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光明掲示板・伝統・第一

 

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山田方谷 (316)
日時:2015年02月14日 (土) 20時08分
名前:夕刻版

このスレッドでは、江戸時代後期に陽明学者「山田方谷」について、
紹介してまいります。


今回は、平沼赳夫衆議院議員による、
安倍首相への代表質問(平成25年1月30日)から抜粋

     you tube http://www.youtube.com/watch?v=EvGt1pwksPQ  
             (ほぼ冒頭から11分くらいまでの間)

本題に入る前に、我が岡山が生んだ幕末、江戸後期の偉人、
備中松山藩の山田方谷(ほうこく)について触れてみたいと思います。

彼は今より200年ほど前、 1805年に現在の岡山の高梁市で
生まれました。家は貧しい農商で、菜種油の製造と油の販売を行っていました。

幼くして両親を失った方谷は、陽明学を学び、苦学して家業に精を出しました。
彼は神童の誉れ高く、その学徳が藩主に認められ、わずか9歳の折、
将来は何になりたいかこう問われた時、「治国平天下」と答えたと言います。

『大学』にある「修身斉家治国平天下」、身を修めて、家を斉え、
以って国を治めれば、天下は平らかである、

この言葉を9歳の少年が堂々と述べたというので、皆びっくりしたそうであります。

彼は京都や江戸へ出て、学問に勤しみ、武士に取り立てられるまでに至りました。
江戸では佐藤一斎の塾に入り、佐久間象山と二傑と称され、
彼が塾頭になったわけであります。

32歳で故郷の松山藩に戻った方谷は、藩校の有終館の学頭、教授となりました。
方谷は教育家として、学識経験に一所懸命に邁進し、
40歳で殿様の教育掛にもなったわけであります。

松山藩は当時大変な貧乏藩で、石高は5万石でしたが、
方谷が調べたところ実際は1万9千石ほどしかなかった、
こういうふうに言われております。

そして借金は膨大で、10万両の借金が大阪の両替商にあり、
利息を払うだけでも四苦八苦の状況でした。

藩主板倉勝静(かつきよ)に請われて全権を委任されて、元締役兼吟味役、
今で言えば財務大臣に就任したわけであります。

方谷は現在の日本に匹敵する財政難に必死で立ち向かいました。
方谷は節約の大号令を発し、藩札の刷新、産業の振興、藩政改革、
文武の奨励、軍制の確立、新田の開発等々で一所懸命にそれに取り組み、

現在の貨幣価値で言うと600億円にもなる10万両をわずか7年で完済し、
その上に10万両の蓄えまで持つことができました。

彼は節約でお金を浮かし、大阪の両替商には正直に内情を示し、再建計画書を提出、
利息をまけてもらい、この資金で製鉄のためのたたらを造り、
鉄製の三本又の備中鍬を大量製造して、当時日本の総人口の8割を占めている
農民に向かって、江戸でこれを販売しました。

これが羽が生えたように売れ、藩の収入に大変寄与しました。
これで方谷は街道の整備、港の建設を行い、流通面でも配慮したわけであります。

当時は藩の発行した紙幣、藩札は紙くず同然になってそれぞれの家に眠っていました。
方谷は、藩札を持ってくれば金貨銀貨銅貨に替える、交換を約束を致しました。
藩中の人たちは半信半疑で藩庁に藩札を持ってきました。

約束どおりに金銀銅貨に交換してくれ、
藩の中心にある河原に旧札がうずたかく積まれました。
方谷は衆人環視の中でこれに火をかけて燃やしました。

新たに藩札を発行しました。
新しい藩札には信用があり、瞬く間に流通をし、隣の藩にまで浸透したようです。

こうして情報を開示し、資金を創出し、産業を興し、信用ある藩札の発行、金融改革、
財政改革を行い、必要な公共事業にも手を伸ばしました。

また方谷は新田の開発にも熱を入れ、新田からの米には年貢をかけませんでした。
農民だけでなく、武士にも屯田兵制度で新田を開発させ、これも無税扱いに致しました。
これは税制改革のひとつと言え、経済は盛んになりました。

また軍備にも着目し、里正隊(りせいたい)、武士でない一般人からなる軍隊を創設し、
総理のご地元の奇兵隊の10年も前にこの里正隊を設立しました。

これを久坂玄随(くさかげんずい)もわざわざ見学に来て、
多大な影響を与えたものと言えます。

山田方谷は72歳で没するまで、教育、それに邁進し、
彼の教育の教えを受けた人々が大変活躍をしました。

彼の藩政刷新の効果絶大で、
板倉勝静は徳川幕府の筆頭老中にまで上り詰めることができました。
方谷は勝静の右腕として活躍し、大政奉還の精神も彼が起草したと言われております。

