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谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉 (100)
日時:2015年01月26日 (月) 19時14分
名前:夕刻版

このスレッドでは、以前あった「愛国本流宣言掲示板」で投稿されていた記事で、
谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉をここに掲載していきます。
ただし、投稿者の方々のHNについては、省かせていただきます。

・・・

《創造の選択は人間に委されている》

     生長の家創始者 谷口雅春先生

宇宙は大自然の創造してやまない力が満ち満ちている。

人間は生まれるまでは、大自然は自己みずからの想念の形に、
大自然の姿を造講して来たのであるが、

人間が神の創造力の自覚的意識的発想の中心として出現して来て以来は、
聖書は「審判は子に委ねられたり」とイエスは云っているのであるが、

宇宙の創造力をどんな形にあらわすかは、
人間(神の子)が出現して以来は、人間にその「想念」(創造の模型)の選択力が
与えられていると云う意味である。

自己自身の想念の相に自分の身辺の事が作られ、
自己自身の想念が選んだ通りの形に宇宙の創造力は働いてくれるのである。
爰に於て人間は宇宙の創造力の主人公となったのである。

宇宙にエネルギーが充ち満ちているのであって、
人間がエネルギ^を創造するのではないのである。

人間はそのエネルギーを物質化して自己の想念する位置に配置するのである。

人間は自己の欲する位置に必ずしもそのエネルギーを配置することは出来ない。

それを欲する位置に配置するのは、心の方面では心の法則に従わねばならないし、
物質の方面では物質の法則に従わねばならない。

尤も物質の法則を探求し、それを利用するのも心の力によるのであるから、
人間は物心両面に於ても心によって運命の支配者となるのである。

善き想念を意志強く持続し、そこから自然に動く叡智を意志強く実践して行く者が
人生の勝利者となるのである。

            「幸福を招く365章」より

           <感謝合掌 平成27年1月26日 頓首再拝>

「人間神の子」の真理こそ、生長の家の根本の「御教え」である。 (111)
日時:2015年01月27日 (火) 18時29分
名前:伝統~夕刻版

人間(ひと)は神の子である。
これが「生長の家」の主張する根本自覚で、この自覚を「中心自覚」と申すのであります。

なぜこの自覚を「中心自覚」と申しますかといいますと、この根本自覚は円の中心のような
ものであって、この中心から外的な一切の善きものが流れ出でるからであります。

この根本自覚が完全であればあるほど、この根本自覚が強烈であればあるほど、
われわれに発現する知恵はいっそう明らかとなり、愛はますます深くなり、生きる力は
いよいよ豊富となり、万事における能力は層一層旺(さかん)となるのあります。

神われに在(い)まし、われ神の内にあるがゆえに、
すべてのこと、あらゆること、われに不可能なるものはない。

これが「中心自覚」でありまして
「不可能という言葉取り去れ」
これが生長の家の生きかたの最初の第一であります。

       (「生命の實相」頭注版第5巻23頁)

           <感謝合掌 平成27年1月27日 頓首再拝>

「悩んでおるあなたに・・・」~藤原敏之先生 (121)
日時:2015年01月28日 (水) 17時38分
名前:伝統



行詰まりや不幸は神が現われていない証拠です。

神様は遠いところにあるのではなく、
私の中にあって、常に私を守り導いておって下さることに気づかなければなりません。

神様を離れた私はなく、私を離れた神様もありません。
だから、私達は悪くなりようがないのが本当です。

悪くなるのではあるまいかと案ずるのは、
神様を抜きにして、私が一人で生きていると思い違いしておる時です。

神様に対抗する程の悪も力もありません。

私達はただ、神の前に平伏して、ありがとうございますと無条件降服する外はありません。
生きることも神様の御心なら、死ぬることも神の御心です。

私の力や甲斐性で出来ることは何一つないのです。
ただ感謝して、今を全力を出し切って生きる他はありません。

人生の目的は何ぞや。
富を得ることでもなく、名誉や地位を得ることでもなく、
本当のことを覚って迷わず、安心と喜びをもって生きることです。

池田首相も佐藤さんも、巨億の富も地位も名誉もみんな置いて、
魂だけが旅立って行かれたのです。
安心して行かれたか、喜んで行かれたか、それだけが問題です。

この世のものは、多かれ少なかれみんな預かりものです。
預かっている間だけの楽しみです。

しかし預かりものと知ることは、実生活において消極的になることではありません。
必要なものは必ず与えられることを信じて行動することです。

他人に迷惑をかけるのは神の子の生き方ではありません。
神の子は無限の可能性があり、神の導きと守りがあり、無限の知恵と力があるのですから、
思い付くままに積極的に行動すれば、必ず無限に道は開けるのです。

行きづまるのは神の子ではなく、心配するのも神の子ではなく、
必要なものは、必要に応じて与えられる生活でなければなりません。
必ずその通りになるのです。

神と常に直結し、神の知恵と力とを、
お腹の赤ちゃんが常にお母様と直結して栄養を受けて成長する如く、
常に受ける心境になることです。

それには神の無限性を信じて、ありがとうございますとの感謝を忘れないことです。
天地一切のもの、誰とでも調和することです。

神想観を怠らないことです。
これが先日の実相研鑽会の議題であります。

     『魂のめぐり逢い』藤原敏之先生著 152pより

           <感謝合掌 平成27年1月28日 頓首再拝>

生長の家の御教えの基本は「天皇国日本」である!!  (130)
日時:2015年01月29日 (木) 17時31分
名前:伝統

珍しい名著です。生長の家祭務部編集、発行の著書です。
生長の家の基本は、この「天皇国日本」という事です。

しかし、最近では幹部でもこのことを良く御存じでない方も多いようです。
「学ぶ会」誌等をしっかりと学んでいただきたいと思います。



 「天皇国・日本」  (生長の家祭務部 編著昭和55年)


  編者のことば

神意に、発し、神理を建国の理想とする神聖日本。

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の大御心(おおみごころ)を
承(う)け継がれ、神を祀(まつ)り国民(くにたみ)の平安を第一に
祈り努(つと)めて来られた御歴代の天皇。

誠にも日本は、世界の人々が心から均(ひと)しく感嘆するように、
世界に稀(まれ)な、天皇を中心に発展して来た“天皇国日本”である。


“人間神の子”の生命の實相顕現を第一義とする私たちは、
運動の三本柱として、「日本国の實相、天皇の實相顕現」を奉戴(ほうたい)している。

吾が祖国たるのみの理由でなく、神意の地上顕現の真理国家たる日本、
宇宙普遍の真理の継承実現者たる天皇の實相顕現である。

しかもこの自覚は、生長の家の歴史を見れば明らかなように、
発祥(はっしょう)の初めより使命づけられている。

 
谷口雅春先生の本住吉神社への毎朝の御参拝、
立教当初の「中心(すめろぎ)に帰一する道」や古事記・日本書紀の御講義。

更には楠正成(くすのきまさしげ)公の時代にさかのぼる谷口家の忠誠の伝統である。


天皇仰慕(ぎょうぼ)、國體護持にわたる生長の家立教の精神は、
聖経『甘露の法雨』巻頭の「大調和の神示」の“皇恩に感謝せよ”を始め、
多くの神示に明白に示されている。

そして鎮護国家(ちんごこっか)の悲願達成の具体的顕現として建立されたのが、
龍宮住吉本宮である。日本国の實相顕現、それは即ち「天皇国日本」の成就にある。


谷口雅春先生はこの間(かん)の理念について、
「生長の家」誌の法語(昭和51年2月号)で、次のようにお示しになられております。


<<天皇の御心から逸脱して政治家が動き出すとき、
その国は危機の淵に陥ろうとするのである。

明治時代の日本国は、時の内閣が行きづまって総辞職をするならば天皇さまが、
次の総理大臣となる者を選んで指名し給い、組閣が行われるのであった。

政治が旨(うま)く行われなかったら「誰」に対して
総理大臣及び閣僚が責任をもつかというと、
天皇に対し責任をとるのである。

つまり、当時の政治家は、天皇の理想光に反照して自己を反省するのであったが、

今の政治家には自分の心や政治のやり方を反照すべき鏡をもたないで、
有象無象(うぞうむぞう)の人間智をもって何とかやり繰りしているので、
天爾(てんに)が政治に顕われないで国内がガタツクのである。

占領軍が起草して日本に押しつけた現行の日本国憲法には、
その前文に「主権は国民にありと宣言し」と堂々と書いているが、
国民は一人ではない、多数である。多数が皆、主権者であって、
自己の利益を主張する多頭政治である。

ここは国家は多数国民の主権に皆バラバラに分れて
国家は空中分解してしまっているのである。

国家には主権はなく、国民のひとりひとりが憲法に定めた文化生活をいとなむことが
できないようなことになると、国民は国家を被告として訴えるのである。

本当にこれでは日本国家は空中分解してしまっているのであるから、
愛国心の起こりようがないのである。----------


日本天皇の統治のやり方は、その十六菊の御紋章にあらわれている通り、
天地八方十六方向の国民の声をキクことによって国民全体が本当に福祉が得られるように
政治を行うことだったのである--------

本当に私心なく、国民全体の福祉を願い給う
無私(むし)の人格は天皇さまのほかにはない。

国民は、日本国家のドコかに立っていて偏(かたよ)らない位置にいないから
必ずその考えが私利だとか党利だとかいうもので汚(よご)され歪(ゆが)め
られているのである。

それ故にイザという重大事に迷いによって汚されない歪(ゆが)められない処置を
しようと思ったならば、私心(わたくしごころ)を空しくして天皇の御心(みこころ)
の方に振向く制度がつくられていなければならない。

あの終戦時、閣僚も軍首脳もすべての重臣が、なすべき道を失い、
如何(いか)にすべきかわからなくなった時に、彼らは天皇さまの大御心の方に
はじめて振り向いたのである。

そうしたら天皇さまは「自分のカラダはどうなってもよい、戦争をやめる」と
仰(おお)せられた。そして大東亜戦争は解決したのであった。

もしあの時、天皇さまの大御心の方に振り向かず、総理大臣や陸軍大臣が、
私心をもって戦争の結末を処置しようとしていたならば、

あんな聖潔な、敵が上陸して来るのに一滴の血も流さないで粛然(しゅくぜん)として
平和が回復し、過去の敵たりしアメリカが日本の味方となって食糧を供給し、

産業復興資金を貸してくれ、ソ連が北海道に進駐したいと主張するのを
マッカーサー元帥や、中華民国の蒋介石総統が防(ふせ)いでくれるなどの事は
なかったにちがいないのである。

無私の心で、天の御心をうけ給うた天皇陛下の御裁断(ごさいだん)であったればこそ、
あんな素晴らしい結果となり、日本が速(すみや)かに復興するを得たのである。>>



では、「天皇国日本」実現のために私共は如何にすればよいか。

戦後の教育やマスコミ、社会風潮により、天皇の尊厳、國體の本質は著しく損なわれ、
歪められ、真実は伝えられていない。

そこで先ず、世にも比類ない天皇のご仁徳、國體の特質を十二分に理会することである。
そして次に、第三者に自身をもってお伝えすることである。

その具体的資料として、ヨーロッパ、アメリカまで含めて陛下に関する多くの文献を、
出所を明らかにして示したのが、本書である。

世界の人を感動させたたくさんのエピソード、歴史の流れを変えた陛下の
御事蹟を通して、そこに一貫する大御心――歴代天皇が承けつがれた
“日本のいのち”を感得して頂ければ幸甚である。

