三角の部屋 レコードコレクション 

                                            

 

                                                     The credit to each image to / NASA /JAXA

 

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[9]ぶっ飛ぶような音を聴いた - 投稿者:taro

今朝聞いたカラヤンのベートヴェンは凄かった。
交響曲集の弟2番ニ長調作品36
これを大音量で聴くと目の前のスピーカーから凄まじい音がぶっ飛んでくるという印象
右の画像に付けた仏盤カリオペのベートーベンピアノソナタも最高の演奏だった。
 おそらくこのような演奏ではピアノが長持ちしないはずだ、

上の画像にあるが、1セット2万5千円で買ったかなり古いビクターのSX?700とかいう当時から人気の無いスピーカーの話しだ。
昨日書いた通り、電源をきっちりと合わせたらこんな音が出るのかと驚かされるような音だった。
しかも大音量で聴くと本来のスピーカーの能力が発揮され、横のタンノイも顔負けのパーソナリティを発揮する。
 ただし、レコードで大音量の交響曲を堪能するには最近の繊細なCD向けのスピーカーではだめだ。
 1年前まで小型スピーカーを聴きたくなって、右のビクターの小型スピーカーの音を聴いていた。たしかに音は透明感のある整った音だった。だが、LPレコードの低音部の再生には絶えられず半年て、低域がびりついて聴くに堪えないようになってしまったのだ。LPレコードの独特の音の響きはCD時代のスピーカーには無理があった。頑丈に作られた昔のスピーカーでないと、大音量のLPレコードの響きは長持ちできないのだ。 

◇オーディオ機器の値段が高すぎる
 何処とかのメーカーのスピーカーで「モーツアルト」という商品がある。そのスピーカーをベスト電器で聴かせて貰ったことがある。
 本体ももちろん細かったが、音があまりに繊細で、私の聴くLPレコードの交響曲はとても無理だろうと思って引き上げてきた。
 CDを聴いている人達の場合は、音の輪郭に拘るあまり次第に音が細くなってしまったのかと想像するが、私の部屋で聴く大音量の音を聴いたら驚かれることだろう。
 そうしたスピーカーは驚くほど値段も高い。中古で2万5千円のビクターに比べると、20倍以上の値段だったと記憶している。
 そんなに値段を高くするから、次第にオーディオファンが少なくなってしまって、いまでは国産の本格的なスピーカーを作っているメーカーはいなくなってしまった。

◇いくら古いレコードでも音がよくないとだめだ。
 音楽通の人がSPレコードを持ち出して喜んでいるのをみたことがある。 彼はそのSP盤が稀少盤であることに大変満足している顔をしていたが、私はあんなのはどうかしていると思っている。
 私はたくさんのLP盤を所有しているが、骨董屋ではない。従って、音の良いレコードしか聴かない。音の悪い音楽を聴いて感動することなどあり得ないからだ。
 しかるに、古いレコードを喜んでいる人達の中には、骨董的趣味の人達が多く存在している。同時に彼らはもしかすると、「幻の巨匠の音楽」を所有する喜びに支配されているのかもしれない。
 昔、まだソニーの社長がオペラ歌手だった頃、カラヤンが大変なオーディオマニアであることを語っていた。そのことを今思えば、カラヤンは自らが演奏した音楽が後々の世において世界で再現されるための「再生音楽」のことが頭にあって、いい音の音楽を遺そうと考えていたのかもしれない。事実、今朝私は約50年も前の彼の演奏した素晴らしい音質のベートーヴェンの交響曲を聴き、大変な感動を味わったのだ。

◇我々は音楽の何に感動するのか
 大きな疑問だが、演奏家でもない我々素人が音楽を聴いて一体何に感動するのか、考えてみたことはあるだろうか。
 評論家でもない素人に演奏家の演奏技術の理解などできるわけがない。
 そして演奏家の表現する音楽の評価も、さらにはその音楽そのものの評価すらできる訳がないのだ。つまり我々は彼ら演奏家の表現する音楽の何を根拠に「良い」とか「良くない」とか決めつけたり、評価したりしているのか。
 結局、我々は何も分からないで音楽に対峙し、何も分からずにその音楽を評価しているようである。従ってブラームスが良いとか、マーラーが良いと思う理由の根拠は誰しもが意外に漠然としているのかもしれない。それはつまり、ある日ステレオで聴いた曲がたまたますんなりと耳に入って来て、例えば知人の部屋で聴かされたマーラーの7番弟2楽章の美しさが絶品だった、とかの経験によって全てのマーラーの交響曲が好きになったり、そうしたことが「良かった」の根拠となっているのだろう。それほど再生音楽というのは、曲の印象を決める「装置」の表現力に依存しているのかもしれない。

 とすると、音楽というのは例えそれが古典音楽であれ、ロマン派後期であれ、それらはすなわち自分のオーディオ装置によって再生する音楽そのものなのでである。
 ステレオの音が悪ければ、聴く音楽が良い音楽である訳はないのだから。
 すなわち、我々音楽ファンにとって先ず「良い音のメディア」が必要なのであり、次にそのメディアの音楽を我々の耳に再生する「良い音のオーディオ装置」が必要であるということになる。
 そうした装置を持たない人が例え評論家とは言え、CDの裏面の説明に、このCDの音楽は素晴らしいと書きまくってもとても信じることはできないだろう。素晴らしいかどうかは、素晴らしく聴くことの出来るステレオ装置があっての話しであるからだ。

 こうした考えをもとに、毎日ステレオの前に座って音楽を聴いている私は、ひとまず音楽を正面から聴くことができる環境にある。しかし、かといってそれは音楽の感動を正しく理解していると
いうことではない。音楽の感動はあくまで私の内面の問題であり、同時に理解力に委ねる問題だ
。私なんざ、未だに音楽を「あーよかったなー」と感じるだけのレベルの存在である。

( 2020年08月14日 (金) 16時42分 )
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