幕末の”再建の神様”山田方谷~その1 (367) |
- 日時:2015年02月18日 (水) 18時13分
名前:伝統
わずか8年の藩政改革で600億円相当を生み出す
*「日経Biz Gate」2013/07/02 より (執筆~皆木和義氏)
皆さんは「山田方谷(やまだほうこく)」という名前をご存じだろうか。 冠、肩書き的にいうと、山田方谷(1805~1877年)は、幕末期に 財政破綻寸前の備中松山藩5万石(現在の岡山県高梁市など)を立て直した 漢学者・陽明学者であり、名財政家であり、卓越した政治家である。
また、偉大な哲学者であり、思想家であり、教育者でもある。 このほかにも、方谷にはもっとたくさんの冠を付けられるだろう。
明治に入ってからは、薩長閥の重鎮で元勲の大久保利通、木戸孝允などから 新政府の要職への就任要請があったが、方谷は固辞。
そのため、明治初期の中央政界での活躍がなく、 現代においてはそれほど有名な人物ではないだろう。
だが、当時は名財政家として、また学者として、方谷の高名は日本中に鳴り響いていた。 その意味で、歴史の大河の中に飲み込まれて消えた、知る人ぞ知る人物といえようか。
《上杉鷹山を上回る改革手腕》
方谷の人生の転機は、隠居の時機を考えていた数えの45歳のときに起こった。 人生50年といわれた時代である。学者・方谷から藩の元締役(いわゆる勘定奉行。 藩の財務大臣的地位)という要職への抜擢である。
ただ、その学者の方谷が行った藩政改革は、 実は著名な米沢藩15万石の藩主・上杉鷹山をしのぐ見事な改革だった。
現在、上杉鷹山が有名になっているのは、第35代アメリカ合衆国大統領である ジョン・F・ケネディが「最も尊敬する日本人」と述べたことが発端のようである。 それは「代表的日本人」(内村鑑三著)の英訳版をケネディが読んだからではないか といわれている。
その鷹山の藩政改革は、明和4年(1767年)に始まり、文政6年(1823年)に一応の完成を見た。 鷹山・治広・斉定の3代にわたる約60年間で、借金20万両を返済し、 余剰金5000両を作ったといわれている。
20万両というのは、現在に換算すれば600億円前後であろうか。 現在の何を比較対象にするかによって、計算は色々変わるのであるが、 約1200億円という考え方もある。
他方、山田方谷である。
方谷は、元々は農民出身だったが、抜擢されて5万石の藩の元締役として、 嘉永2年(1849年)に藩政改革、財政改革を始め、安政4年(1857年)に完成を見た。
方谷は改革の8年間で、借金10万両(約300億円)を返済し、余剰金10万両を作ったのである。 大変な力量と言わざるをえない。
なぜ、こんな短期間に成功できたのであろうか。
それも、藩主でも家老でもない元締役という立場で、しかも農民出身である。 当時の士農工商の厳しい身分制度を考えると、通常ではあり得ないことを成し遂げた。
この成功の秘密を、彼の改革手法や経営手法のみならず、全人格、全人間力に 光を照射しながら、本連載の大きな柱として解明してゆきたい。
《明治新政府にいたなら、日本資本主義の父・渋沢栄一に匹敵か》
江戸時代、多くの藩(当時は藩が、国である)が藩政改革を行ったが、 山田方谷は間違いなく江戸時代屈指の藩政改革者である。
また、これほど短期間で大きな成果を上げた藩の再建、再生はないといっても 過言ではないだろう。
その意味で、私は方谷を"幕末の再建の神様"と命名し、冠を加えている。
もし方谷が明治新政府の会計方(現在の財務省)の要職の出仕要請を受けていたら、 日本資本主義の父と称される渋沢栄一の上司ともなり、 山田方谷は渋沢栄一に匹敵する著名人になっていたかもしれない。
学問の徒としての方谷は江戸後期の日本儒学の第一人者であった佐藤一斎の塾の塾頭であり、 佐久間象山の兄弟子であった。
象山は明治維新の精神的指導者となった長州の吉田松陰の師匠でもある。 方谷と象山は佐藤一斎塾では双璧と並び称されたが、 実力は方谷の方が上だったと伝えられている。
余談であるが、明治の元勲の西郷隆盛は明治維新の立役者であるが、 その西郷の人間としての器や素晴らしい人間力を作る基礎となったのは 佐藤一斎の「言志四録」である。
その「言志四録」のエッセンスを含む西郷隆盛の遺訓は、 「南洲翁遺訓」としてまとめられている。
(つづく)
<感謝合掌 平成27年2月18日 頓首再拝>
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