最後に、出版をお許し頂いた谷口雅春先生に感謝申上げると共に、
出版の意図が十二分に発揮される事を心から祈って已(や)みません。

         昭和五十五年三月十日


           <感謝合掌 平成27年1月29日 頓首再拝>

「 神との霊的交わり 」~ 仙 頭   泰  (154)
日時:2015年02月01日 (日) 19時18分
名前:伝統~夕刻版

今日は、元生長の家ハワイ教化総長。
仙頭 泰 先生 の「懺悔の神示」講義を御紹介いたします。

         ・・・

「 神との霊的交わり 」~ 仙 頭   泰

私達は神との霊的交わりをすることによって、
凡てのことが益々順調に伸展していくのであります。

私達の魂の波長を意識的に神と合わすことが祈りなのであります。
私達の魂の波長が、神の波長と同化することによって、自分の心境が変化せしめられ、
その結果として心の法則によって、現象的にも自然に変化が起こってくるのであります。

私達は神に祈ることによって、自分の心を神に振りむけるのであります。

「神よ、みこころの如くならしめ給え」と、
神の方へ心を専一に振りむけることが大切なことなのであります。

生長の家で教えられます「神想観」は、神と本来一体である人間
の実相を自覚するためには、大変大切なものであります。

「神想観」は、実相に於いて全てのものが既に与えられていることを確認し、
肯定するための強き観法であります。

谷口雅春先生は、私達が神の子として、自己の内に与えられている力を自覚することを、
第一の目標とすることを教えておられます。

つまり宝物を外に求めるのではなく、
自分の内にあるすばらしい「宝」を発見することを先にすることであります。


人生の目的は、「神の子」なる人間の実相を現象世界に実現するのが人生の目的であると、
このように「霊魂進化の神示」に示されているのであります。

私達は「招神歌」にありますように
「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命。
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能」、
このような言葉を常に思い出して、神と一体である自覚を深めましょう。

谷口雅春先生は「現象は遷り変わるが、実相は金剛不壊の存在である。
実相は神によって造られ、神によってその存在が保たれているのであるから、
それが決して肉眼に見えなくとも滅するものではないのである。

遷り変わる現象の不完全さに心を奪われて、
その奧にある真実在(実相)の完全さを見失ってはならない」。


そのためには、真実在の完全さを見つめるために神想観をすることが大切であると、
教えておられます。

私達は常に、既にこの世界は完全であり、この人間は完全であることを確認し、
神をほめ讃え、神に感謝する祈りをするのであります。

生長の家では、現在の不完全な状態を認めて、神に懇請することによって、
神が不完全なる状態を修正してくださると考えることは、神に対する侮辱であり、
その考えは間違いであることを説いているのであります。

旧約聖書の創世記第一章三十一節には
「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」
と書いてあります。

神の創造に、出来そこないの不完全はないと云うことです。

現象の不完全な状態は、私達人間の「心のラジオ・セット」が、
神からの完全円満なる霊波を、そのまま完全に受信することが出来ないで、
色々なものを混信しているからであります。

これは私達の心の調律をすれば、忽ちにして、現象の不完全さは消えるのであります。

谷口雅春先生は、私達が人生で色々な問題にぶつかって、人生が思うようにならない時には、
自己の想念を変化し、自己の人生観を変化し、自己の生活感情全体を変化することを
教えておられます。

つぎのように述べておられます。

「先づ自己が神の子であることを信じ、神の全能の力がわが内に宿っていることを信じ、
神の創造り給える環境が常に自分に対して微笑(ほほえ)みかけていて下さることを
信じて楽観的な気持ちをもって、自己内在の力を出来るだけ出すようにするならば、
事業に於いては新しき機会が、健康に於いては新しき活力が、おのずから目覚め来たって、
輝かしい成功と健康とを実現することが出来るのである」。


 聖経「続々甘露の法雨」に、つぎの様に示されています。

「汝らよ恐れずに人生の行路進むべし。
恐怖なき者には不幸は決して近づかず、全ての不幸と悲惨とは神の所造に非ざるなり。
恐怖なく人生の行路を歩む者には不幸もうな垂れて避けて通り、病気も帰順の意を表して
その『本来の無』に還帰して消滅せん」。

以上の様に「恐怖心」の影響について示され、
さらに「心の平和」が「神の癒しの波動」と同波長であり、
心の平和あるところに、神の癒しの波動が宿り来たって健康の姿となって顕れると、
示してあります。


いかにして心の平和を得るか、それについては、つぎの様に示されております。

「心を鎮めて平和ならしむるの秘訣は唯『有難う』と一切のものに感謝するにあり。
一切の人に、事に、物に、症状に感謝するとき、其処に本来の平和は汝の心を訪れん」

そして更に、次ぎの様に示されています。

「汝ら常に愛し、感謝し、悦びて公けの仕事にいそしめば、
すべての病いは汝を冒すこと能わず、既に病いある者も速やかに癒ゆること必定なり」。

さらに、またつぎの様に示されています。

「病人は殊更に病気を心より放つべし。
 しかして、唯愛せよ、唯感謝せよ。
 國を愛せよ、人を愛せよ、家族を愛せよ

 すべての物と事と人とに感謝せよ。
 さらに特に汝の父母に感謝せよ。

 常に悦びて何か必ず人のためになる事を為せ。
 愛と感謝の感情は、病いの癒ゆる生命波動を
 感受する最善の波動なり」。

ここで私達が思い出します言葉は聖経「甘露の法雨」のはじめにあります
「大調和の神示」であります。

この中で、中心となるものは「天地一切のものと和解せよ」「天地の万物に感謝せよ」
と云うところであります。そして「その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いを
受けるであろう」と示されているのであります。

この神示の最後のところには、次のように結んであります。

「われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ。
 われは愛であるから、汝がすべてのものと 和解したとき其処にわれは顕れる」。

私達は、実相を直視し、天地万物に感謝を捧げ、天地一切のものと和解した生活を
することが、如何に大切なものであるか、と云うことがこれで理解できるのであります。

これが、神とともに生き、神の栄光を現すところのすばらしい生活となるのであります。

           <感謝合掌 平成27年2月1日 頓首再拝>

「神の愛を「今」を完全に生きよ」 (168)
日時:2015年02月02日 (月) 17時58分
名前:伝統

       *生長の家創始者 谷口 雅春 先生 「幸福を招く365章」 より。    


あなたの生命(いのち)の内に神の愛が宿っているのである。
神の愛は唯勝利するほかないのである。

過去に何があろうとも、それは今日の魂の前進の準備となったのである。
過去の失敗に捉われるな。

形の一進一退のうちに魂は必ず前進して行くのである。

今生かせ、神を信じ、神に祈りつつ今を全力を出して生きるのである。

「今」は実相世界に既にあるところの勝利が
現実世界にあらわれて来るところの門であるのである。

「今」を支配するものは過去の失敗を勝利にかえ、魂の進歩にかえ、
未来永劫にただ悦びの生活を送ることができるのである。


次の如く念ぜよ。

「われは今日、善と愛と親切の言葉のみを語るのである。
われはそれ故に愛と深切のみを刈り取るのである。
われは如何なる悪しき言葉も今より後に口にしないのである。

自分は人の行いと其の動機とをさばかない。
自分はあらゆる人々の行いに其の善意をみるのである。
自分は人を軽蔑するような言葉を決して語らない。

自分はすべての人々の美点のみを見、美点のみをかたるのである。
自分は言語が神であり、創造者であることをしったのである。

だから、今後自分は善き事のみ語り、善き事のみが実現するのである。」

繁昌は一日にして来らず、それが単なる偶然の好意であるかに見えても、
必ず過去に蓄積されている善き想念、善き言葉、善き感情が現実化して生ずるのである。

すべての想念、感情、言葉、行為の結果は実現しないではいないのである。

それは原因結果の法則である。
原因結果の法則には、物理化学な法則と、心の法則とがあるのである。
大抵の人は物理化学的法則のみを知っていて、心の法則を知らないのである。

繁栄せんと欲する者は顧客に対してよき想念、善き感情、深切な注意、
行き届いたサービスの精神を揮い起さなければならないのである。

           <感謝合掌 平成27年2月2日 頓首再拝> 

流産児講話 ~ 楠本加美野長老 (177)
日時:2015年02月03日 (火) 17時59分
名前:伝統

中絶は殺人・・・・
  まずこれを認めないと懺悔にならない

で、この懺悔という事ですがね、
懺悔という事ですが、

中絶は・・・殺人なんだと。
中絶は殺人である。
中絶は殺人。

まず、これを認めないとね。
懺悔にならないね。

「中絶は殺人なんだー」と。


胎内の子供は明らかに人間の子・・・・
      堕胎罪があり勝手に堕胎すると罰せられる

『限りなく美しい』(谷口清超先生著)という本の104ページにですね
書いてありますけどね。

≪胎児はまだ生まれていないから、
殺人では無いと言う人もいるだろう。
しかし、胎内の子供は、
明らかに人間の子であり、
猿の子でも豚の子でも無い。

だから日本の刑法でも、
堕胎罪というのがあって、
勝手に堕胎すると罰せられる。


≪日本の「優生保護法」によって、
“ある条件の下で”中絶が認められている。≫

ある条件下に認めているだけで
      ・・・・中絶は殺人

ある条件の下に認めているだけであって、
これは殺人なんだーっていうわけね。

「中絶は殺人なんだー」っと。
これが分らないとね、
なんか堕した、堕して良い事してる
と思ってる人は居ないけどね。

あんまりそんなにね、
悪いことしてるとも思っていないでしょう?
殺人なんだーって事ね。

水は涙、洪水は涙・・・・
    出来た子みんな堕す・・・その涙

それからね、『行き詰まりは無い』っていう、173ページにあるけどね。

これは、中国にでね、
大洪水が起きたんです。

44年ぶりの大洪水が。

水は涙である、
って言うんです。

悲しみ、悲しいと
涙出るでしょ?

だから、寝小便なんては
子供がね、寝小便すると
親の涙だと言われてるね。

だから、水は涙である。
洪水って言うのは、涙なんだと。

それでは、何の涙であるか、と言うとね。

大体中国では、一人っ子政策っていうのをやってるでしょ?

一人っ子政策ってね。

もう、一人しか産まないって言うんです。

そうすると、出来た子みんな堕すって事になるでしょ?

その涙なんだって言うんです。


流産児供養塔建立の祝詞・・・
    人工流産にて流し棄つるもの
        毎年二百万以上に及ぶ

で、ここに、
≪宇治別格本山には、流産児供養塔が建立され、
毎年八月中旬には、招霊供養大祭が行われている。≫
その祝詞にね、これは谷口雅春先生のお言葉ですね。

祝詞にあります。

『行き詰まりは無い』173ページより
≪近頃わが國に於いて経済的困難な事を理由に、
折角大神より神聖受胎を受けし婦人たち、
その受胎する胎児を人工流産にて流し棄つるもの、
その数毎年二百万以上に及ぶといふ、
流されし胎児のうちには、
既に高級霊にして迷いなき霊もあれども≫


救はれんと諸霊の無念の想ひは災厄を引き起こし
           ・・・救って貰いたい、祟りじゃない

≪そのうちの数多き霊は、
折角地上に降誕して現世(うつしよ)に
定められたる己が使命を完うして、
いっそう高き進化をとぐべき
目的にて受胎したるに拘らず、

不慮の堕胎の厄に遭ひ、
つひに此世を去るに至る、
此等諸霊は、或は無念の想ひに、
世を咒ひ、人を咒ひ、或いは悲しみ歎きて、
涙も絶えるひまもなく、

或いは親族縁族にたよりて救はれんとするにより、
彼等諸霊の無念の想ひは、
此世に色々の災厄を引き起こし≫

ね、「救われんとするにより」ですよ、
救って貰いたいからですよ、

祟りじゃないんだね。


悲しみ歎きの念は、水に具象化して、
     洪水、高潮、津波などの水渦となり

≪救はれんとするにより 
彼等諸霊の無念の想ひは、
此世に色々の災厄を引き起こし、

その悲しみ歎きの念は、

水に具象化して、
洪水、高潮、津波などの水渦となり≫

書いてあるね。
洪水、洪水ね・・・
洪水ね、高潮ね、津波・・・
洪水、高潮、津波、ね?