現在の日本と同じ状態となっていた松山藩を
実質1万9千石から20万石の実力とまで言われるようにした山田方谷のこと、
我々は今、今後の参考に大いになると考えております。
(拍手)

    (http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/23551328.html )

            <感謝合掌 平成27年2月14日 頓首再拝>

至誠惻怛の人 山田方谷 (341)
日時:2015年02月16日 (月) 18時19分
名前:伝統

           *Webより

山田方谷(やまだほうこく)は、幕末に備中松山藩(現在の岡山県高梁市)の
財政再建に尽力した陽明学者です。

藩の財政を地場産業振興により8年で立て直し、
10万両の借金を方谷の手で10万両の貯蓄に変えました。

江戸時代を通じて、
山田方谷ほど見事なリストラクチャリングを完遂した改革者は他にはいません。

改革と言えばよく取り上げられる上杉鷹山や将軍徳川吉宗がいますが、
経済知識と発想、成果においては比較になりません。

その功績で藩主板倉勝静(いたくらかつきよ)は幕府の最後の老中に抜擢されました。

そのため、大政奉還の上奏文は方谷が起草したとも言われています。

また、高杉晋作の奇兵隊のヒントとなった農兵隊を組織するなど、
軍事面での手腕も発揮しました。

座右の銘は【至誠惻怛(しせいそくだつ)】、真心と慈愛の精神が信条です。

しかし、備中松山藩は朝敵の汚名を着せられたため、
山田方谷の名はあまり知られていません。

明治維新を迎えて新政府の中枢にいた大久保利通は
山田方谷に新政府の出仕を呼びかけましたが、
方谷は応じず晩年は子弟教育に専念したのです。

このため、「備中聖人」と呼ばれています。

幕末には大塩平八郎、吉田松陰、河井継之助、西郷隆盛など、
陽明学を信奉者が現れましたが、彼らのほとんどは壮絶な最期を遂げています。

唯一例外は、山田方谷だけです。

そういう意味では、王陽明の学問を真に体現した人と言えるかもしれません。

   (http://yaplog.jp/ikeyamagou/archive/117 )

            <感謝合掌 平成27年2月16日 頓首再拝>

幕末の”再建の神様”山田方谷~その1 (367)
日時:2015年02月18日 (水) 18時13分
名前:伝統

わずか8年の藩政改革で600億円相当を生み出す

          *「日経Biz Gate」2013/07/02 より
             (執筆~皆木和義氏)

皆さんは「山田方谷(やまだほうこく)」という名前をご存じだろうか。
冠、肩書き的にいうと、山田方谷(1805~1877年)は、幕末期に
財政破綻寸前の備中松山藩5万石(現在の岡山県高梁市など)を立て直した
漢学者・陽明学者であり、名財政家であり、卓越した政治家である。

また、偉大な哲学者であり、思想家であり、教育者でもある。
このほかにも、方谷にはもっとたくさんの冠を付けられるだろう。

 
明治に入ってからは、薩長閥の重鎮で元勲の大久保利通、木戸孝允などから
新政府の要職への就任要請があったが、方谷は固辞。

そのため、明治初期の中央政界での活躍がなく、
現代においてはそれほど有名な人物ではないだろう。

だが、当時は名財政家として、また学者として、方谷の高名は日本中に鳴り響いていた。
その意味で、歴史の大河の中に飲み込まれて消えた、知る人ぞ知る人物といえようか。


《上杉鷹山を上回る改革手腕》

方谷の人生の転機は、隠居の時機を考えていた数えの45歳のときに起こった。
人生50年といわれた時代である。学者・方谷から藩の元締役(いわゆる勘定奉行。
藩の財務大臣的地位)という要職への抜擢である。

ただ、その学者の方谷が行った藩政改革は、
実は著名な米沢藩15万石の藩主・上杉鷹山をしのぐ見事な改革だった。

 
現在、上杉鷹山が有名になっているのは、第35代アメリカ合衆国大統領である
ジョン・F・ケネディが「最も尊敬する日本人」と述べたことが発端のようである。
それは「代表的日本人」(内村鑑三著)の英訳版をケネディが読んだからではないか
といわれている。

その鷹山の藩政改革は、明和4年(1767年)に始まり、文政6年(1823年)に一応の完成を見た。
鷹山・治広・斉定の3代にわたる約60年間で、借金20万両を返済し、
余剰金5000両を作ったといわれている。

