人なのです。

その教え≠ニ果たして大調和が成り立つのかということこそが、本質的な問題なのです。

『生命の實相』の「倫理篇」にある「和解の倫理」にはこうあります。

≪「生長の家」倫理学の中心思想は、「人と神と一体であり、万ずのもの皆神より出でたるものであるから、なんじを害するものは一つもないのであるから、天地一切のものと和解せよ」ということであります。そこで天地一切のものと和解するには、天地一切のもの、すなわち異端邪説とでも和解したらよいかどうかが問題になるのであります。……
 真に和解するとは、「ものそのもの」の完全なる実相を認めその実相と和解することであります。「家ダニ」を見たならば、吸血鬼であるその仮相を見ず、互いに調和した場所において相侵し相傷つけないように造られている「完全なる家ダニ」と和解することであります。結局 「和解する」とは、その「実相」を見て、その実相において完全を観ることであります。
 対人関係、対物関係の和解は、そういうように物そのもの、人そのものの実相を見て、それと実相において和解してしまいますと、相手の調和した実相があらわれて相手が自分に逆らいまたは害しなくなるのでありますが、「迷い」に対したり「誤れる見解」に対しては、われわれはいかなる態度をとるべきでありましょうか。
「迷い」に対して和解したら、真理が消えてしまうのであります。「誤れる見解」に対して和解したら実相がくらまされてしまうのであります。だからわれわれは、決して「誤れる見解」に和解してはならないのであります。「誤れる見解」をわれわれは「虚説」と申しますが、虚説とはよく名づけたものであります。「誤れる見解」は実相の世界にはない。それは「虚説」すなわち「無い説」でありますからわれわれは虚説と和解することは絶対にできないのであります。虚説に和解したら自分の完全なる実相が昧(くら)まされ、完全なる実相が昧まされたならば、その投影として不完全なる現象すなわち不幸、病気、災厄等があらわれてくるのであります。…
 われわれは天地一切の実在と和解しなければなりませんけれども、虚説に対して和解してはならないのであります。「人は二人の主に事(つか)えることはできない」という諺があります。虚説に和解したら実相をくらますことになります。実相をくらませばみずから迷うことになるのであります。迷えば迷いの影を現象界にうつして、現象界がままならぬ相(すがた)にあらわれてくるのであります。≫

で、私が「トキ」さんの文章で、一番、気になったのはこの箇所です。

教団が衰退し、崩壊の危機にあるのも事実ですが、逆にそうなれば一般の信徒さんも、何が原因かを知ることになると思います。

これを、そのまま読むと、教団が崩壊するときがくれば、自ずと信徒は問題の本質に気づく、だからそれまでは対立しないでいこう。

そういう意味のように思えてならないのです。

私は、今の教団のことを「オレオレ詐欺」に喩えたことがありますので、それに倣って言わせていただけば、いずれ詐欺だったとわかるときがくる。

そのときになれば眼が覚めるから…。

そのように聞こえてならないのです。

つまり、私と「トキ」さんの決定的な違い、それは、今の教団がやっていることは、尊師の教えに照らして詐欺だとは思わないのか、これなのです。

その認識の違いが厳然としてある、ということなのです。

詐欺と分かっていて、騙されているというのがわかっていて、それを指摘すると喧嘩になるから、と言って、指摘しない…。

そんな愛のないことは私にはできない。

よし、対立するようなこととなっても、いずれ、必ず「よく指摘してくれたね」と理解してもらえる…。

同じ「生長の家」の教えに学んでいる者であれば、必ずわかってもらえる…。

その信があるからこそ、敢えて、対立を畏れないのです。

それが私の立ち位置だということです。

ともあれ、こうして、私の注文に早速、応じていただいたことには心から感謝申し上げます。

「トキ掲示板」の発展を心からお祈りしております。



割り込み、失礼します。上の12014で破邪顕正さんがおっしゃっているトキさんの記事2件は、ここにあります。 (12018)
日時:2020年05月23日 (土) 16時52分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