頭据わらず、手脚不自由、
       知能未発達の患者を生ず
               ・・・・・小児麻痺

≪津波などの水渦となり、
尚胎児として頭据わらず、手脚不自由、
知能未発達の患者を生ず≫

小児麻痺ね、そういう症状、
だから谷口先生の祝詞ですよ。

≪この現幽両界の惨事を見るに忍びず、
 有縁の人々の淨志により、
   この淨域に一大供養塔を建立し≫



36年全国無縁流産児供養塔建立、
       37年日本の小児麻痺が半減

これが、これね、供養塔、これね。
だから、昭和三十五年にね、この宝蔵神社できたんですよ。

で、三十六年にね、
全国無縁の流産児の供養が出来た。
そしたら三十七年にはね日本のね、
小児麻痺が半分に減ってるね。

だから、あそこへね、
この全国無縁の流産児の供養塔が
出来たってことはね、
日本の国に非常に
大きな影響を与えてるんだ、
ということが言えますね。


           <感謝合掌 平成27年2月3日 頓首再拝>

神から直接「神のアイディア」を受信し、それを実行するようにせよ。 (191)
日時:2015年02月04日 (水) 21時16分
名前:伝統

      *谷口雅春師『理想世界』誌(S47年5月号)より


一般に動物は本能や単なる習性によって生き、動き、生活しているのである。
人間も本能や習性を持つ。

人間は最高最広の生命形態であるから、あらゆる動物の有する本能も習性も、
ことごとく自己の内に包摂している。

けれども、それらに支配されないで、
それらを支配し、自己の理想又はアイディアに準ってそれを統御し、
美しき秩序あるものたらしめるのである。

人間社会又は人間関係の美はそのようにして生ずるのである。

与えられるままの本能や遺伝的習性は、そのままにそれらを伸ばして行くならば、
自然に生えた雑草が、草ぼうぼうと繁っていて、何の美感もなければ、
足の踏み場もないのと同じような、混乱状態を社会に提出することになるのである。

しかし人間は自然の動物性そのままでは生活しないのである。
それは衣服を着、髪を適当に切り整え、梳り、自分のもつ理想又はアイディアに従って、
動物性‘そのまま’を、そのままの状態にあらしめず、動物性をも生かしながら、
それを崇高なる理想又はアイディアの指導する秩序の上にのせて、
新しい美を創造するのである。

それはたとえば、山野に自生した草花や樹木の枝を、
新しき〃美〃の秩序の上に配列して新しい美を創造する〃活け花〃の美の創造にも
似ているのである。

神は創造主(つくりぬし)であるが、
〃神の子〃はその創造者としての本質を継承して、
地上世界に新しき美を創造するのである。
  
動物は理想をもたないが、人間は理想をもつ。
動物は本能的〃知〃以外にアイディアを持たないが、
人間は本能を統御し克服するための規準となるべきアイディアを発想する。

自然界は神の発想し給えるアイディアの実現であるが、
人間社会は〃神の子〃たる人間の発想せるアイディアの実現である。

しかし人間の発想は、人間そのものが神の自己実現であるから、
結局は、人間の発想そのものが、「ある段階における神のアイディアの発展」だと
いうことができるのである。

自然界の創造は、基礎産業みたいに文化の素材となるものをつくるのである。
人間の創造はその素材の上にたって、その素材を色々に配列し、組合わせ
新しき秩序と美とを創造する。それが文化の創造である。

〃人間のアイディア〃といっても、
人間の発想そのものが「創造のある段階における〃神のアイディア〃の発展」であり、
〃神のアイディア〃を受信して発想したものが、〃人間のアイディア〃であるから、

善きアイディアを受信しようと思うならば、
やはり吾々は、〃心〃を神に振向ける修行として、毎日怠らず神想観を実修し、
神から直接「神のアイディア」を受信し、それを実行するようにしなければならないのである。
     
           <感謝合掌 平成27年2月4日 頓首再拝>       

「無限供給について」~小嶋博講師 (202)
日時:2015年02月05日 (木) 17時51分
名前:伝統

(有名講師列伝)

 小嶋博講師の名言

「谷口先生は私たちを、神だと思っておられるよ」

 当時宇治別格本山で部長をされていた小嶋講師に
 入山したばかりの中堅講師、E講師はいった。

「小嶋先生のような方はまさに 雅春先生の直弟子ですね。」

「いや、弟子とは思っておられないよ。
 谷口先生は私たちをを、神だと思っておられるよ」(小嶋  博)

   生長の家史に残る名講師である。




本日は、「無限供給について」歴史に残したい小嶋博先生の体験談を御紹介致します。

この文章は後の祈願部長になられた
これも後の名講師・E講師の御文章だそうです(平成17年逝去)。

       ・・・


   小嶋博先生のこと


終戦直後は岡崎(愛知県)は大変な勢いで教勢が伸びていた。

谷口雅春先生は戦犯として追放になっていられることもあってか、
小嶋博先生に「私も岡崎に移ろうかな」とおっしゃったことがあるという。

尊師のおともをして愛知県の蒲郡あたりを物色して歩いていたことがあるということである。

その頃はなにをやっても日本一であった。

「全国ではじめての道場だね」

あるとき岡崎に来られた谷口雅春先生がこうおっしゃった。

このとき小嶋先生は三十畳の道場を建てようと決心していたので
その旨を申し上げたのであった。昭和二十四年のことである。

「三十畳では小嶋さん狭いですよ。
これから生長の家はうんと伸びるからね。百畳敷きにしなさい」

と言われたのである。そして、

「今、本部にお金がないから出せませんがね」と言われた。
小嶋先生はあっけにとられて空いた口が塞がらないほどであった。

物資の何もないときである。釘も木も何もないときである。
三十畳でもみんなを納得させるのが大変であった。
やっとのことで協力を決めてくれたところであった。

谷口先生はそう言いおかれるとさっさと東京にお帰りになってしまわれた。
さあ大変である。

しばらくは考えつづけた。何度考えてもやれる訳がないと思った。
しかし、谷口先生があんなに喜んで期待されておっしゃっていられるのである。

それを無視するわけにはいかない。

とうとう考えあぐんだあげく、とにかくやれるだけやってみようということを考えた。

もし、谷口先生に、”小嶋さんやってみたかね”
ときかれたときに、全然やってみませんでしたではすまされない。
もしやれば、失敗しても”ハイやりましたが駄目でした”ということが出来る。

やりもしないで駄目は通らないということにようやく考えが至ったのであった。

さあ、それから、今まで協力してもらった人たちに集まってもらって会議を開いたのである。
結果はみじめにも”それは出来る訳がない”ということになって、
やらないことにして皆な引き揚げてしまった。

そのときの小嶋先生のお気持はどんなであったであろう。

しばらくは力が抜けたようになってそこに黙したまま立っていられたのではあるまいか。

そこにトヨタの下請をやって大いにトヨタの社長に賞賛されたほどの大きな仕事をやった
ことのある○○さんがやって来られた。会議に遅れたのである。

「どうでした」とその人は訊いた。
やらないことに決まってみんな帰ったところだ、と言った。

「そんな馬鹿なことがありますか、やりましょう!」
とその人は言うのであった。

「それをさっきの会議で言って呉れればよかったが、
もうやらないことに決定してみんな帰っちまったよ」

と小嶋先生は言った。

しかし、さすがに大きな仕事をしたことのある○○さんである。仲々の信念である。

「小嶋先生は日頃なんと言っておられるんですか。
やれば無限力だからなんでも出来る。
やれないのはやらないからだ、と言っておられるではありませんか」

と食い下がってくるのであった。

「資金もあってやれるとはじめから解っているようなことなら誰でもやる。
資金もなく、やれないことだからこそ値打ちがあるんじゃないですか。
私はいつもそんな気持でやって来たから今度もそう思うのかも知れませんが」

と言われたのである。このとき、
小嶋先生は”乗るか反るかやってみよう”という気になったのである。

「そうだな、○○さん。やれるだけやってみよう。
それで失敗したら○○さん、私の骨を拾ってくださいよ」

と言った。○○さんは涙ぐんでいる。
そして手を握り合ったのである。

それをどうしてか山本さんという人だけ残ってこの光景をじっと見ておられたらしい。

そして感動して、自分も今の話を聞いて感動したが、
あいにく自分にはいまお金がないので協力のしようがないと、しばらく考えていたが、

「私とこに乳牛があるから、これを質に入れよう」

と云って帰って行ったというのである。

そんなことが出来るかと思っていると、
二、三日して七万円借りることが出来たと言って持ってこられたのであった。

当時の七万円が現在のどれくらいになるのか。
そっくりそのまま持って来られた。

ところが、他の人たちはみんな反対になってしまっている。

いままで集まりつつあった寄付も集まらなくなってしまったのである。
そんなもの出来るわけがないと言ってまわる人さえ出て来たりした。
そこでほとほと困ってしまった上に更に困ってしまった。

そこでひとつのことを思いついたのである。

だいたいこの百畳敷きのことを言い出されたのは
谷口先生なのだから先生に、主な人々に一筆書いてもらって、
協力を呼びかけて頂こうと思ったのである。

そこで早速大阪に出かけて行ったのである。
大阪ではそのころいろいろと問題があったらしい。

それを何も知らず谷口先生の宿舎になっている旅館にお訪ねしたのである。

谷口先生のお部屋の前でノックしたときの中の反応からして、
もういつもとはちがっていた。

”おやっ”と思ったが、もうノックしてしまったから帰るわけにはいかない。
ドアを押し開けておそるおそる入っていった。ちがう。何かいつもと全然ちがっている。
何か部屋の中の空気がピリピリとしている。

先生はこちらをお向きにもならないで、机に向かって原稿を書いておられる。

やっとこちらに注意を向けられたので、実は、と道場建設についての協力の依頼状を
書いていただきたいむね勇気を起こして申し上げたのである。

「僕は他人にものをたのむのはいやだねッ」

と尊師はつきはなすように言われた。

なんともとりつくことの出来ない雰囲気であった。
なんとまあ冷たいことだろうと思った。

それでも帰れとは言われないし、第一このまま帰ってもそうにもならないところまで
追い詰められているというような気もあって、

後ろの腰掛に腰掛けて谷口先生の後姿をながめているより仕方がなかった。

すると、ドアをノックする音が聴こえたのである。

やがて、尊師の応答のお声があって、

そーっとドアがひらくと、年配の幹部が四、五人の青年をつれて入って来た。
何か問題があってその行き違いのことで先生に謝りに来たのである。

この青年たちは充分に反省しているのでどうぞ赦してやってほしいと申し上げた。

「駄目だよ!真底からすまないと思わなくては駄目だよッ」

と表情はかたく、厳しいお姿である。
しばらくその人たちは立ったままである。

「出て行き給えッ!」

大きな声が厳しく響いた。もうしようがない。
その人たちはそろそろと恐縮して出て行った。

また谷口先生は原稿のペンを運んでおられる。

また沈黙がやってきて息苦しいときが流れた。

そうしているうちに昔お父さんから聴いた話を思い出した。
岡崎で昔ばくち打ちが打ち首になったことがあった。
このばくち打ちはおそろしく腹のすわった人物であった。

後ろ手に縛られて、座って首を前に出したとき、首を切ろうと刀を抜いてかまえている
首切り係に向かって、

「おい、しっかり斬るんだぞッ頑張れよッ」と言った。

斬る方がどぎもを抜かれてしまって仲々斬ることが出来ない。
ガタガタと腰が震えて来てしまった。

これを小嶋先生のお父さんが見ていたのである。

結局は首斬られたのであったが、どういう訳か、お父さんはしばしばお話になった。

いま、この話を思い出していた。

そして、いよいよ腹をきめたのである。
どうしてもお願いしよう。
死んだつもりでお願いしようと思った瞬間である。

絶対に忘れることが出来ない。

クルッと尊師が顔をこちらに向けられると

”ニコッ”とされたのである。

なんというそれはやさしい、
やわらかい明るい輝きに満ちたお顔であったことか。

地獄で仏と出遭ったというようなものではなかった。
地獄が完全に消え去ってしまっている。

暗い何もない。過去の何ものもそこに持ち越していない。

地獄とは過去のことである。
過去があると思うのが地獄である。

前後裁断ということを思い出したのである。


あの尊師の尊い雰囲気はどこから出て来るのか。

それに直接ふれて感動することは出来るが、
実際はそれはどこから、どのようにして出て来るのか、
ふれればふれるほど新しいのであって、
どうしても捉えられないのではないだろうか。