20万両というのは、現在に換算すれば600億円前後であろうか。
現在の何を比較対象にするかによって、計算は色々変わるのであるが、
約1200億円という考え方もある。

 
他方、山田方谷である。

方谷は、元々は農民出身だったが、抜擢されて5万石の藩の元締役として、
嘉永2年(1849年)に藩政改革、財政改革を始め、安政4年(1857年)に完成を見た。

方谷は改革の8年間で、借金10万両(約300億円)を返済し、余剰金10万両を作ったのである。
大変な力量と言わざるをえない。

なぜ、こんな短期間に成功できたのであろうか。

それも、藩主でも家老でもない元締役という立場で、しかも農民出身である。
当時の士農工商の厳しい身分制度を考えると、通常ではあり得ないことを成し遂げた。

この成功の秘密を、彼の改革手法や経営手法のみならず、全人格、全人間力に
光を照射しながら、本連載の大きな柱として解明してゆきたい。



《明治新政府にいたなら、日本資本主義の父・渋沢栄一に匹敵か》

江戸時代、多くの藩(当時は藩が、国である)が藩政改革を行ったが、
山田方谷は間違いなく江戸時代屈指の藩政改革者である。

また、これほど短期間で大きな成果を上げた藩の再建、再生はないといっても
過言ではないだろう。

その意味で、私は方谷を"幕末の再建の神様"と命名し、冠を加えている。

もし方谷が明治新政府の会計方(現在の財務省)の要職の出仕要請を受けていたら、
日本資本主義の父と称される渋沢栄一の上司ともなり、
山田方谷は渋沢栄一に匹敵する著名人になっていたかもしれない。

学問の徒としての方谷は江戸後期の日本儒学の第一人者であった佐藤一斎の塾の塾頭であり、
佐久間象山の兄弟子であった。

象山は明治維新の精神的指導者となった長州の吉田松陰の師匠でもある。
方谷と象山は佐藤一斎塾では双璧と並び称されたが、
実力は方谷の方が上だったと伝えられている。

 
余談であるが、明治の元勲の西郷隆盛は明治維新の立役者であるが、
その西郷の人間としての器や素晴らしい人間力を作る基礎となったのは
佐藤一斎の「言志四録」である。

その「言志四録」のエッセンスを含む西郷隆盛の遺訓は、
「南洲翁遺訓」としてまとめられている。

(つづく)

            <感謝合掌 平成27年2月18日 頓首再拝>

幕末の”再建の神様”山田方谷~その2 (391)
日時:2015年02月20日 (金) 17時17分
名前:伝統

《お家再興を願う父の思い・志が、方谷の生涯を貫く》

その方谷であるが、劇的なほどの立志の人生を送った。
本連載の総論として小伝的に概略を述べておきたい。

 
方谷の山田家というのは、元は清和源氏の流れをくむ武士で、
地方の名家として代々続いていた。だが、方谷の三代前に没落し、
方谷誕生の頃は、菜種油の製造・販売も行う貧しい百姓として生計を立てていた。



方谷はお家再興を願う父、五朗吉の子として1805年に備中松山藩領西方村
(現在の岡山県高梁市)で誕生した。

「父は幼い頃から自分に家の先祖と伝統について話して聞かせ、
お前には山田家を再興する重大な役目があると教えるのが常だった」と方谷は
述べているが、この思い、この志が方谷の生涯を貫くバックボーンとなった。

数えの5歳から新見藩藩儒の丸川松隠に学んだ。
方谷は14歳で母を、15歳で父を亡くし、遺された弟たちを養うため、
農業と菜種油の製造販売という家業に従事しながら学問にも懸命に励み、
篤学の名声を高めていった。

25歳で学者として中小姓格の士分に取り立てられ、
藩校有終館の学頭(教頭的地位)に任命された。

そして、1849年、板倉勝静(松平定信の孫で、後に幕府最後の筆頭老中)が藩主となると、
方谷は元締役に抜擢されて、藩政改革を実行。先に述べたように、わずか8年で
10万両の負債を返済した上に、新たに10万両の余財を生み出すほどの成果を上げた。