上の12014で破邪顕正さんがおっしゃっているトキさんの2記事、「雑感」と「追伸」はともに、
https://bbs5.sekkaku.net/bbs/toki2/mode=res&log=6544
にあります。

レスポンス記事なので、少し下になります。

ご参考まで。



「トキ」さんに伺っているのは、今回の「通達」は詐欺≠ナはないのか、騙し≠ナはないのか、その認識がおありなのか、ということなのです。 (12020)
日時:2020年05月24日 (日) 09時54分
名前:破邪顕正


「トキ」さんという方は、以前にも申し上げましたが、教団愛に溢れた方だと私は見ています。

愛する者が滅びて行くのを見るのは実に忍びがたい。

何とか、教団には眼を覚ましてもらいたい。

「トキ」さんの投稿には、いつも、その思いが溢れているように思います。

しかし、現実はどうでしょうか。

一度でも、その「トキ」さんの思いが総裁の心に届いたことがあったでしょうか。

大変、失礼な言い方になりますが、いつも一方通行、片思いに終わってきたのではありませんか。

どうして、届かないのか。

「トキ」さん、それを本気で考えたことがありますか。

気分を害されることを承知で、敢えて、言わせていただきます。

それは、「トキ」さんには、総裁が気にかけるほどの力がない、そう見切られているからです。

「掲示板」で、ただ現状への不満を言い募っているだけ…。

ガス抜き≠ノはちょうどいい。

言いたいように言わせておけばいい…。

私は、総裁という人は、絶大な権力者だと見ています。

権力者という視点から、常に見、そして考えるようにしています。

権力者にとって、「トキ」さんはどう映るか。

不満分子の一人ぐらいにしか見てもらっていない…。

もとより、「トキ」さんの掲示板には、それなりのファンは集っています。

しかし、それはあくまでもファン≠ナあって、教団に影響力を及ぼすほどの力とはなりえない…。

何故、こういうことを言うのか。

本気で、教団を救おう、何とかしようと思うならば、それなりの発言権をもたなければ、いつまでたってもごまめの歯ぎしりに終わる…。

それを嫌と言うほど思いしらされてきたからです。

総裁という絶対権力者を突き動かすには、その背景に、力がなければならない…。

それはもう理屈ではない、本当の実感なのです。

そして、その発言権を教団内にあって構築することは不可能…。

もはや、外でそれを作り上げるしかない…。

外に出て、志を同じうする者を募って、その力をもって、「生長の家総裁」という巨大権力に対して、対峙していく…。

それしかないと思ったのです。

教団を退会した者にとって、教団がどうなるかは、さして大きな問題とはなり得ません。

そこが「トキ」さんとは決定的に違うところなのかもしれません。

私にとっては、尊師の教えこそが最大関心事なのです。

今回の「通達」は、尊師の教えに対して、真っ向からそれを否定せんとするものであります。

神様を取り替え、「實相」を眩まし、偶像崇拝に走る…。

こんなことが許されていいのでしょうか。

尊師の教えによって救われた者の一人として、これは決して許されざること、黙過し得ざることなのです。

ところが、「トキ」さんは、今回の投稿でこういう言い方をしたわけです。

今回も、全文、引用させていただきますこと、ご容赦ください。

〈それどころではなくなった話 (28470)
日時:2020年05月23日 (土) 17時53分
名前:トキ
 「造化の三神」で本流は騒いでおられますが、教団に残っている人間に取って、信徒の激減と財務状況の急激な悪化の方が切実な問題です。

 それ以上に問題なのは、財務の悪化や信徒の減少ははっきりと数字で見えているのに、本部も教区もエライ人たちが、具体的に動きを見せようとしないことです。
普通、組織の財務が悪化したり、「売上」が落ちたら、どうするか、真面目に考えるのが指導者なんですが、どうも、自分たちの保身が先に来るらしく、本部の方向ばかり気にしています。