「小嶋さん、どうしても書かなければいかんのかね?」

ニコッとされたかと思うとそう親しく話しかけられたのである。
やはりそこには先ほどの厳しい雰囲気は消えていた。
「ハイ」と小嶋先生はお答えした。

「そう」と言われた尊師は「小嶋さんここにおいで」と、
椅子を左によせられて、右のあいたところに手で招いて下さった。

尊師と並んで机の前に座った。

「小嶋さんの言う通り書くからこれに下書きしなさい」

と言われて、便箋を一枚下さってペンも貸してくださった。
しかしペンを持った手がガタガタと感動にふるえて書けないのである。

「あまり感動して書けません」

と申し上げた。尊師はだまってほほえまれるのだった。

それで、先生におまかせすることにして喜んで帰ったのである。
これで大丈夫だぞ、出来るぞ、という思いが湧き上がって来るのだった。

それから何十年もたって、あのとき協力して下さった方が見せて呉れたのだが
尊師は一人づつに丁寧な依頼状を直筆で出して下さっていたのである。

どうして、何十年も小嶋先生はそれを見せてもらおうと想われなかったのかと思う。

あれだけの大変な想いをされながら、どうして見せてもらわなかったのかと思う。

如何にあわただしかったかと言うことである。

尊師のお部屋を出たとたんにこれから先のことが頭に一杯つまっていたのであろう。

「あの直筆は大したもんだな」

と言っておられる。ご自分はもらってないのである。

直筆が大変なことは先生はそのときから知っておられる。

それをもらうことに自分が協力したという、
自分の顔を出すのがいやであったのであろう。

何かのときに、尊師に七十枚か八十枚も
短冊を書いていただいたが全部渡してしまわれて一枚も残っていない。


ともあれ、尊師には依頼状はおねがいしたものの、それからがいよいよ大変である。
ぽつぽつと協力者が戻って来た。
瓦はどこかの倉庫の古いのを使うことにした。
釘も何も無いときの話であると、何度もこのことをきいた。

ある日、例の乳牛を質に入れている人が喜んでやって来た。

そうして話すには、
そのころの農業組合の主催の農産、畜産の品評会が行われた。
ある日、地区の役員がこの人のところに来てなにか出品せよというのである。

何もないというと、
牛があるではないかという。

それでもそんなにいい牛だとは思えない。
乳はたくさん出るだろう、と言う。
まあ乳だけはたくさん出るというと、ぜひ出せということになって、

とうとう娘さんと二人でつれて行った。

途中娘さんに前をひかせて、
自分は牛の後ろについて歩いて行きながら、

「おい、娑婆の奴らは知らんが、オマエは生長の家のために役立っているんだから
素晴らしいんだぞ。大変な役目をしているんだぞ。頑張れよッ」

と牛のお尻をたたいてそう言った。

いよいよ展示場に着いた。つなぐ場所まで行くと、

娘さんは娘さんで、ご自分はご自分で
それぞれ用があって展示場に牛をおいたままで出かけていった。

まさか、入賞することなど夢にも思わなかった。

ところが、帰って来て見ると、まぎれもなく自分の牛が優秀賞になって、
首にその印をぶらさげてもらっているというのである。

親娘ともびっくりしてしまった。

スカイラインのなんとかという名前もつけられていた。
それがまた賞金が十万円だったというのである。

この話は谷口雅春先生がときどきお話になるということである。

神の教えの道場を建立しようと心が願い、一番大切な乳牛を質に入れ、
さらにまだお役に立ってくれよと話ししながら追っていったのである。


いよいよ落慶の日は尊師谷口雅春先生が来られて、
およろこびになられた。

そして最後の五十万円の支払を本部から出して下さったのである。

この体験によって小嶋先生は大きな自信を得られた。

そして教化部長として行くところ行くところに道場が建ち、九つも建ったのである。

三河道場と名づけられた岡崎のこの道場は、全国で一番早く出来た道場であったが、
ここで地方練成会も全国で一番早くはじまったのである。

           <感謝合掌 平成27年2月5日 頓首再拝>   

「自殺について」  (215)
日時:2015年02月06日 (金) 17時46分
名前:伝統

          *「自殺について」~生長の家創始者 谷口雅春先生
           (出典は不明)

自殺者の死後の運命は、罪を犯した人の死後の運命と非常に共通した点があるのである。
それどころか、普通の罪人以上の悪い運命を受けるのである。

自殺とは卑怯なる行為であり、その結果に恐怖すべき報いを招く罪悪である。

来るべき苦痛を避けようと思って自殺したる死後の霊魂の言葉を借りて言えば、
吾々各人は地上に於いて成し遂げねばならぬ責務または使命を持っているのである。

此れは吾々自身の「善」と向上の為に耐え忍ばねばならぬ試練である。
(この地上の世界を試練の世界と観る事はスピリットたちの一致して告ぐるところで
あるから信じてよいと思う)。

此の試練を避けて、定められた時以前に人間的苦痛から逃げ出すのは
自然の法則に反逆することである。
自然の法則に反逆する者は、自然の法則から恐ろしい復讐を受けなければならない。

自殺は肉体的苦痛を逃れる道ではない。
自殺した者の霊魂は、破壊した肉体から容易に蝉脱する事が出来ない。
その苦痛は、決して一思いに死ぬなどの苦しみとは比べものにならない甚だしさである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     (霊界通信)

地上の生命の糸が断ち切られたとき、
彼の霊魂は、暗黒と苦痛との世界に自分自身を見出しました。
長い間その霊魂は肉体を離れることが出来ませんでした。

墓穴の蓋が自殺した肉体の上に閉ざされた後までも、
彼の霊魂は、長い間その肉体の周囲にたゆとうていました。

彼は許されずにやって来た他界へ来ても誰も歓迎して呉れもしなければ、
落ち着きも得られませんでした。

暗黒が彼を取り巻いていました。

そして陰暗朦朧たる闇を通して、同種類のみずから破船した人々の霊魂が、
平安なき孤独の状態で,悄然と蠢動しているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

自殺は、自然の法則を破毀した我侭な行為であると言う点に於いて
それは罪せられずにはいられないと言う事にスピリットたちの言葉は一致しているのである。

スピリットたちは、いづれも「口を揃えて」自殺者の霊魂は自殺の瞬間にとった
いまはしい不快な状態を長い間継続して感じた後、暗い陰惨な冥界へ移され、
そこで改悛の情の起こり来るまで苦しまねばならぬと言う事に一致しているのである。

           <感謝合掌 平成27年2月6日 頓首再拝>  

金戸 栄 本部講師 (226)
日時:2015年02月07日 (土) 17時50分
名前:伝統

昭和50年の12月の事です。
  ・・・九州別格本山練成会に参加する機会を得ました。

           金戸 栄 本部講師  (故人)

 夜の浄心行に総裁谷口雅春先生、輝子奥様がお揃いで
『私たちも浄心行を受ける』と仰せられて、練成員と同席して
浄心行の説明を聴かれ、記載し、聖経読誦のうちに焼却なさいました。

その翌日の「祈り合い神想観」では、練成会員と
一緒に説明を受けられ、祈られる方(かた)の方(ほう)に御坐りになりました。


その時の総裁谷口雅春先生の祈願内容は、
『キリストも弟子ヨハネによって洗礼を受けた。
 教祖だから穢れなき者と思うのは増上慢である。

≪私は日本国が赤化の方向に激動するのを歎き、憂いの心が高まり、
私の魂は日本国と同一化して肉体の微熱と感冒状態を現しているのである。≫

よごれた心を着物として皆様に洗濯していただき、人を導くものとして、
もっともっと心を浄めたいのである』

――とこの様なお言葉でした。


輝子奥様は、
『私はもっと深く広く愛の実践が出来るようになりたい』との内容で、

この言葉を伺い参加者一同涙にむせび、あちらでもこちらでもすすり泣きが起り、
声をつまらせ、それが号泣に変わる者多数でした。

     『聖使命新聞』 51年1月21日号より

           <感謝合掌 平成27年2月7日 頓首再拝>  

「先ず神に和解せよ」 (241)
日時:2015年02月08日 (日) 17時41分
名前:伝統

「先ず神に和解せよ」 ~ 生長の家創始者  谷口 雅春先生
 

『天地一切のものに和解する』には、第一、神に和解しなければならないのである。

神に和解するには、神の創造した世界には、
一切の悪は存在しないと云うことを先ず信ずることである。

「お前のこしらえたものに碌なものはない」などと考えているのでは
相手に和解していることにはならないのである。

神に対してそんな考えをもっていながら神に和解していると考えてはならない。

肉眼に如何に不完全な相(すがた)が見えようとも、
神の創造(つく)ったこの世界には不完全な存在はない。

それは自分のあやまれる心の反映だと自分の心を反省しなければならない。

       「生長の家」誌 昭和25年11月4日の法語

           <感謝合掌 平成27年2月8日 頓首再拝>

「唯神実相以外に何があるというのか!!」~榎本恵吾講師 (256)
日時:2015年02月09日 (月) 17時55分
名前:伝統

「唯神実相以外に何があるというのか!!」
   ~元生長の家宇治祈願部長 榎本恵吾講師(故人)


人間の悩みはつまるところ、
その生活の一瞬一瞬を如何にすれば完全な生活として生き得るか、との問題に帰する。

大いなる展望のもとに確かなる軌道上を
一歩一歩建設にいそしむ本当の意味での理想世界建設
ヘの力強い建設感が、各員各個に確立されなければならない。

その確かな軌道と一歩一歩は如何にして吾れらのものとなるのであろうか。

この道は『實相独在』『久遠の今』のみ教えによって吾等の前に開かれた。

今此処の一点に立ちて、一人一人の一瞬一瞬が全宇宙に対して、
確かに必要且つ充分なる一点一点である時にはじめて、
この″確かなる歩み〃がはじまるのである。

先づ、一個がこの宇宙に対してたしかなるこの広大無辺なる宇宙の一点に立って、
如何に一人一人が必要且つ充分なる一点を占め得るかの問題を明らかにした上で、

我らの運動全体を真の建設運動、理想世界建設者として
神の永遠の構図に於ける創造の確かな軌道上を
一瞬一瞬実りのある道を進み行くことの出来るのが

尊師のお開き下さった人類光明化運動である。

ここにおいてはじめて各自一個一個が実質的に
建設者としての生活に入る基盤が与えられているということになるのである。

人間の悩みはつまるところ、
その生活の一瞬一瞬を如何にすれば完全な生活として生き得るか、との問題に帰する。

その悩みは自己と他との問題であれ、学業と運動の問題であれ、求道と伝道の問題であれ、
自己と全世界との問題であれ、要は一瞬一瞬、今此処にいかに完全なる生活を
その人が成就し得るかの問題に帰する。