 
その主要な改革施策は、方谷の財政哲学である「理財論」をベースとした
(1)産業振興、
(2)負債整理、
(3)藩札刷新、

(4)上下節約、
(5)民政刷新改革(士民撫育)、
(6)教育改革、

(7)軍制改革の7つであった。

(つづく)
            <感謝合掌 平成27年2月20日 頓首再拝>

幕末の”再建の神様”山田方谷~その3 (417)
日時:2015年02月22日 (日) 17時43分
名前:伝統

《あの時代にブランド戦略、中抜きバリューチェーン構築》

彼の根本思想は「武士も農民も慈しみ愛情をもって育て、
藩士・領民全体を物心ともに幸福にする」「領民を富ませることが国を富ませ活力を生む」
という「士民撫育」の考え方である。

そして、彼の物事に向かう基本姿勢は「至誠惻怛(しせいそくだつ)」である。
「真心(至誠)と悼み悲しむ心(惻怛)」を人間としての正しい道、最高の行動規範とした。

 
産業振興では、方谷は米の作高に頼らない産業を興した。
その一例であるが、特産品に「備中」の名を付け、ブランド戦略で全国に展開した。
特に、備中くわ(爪3本のくわ)は大人気商品になったという。

さらに、販売する製品や商品は大坂(現在の大阪)を経由させないで、
藩の船で直接江戸まで運ぶようにした。

生産・流通・販売を一体化させることで中間業者を廃し、高収益を獲得できる
藩直営のバリューチェーンを構築したのだった。

この改革の成功によって他藩からも勉強に来る人が後を絶たなかったという。


(つづく)

            <感謝合掌 平成27年2月22日 頓首再拝>

幕末の”再建の神様”山田方谷~その4 (447)
日時:2015年02月24日 (火) 18時13分
名前:伝統

《激動の幕末、備中松山城を無血開城》

その後、藩主勝静が幕府の老中になったため、
方谷はその補佐役として中央政界でも活躍した。

方谷の藩政改革の成功は、藩主を日本有数の名君にし、ついには幕府の老中、
そして老中首座(現在でいえば総理大臣)にまでなさしめたといえよう。

しかし、幕末の激動の中、様々な手立ても空しく、幕府は朝敵となって倒壊し、
譜代の備中松山藩も残念ながら朝敵になってしまった。

このとき方谷は、官軍との戦争ではなく、藩民の幸福を願い、
戦火から国を守るために、備中松山城を無血開城した。
その後、藩の復権運動に力を注ぎ、忍耐強く成功裏に導いたのであった。

 
晩年は、長瀬塾や小阪部塾、閑谷精舎(閑谷学校)などで教育者として後進の育成に尽くした。
方谷の門人は、三島中洲(大正天皇侍講、二松学舎大学創設者)や
河井継之助(越後長岡藩家老)をはじめ全国に1000人以上といわれた。

 
明治維新後は、先にも述べたように新政府からの再三の出仕要請があったが、
一民間教育者として73歳(数え)の天寿を全う。備中聖人とも称された。

 父母の願いと志を貫いた立志の人生だったといえよう。

          ◇        ◇        ◇

 
戦後の政治家・財界人の精神的指導者とされる陽明学者の安岡正篤は著書の「先哲講座」の中で、
「古代の聖賢は別として、近世の偉人といえば、私はまず山田方谷を想起する。
この人のことを知れば知るほど、文字通り心酔を覚える」と述べて尊敬し、

また「方谷のような達人・実際家の信念や論説や考え方を学ぶことが
現代の様々な課題を解決するのに大変参考になる」と述べている。

実際の生きた経済が分かる、計数に強い、しかも確かな国家観を持っている。
このような方谷を改めて学ぶことは、21世紀の今においても、
多くの課題を解決する有用なヒントとなるのではないだろうか。