 本部が「造化の三神」を送ってきても、それを拝むに人間はいないという惨状になりそうです。〉

この文章の何が残念だったか、「トキ」さん、分かりますか。

本流は騒いでおられますが

単なる「騒ぎ」という認識しかしてもらえなかったこと、本当に悲しくなりました。

教団にいる人にとって、今回の「通達」は、その程度の認識だったのか…。

尊師の教えがどうなるかより、教団の教勢の衰退の方が気になるのか…。

組織に残ると、自分の組織がどうなってしまうのか、そちらの方が重要なのか。

それに比べたら、教えがどうなるかは、単なる「騒ぎ」の世界となってしまうのか…。

本当に残念でなりませんでした。

最後、私が言いたいことを纏めていわせていただきます。

教勢云々は、結果でしかありません。

そこで売られているものがニセモノであれば、やっていることが詐欺であれば、騙しであれば、厳然として「原因結果の法則」が働くだけの話ではありませんか。

その問題意識なくして、教団の現象のみにひっかかっていることが残念でならないということです。

「トキ」さんの掲示板でも、もっともっと、今回の「通達」の非真理性について議論沸騰することを願って已みません。



ふたたび割り込みで失礼します。上の12020で破邪顕正さんがおっしゃっているトキさんの記事、「それどころではなくなった話 (28470)」は、ここにあります。 (12024)
日時:2020年05月24日 (日) 14時58分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

上の12020で破邪顕正さんがおっしゃっている、トキさんの記事、「それどころではなくなった話 (28470)」は、

https://bbs5.sekkaku.net/bbs/toki2/mode=res&log=6544
の、上から15番目のレスポンス記事です。

その上にトキさんの「雑感」も「追伸」もあります。




「トキ」さんの結論はどうして、いつもべき論≠ナ終わるのか。その背景にあるものとは… (12033)
日時:2020年05月25日 (月) 08時59分
名前:破邪顕正


「トキ」さんがどう思っているかしりませんが、私にとって「トキ」さんは、貴重な存在の一人です。

勿論、「トキ」さんのおかげで、立ち位置の違いがより鮮明になったということもありますが、それ以上に、生き方の違いが際立つことになったということがあげられます。

かつて、私は、「トキ」さんの投稿はいつも、こうあるべき、こうすべきのべき論≠ノ終始していると指摘して、

力なき正義は無力なり

という言葉を贈ったことがあります。

で、今回の投稿もまた、ご多分に漏れず、相変わらずのべき論≠ナありました。

今回は、全文の引用ではなく、当該箇所のみにとどめます。

〈私見です (28662)
日時:2020年05月25日 (月) 07時58分
名前:トキ
(前略)
 どちらにしろ、聖典の出版の維持は、後世の人たちのためにも必要だと思います。デジタル化の現在、紙である必要はありませんが、人類の財産ともいうべき聖典は広く人類に開放されるべきだと思います。〉

それが実現したら、どれだけ嬉しいか、有難いか、私も何の異論もありません。

問題は、実はここからなのです。

これまで「トキ」さんは、「掲示板」でいろんなべき論≠展開してまいりました。

果たして、それが一つでも実現したことがあったでしょうか。

一つでも「トキ」さんの提案を教団が受け入れたという話、私は寡聞にして知りません。

おそらく、今回の提案も、教団が受け入れることはないでしょう。

何故、総裁が、33もの『聖典』を、事実上の絶版に処しているか。

それにはそれなりの背景、理由があるのです。

これも、暗黒の30年史≠ノ記載させていただいていますから、ここに紹介しておきます。

〈※絶版処分の本当、本音の理由とは?

@大東亜戦争を肯定する内容の『聖典』は絶版に

 その代表とも言うべき聖典が『神ひとに語り給ふ』です。この聖典は、「はしがき」に『本書は生長の家発祥以来の神示のうちの教への中心となるもののみをあつめて「教の巻」としたのであり』とあるように、生長の家の教義を知る者にとって、決して外せないものの一つであるはずです。そもそも、生長の家の教えの代名詞ともいうべき「大調和の神示」についての講義もまたここに収録されているのですから。
 ところが、この聖典すらも絶版処分の憂き目にあってしまいました。本書の中に「大東亜戦争の意義」と題して次のように記されているからです。「私は別に戦争を謳歌するといふわけぢやないのですけれども、起るべくして起つてゐるものを、日本民族の侵略だと言ふのは間違なのであります。」(294頁)
 これが「侵略論」を採る谷口雅宣総裁には看過し得なかったということなのです。たとえ「神示」であろうとも、自分の考え、思想に合わない、不適切と判断されたものは世には出さない、それが谷口雅宣総裁の方針だということです。自分の考え、思想が「神示」に優先する。そういう考えが、今日の「ご祭神」の変更にまで及んでいると私は見ています。