自分の生活が全宇宙に対して
如何にすれば必要且つ充分なる一点を占めた生活が出来るかと云うことである。

それ故、真の自信とは自己の生活の一瞬一瞬が全宇宙に対して必要且つ充分なる、
分裂なき一点を踏まえているのであると云うことへの
信仰的自覚でなければならないのである。

人間が生きて歩むその一瞬一瞬に完全なる一点一点を生き切れば
最早やその人には悩みはなくなっているのである。

この地点において私達は尊師の開かれた
『久遠の今』の光明の福音を聴くのである。

そして、自分自身が生命の純粋持続としての創造活動、
即ち生長の家人類光明化運動そのものであったことを発見するのである。

自分自身が光明そのものであり、その創造的展開が光明化運動であったのである。

久遠の『今』に立つとき、このことがわかって来るのである。

此処において地上天国建設の途上において
犠牲となって倒れることなき生活があるのである。

我らは『今』、神の創造活動の延長であり、生命の純粋持続としての創造活動、
人類光明化運動としてのさらに大いなる運動を展開するにあたりその根本的基盤を
ここに録す次第である。

何故、釈迦は世界の山川草木一本一本を調べてみた訳ではないのに、
山川草本国土悉皆成仏、有情非情同時成道と解ったのであるか。

又、どうして尊師は万教帰一を唱えられるのか。

その根拠は何処にあるのであろうか。
この根拠が即ち、そのまま我々が踏まえなければならない根拠なのである。

我等の活動は神の創造の続く限り続くであろう。

その神の永遠の構図のもと、人類光明化の運動を押し進めながら
吾等一人一人は夜空に輝く星群をどのように仰ぐのであろうか。
どのような呼吸が吾々に通うのであろうか。

我らは地上天国建設への道を、全宇宙の運行との関係において、
生命の純粋持続としての必要且つ充分なる確かな軌道上に歩を進めるのである。

此処に於いて我らの開く書物、対する文字が
荘厳なる光とかわり、神の子の姿が顕れるのである。

一切万物発生の枢機を握るこの一点、久遠の『今』から一切は発したのである。

それ故全宇宙が此処にあり、一切の運動も学問も文化も、歴史も、
個人一個の呼吸もここから生れ出て来たのである。

此処に分裂なき活動の基点がある。
此処に生命体系、実在体系としての文化体系の発する根拠がある。

ここに立って動く時、それがそのまま体系者としての道を歩んでいるのである。

      『試論・波状光明化への道』351項より


           <感謝合掌 平成27年2月9日 頓首再拝> 

占領憲法が吾らの日常生活に及ぼす悪影響  (269)
日時:2015年02月10日 (火) 17時51分
名前:伝統

        *『占領憲法が吾らの日常生活に及ぼす悪影響』 全文 
          /  谷口雅春先生 (44年7月)(からの抜粋)

◆私は反体制に味方する

私は現在の日本の政治体制に反対しているものであります。
それゆえに私は反体制論者であります。

だから、その暴力的行動には賛成できないが、
或る意味では、現在の体制に対して反抗して反体制運動をしている全学連にも、
同情する者であります。

若い人は敏感に現在の体制がアメリカ生まれの体制であって、
本来の日本の姿でないことを感じて、ジッとしておれない感じが暴発しているのが
方向を過まって暴発しているのだと思います。

何故、私が現在の日本の政治体制に反対するかといいますと、
それは真理に反しているからであります。

そしてこの政治体制は日本人みずからが定めた政治体制ではなく、
占領軍、特にアメリカ軍が原子爆弾という非情な不法兵器を使って、
一時的に日本国民に抵抗の自由意志を喪失せしめた上、
脅迫によって押しつけた現行の日本国憲法 

― 即ち〃占領憲法〃がつくりあげた政治体制であるからです。

そして此の憲法の下に成立している政権はアメリカ製憲法に基いて成立している
偽政権であり、日本建国の精神と、その伝統に基いて成立している政権でないから、
その政権はアメリカ軍を背景とした幕府的存在でありますから、

速やかに現在の政権は、自分の政権が『何』の上に立っているのかを脚下照顧し、
自悔自粛して、日本国本来の、国家統治の大権を皇祖皇宗を通じて享け給える天皇に、
国家統治の大権を奉還すべきものであると信じます。


           <感謝合掌 平成27年2月10日 頓首再拝> 

「枕石寺の由来」~藤原敏之講師 (280)
日時:2015年02月11日 (水) 17時39分
名前:伝統

       *『そのまま極楽の道』(藤原敏之著)25頁より

(親鸞上人に関して)その中で特に有名なのは、「枕石寺の由来」であります。

常陸の国(茨城地方)を二人のお弟子を伴って托鉢しながら縁のある人々を教化し、
導いて歩いているうちに猛吹雪となり、5メートル先も見えない程の大雪で、
あっという間に雪が積もってどこが道だか田圃だか全然判らなくなりました。

そのうち日がくれてしまい、どうすることも出来なくて困っているとき、
はるか彼方に明りが見えるのを頼りに辿りついてみると、
立派な門構えの大邸宅がありました。

これは有難い、一晩だけ吹雪を避けさせてもらいましょうと、一夜の宿を乞いました。

すると家の主人が立ち現れ、「縁起でもない、クソ坊主など泊めるいわれはない、
さっさと出て行け」と大声でどなりながら、木の棒で追い払い、門の外まで追い出して
内側から厳重に閉めてしまったというのであります。

この人物は日野左衛門といって近郷近在きっての大金持ちでありました。

門の外まで追い出された主従3人は仕方なく歩き出すことに致しました。
しかし何分にも北国の冬であり、今とちがって降る雪の量も多くてどうすることも
出来ません。夜が更けるにつれて雪はうなりを立て容赦なく吹きつけて来ます。

親鸞上人は門の敷石を枕に横になって休まれました。
2人の弟子が衣の袖と菅の笠で上人さまにかかる吹雪を防ごうとしますが、
見る見る雪が積もってまるで雪の布団にくるまっているような状態であります。

素足に草鞋の上人の足からは、皸(あか)ぎれで血が吹き出しています。
これを見て2人の若い弟子が、「なんという無慈悲な翁であろう、せめて門の内にでも
入れてくれたらこんなにまで痛ましいお姿にならなくてもすんだものを・・・・・」

「もしも出家せられずに家を継いでおられたら、今は公卿の御身分で、どんな栄耀栄華も
思いのままであろうものを、衆生済度のためとはいいながらこのご難儀は、何と痛ましい
ことか・・・・・」と泣いているのをごらんになった上人は、

「お前達は何を文句をいっているのか、そんな間違った考えを起しては親様に申訳ないぞ」
といいながら詠まれた歌が有名な、


 寒くとも袂(たもと)に入れよ西の風
         弥陀の国より吹くと思へば


というお歌であります。

この意味は申すまでもなく、

どんな寒さも、困難と見えるものも、何一つとして神様の恵み、仏のお慈悲でないものはないのだぞ、
どんな寒さも阿弥陀様のみ国から吹いてくる風だという気持で受け、
有難いと感謝して大切に袂にでもしまうような心で受けてみよ、

苦しいものなど何一つとしてないぞよと、天地一切のもの悉く仏の恵み御慈悲の現れ
であると諭しておられるのであります。

諭され、教えられた二人の弟子たちは、大いに恥じて眠られぬままに大声で、
感謝の称名、お念仏を称えておりました。

と、先程の当家の主が松明を掲げて出て来て門の戸を開き、
「どうぞ家にお入り下さい」と丁寧に招じ入れ、火を焚いて温めてくれた上に、
温かい雑炊を作って食べさせてくれ、

一晩中仏のお慈悲について親鸞上人から説き聴かされ、
さすがの強欲非道な日野左衛門も真理に目覚め、本願他力によって救われたのであります。
ついにご開山の弟子となり、広い邸宅を解放して教えの道場に捧げるに至ったのであります。

そのいわれによって寺号を枕石寺、即ち石を枕の寺と号されたのであります。

<了>

           <感謝合掌 平成27年2月11日 頓首再拝> 

實相 (294)
日時:2015年02月12日 (木) 17時32分
名前:伝統

――吉田國太郎曰く、

根底に於いて悪を見、困却の相を見たところからの心の動きは、
その心自身が、如何に尊げな姿に於いて現れ、如何に深度の状態に於いて現れ、
宇宙的な迄の高度な状態の如くに現れても、いずれも全てよしなく空しいことである。

それは神の心にもとり、実在の相を忘失し、業の輪廻を深めたに過ぎない。

    (『常楽への道』338頁)

・・・


――榎本恵吾曰く、

根底に於いて悪を見、困却の相を見たところからの心の動きとは、
悟っていない心、救われていない心のことである。

私達の今やっている人類光明化運動は世界の危機、悪、祖国の困却の姿を見たからこそ
行っているというような運動ではないだろうか。

もし世界に危機が存在しなかったならば、
行う必要がなくなるというような運動をしてはいないだろうか。
そのような出発の仕方をしてはいないだろうか。

そして、もし、それが、實相のみが存在し現象は無い、と云ったら、
われわれの運動が成り立たなくなるではないかというような心から出発しているもので
あるならば、その光明化運動が、愛国運動が、いかに尊げな姿に於いて現れ、
如何に深度の状態に於いて現れ、宇宙的な迄の高度な状態の如くに現れても、
いずれも全てよしなく空しいことである。

それは業の輪廻を深めたに過ぎないと云わなければならない。

吾々は今まで、このような主張に対して抗言した。
それは日本的にも、世界的にも、宇宙的にも尊いものであると。

しかし、それには何かが足りなかった。
絶対的に尊いとは言い得なかった。
神以外に、神に相対する困却を認めていたからである。

神に対立するものは何もない。
神のみが唯一の実在であると云う絶対の世界を知らなかった。

・・・


――藤原敏之曰く、

現象がすべて影だと判れば現象は問題でなくなりますが、影だと判らず
本ものだと思い違いするから現象に振り廻されて動きがとれなくなります。
それを迷いといいます。

今現れているのは影であり、これまでの間違った思いが現れて消えたのであると
判れば、何も心配することもない、反対に喜べるのであります。

借金が無くなって苦にする人はないでしょう。
悪いことが現れたのを見て、悪くなったと見ないで善くなるためだと判ったら
安心するのであります。

雨が降るのは、お天気になるために水蒸気が雲になっているのが雨になって、
雲がなくなり晴天になるためでありましょう。

日が暮れて夜がふけるのは、朝が来るためであります。

電車がトンネルに入るのは、トンネルを通って出てくるためであります。

このように悪くなったように見えるのは、
すべて善くなるためだと観るのが生長の家であります。

悪いことを悪いとだけ見たのでは普通の考え方であって、暗黒思想でありましょう。
生長の家は徹底した光明思想であって、善くなることだけを想い、
善くなることに感謝して生活しようとお教え頂くのであります。

     (『あなたは必ず救われる』238頁)

・・・


――尊師曰く、

それが判らなければ第一自分が救われていないのです。
『生長の家』の『智慧の言葉』に「自分に深切であれ」と云う言葉がある。
自分が救われなければ、他を救うことが判らないのです。

救われたと云う状態はどんな状態だと云うことがわからなければ、
本当に人を救われた状態に導くことが出来ないのです。

    (『生命の實相』第二巻377頁)

本当の真理を云えば『生命の實相』をさとった方は誰でもみな此の「多宝仏」と
一体である。誰も皆自分が無量無辺無限時間前から生き通しの神そのものであり、
無量無辺百千万億那由阿僧祇却以前から悟りを開いている仏であると云うことが判る。

二千年前ユダヤで説教していたイエスも自分自身であった。
四千年前印度で説教していた釈迦も自分自身であった。

三千大千世界を此の世に現じ運転せしめていたのも自分であったと云う
実に大きな自覚に入ることが出来るのであります。

   (『生命の實相』第六巻134頁)