http://bizgate.nikkei.co.jp/article/69910311_4.html

<幕末の”再建の神様”山田方谷:完了>

            <感謝合掌 平成27年2月24日 頓首再拝>

至誠惻怛 ~ 山田方谷の精神を現代に生かす会社 (482)
日時:2015年02月27日 (金) 19時23分
名前:伝統

2年ほど前の日本経済新聞に一面大の広告が掲載されていたのが記憶に残っております。

以下に、その広告の内容を紹介いたします。

       ・・・


山田方谷先生、

至誠惻怛(しせいそくだつ)は、

医療環境の人材育成にも
繋がりました。

       ・・・

「至誠」という「まごころ」
「惻怛」という「いたみ悲しむ心」

それが私たちの基本姿勢です。

       ・・・


「方谷さんのようになりなさい」

岡山県出身の私は母からこう言われて育ちました。


備中松山藩を財政危機から救い、
備中聖人と称された郷土の偉人、
山田方谷先生が越後長岡藩の河井継之助に
送った言葉が「至誠惻怛」です。


「至誠」はまごころ、
「惻怛」はいたみ悲しむ心という意味があり、

この心を兼ね備えて生きることが
人としての基本であるということから、
創業以来この精神を基本姿勢に据え、
社員教育に活かしてきました。


「生命を守る人の環境づくり」を
グループミッションとしている私たちにおいて、
人材教育は最重要課題の1つでもあります。

社員は地域でのボランティア活動や
社内の早朝トイレ掃除、金剛登山研修や
独自の職場内研修などを通して、

人間の生死に向き合う医療人としての
人間力に磨きをかけています。


こうした取り組みは、山田方谷先生が携わった
閑谷学校の人間力を育む教えが
脈々と引き継がれているように思います。


また、当社の社名の「SHIP」は、

Sincere(誠実な心)、
Humanity(「情」の心)、
Innovation(革新者の気概)、
PartnerSHIP(パートナーシップ精神)

の頭文字からなっており、「至誠惻怛」の精神と、
帆に風を受けて航海を続ける船でありたい、
という気持ちに由来しています。

これからも「至誠惻怛」の心で成り立つ
信頼と協力を基本に、
日本の地域医療の強化に貢献し、
世界に向けて航海をつづける人材を育てていく。

それが私の目標です。


シップヘルスケアホールディングス(株)
代表取締役社長 古川國久


       ・・・

<参考>

この会社は、山田方谷の精神を現代に生かし、
超繁栄の道を驀進中のようです。


            <感謝合掌 平成27年2月28日 頓首再拝>

山田方谷 ~「正直安五郎」の国作り (533)
日時:2015年03月03日 (火) 18時32分
名前:伝統

            *メルマガ「JOG(H16.06.20)」より

(1)「山だしがなんのお役に立つものか」

山だしがなんのお役に立つものか
へ(子)のたまわくのような元締お勝手に孔子孟子をひきいれて
なおこのうえにカラ(唐)にするのか


   嘉永2(1849)年4月、備中松山藩(岡山市の北西30キロほ どにある
   現在の高梁[たかはし]市)。新藩主・板倉勝静(かつきよ)が農民出身の
   山田方谷(ほうこく)を元締並びに吟味役に命じた時に、こんな戯れ歌が作られた。

   「山田氏」と山奥から出てきた「山だし」をかけて、菜種油売りの農民が
   多少学問があるからといって、藩の台所に「孔子孟子」を持ち込んで、
   藩の財政をさらに空(唐)にするのか、というのである。


   板倉家は徳川家譜代の名門であり、家来たちも気位が高かった。

   方谷は菜種油を売っていた農民の出だったが、学問があるという評判を聞きつけて、
   先代・勝職(かつつね)が10石ばかりの武士に取り立てて、世子・勝静の教育掛を
   させていた人物である。

   いくら藩の財政が窮乏したからといって、新藩主なったばかりの勝静が、
   なみいる重臣たちをさしおいて、方谷を藩の全権を握る元締に取り立てるとは
   専横もはなはだしいと、新藩主にも非難が集中した。

   この思い切った抜擢人事は、勝静にとっても方谷にとってもも退路のない船出であった。

   「孔子孟子」の学問で、現実の藩の財政を立て直せるのか、
   この戯れ歌は方谷の挑戦すべき難題を悪意を込めながらも正確に見通していた。

(つづく)

            <感謝合掌 平成27年3月3日 頓首再拝>

父母の教え (542)
日時:2015年03月04日 (水) 18時12分
名前:伝統

(2)父母の教え

   方谷は通称を安五郎と言った。文化2(1804)年に生まれ、5歳にして隣の新見藩で
   藩政参与まで務めた丸川松隠の学塾に入れられたが、師から我が子のように可愛がられた。

   翌年には新見藩の藩主から「幼年なれどその学問の精進ぶりがめざましい」
   と表彰状を貰っている。一国の藩主が他藩の子どもを表彰するなど例のないことであった。

   14歳にして母の梶を亡くす。

   母親が病気になったと聞いて、安五郎が学塾から急いで帰郷すると、
   「おまえはなにをしているのです。早く塾に戻って勉強しなさい。私は大丈夫です。」
   とひどく叱って、泣き悲しむ我が子を塾に追い返した。

   まもなく母の病気が悪いと聞いて、深夜に馳せ帰ると、母はもう息が 絶えていた。


   翌年、今度は父の五郎吉が死んだ。

   死ぬ直前に安五郎に残した「訓戒十三条」には、
   「朝は六時に起き、その日の用向きをそれぞれ定め、すんだら自分の修行を怠らないこと」
   「郷里の困窮した人や病人は、ねんごろに尋ね交誼を篤くして睦み合う
   心がけを忘れないこと」などとある。

