《日本神話と日本国の尊厳》② (244) |
- 日時:2015年02月08日 (日) 17時48分
名前:伝統
(二)神話は虚構のものであり、架空の物語であるとして唯物論者は排斥するけれども、 一切のものは神話によって始まるのである。
”東京タワー”も神話によって始まったし、 霞ヶ関ビルも神話によって始まったのである。
神話は「いまだ現実にあらわれていないものを心の中に想像し、 心の中に描かれたもの」のことである。
”東京タワー”もはじめからあんな現実的造形物が存在したのではないのであって、 建築設計家の心の中に、想像力によって描かれたもの即ち神話であったのだ。
想像力によって、はじめに心に描かれたものが神話である。
それを近代人は計画といったり、設計といったり、プランといったり、 アイディアといったりするのである。
そして計画とか設計とかプランとかアイディアとかいう語を使えば、 それは当然のこととして反対しないのであるけれども、 神話といったら排斥するのである。
つまり近代人は概ね、頭脳が混乱していて「神話アレルギー」に罹っているのである。
そんな混乱した頭脳から見たのでは、「存在」の根元も判らないし、 日本建国の尊さも理解できないのは当然である。
(三)基督教では、「はじめにコトバあり」と宣言したが、 弘法大師は「大日経」にもとづいて、「声字即実相」(しょうじそくじっそう) と喝破したのである。
「声字即実相」とは、事物の本質即ち実相は コトバであり文字であるということである。
コトバに表現し、文字に表現すれば、それは具体的事物になるから、 具体的事物の本質即ち実相は結局「コトバ」でありは「文字」であると いうことを弘法大師は指摘したのである。
その直感力のすぐれたること、現在の唯物論者や、 進歩的文化人のとうてい及ぶところではないのである。
(四)「古事記」や「日本書紀」にあらわれたる日本建国の神話は、 単に一個の人間の創作ではないのであるそれは民族神話である。
日本の古代民族がいつのまにかそのような神話を想像力によって創作したので あって、日本の建国も日本の文化の発達も、古代日本民族の想像力がつくり 出した神話の創作したものである。
日本建国以来の日本の国体も、歴史の発展も、 「古事記」や「日本書紀」にあらわれた神話の具体化に過ぎないのである。
唯物論者は、この世界が物質の微粒子が偶然的契機によって結合して出来上がった という神話をつくり出したのである。彼らは、物質の素粒子が如何なる意図で結合して このような宇宙や世界をつくり出したか、それを見て来た訳ではない。
ただ彼らは自己の想像力によって宇宙の起源を想像して唯物論をつくり出したに 過ぎないのである。だから唯物論は、物質の存在しか知ることのできない 低次の人間精神がつくり出した神話に過ぎないのである。
彼らは唯物論そのものが「低次の神話」であることに気がつかないで、 もっと高次の神話であるところの神の宇宙創造や、神による日本建国の事実に ついては反対しようとするのである。
(つづく)
<感謝合掌 平成27年2月8日 頓首再拝>
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