A「占領憲法」を批判した『聖典』は絶版に

 谷口雅宣総裁が、「占領憲法」を擁護する、所謂“護憲派”であることが明確になりましが、それは本部に乗り込んできたときからの一貫したものでした。
 それゆえに、谷口雅春先生の「占領憲法」を批判する『聖典』も絶版とされました。

B「生長の家」の歴史を覗わせるものも絶版に

 革命家がまず為すことは「歴史」を封印することから始まるといいますが、谷口雅宣総裁も同様のことをやりました。それが端的に表れているのが、生長の家の30年史、40年史、50年史の絶版です。
 更に、谷口雅宣総裁は、『明窓浄机』まで絶版にし、あまつさえ、昭和35年以降の『明窓浄机』の出版を止めてしまいました。
 これについては、当時、日本教文社社長であった中島省治代表の証言がありますから、これは間違いのない事実であります。
 昭和35年と言えば、日米安保で日本が大きく揺れた時代であり、それ以降、谷口雅春先生の愛国の至情あふるるご発言がどんどん発表されていきます。
 谷口雅宣総裁は、そういうものが発表されることを悉く嫌ったのだと思われます。

C自分を脅かす存在を排除するために

 絶版聖典の一覧表で、異彩を放っているのが、『奇蹟を生ずる実相哲学(下)』であります。つまり、その上巻は発刊されているのに下巻だけは絶版にされている…。その理由は、下巻の「はしがき」に、谷口雅春先生が、宮澤潔先生と「朝の神想観を倶にすることにした」と書いておられるからであります。谷口雅春先生から直に指導を仰いだことのない谷口雅宣総裁にとって、これは実に都合の悪い話だったということなのです。〉