   孔孟の教えは、書物を通ぜずとも、日本の草深い山里の家庭に息づいていたのである。

   安五郎の学問はこのような家庭や恩 師のもとで生み育てられたものであった。

(つづく)

            <感謝合掌 平成27年3月4日 頓首再拝>

「正直安五郎」 (557)
日時:2015年03月05日 (木) 20時24分
名前:伝統

(3)「正直安五郎」

   両親を亡くした安五郎は幼い弟などを養うために、
   塾をやめて、家業の菜種油作りを継いだ。
   まだ17歳であったが、人手 がいるので妻も迎えた。

   しかし学問への思いはますますつのり、
    一日の仕事が終わると、夜遅くまで書物を読みふけった。

   19歳になった頃には「正直安五郎」と呼ばれるようになっていた。

   油を売るには、升や秤を使って量目を正しくする知恵と技術が必要だが、
   安五郎は絶対にごまかさず、また他の商人がごまかそうとしても、すぐに見破って
   「そんなことをしちゃいけませんよ」と穏やかにたしなめるのだった。

   同時に怠りない学問修行で「安五郎さんはただの油売りではない、学問がある」という
   評判がたっていた。藩主の勝職が評判を聞いて呼び出すと、大変な達筆で、
   質問にも明確に答える。

   勝職は喜んで二人扶持を授け、「これより折々は学問所へ出頭し、なおこのうえも
   とも修行し、ご用に立つよう申しつける」と告げた。
   文政8(1825)年、安五郎21歳であった。

   身分に関わらず、学問に打ち込むのは尊いことだという観念が、
   すでに当時の社会には広まっていたようだ。

   親戚一同もこの大変な名誉に、「安五郎を家業からはずし、もっと勉強させてはどうか」
   と考えて、京都留学を許した。そ の甲斐あって、文政12(1829)年には、名字帯刀を
   許され、八人扶持でいきなり藩校・有終館の会頭(校務主任)に抜擢された。

(つづく)

            <感謝合掌 平成27年3月5日 頓首再拝>

誠は天の道なり、誠ならんとするは人の道なり。 (568)
日時:2015年03月06日 (金) 17時53分
名前:伝統

(4)「誠は天の道なり、誠ならんとするは人の道なり」

   しかし、安五郎はこの地位に甘んぜず、さらに学問を深めるために京都留学を藩主に願い出た。
   藩主は快く聞き入れ、27歳から32歳までの5年間、京都だけでなく江戸にも留学して、
    多くの学者と交わった。

   今も有名な「言志四録」を記した佐藤一斎から陽明学を学んだ事で、
   後の藩政改革の根幹になる考え方を得た。

   「誠は天の道なり、誠ならんとするは人の道なり」という「中庸」の言葉から、
   人間が天から授かった「誠」を発揮させる事が政治の目標だと考えたのである。

   これは「正直安五郎」と呼ばれた自らの経験からも得心のいく考え方であったろう。

   天保7(1836)年、留学から戻った安五郎は有終館の学頭に任ぜられ、
   「これからは学業をもって君恩に報いよう」と決心した。

   天保13(1842)年、勝職が桑名藩主松平定永の八男勝静(かつきよ)を世子として迎えると、
   安五郎はその指導を命ぜられた。

   安五郎は「誠をもって天の理を実現する藩主に育てたい」と勝静に講義し、
   かつ領内をともに巡回した。

   菜種油作りをしてきた安五郎は民衆の苦しい暮らし向きをよく知っていた。
   農民たちが一生懸命に働いて納めた米も、藩の借金で毎年数万両におよぶ利子で
   消えてしまう。農民も藩も疲弊しきっていた。

   安五郎は勝静を名君に育てるべく、こういう状況をどう改革するか、
   二人で議論を繰り返した。

   財政が疲弊しているからと、多くの藩が税を重くしたり、役人の俸給を減らしたり
   しているが、何十年たってもますます貧乏になっているだけである。

   それでは農民はごまかしても税を逃れようとし、役人は賄賂をとるようになる。
   政治に「誠の道」がなければ、健全な財政も築けない。

   経済の根底にもまず「誠」がなければならない、というのが二人の結論であった。
   「正直安五郎」を藩政全体で実現すること、を目標としたとも言えよう。

(つづく)

