[234]日本の情緒 - 投稿者:taro
みなさんはアメリカで60年代に活躍した有名なポップ歌手アーサ・キットが歌った「証城寺寺の狸林」という歌を聴いたことがありますか。この歌の原曲は大正14年に日本の詩人野口雨情と中山晋平のコンビによってつい売られた童謡です。元の童謡は日本人なら大方の方がご存じと思うのですが、この歌を1950年代にアメリカのジャズ歌手が「SYOUJYOUJI」というタイトルで歌っているのも結構面白い話です。 https://www.youtube.com/watch?v=_VrBUmivGTo&t=127s 日本の童謡の内容は寺の住職と狸の一団が夜な夜な集まって歌い踊っている様を描いたものですが、アメリカには狸はいませんのでアーサーキットの歌の歌詞では「アライグマ」となっています。
おそらくこの童謡のリズミカルな響きがとても面白く印象に残ってポップソングに編曲されたのだと思います。動物と人間が共に楽しむこんな唄はアメリカだけでなく世界的にも大変珍しいはずです。日本人は八百万の自然の事物を神として崇める一方で、森に生きる動物をもいつからか人間生活に共生していることを覗わせる日本の童謡です。
実は私は唱歌や童謡がとても好きで、部屋に置くラジカセにも多くの歌を集めていつも聴いています。 ところが子供向けに作られたはずの童謡には先ほどの証城寺の狸の歌と違って、なぜか哀しい歌が目立ちます。例えばある童謡では、姉が嫁に行ってひとりぼっちになってしまったと嘆く歌とか、或いは姉妹がどこかへ里子に出されて叱られて悲しむ歌とか、浜辺に飛ぶ浜千鳥が親を捜している歌等々たくさんの嘆きの歌があります。おそらく童謡は表向き平和な市民の生活の陰で貧しくも苦しい市民の世相をさらけ出していたのかもしれません。明治期および大正時代はそんな時代だったのです。
そこで幼い頃そのような童謡で育てられた日本人には共通して何か独特の情緒を有しているように思われます。おそらく自分自身の体験ではなくとも、そうした童謡を耳にして育った私達の意識の根底にはいつの間にか過去の哀感がこびりついているのかもしれません。 流れて来る童謡を聞くとつい懐かしさが頭をもたげて、哀しくも切ない感情が込み上げて来るのです。
このような日本人の感性は日ごろあまり取り沙汰されることはありませんが、似たような事例はドイツ人の感情の中に唯一見ることができます。例えばシューベルトの「冬の旅」の中で歌われているのは「さすらい」という感情です。 その曲の最終楽章で歌手の「フィッシャーディスカウ」が行きずりのとある橋の中央で、老人が手回しオルガンを弾いているのを描写する場面がある。その音はまさに夕刻の寂しい状況を自らの心に被せて詠われ、何回聞いてもしみじみと聞こえてならない。その静寂こそが今でもドイツ人の心の空虚さの源泉であると私には思えてなりません。
いかにしてドイツ人にメランコリーの感情が培われたのかはわかりませんが、ドイツという国が成立していなかった中世の世相の中にその一端を垣間見ることができます。そのころのヨーロッパには若者の就く仕事がなく、青年は一定の年齢に達すると家を離れて放浪の旅に出かけたと言います。そこであちこちの大工だとか職人の職を得て独り立ちしたのだそうです。そうした彼らの「漂白}体験によってドイツ人はいつのまにか、「寂しさ」や「不安」或いは「貧しさ」などマイナーな感性を心に宿して中世という暗い時代を生きたのです。 これは日本人の情緒論とは少し趣が違うまでも、ドイツ人に特有の「メランコリー」な感情は脈々と彼らの心理に内在しているのかもしれません。もしかすると、ドイツにベートーヴェンをはじめとする大音楽家が輩出したのも、そのようなドイツ特有の暗い中世を生きたドイツ人の持つ空虚さという感情のせいなのかもしれない。
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2024年07月19日 (金) 16時33分 )
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