ここからが本題です。

思うに、「トキ」さんは、いくらべき論≠展開しても、それが実現することはないということを、本人自身が一番、よく知悉しているのではないかと私は見ているのです。

そのことを十分に分かった上で、言い募り続けているのではないのか。

べき論≠ェ正論だからです。

その正論を言うだけでいいと、自らの立ち位置をそのように弁えているということです。

どうして、そういうことになってしまったのか。

これまた「トキ」さんの気分を害することになろうかと思いますが、長い間のヨシミ≠ナ、敢えて苦言を呈させていただきます。

それは、常に、「自分は教団は辞めない」というエクスキューズ(言い訳)を用意しているからです。

総裁や教団を、批判、非難はするのに(所謂、これは内部批判です)、だったら潔く退会すればいいのに、絶対に、そうはしない。

「大調和の教えだから」とか、「仲間割れはいけない」とか、「対立抗争は自分の願うことではないから」とか、もっともそうなことを言います。

私に言わせれば、そんな段階はもうとっくの昔に過ぎている…。

いつまで、そういうことに拘っているのか…と思うのですが。

それはともかく、「トキ」さんは、いつもそう言っては教団を辞めない理由にしているわけです。

で、ここからが私の言いたいことです。

教団を辞める気のない人が、総裁、並びに教団を批判するとなると、どういう言い方になるでしょうか。

そうです、こうすべき、こうあるべきというべき論≠フ世界に逃げ込むしかないのです。

だって、本気でそれを言い募ったら、明確に教団は処分しますからね。

処分されないように(だって、辞めないと宣言しているわけですから)、常にそれを気にかけてモノを言うしかないわけです。

そうなると、遺された道はべき論≠フ評論を繰り返すということになるしかないのです。

ザックリ言わせていただけば、「トキ」さんから、命をかけた諫言は出てこない…。

常に、エクスキューズがあるから、本気さ≠ニいうものが伝わってこない…。

あくまでもべき論≠ナあって、本当に、それを実現するのだという気迫、体を張った気概、覚悟と言ったものを感じないということです。

状況を切り拓くコトバ≠ニは何なのか。

本当に相手の心を打ち、共感させ、起ちあがらせる勇気を与えるコトバ≠ニは何なのか。

私は、そのことを「トキ」さんから、却って学ばせていただいたように思っています。

その点で、私なりに「トキ」さんには、感謝しているということです。



たびたびの割り込み、失礼します。上の12033で破邪顕正さんがおっしゃっている、トキさんの記事「私見です (28662)」は、ここにあります。 (12034)
日時:2020年05月25日 (月) 11時45分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

上の12033で破邪顕正さんがおっしゃっている、トキさんの記事、「私見です (28662)」は、

https://bbs5.sekkaku.net/bbs/toki2/mode=res&log=6521
の、上から24番目の記事です。




世を動かすコトバとは何か… (12042)
日時:2020年05月26日 (火) 13時15分
名前:破邪顕正


「トキ」さんの投稿を読みながら、改めて、どういうコトバが状況を切り拓き、世を動かしていていくのかということを考えています。

それで、思い出したのが、明治維新を切り拓いた先駆者・吉田松陰先生の、あの有名なコトバです。

至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり

やはり、誠、真心こそが大事なのだと改めて思った次第です。

誠と言えば、聖経『続真理の吟唱』の中に「われら誠≠生きるための祈り」というのがあります。

その中に、こういう一文があります。

《人が誠実に生きるとは単に真剣に生きる≠ニいうことではなく、人間の本質であるところの実相(まこと)すなわち神の子≠フ自覚に基づいて生きることなのである。》(165頁)

「実相」と書いて、まこと≠ニふりがながついていることに眼が止まりました。

今回の「通達」は、何度も申し上げてきましたように「實相」を隠そうとしているわけです。

罪とはつつみ≠ナある、それが尊師の教えです。

その教えに従うならば、今回の「通達」は、文字通りまこと≠隠す罪≠ノ他ならないのではないのか。

「實相」隠しとはまこと♂Bしなり。

これでは救われない、本当にそう思います。

頭注版『生命の實相』第37巻「幸福篇上」の「二月三日」の言葉にこうあるからです。

《神はまことである。まことは円相である。まこととは○(まる)ことである。○は和解のしるしである。…
 隔てのない心。角のない心。仲のよい心。○い心。○はいっさいを包んでいる。隔てもなければ、角もない、実に実に仲のよい心が日の丸の心である。》

「實相」を隠すのは、神≠隠し、まこと≠隠し、日の丸の心≠も隠すことに他ならない、そう痛感する次第です。


再び、『まこと』(實相)について思う (12045)
日時:2020年05月27日 (水) 08時12分
名前:破邪顕正


『明窓浄机』「草創篇」に「日本国家は神の理念の最高顕現」というご文章があります(257〜258頁)。

その最後は、こう締めくくられています。

《人類的立場は一層高き普遍平等的立場であると思いたがろうとするのであるが、日本国家に於てのみ、国家的立場は人類的立場と完全に一致するのである。

国家的立場と、人類的立場と、家族的立場と、個人的立場とは悉く『まこと』(實相)の一つに於て一致する、これが生長の家の光明思想である。》

このご文章を拝読させていただいて、改めて、人類光明化運動と日本国実相顕現運動とは一体なり、との感を強くさせていただきました。

総裁は、それが嫌だったからこそ、「国際平和信仰運動」なるものを持ち出してきて、その両者を葬ってしまったのだと思います。

その心の陰として、「實相」隠しの今回の「通達」もまた生まれたのではないてじょうか。

そこには、『まこと』がないということです。

尊師の教えに逆行するわけですから、『まこと』があろうはずもない…。

『まこと』のない教団であってみれば、そこに「救い」を求めても当然、得られはしないと思うべきではないでしょうか。

「救い」なき宗教教団というものが、果たして成立するや、否や。

それが、今後、ますます問われていくのであろうと考えています。








「後世の歴史家は岡先生を高く評価するでしょう」との指摘から教団内本流派≠ェ生まれていることを感じます… (12054)
日時:2020年05月28日 (木) 11時11分
名前:破邪顕正