            <感謝合掌 平成27年3月6日 頓首再拝>

大坂商人たちの信頼 (582)
日時:2015年03月07日 (土) 17時33分
名前:伝統

(5)大坂商人たちの信頼

 嘉永2(1849)年4月、藩主・勝職が病気のために、家督を勝静に譲り、
   方谷を「元締並びに吟味役」として全権を与えて、 藩政と財政の改革を命じた。

   前例のない大抜擢に冒頭のような妬みと非難が方谷ばかりでなく、
   新藩主にも向けられたが、勝静は「山田方谷に対して滅多なことを申すことは
   いっさい許さぬ」と全面的に方谷への批判を禁じた。

   方谷は感動した。しかし、それに奢らず、方谷は一つ一つ手を打つ際に、
   かならず藩の重役たちに相談した。


   方谷が最初に取り組んだ問題は大坂の商人たちからの借金をどうするか、
   という事であった。

   方谷が考えたのは、藩の収入が表高5万石と称しながら、実収は2万石に過ぎない
   ことをはっきり伝え、その実収では到底現在の負債を約束した年限で返すことは
   不可能なので、10年賦や50年賦にしてもらえるよう頼む、ということであった。

   方谷は自ら大坂に出かけて、商人たちに自ら頼んだ。
   表高とは幕府が検地によって定めたもので、それを自ら誤りであると
   言い放った藩はなかった。

   気骨ある大坂商人は方谷の率直な態度にこう応じた。


      お話はよく分かりました。率直なお申し出に感動いたしました。
      どうぞ、お家の再建までわれわれの方は10年賦、あるいは50年賦でも
      結構でございますから、ご努力下さい。


   方谷が手をついて「かたじけない。ご恩は決して忘れない」と頭を下げた。

   商売は正直にやっていかなければ長続きしない、
   と大坂の大商人たちは経験上、よく心得ていただろう。

   方谷の「正直安五郎」ぶりは、ともに手を携えてやっていける相手として、
   一目で彼らの信頼を得たのである。

(つづく)

            <感謝合掌 平成27年3月7日 頓首再拝>

藩士・藩民の信頼確立 (598)
日時:2015年03月08日 (日) 19時10分
名前:伝統

(6)藩士・藩民の信頼確立

   次に方谷が打った手は、藩士・藩民の倹約の徹底であった。
   そのために勝静に対して、「率先垂範して、その例をお示し下さい。
   ただしそのことを下に強要してはなりません」と申し入れた。

   強要して短期間で成果を上げるのではなく、上下の信頼関係を育てつつ、
   倹約の実をあげていこうとしたのである。

   方谷のついた元締も、従来は賄賂の多い、人のうらやむ役職である。
   方谷も口ではきれいな事を言っても、陰では賄賂で儲けるに違いない、と見る者もいた。

   そこで、方谷は藩の会計をすべて塩田仁兵衛という武士に任せ、
   自分ではいっさい関与しないこととした。

   時折は自分の財産を持ち出すこともあった。

   そのために、方谷の家は家族8人の生活も非常に苦しく、
   荒れ地を開墾してようやく食い扶持を稼ぐ始末であった。

   はじめは「恰好をつけている」「見栄を張っている」などと陰口を叩く輩もいたが、
   方谷の一貫した誠実そのものの姿勢を見て、

   「山田様はお気の毒だ。自分の身銭を切って、藩のためにお尽くしになっている」

   と受け止めるものが次第に増えていった。

   こうした方谷の姿勢に、もっとも素直に共鳴していたのが、大坂の商人たちであった。
   ある年、江戸の藩邸が焼失すると、大坂商人たちは方谷のもとにやってきて、
   再建の資金を出させて下さい、と申し出たほどであった。

   彼らとしても信頼する方谷の藩政改革をぜひ成功させたいという気持ちが
   あったのだろう。

   こうして藩主以下の率先垂範を示しつつ、方谷は藩士藩民に倹約令を出して、
   年限を限って藩士の俸給を下げる事、役人はあらゆる贈り物をすべて役所に
   差し出すこと、役人の領内巡回のさいの饗応を止めること、などを徹底させた。

   贈り物や饗応を止めさせたことで、領民の藩政に対する信頼は大きく回復した。


(つづく)

            <感謝合掌 平成27年3月8日 頓首再拝>

「これは信義の問題だ」 (635)
日時:2015年03月12日 (木) 17時27分
名前:伝統

(8)「これは信義の問題だ」

   次に方谷が取り組んだのが、藩札の信用確立だった。
   藩札とは、当時、各藩が発行していた紙幣である。
   松山藩でも百年ほども前から独自の藩札を発行していた。