           <感謝合掌 平成27年2月12日 頓首再拝> 

無条件の感謝~藤原敏之先生  (306)
日時:2015年02月13日 (金) 21時19分
名前:伝統


          *『すべてを癒す道』(藤原敏之著)P128より

<< 往信 >>

長年の生長の家信徒で、教えはよくわかっているが、
心臓病と喘息で苦しんでいるという婦人から。

<< 復信 >>

合掌

御文意正しく拝承致しました。
次から次と種々の魂向上のための自壊作用が現れ難儀しておられるご様子、
心より御同情申し上げます。

私達は天の使いとして神意を地上に顕現するための尊い使命によって、
地上に誕生したものでありますが、また一面魂が無限に向上を遂げるための過程として
人生学校に入学したものでもあります。

ですから人生とはその人の魂の程度に応じて問題のあるところなのです。
問題のないことを願う気持はわかりますが、それは神の子とわかってはいても、
未だ自覚が得られていないからであります。

神を知ってはいるけれども信じていないからであります。
わかったのと信じたのとの違いであります。
知った知識が救うのではなく、信がそのまま、即救いとなるのであります。


キリストも”汝の信ずる如く汝にまでなれ”と教えられ、又”汝の信仰汝を癒せり”とも
教えておられます。よく判ったら救われると教えておられないところに御注目ください。

尊師谷口雅春先生も救いの根本が自覚にあることをお教え下さっております。
自覚とは気がつくことでありますが、ただ表面の心で気がつくのではなく、
魂(生命)で知ることであります。

もっとわかりやすくいえば身体で知ることであります。
信とは実感となることであり、実感は身体を通して知ったときであります。
火が熱いとわかるのは、手に触れてみるからです。

考えたからでも、熱い論理がわかるからでもありません。
実感を通してのみ、信念となるのです。

料理を食べておいしいと感ずるのは、訳がわかったからおいしいのではなく、
食べてみたからです。料理に関する知識や訳が全然わからなくて食べても、
おいしいものはおいしいのであります。

いくらきいても読んでも救われないというのはこの肝腎の行がないからです。

何もわからず、知らずにいても、行じている人は救われるのであります。
それは救われていない者は本来無いからであり、みんな既に救われておりながら、
救いを現さないだけなのです。

工事も完璧であり、電球も備え付けてあり、発電所では無限に発電せられておりながら、
暗いのはスイッチを入れないからであり、電源につながらないからであります。
発電所には電力があるとわかり、電球はともるとわかっておりながら、
スイッチを入れないで”どうして明るくならないのであろうか?”と思い煩っているのと
同じであります。

信仰に最も大切なことは真剣さと素直さであり、勇気と行動力であります。
何故かと考える先に行動致しましょう。
救いの根本行とは、ただ”有難う”と感謝することであります。

どうすればよいか・・・ではありません。

そのままで感謝するのです。善くても有難く、悪くても有難いのであります。
自分の力によるものは何一つないのでありますから、一から十までことごとく頂きもの
であった、丸貰いの丸儲けとわかれば感謝以外にはないはずであります。

自己の力をちょっとでも頼みにし、当てにしている間は無条件に感謝出来ないのです。
”私が無かった”とわかるとき、無条件の感謝となります。

人間としての私は昨日死んだものと決めなさい。死に切ってごらんなさい。
今あるのは神様だけになります。神様だと決まったら、病気はないのです。
神以外に”私がある”と思っているから病気を認め、病気を許すのです。

病気と妥協し、病気の存在を許すから、無い病気が”のさばって”あるかのように
幅をきかせるのです。

今日限り、今限り、病気の存在を否定し、断乎として追い払いましょう。
無い病気を認め、許すのが無明です。その無い無明が病気の姿をして頑張っているだけです。
 
『甘露の法雨』に「あらざるものを有りと想像するが故に迷いなり」とあります如く、
全く夢であります。夢は無いけれどもみている間はあると感じて苦しむのです。

あなたも病気の正体を見破りなさい。
あると認めて治そうと思っておられる限り、あるように現われます。
救われようと思い、焦っている限り救いは現われません。

それは救われていないと信じているからです。
救われていなかったら、生まれることも生きることさえも出来ません。

生かされている事実を信じて、只管(ひたすら)感謝し、
「有難うございます」を一日少なくとも、一万回以上誦えましょう。
三時間半で一万回誦えられます。

これを実行して十年間の全身リュウマチが一日で治った実例があります。
なぜといって、理由も訳もありません。
神様に波長を合わせるから、本来の姿が現われるだけであります。

結果を予想せず、ただ「有難うございます」をコトバに誦えましょう。
求めなくても結果(答え)は現われます。
大根の種を蒔けば、訳も理由もなく大根が生えるようにであります。

 このことを信じて唯々行じましょう。

<了>


           <感謝合掌 平成27年2月13日 頓首再拝> 

(光の泉)神様への電話 110番 (319)
日時:2015年02月14日 (土) 20時20分
名前:伝統

 
(問)家族構成は、姑、主人、長女(21)、長男(16)の5人です。

  私は生まれつきの欠陥(斜視、みつ口、縮れ毛、毛深い、わきが、赤ら顔等)がり、
  親からあまり祝福もなく生まれてきました。

  やさしい主人に恵まれ子供達に恵まれましたが、
  私の欠点や主人の欠点などが遺伝し、子供達にうらまれ、責められ悲しく辛く生きています。

  私が全部背負ってやれるものならと思いますが、それもできることでなく、
  子供達にどう接すればよいかを悩んでいます。ご指導を願います。(悩める母)


(答)顔の美醜や肉体上の欠陥の有無等で、
   私たちの人生で味あうよろこびや悲しみは大変な相異があります。

  特に青年の頃など恋愛感情等が起こる時代にあって、
  異性にもてるとかもてないとかということは、人世の決定的条件のように思われます。

  神様は、こういう問題で、どのようなことを教えようとなさっているのでしょうか。

  神様は全き愛をもって、すべての神の子を平等に愛したまい、
  すべての神の子に100点ずつのよい点を与えていらっしゃいます。

  その100点の中に、顔の美醜、頭のよしあし、能力の種類、愛情の度合いなど、
  人それぞれ適当な分量に分けてあります。

  例えば、顔の美しさの分に70点を与えますと、
  残りは30点で、その中に愛情その他が占めることになります。

  また顔が醜い場合、そこには30点しか与えてないとすれば、
  愛情・能力等の他の隠れたところに70点が配分されているのであります。

  そういうわけでありますから、
  神様はすべての人を平等に愛しておられることを強く信ずることです。

  聖書の中に、盲目で生まれた子を抱いた親がイエスキリストに訊ねる場面があります。

  この子が盲目で生まれたのは、親の罪でありましょうか、子供の業によるものでしょうか、と。

  これに対して、イエスは

  『親の罪にもあらず、子の業にもあらず、ただそこに神の栄光があらわれんが為である』
  と答えています。

  闇があらわれるのは、闇は本来ないことを示さんが為であります。
  闇は光を呼んでいるのです。

  光がくれば、闇はないことがすぐわかります。
  病気の『病み』も、心の『なやみ』もすべて同じ原理であります。

  どんなに強烈なる”なやみ”も、それ自身、存在を主張できるものはありません。

  光明が来れば消えるものです。

  肉体上の欠陥については、『生命の実相の正しい把握なすべし』との神様からの導きです。

  『生命の實相』の第一巻から、真剣なる探求学習をはじめます。

  本の読み方は、眼光紙背に徹するようにして、
  『肉体はない、物質はない、生命は永遠生き通し』
  というようなところを丁寧に探し出して、書き取って一冊のノートをつくります。

  『生命の実相は自性円満にしていささかの欠陥もなし』ということに徹すれば、
  そこに神の栄光があらわれて来ます。

  神様が、人間は本当に神の子であり、肉体でなく、物質的存在にあらずという
  大真理を教えて下さり、光明輝く人生がひらけてきます。

  それは、なまじ いい加減な美貌で安閑としている人生にくらべて
  何十倍、何百倍、何千倍の幸福をあらわしてくることになります。

  肉体上の欠陥を先天的にもっている人は概して高級霊であることが多いというのも、
  大体以上のような理由によるものであります。

  あなたが右の様な悟りを得れば子供への接しかたは自然に解決します。

  あなたが気にしているので子供が気にすることになります。

  あなたさえ気にならなければ、子供は何とも思いません(鹿沼景揚先生)

           <感謝合掌 平成27年2月14日 頓首再拝> 

神の子である事実を生命で把握し、根こそぎ全托しましょう  (331)
日時:2015年02月15日 (日) 19時50分
名前:伝統


        *藤原敏之・著『すべてを癒す道』(P131)より

<< 往信 >>

 長年の喘息の発作に苦しむ、入院中の女性。

<< 復信 >>

 合掌

お手紙によりますと、長い間の喘息の発作にてお苦しみの御様子、誠にお気の毒です。
七月の練成会にもおこし頂いたそうですが、未だ快癒せず入院中の由、
私の祈りと愛念の不足を痛感致し、深くお詫び申し上げます。 
 
あなたは宗教による救いと医師の医療とを混同しておられるようですが、
身体に現れた疾患を治すのは医師の仕事であり、医療の目的でありますが、

宗教の目的はそのような現象の悪や不完全を取り除いたり、
身体の病気を治すためのものではありません。

神様を医療の代行機関や薬や注射と間違えてはなりません。
信仰によって、難病や奇病が癒えるのは悪いのが何かの力を借りて、
何かを足してもらって快くなるのではありません。

元々、どうもなっていないから、どうもなくなるだけです。
あなたのお手紙では、どうもそこの所が未だ本当におわかり(覚り)に
なっていないように思われます。


生長の家のみ教えは絶対でありまして医学や常識では絶対に治らないとされている
業病や奇病でも簡単に消えてしまって、治っているのですが、
あなたの考えておられるように悪いものが何かによって快くなるのではありません。

どうもないと覚ったとき、どうもなくなるだけであります。

練成会のときにも申した通り、目を閉じて暗い暗いと思っているのが、
目を開けなさいといわれて素直に目を開いて今まで暗かったのが明るくなるのであって、
本当に暗があるのであれば、どんなにしても暗を除くことは出来ないはずであります。

光を見ないから暗いだけであります。

夢の中での出来ごとがどんなに恐ろしいものや苦しいものであっても
夢は元々実在ではないから目がさめれば、みんな消えてなくなるのと同じであります。

宗教による解決法はすべて今まで本当だと思っていたものが、
例えば目に見えるもの(現象)が実在だと考えていたのが、
根本的なまちがいであって

現象はすべて影であり、実在ではなかったと
心の底から気づく(自覚する)ことであります。

肉眼では見ることの出来ないもの、即ち本当にあるものは生命であり、
理念という心であったと気づくことであります。

普通一般常識はみな逆なのです。

実在するもの(實相)は目に見えないから無いと思い込み、
影である現象は目で見えるから本当にあると思い込んでおりますが、
このことを仏教でも生長の家でも無明である、
これが根本的な間違いであるとお教え頂くのであります。


しかも一切の苦悩、病気も貧乏も争いもことごとく無明から生まれると教えられます。
この根本を解決せず、結果である病気だけを治そうとしても本末転倒ですから
解決のしようがないのであります。

あなたほどの人であれば、ここの道理がわからないはずはありません。
したがって運命も環境もすべて心で決め、心の思っている通りに現れるのであります。

あなたは苦しみが伴うから無い病気をあると認めておられます。
つまり迷いと妥協し、偽ものを許しておられます。
お化けがいると思っているのと同じであります。

無い現象の方を信じ、實相(真理)を信じていないから、
「よくなりたい、よくなりたい」と願いながら、いつまでも治らないのであります。


あなたはみ教えを知り、理解はしておられるようでありますが、
未だ信じておられないようであります。

宗教は学問ではありません。
私達は現実に生活しているのであって考えているだけではありません。
宗教は考え方も変えますが、生活をも変えるのであります。

実践(行)を伴わないのは宗教学であって信仰とはなりません。
お腹の空いたのは、どんなに食べたらふくれるとわかっても考えても
おいしくもなければ満腹感も生まれません。