表題の指摘は、「トキ」さんの投稿にあったものです。

私は、最近の「トキ」さんの投稿を読んでいて、「トキ」さんを教団内本流派≠ニ称したいと思います。

つまり、教団内にあって「尊師の教えに帰れ」と叫んでいる…。

それは、まさしく、所謂、本流と言われる私どもと同じ主張であると思うからです。

で、岡氏も、確か以前に、今なお教団の聖使命会に入っていると書いていましたから、「トキ」さんと同じく教団内本流派≠ニ見て差し支えないと思います。

さて、私が今回、申し上げたいのは、果たして、「トキ」さんが言うように、教団内本流派≠フことを「後世の歴史家は…高く評価する」だろうかということなのです。

まず、これだけは、はっきりしています。

今の教団の中で、教団内本流派≠ェ評価されることは…ない、ということです。

とにかく、教団に異議を申し立てるような言動をしたら、その瞬間、排除されてしまう、それが今の教団の体質だからです。

実際、こういう話を耳にしたことがあります。

教団を退会した後、本流側に行った教化部長経験者がいました。

それが発覚した後、その教化部長経験者はどうなったか。

よく、道場に、歴代教化部長の写真が掲げられていることがありますが、その教化部長経験者の写真だけが外されてしまいました。

ある教化部では、その教化部長だけを外すのでは、如何にもこれは酷すぎる、信徒の心証を害しかねないということで、教化部長の写真をすべて外したという話も聞いております。

つまり、教団に反旗を翻したら絶対に許さない、存在そのものをこうして歴史から抹殺してしまうというのが現教団なのです。

そのことを前提として、私が申し上げたいことは、その人が後世において評価されるかどうかは、その後の歴史がどうなるのかにかかっている…。

たとえば、上記の投稿で、私は吉田松陰先生のことについて言及させていただきましたが、どうして今日、維新の先駆けとして高い評価を得ているのでしょうか。

言うまでもなく、明治維新が成ったからに他なりません。

もし、あのまま江戸幕藩体制が続いていたら、吉田松陰先生は幕府転覆をはかった首謀者として、おそらくは歴史の波間に沈んだままで終わっていたやもしれません…。

歴史は勝者がつくる、とはよく言われることです。

「トキ」さんが言うように、岡氏が後々、高い評価を受けるかどうかは、尊師の教えが蘇るかどうか。

もっと直截的に言わせていただけば、本流派が勝利するかどうか、それにかかっているということです。

本流派が勝利すれば、尊師の教えを護り、それを伝えぬいた孤高の人として、岡氏は顕彰されるでしょう。

同様に、「トキ」さんもまた、教団の圧政の中で、よくぞ正論≠トキ続けた…、よくぞ孤高の戦いを展開し続けたとして、高い評価を得るでしょう。

つまり、本流派の勝利なくしては、教団内本流派≠ヘ、私どもが教団側から浴びせられ続けた如く、単なる不満分子≠ニして葬り去られるであろうということです。

教団の内にいようと、外にいようと尊師の教えに帰れ≠ニ言い続けた信徒が、後世、大いなる評価をいただけるよう、是非、私どもが勝利しなければならないと改めて自らに言い聞かせている次第です。


たびたびの割り込み、失礼します。すぐ上の12054で破邪顕正さんがおっしゃっている「トキさんの投稿」は、ここにあります。 (12055)
日時:2020年05月28日 (木) 13時38分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

破邪顕正さんがおっしゃっている、「トキさんの投稿」とは、
https://bbs5.sekkaku.net/bbs/toki2/mode=res&log=6544