   当初は準備金を用意しておいて、要求があればすぐに小判などの正貨と交換することで
   信用を維持していたのだが、藩財政が窮乏するに従って、準備金を赤字補填に使って
   しまい、そのうえ大量の藩札を発行したので、「松山藩の藩札は、まったく信用
   できない」という悪評が定着してしまった。

   貨幣が額面通りの価値を持つという信用が失われれば、売買に支障を来し、
   藩経済も停滞してしまう。

   方谷は現在の藩札をすべて回収し、正貨との交換を約束した新しい藩札で信用を
   確立しようとした。

   そこで藩内で使われている藩札をすべて回収せよ、と役人たちに命じた。
   役人たちは驚いて「回収するには、それに見合う正貨を与えなければなりませんが、
   藩の蔵はカラです。」と反対した。

   しかし方谷は耳を貸さなかった。


      これは信義の問題だ。藩札を発行する時に、これをもって来れば
      かならず正貨に換えると約束したのだ。

      その約束を破り続けたから結局、藩札の信用がなくなってしまったのだ。
      正貨はなんとしてでも私が集めるから、お前たちはとにかく旧藩札を
      全部引き上げろ。


   方谷は、必死に正貨を集め、ある程度たまった段階で、
   「旧藩札をもっている者は、至急役所に来て正貨と取り換えるように」
   との触書を出した。

   たちまち多くの藩民が押し寄せてきた。
   役人たちは、いつ正貨がなくなるかとビクビクしながら、交換した。

   方谷は自らの決意を示すためにも、高梁川の河原で山と積み上がった旧藩札を
   焼き捨てた。これを見ていた藩民たちは、ヒソヒソと相談しあった。


      山田様はこのお国にとって大切な方だ。
      いま山田様にもしもの事があったら、困るのはわれわれだ。どうだろう。
  交換していただいた正貨を山田様に差し出して、お城のお役に立てて
      いただこうではないか。


   たちまち賛同者が数多く出て、代表者が方谷に
   「交換は新しい藩札で結構です」と申し出た。
   方谷は思わず立ち上がり、目頭を熱くして、大きく頷いた。

(つづく)

            <感謝合掌 平成27年3月12日 頓首再拝>

「正直安五郎」の教え (673)
日時:2015年03月16日 (月) 19時03分
名前:伝統

(8)「正直安五郎」の教え

   信用を得た新しい藩札は、藩内で自在に流通するようになった。
   方谷は、この新しい藩札を藩内の投資に使って、産業振興に努めた。

   まず鉄山の開発。三室、吉田、鋳長山を開発し、そこで掘り出された鉄を使って、
   刃物、鍋、釜、鋤、鍬、釘などの生産を始めさせた。

   林産では、杉、竹、漆、茶などの栽培を奨励した。
   特に「松山きざみ」という煙草を増産させ、江戸から九州まで宣伝をして、販売を拡げた。

   さらに地域名産の菓子や、和紙、陶器、茶道具などの生産を奨励した。

   これらは藩が生産者から買い上げて、他国に販売する。
   買うときは藩札で払うが、すでに絶大な信用を得ていたので、生産者は喜んで受け取った。
   他国に売るときには、正貨で取引する。

   藩の金蔵はみるみるうちに豊かになり、一時削減されていた藩士の俸給ももとに戻された。


   安政4(1857)年8月、藩主・勝静は寺社奉行に任ぜられ、
   以後、幕末の10年ほどを幕府の最高幹部として務める。
   その間、方谷は藩政を司りながら、勝静の助言役として助けた。

   過激な攘夷派から「無道の西洋諸国が武力で押しつけた条約は即座に破棄すべきだわない」、
   という「破約攘夷論」が唱えられた時は、「相手国のやり方が強引だからといって過去に
   遡り条約を破棄するなどということは国際信義にもとる。日本国として行うべきことでは
   ない」という意見を、勝静から将軍後見職・一橋慶喜に伝えさせ、これを退けた。

   明治新政府もこの立場をとり、江戸幕府が結んだ条約を誠実に守りつつ、
   50年以上もかけて条約改正を成功させたのである。

   政治も財政も、そして外交も、その根底には信義がなければならない。
   「正直安五郎」の藩政改革はこの教訓を長く歴史に残したのである。


     (http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h16/jog349.html

(以上で、メルマガ「JOG(H16.06.20)」からの紹介を終了いたします)

            <感謝合掌 平成27年3月16日 頓首再拝>



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