《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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観世音菩薩讃歌には『聖経・甘露の法雨』と矛盾したことが書かれている (6908)
日時:2017年07月08日 (土) 02時03分
名前:清流の民

私は元信徒です。何年か前に退会しました。私は生長の家の教えはすばらしい教えであると
思っていますが、そのすばらしい教えが、歪められ、凡庸のくだらない教えに変わっていくのを見ることは、誠に残念であり、悲しいことであります。

5年前に雅宣総裁によって大自然讃歌と観世音菩薩讃歌という二つのお経が発表されました。私はそのとき一回ざっと目を通しただけで、「このお経は読まないほうがよい。」と思って、ごみ箱に捨てました。それきり読んでいません。
しかし最近になってしきりに「あのお経はおかしかった。」と思えてくるので、そんなに気になるのなら、もう一度読んでみようと思うようになりました。
私はこのお経を持っていないのですが、インターネットで見ることができました。

そこで気づいたことは、この両経もやはり『聖経・甘露の法雨』と同じく天使(てんのつかい)が説いたものであること、また『甘露の法雨』や『天使の言葉』から引用している部分があることなどです。
しかし、それにもかかわらず、観世音菩薩讃歌には『聖経・甘露の法雨』と矛盾したことが書かれていると思いました。

観世音菩薩讃歌を持っておられる方は「善」という項目を見てください、持っておられない方はインターネットで見てください。2012年5月29日の唐松模様、観世音菩薩讃歌(2)の「善」という項目です。

この12行目に「力そのものから善悪を生ずることなし。」と書かれていますね。しかし『聖経・甘露の法雨』には「善のみ唯一の力」「されば善ならざる力は決して在ることなし」と
ハッキリと記されています。この「善のみ唯一の力」は大自然讃歌にも引用されているのです。観世音菩薩讃歌で天使は前に言ったことと矛盾することを言っています。

次に進みましょう。おなじ「善」という項目に「大規模なる火山活動にて/山崩れて海に入るとも/その結果に善悪なし。/猛獣走りて鹿を倒し/カマキリの鎌、小虫を捕らうれども、/その結果、必ずしも悪に非ず,/善に非ず、/定められたる法則の産物にすぎざるなり。」とあります。しかし『聖経・甘露の法雨』には、「神があらわるれば乃ち/善となり、/義となり、/慈悲となり、/調和おのずから備わり、/一切の生物処を得て争うものなく、/相食むものなく」と書かれているのです。火山が爆発したり、猛獣が鹿を倒したり、カマキリが小虫を食べたりするのは、神があらわれていない状態すなわち悪ではないのか。しかし悪は非実在であるから、「悪夢」と云うべきか。『聖経・甘露の法雨』には、「すべての不調和不完全は畢竟悪夢に過ぎず。」と記されています。ここでも天使は前に言ったことと矛盾したことを言っています。

火山が爆発して天変地異が起こったり、猛獣が鹿を倒したり、カマキリが小虫を食べたりするのは、神の創造の世界ではなく、無明縁起の世界である。谷口雅春先生が否定された世界である。しかるに雅宣総裁は「必ずしも悪に非ず、善に非ず」と中途半端なことを言って、最後には、「壮大華麗なる自動運転の世界なり。」と最大最高の誉め言葉で肯定してしまっている。「壮大華麗なる自動運転の世界なり。」ではないでしょう。それを書くのならば、「無明(まよい)が自働自展する世界なり。」とするべきでしょう。それに続けて「有るように見えても本来無き世界なり。」と書くべきです。

雅宣総裁は無明縁起の世界を神の創造の世界とかんちがいしているのだ。生長の家の根本である「唯神実相の世界観」がよく解っていないのだ。よく解っていないからこういうところで
ボロをだしているのだ。

猛獣が鹿を倒したり、カマキリが小虫を食べたりするのが(神が)定めた法則の産物であるという・・・。どういう法則なんだろうか。『生命の實相』倫理篇には「物質の法則や自然界の法則は神の法則ではない。」と書かれている。生長の家の信ずる神とは愛の神、調和の神であり、そして全能の神、完全の神である。猛獣が鹿を倒したり、カマキリが小虫を食べたりするのが神が定めた法則の産物であると云うような雅宣総裁の神観は生長の家の神観ではない。『聖経・続々甘露の法雨』には、「全ての不幸と悲惨とは神の所造に非ざるなり。」と示されている。

日本には野生の虎やライオンはいないが、熊はいる。熊が鹿を襲って、鹿の肉を食べるということは現実にある(現象世界のことですが)。雅宣総裁は、熊が鹿を襲うのを遠くから眺めて、「必ずしも悪に非ず、定められたる法則の産物にすぎざるなり。壮大華麗なる自動運転の世界なり。」と言うのだろうか。これでは総裁自説の「自然に対する四無量心」どころか「慈悲のかけらもない」ということになりはしませんか。

観世音菩薩讃歌は『聖経・甘露の法雨』と矛盾し、生長の家の根本である唯神実相論と矛盾し、生長の家の神観と矛盾し、さらに雅宣総裁自説の「自然に対する四無量心」とも矛盾している。全く支離滅裂のお経である。ニセ天使の欠陥経である。
こういう思想の混乱したお経を読んでいると、生活が混乱し、人生が混乱します。ご先祖様も混乱して、迷います。

教団に残っておられる信徒の皆様、もし心あるならばこのようなニセ天使の欠陥経を読誦しない、読誦させないようにしていただきたい。真に生長の家の信徒ならばコトバの力の大切さは良く解っておられると思います。

私のこの文章を読んで、「正しい」と思われた方には、拡散をしてくださるようにお願いします。『聖経・甘露の法雨』に示されているように「虚妄を壊するものは真理のほかに在らざるなり。」であります。                           合掌。



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