上から6番目の記事、「雑感」です。

ここでトキさんが、

>つまり、本部は岡先生の真面目な訴えを葬り去ったのです。では、岡先生の行動が無意味だったのか、というと、そうではありません。岡先生の正論を読んで、本流復活派には嫌悪感を持っていた信徒も、本部の間違いに気が付いた人がたくさんでました。

>また、歴史においても、現在の本部の民主主義とか立憲主義とはかけ離れた独裁的な体制に対して、抗議をした信念のある人物がいたことは、生長の家の歴史にとっても幸いなことです。後世の歴史家は岡先生を高く評価するでしょう。

と言っています。

このurlは既に上にある12018で申し上げたことですが、自分でも忘れていたことなので、念のために…。



“歴史は勝者によってつくられる”その中で、敗者であっても評価される道はある、それはコトバに命を賭けることである… (12058)
日時:2020年05月29日 (金) 09時59分
名前:破邪顕正


「トキ」さんが、自らの立ち位置をこんなにもはっきりと宣言したことについて、私なりに強い関心を抱いています。

「トキ掲示板」のスレッド“コロナ以後の生長の家 (28716)”の中にある、この投稿です。

〈私見です (28731)
日時:2020年05月27日 (水) 01時00分
名前:トキ

(前略)

実際のいろいろな数字を見たら、もはや教団の運命は決まったと言えます。
ここで、会員である私の歴史における責務は、会員の一人として、声はあげたという事実を残すのみです。
私は、歴史的な責任を果たすという観点で、投稿を続けているつもりです。(後略)〉

私は、「トキ」さんの言う“歴史的な責任を果たす”という言葉の背景にあるものは何か、それについて考えています。

「トキ」さんのことを、私は“教団内本流派”と名付けたわけですが、この投稿から窺えることは、失礼な言い方になって申し訳ありませんが、敗北感です。

即ち、ことここに至っては、“教団内本流派”が教団の中で大きな勢力となることはない…。

こうすべき、こうあるべき、こうしてほしい、ああしてほしい…。

そういうことをいくら言い募っても、今の総裁がそれに耳を傾けることはない…。

体制側にとっては、そんなものは“雑音”でしかない…。

言いたいだけ言わせておけばいい、何の影響力ももちはしないから…。

総裁は、そう見切っている…。

そういう敗北感です…。

それを「トキ」さん自身が、肌で実感しているからこそ、かくなる上は、“教団内本流派”として、こういう信徒もいたのだという、その存在の証しだけは見せておきたい…。

それをもって瞑すべし。

そういう覚悟を見せているのだと私は考えます。

そういう「トキ」さんに、同じ本流派として、助言しておきたいことがあります。

それは、私は「歴史は勝者によって作られる」と申しましたが、敗者であっても高い評価を受ける道があるということです。

幕末・明治維新期において、ご存じのように幕府側は敗北したわけですが、その敗者の幕府側にあっても後世、高い評価を受けた人がいます。

例えば、勝海舟とか山岡鉄舟とかが、そうでありましょう。

どうして、そういうことになったのか。

勿論、江戸無血開城によって、江戸の民衆を救ったという功績が燦然と輝いているからに他なりませんが、それをもたらしたのは、やはりコトバに命を賭けていたからだと思うのです。

たとえ、敗者であろうとも、そこに命が込められていれば、その名は残る、そのコトバは遺る…。

“高貴なる敗北”という言葉がありますが、その高貴さとは、すべからく、そこに命を賭けているからこそである…。

それに尽きるのではないでしょうか。

日本という国は、そういう国なのです。

ですから、「トキ」さんには、ぜひ、“教団内本流派”として「歴史的な責任を果たす」ため、そのコトバに命を込めていただけたらと心から念願する次第です。


しつこく割り込みで恐縮です。 (12061)
日時:2020年05月29日 (金) 20時14分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

上の12058で破邪顕正さんがおっしゃっている、トキさんの記事、「私見です (28662)」は、12034で案内申したように、

https://bbs5.sekkaku.net/bbs/toki2/mode=res&log=6521
の、上から24番目の記事でした。

この記事の下に、新しく4件のレスポンス記事が加わっています。






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