行を通さなければ実感とはなりません。

実感を通さないから信とはならず、現実の救いともならないのであります。
”こうらしい”と”こうだ”とでは内容的には大きな開きがあり、
力の生まれる度合いに於いては問題にならない程大きな違いを生ずるのであります。

先ず第一に神の子である事実を生命で把握しましょう。

自分の力で出来ていることは何一つない事実を素直に確認し、
根こそぎ全托しましょう。
後は神の生命、神の権能(ちから)だけに生かされている事実に目覚めましょう。

病状から推察してあなたは大変潔癖症で
間違ったことは許せないという性格のようですね。
その上大変気が短い方のように思います。

喘息になる方は大体性急な人です。
これは長所であると同時に短所でもあります。

この性格は信仰による以外にはちょっと治りません。

それとご主人に”絶対ハイ”が足りません。
心の底でご主人の命を突き返しておられる、
その心が息(生命)の通る道をふさぐのであります。

神の子だと自覚したとき、他を裁く心がなくなり、
そのままで感謝し拝めるようになります。
責める気持が逆にお詫びする心になります。

喘息など神様がお造りにならないから元々無いのです。

あなたの思いが一変すれば勝手に消えてしまいます。
あなたは今、尊い体験を通して喘息で悩んでいる沢山の人を助ける使命をさずかって
おられるのであります。喜びを以て精進して下さい。

<了>

           <感謝合掌 平成27年2月15日 頓首再拝> 

(光の泉)神様への電話 110番 (342)
日時:2015年02月16日 (月) 18時22分
名前:伝統

 
℡ 一方的に離婚されて・・・・・・・・(M子)



<答> 『私達の一生にはいろいろの事件があります。
    ・・・・時には不幸のどん底に叩きこまれるということもあります。

    しかしこのような時、『あの人が悪いから私がこんな不幸に見舞われたのだ』
    と思ったり、『社会の仕組みが悪いせい』などと考え、いたずらに責任を
    他におしかぶせいたのでは、そのどん底から立ち上がる力は出て来ないのであります。

    人間の運命は、自分自身の”心”によって決まるものであって、
    どんな環境にいても、又どんな苦しみがあってもかならずそのどん底から
    立ち上がる力が与えられているのであります』<谷口清超先生>

    あなたの場合も、まだお若く、本来実相円満完全愛深い神の子でありますから、
    必ず幸福になることができます。

    今あなたの置かれている環境は、過去の感謝不足、愛不足の結果が現れたのであり、
    御教えの通り一切自分の心の影と謙虚に反省され、いかなる体験も無我になって、
    只ありがとうございます、と感謝合掌で一切を受け切ることが大切です。

    愛する者と別れることほど悲しい事はありません。

    しかし、”悲しみの奧には聖地がる”ともうしますが、
    豊さの中や幸福の中では見えなかった、
    悲しみの後でないと見出すことの出来ない人生の切実さ尊さを知り、
    深い反省から真剣に真理を生き、まことの愛を生きることになるのです。

    それが悲しみの意義だと思います。

    『結婚は前世やそれ以前の前々世的関係の”約束ごと”で、たとえ不幸な結婚でも
    その約束ごと”を果たすために結婚する場合があり、その約束を果たし終えると
    離婚して約束事を卒業するので、初婚に失敗したからとて、・・・・・・・

    これから新生活が始まるのだから、再婚を求めても差支えないはない訳である』
                  (愛はかくして完成す)226頁

    とも御教え頂いています。

    貴女の幸福が、元の鞘に納まるかか、次なる半身と結ばれることであるかは、
    貴方の心次第であります。(藤原安子先生)

           <感謝合掌 平成27年2月16日 頓首再拝> 

「往相精進の境を超えて」~前篇 吉田國太郎講師  (357)
日時:2015年02月17日 (火) 20時14分
名前:伝統


或る日の記――

神と云ふもの、眞理と云ふものを、自分みづからよりも髙き存在として發見し、
自分自身を、低きもの醜きものとみなし、努力に努力を重ね、勵(はげ)みに
勵みをかけて、やがて、己を神の如く完きもの、淸きものに高めなして行かうと
する歩み方は、此の人生を最も價値深く生きて行かうとする人々の心を強く打つ
ものであり、此處に何か求道者にとつての最髙價値がこめられてあるやうに
思はれ勝ちでもあつた。

精進と云ふ言葉が、神の如く完かれとの勵みが、
どんなにか私達にとつて髙いものに拜まれて來たことであつたらうか。

然しそれは決して吾々にとつて最髙のものではあり得ないことを
悟れなければならないのである。

或る道程に於ては私達に対して、此の行き方も或る種の價値を生み出しはするであらうが、
それはやがて一度は捨てて葬られなければならないものであり、
私達自身捨てて葬れる人間に迄髙昇しなければならないのである。

「人新たに生れずば神の國を見ること能はず」これはイエス・キリストの言葉であつた。

こと改めてキリストの言葉を此處に擧げる迄もなく、此の行き方が決して人間をして
神の髙さに迄髙めあげ得ないこと、天國と自分とを遂に一枚のものとなし得ないことは、

濁りを淸め淨めて行くこと、足らぎるを充たし滿たして行くこと、總じて勵みによつて
完からんとする行き方に、己を捧げた經驗を踏んだ人々には誰にも頷けることに
違ひないのである。

遂に永遠に「神の國に住し神の國の喜びを身に受けることは出來ず、
それを最高理想として翹望(ぎょうぼう)し、その如くに完からんとする勵みの中に
微かなる慰安を味ふのみにすぎない。

かうした信仰の世界に澁滯してゐる人が餘りにも多く充滿してゐるのではなからうか。

彼等は皆異口同音に云ふ、紙一重なのだけれども、手がとどきさうなのだけれども、
ほんのもう一寸なのだけれども、と云ふ樣な言葉を。そして又しても、勵みに勵み
努めに努めて己の醜さを殺して行かうとする。其の姿は悽慘なまでの傷ましさである。

これは「煩惱を斷じて菩提を得」と答へて、
達磨大師から「汝は我が肉を得たり」と賞められる底の人であらう。

『生長の家』からは遙かに遠い世界でしかない。

又自分の今ある生活、今の惱み苦しみを救ひに到る道程とみなし、これで良くなる
のである、これが結構なのである、必ずよくなる、必ず助かるなどと、段々と
助けられて行き、助かつて行きつつある姿に見返し、こんなにも今現に助けずには
おかない力が働いてゐるではないか、これが神である、これが救ひである。

煩ふこともない、惱むこともない、素直にまかせきつて生きれば好いではないか。
といふ助かり方は、私達の先を歩いて行つた多くの先人の方々によつて尋ね當てられた
魂の憩ひの世界であつた。

樣々な苦惱の中に身を擦り減し人生の歩みに疲れ果てた人々にとつては、
かうした救ひも一種の魂の慰安とはなり得るであらう。

然しこれも亦如何に低位な救ひに過ぎないであらうか。

これは未だ救ひの光と自分とが一枚の存在ではなく、無明の自分を光明が照らして
呉れてゐるやうな姿であり助けられる事にきまつてはゐるが、それは未来のことであつて、
今はまだ助かつてゐない自分であり、暗の中から光を拜んでゐる姿である。

今迄私達に與へられた信仰は全て此の種のものに過ぎなかつた。

無明が光を拜んでゐる姿。
罪の子が神に縋(すが)つてゐる姿。
足らぎるものが完さを願つている姿。

これも亦明かに光明一元ではなく、明暗混淆の世界であるに過ぎず、
生長の家の敎えの外である。

此の種の信仰――自分が惱みの塊として惱みの世界に住み、自分の現實の外に神を認め、
光を認めて、その神の救ひが己の惱みの世界に恵み與へられ、惱みの世界が消えて
光の世界に変貌することを願つてゐるやうな信仰がどんなにか氾濫してゐることであらう。

深く神を崇め高い信仰に達してゐると云はれてゐる樣な人々にも、
此の種の種類の信仰に墮ちてゐる人がどんなにか多いことであらう。
正しくはこれは信仰の墮落である。

絶對の神、絶對の神と拜しながらも、絶對の神以外に其の神に助けられる事を哀號し、
或ひは又勵んで其の神に迄到らうとしてゐる自分があるやうな鈍い信仰ではなからうか。

例へば學者學生が學問の世界で捻りまはしてゐる絶對といふものには、
得てしてこんな絶對がある。學者の自分が此處にをつて、絶對といふ言葉を文字の上で
轉がしてゐるやうな姿である。

これでは絶對は夢で事實は相對でしかない。
信仰がかうした姿に墮ちたならば、遂に救はれ得ないことである。
神以外にはみ出してゐる自分、その自分の力での勵みは空しい。

神ならざる力、わしがの力での勵みは空しい。


生長の家では何時でも今此處に救の光があると云ふ。
自分とその光とは一枚であつて、離れてゐないと云ふ。

その實の相は今此處にあれども、然しそれは又遂に永遠に、
相對自力にたつた努力精進と云ふ世界からはキャッチし得ない世界である。

自力の行者、努力精進の行者ヨハネは遂に躓いて地に堕ち、
艱難修行は悟りの因に非ずと悟つた釈迦は天に生れたのである。

私達の求道の道程に於いても、
一度は、此處の處をはつきりと整理しなければならない時が来るのである。

そしてこれは又是非一度は通過しなければならない關門であり大切なことである。

もう一歩なのだけれども、紙一重なのだけれども、よく判りはするのだけれども、
その境に澁滞して徒らに近くして遠い嘆きを嘆かなければならない世界を超える爲には、
〝私が〟の力によつての勵みの渾てを、一度は撥無しなければならないのである。

神に眞理に相對するところの心が、己の勵みによつて、神の完さに到らうとはげむ。
そんな心の上に咲く誤れる誠實、誤れる謙虚、これら全てを捨てなければならない。

然し、神のみ唯一の實在、この眞理に盲目となり、自分に對するそんな惡しき存在がある
と思つて、その存在を殺しにかかつたならば、それは既に無いものに轉ぜられてゐる迷で
ある。

眞實の自分に仇する惡しきものが存在するとの迷ひは烈しい力で私達の心に喰ひ入つて
ゐる。そして兎もすれば、惡さを殺さうとする迷の世界へ顛落しやうとし勝ちである。

完くありたい、神の御前に恥ぢない人間でありたいとの心旺んなる日、
此處が大きな躓きとなることがある。


現象は無いと云ふこと。不完全は無いと云ふこと。
何を措いても此處の悟りが牢固として動かないこと。
此の世の眞意實相にはつきりと目覺めてあること。

完全のみがあり、それ以外は天地間に一物の存在も無いことを悟ること。
肯くこと。信ずること。素直にハイと受けること。其處が道である。
わしがの無い世界への生れ更りである。

〝私が〟が撥無され、神の子が神の力で信ずる信仰であること。
此處まで来なければ、神をキャッチしたやうに感じられてもそれは空しいことであり、
自分が救はれてゐないのであり、救はれたと云ふ實感も生れては来ないのである。

一度自分と云ふものが消えてしまつた人は生活ぐるみ渾てが光つてゐる。

語るも眞理。語らぬも眞理。眞理でないものは何もない。
渾てが渾てみんな眞理ばかりである。

『私はラッパであつて何も知らない。』との恩師の信仰。
『識らず』と云つて立ち去つた達磨大師の信仰。

神の御光唯一つ生きてゐる世界が此處にある。
わしがの無い信仰が此處にある。

神が神の言葉を語り、絶對が絶對を語る世界が此處にある。
『總じてもつて存知せぎるなり』と無に消えた親鸞聖人の構へた南無阿彌陀佛が此處にある。

現象無しに徹しきつて唯實相あるのみに生れ出た、生長の家の信仰は此處に立つ。

目を閉ぢて噛みしめると、言葉することの出来ない、心のうちに入り切れない、
深く廣く髙い響きが感ぜられる。矢張り無限と云ふ感じである。

     (「常楽への道」)

           <感謝合掌 平成27年2月17日 頓首再拝> 

「往相精進の境を超えて」~後編 吉田國太郎講師 (369)
日時:2015年02月18日 (水) 18時18分
名前:伝統


現象は無い。此の言葉が再び新たに身に沁みて痛い今日である。

無の一字。此處をよく通過出來ることこそ、道を求むる者の前におかれた關門であつた。
されば佛教は無字を超えることに生命を宿し、キリストは窄き門を説き、
生長の家は現象本來無を説くのである。

よく此の關門を超えて、しかる後に發見する神の世界であり、神の子でなければ
其處に權威もなければ光も無い。

此處に鈍さが残る時、其處が躓きの因である。地獄の始りである。
この地獄は決して勵みとか、努力とか、淸めあげとか、神の御前に誠實にとか、
かうしたことばかりでは治えることのない地獄である。

現象が撥無されなければ地獄は消えない。
現象を撥無する時、私達は今の此處に天國を発見する。
現象に心が執する時、天國は永遠の彼方に離れ去る。

現象に轉ぜられると云ふこと、これが一番恐ろしいことである。 
現象に立つての努力は空しい。現象と實相と二つの世界に心またがりながら、
現象の足りなさを嘆いての努力も空しい。

それは恰も、神をいと髙きものとし、己を醜く低きものとして、
神に到る勵みを勵んで行く愚に等しい。現象は元々そして今も無いものである。
如何樣な姿に現はれてもをれ、それは無の一字に盡きるものでしかない。

生き切れてゐない自分も無く、況んや、兩者の間に横はる溝も本來無いのに、
何時しか無いものの變轉に心拉し去られてゐた愚かさ。
無いものには整つたもなければ整はないもない。無いものは無いのである。

如何にともあれ、現象は無いのである。

何故此の空しいものに、實在の衣裳を着せて、實相の前へ曝さうとしたのか。
總じて現象を捉へて、どうしたならば實相の完全なる如く此處も亦全くありうるであらうか
と足掻いてゐた愚かさ。何故こんな解り切つたことに足を掬はれやうとしてゐたのであらうか。

最近神に誠實でありたいとの心強く、實相が開かるれば現象は整ふのである。
此處がより好く整ふことは神が生きて動くことである。整ふべきであり整へるべきである。

どうか完全でありたい、神でありたい。
此の真摯な心の前での躓きであつた爲に躓きを躓きと悟れず、寧ろ尊い一歩の前進で
あるやうに考へ違へてゐたことに氣がついたのである。

ことさら深く落ちる危險が此處にあつた。神への誠實てふ美はしい心を抱いて
私は地獄へ顛落しようとしてゐたのであつた。

今の此の現實を神らしく生きねば、吾と吾が身を神の子であるとは云ひ得ないのである。
今此處にある姿を晦まさず、淺く滑らずはつきりと受けて其處を割り切りつつ進んで行く、
此處から實相と現實とが一つになる。

これは一見尤もらしくはあるが、然し、これは神の子が尤もであると肯くのでなく、
肉體人間の意識に尤もだと肯かれるにすぎないものである。
これは餘りにも大いなる錯覺であつた、と氣が着き得た今日の安けさ。

斷崖絶壁で辛うじて身を躱(かわ)し得たやうな安らかさである。
實相の完全と現象の不完全と、兩者の間の溝に落ちて良心の痛みに追はれ、
幾ら辛くとも此處は晦さず、正直にうけて其處に自分らしい道を發見しなければならない。

其の時こそ信仰がよりはつきりと確立し、兩者を隔てる溝も治へることになるのだ。
今日から其途を踏み出さう、これは悲しむべき事ではなく道を求むる者にとつての
光榮ある苦惱であるなどと決意した或る日、恩師の御講義が餘りにも烈しい痛さで
私の心を叩いたのである。

それは恰も八つ裂きにでもあつたやうな感じであり、踏んで踏んで踏み抜かれ、
叩いて叩いて叩き拔かれて、粉々にされて吹いて飛ばされてしまつた樣な感じであつた。

自分でよしと許してゐたものを一つ残らず全部奪つてかなぐり捨てられ、
そしてす―つと向ふへ行かれてしまつたやうな感じであつた。
呆然とした中で淋しい心が湧いて来た。

こんな心の三日日、私は『生長の家』誌の八月號を披いて目をうつしてゐた。
八月六日、娑婆即寂光土と悟る日の一節

『けれども生長の家は世界に何ら非道なことは存在しないと云ふのである。
それは存在するものは「道」ばかりであるから、それが少くとも存在する限りは、
それは「善」であり、それが「善」でない限りに於いて、それは如何に存在するやうに
見えようとも、それは「非道」印ち「道の缺乏」「道の無」をあらはしてゐるに
過ぎないとするのである』

此處を讀んだ時、私は何かしらハッとした。


今自分の捉へてゐるところのもの、今自分の立つてゐる世界、今自分の辿らうとしてゐる道、
それ等全てをひつくるめて『無』と一喝激しく叩かれたやうな感じであつた。

完全のみがある。そして不完全はない。
何かしらハッと心でうけとめ得た感じであつた。
それはこちらで握つて居なくとも決して落ちることのないやうな感じである。
うけたと云ふよりは内から開いた樣な感じであつた。

完全のみがある、そして不完全は無い。
自分が整へようとかかつてゐた其の整へされない自分はない。

今私が尤もらしく、
『今の現實を晦まさず、其處を忠實に生き、現實から淺く走らずはつきりときはめ切つて』
などと云つてゐる、其の今は『永遠の今』ではなく現象の今に過ぎず、此の現實、此の現實と
云つてゐる現實は、實相の現實ではなく現象の現實で本來無いものではなかつたか。

『永遠の今』が現象の今にすりかへられ、實相の現實が現象の現實にすりかへられ、
何時しか地に墮ちようとしてゐたのである。

生長の家を現實逃避ではないかなどと反撥したり、
無理に目を閉ぢて今現にある苦しみを見まいとして力んで居るのではないか
などと理窟を云つたり、全てをもつと公平にもつと冷靜に、あるが儘の其の儘を
受け容れなければならない、などと云つたりする人が出て来たりするのも、
本來空しきものに過ぎない現象の現實を〝あるある〟と迷つて居るからこそであつた。


實相と現象との關係などと愚かにも考へた日もあつた。たつた今迄その心が残つて居た。
然しこれは何と愚かしいことの沙汰ではなかつたか。

實相獨在で現象は無いのに、どうして兩者の側に關係などがあり得るだらうか。
關係などと考へる間は未だそれは現象無しが悟り切れてゐないのである。
現象が死に切らずふらふらしてゐるから兩者の關係などと躓くのである。

魂が目を覺ますこと。
現象が死に切つて、其處へ實相が生れ出づること。
完全のみがある、そして不完全はない。
善のみがある、そして善でないものは無い。

淸めあげなければならない自分は無く、勵みに依つて完全にしなければならない自分も無く、
實相の完全さをみて未だ到り得ないことを歎かなければならない自分もなく、
今あるやうにみえてゐる不完全なものは幾らあるやうに見えても全てなく、

そして今既に始めから完全なる神と通ずる自分のみが此處にあり、
それ以外は何も無く、吾らは始めから成佛して居ると諭されて居たのであり、
神一元、佛一元で、それ以外は無いのであると知らされて居たのであつた。

これを悟ることによつてのみ吾等は神であり、佛であり、完全であり、
淸くあり髙くあり得るのであつて、それ以外には道は無いのである。

悟ること。新たに生れること。
誠にも、人新たに生れずば神の國を見ること能わず、である。

『煩惱本來無し、唯菩提あるのみ、現象本來無し、唯實相あるのみ』
これ以外無いのが眞理であり、これ以外無いのが生長の家である。
天地崩るるとも此處以外に心走らない人間であること。

『身は是れ菩提の樹、心は明鏡の臺の如し。時に拂拭して塵埃を惹かしむること莫れ』
と示した神秀上座の心と、

『菩提は本樹無し、明鏡亦た臺にあらず。本來無一物、何れの處にか塵埃を惹かん。』
と示した慧能禪師の心と。

慧能は心安穏とし神秀は心苦しみに覆はれてゐたことであらう。
神のみあること。完全のみあること。そして、それ以外には遂に一物の存在も無いこと。
今から完全にして行く自分ではないこと。今から完全にして行く自分はないこと。

今完全であり、それだけであつて其れ以外は無いこと。
此の自覺にかへる時、其處が其の儘道であり神の子である。
そして誰もが今此の儘でそれなのであつた。

『〝其の儘〟でよいのである。人間は〝其の儘〟で完全である。人間の〝其の儘〟が神である。』

の恩師の御言葉が新たなる響きをもつて身に沁みる今日である。

     (『常樂への道』103頁)

           <感謝合掌 平成27年2月18日 頓首再拝> 

<苦痛にも感謝せよ> (380)
日時:2015年02月19日 (木) 19時43分
名前:伝統

苦痛は肉体の何処かに故障があるのを警告するために霊が送って来るところの信号である。
苦痛はまたその痛むところへ全生命力を集中して早く治癒に導くための信号である。

苦痛のあるところに生命力は集中し、その復旧に必要なる細胞と養分とが送られるのである。

だから肉体の何処かに苦痛が現れた場合には、その苦痛を憎んではならないのである。

むしろ其の苦痛の起こる毎に「これで私の病気は癒されつつあるのだ」と念ずるがよいのである。

むしろその苦痛に感謝せよ。


苦痛にも調和するとき、その苦痛は消滅してしまうのである。


「天地一切のものに和解せよ」と云う教えは
「苦痛にも感謝せよ」と云うことを含んでいるのである。


                『眞理』實相篇96項

           <感謝合掌 平成27年2月19日 頓首再拝> 

<何でも受ける> (395)
日時:2015年02月20日 (金) 17時28分
名前:伝統

何でも起って来るものに敵意をもって立ち騒ぐことは発熱や、発汗や、
下痢や、喀血や・・・・その他のどんなものでも増悪せしむるばかりであって、
不幸はその「起って来るもの」に対する不調和の念によって増悪されるばかりでございます。

「何でも受ける」と云う覚悟が出来た時に病気の治った人は沢山ございます。

若しあなたが病気であって治り難いのでございましたならば、
此の「何でも受ける」と云う心境が無いのではございますまいか。

「あれも嫌や、これも可かぬ」と言って素直に受ける心境におなり遊ばされねば、
心の調子(リズム)が騒がしいので神の療能(なおすちから)が働きかねるのでございましょう。


「何でも受ける」という心境におなりなさいましたならば、第一恐怖がなくなります。

恐怖と云うものは、遁れる道がまだあると思い、何とかして逃れたいと思うからでございます。


もう宣告を受けた囚人には恐怖がございませぬ。

逃走中の犯人の心は恐怖で充満しておりまする。
「逃れるような卑怯はすまい、すべてを受けよう」斯う決心した時に
恐怖心は消えるものでございます。


恐怖は神経の過労を惹起こし、血液の循環を不平等にし、
血液その他内分泌中に毒素を造り、自然療能を妨げるのであります。

今日から私達は恐れないと決心致そうではありませんか。


                     『靜思集』76項

           <感謝合掌 平成27年2月20日 頓首再拝> 



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