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光明掲示板・伝統・第一

 

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「光明掲示板・伝統・第一」の目的

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母の愛 (46)
日時:2015年01月20日 (火) 18時51分
名前:伝統

*光明掲示板・第二「母 (8071)」からの継続です。
 → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1610

・・・

《母は強し》

        *「女性の幸福365章」(P333)より


母性愛の発露した母親は
どんな戦場の勇士よりも勇敢である

戦場の勇士が怯(ひる)むような時にも
子を守るために母親はたじろがない

どんな豪傑も力尽きて起(た)ち上がることのできないほど疲れているときでも
母親は夜半に起きて赤ん坊に乳を飲ませたり
 
病児を徹夜で看護したりするのである
その愛の力の旺盛なことは

まことに荘厳というほかはないのである
女性は弱いようでも彼女が天分そのものを生きるとき
 
決して弱いものではないのである
女性の愛の力の素晴しきことよ!!

・・・

<関連Web>

(1)“本流宣言”掲示板「母の大恩 (964)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=224

(2)“本流宣言”掲示板「お母さんの偉大な力 (4535)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=943

(3)“本流宣言”掲示板「いのちが響き合う (8809)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=2067

(4)光明掲示板・第一「母の日~「心に響く”いい話”」」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1546


           <感謝合掌 平成27年1月20日 頓首再拝>

お母さんを「太陽」と呼んできたのが日本人 (125)
日時:2015年01月29日 (木) 04時33分
名前:伝統

光明掲示板・第三「《コーヒーブレーク》「未年」と「丑年」の話 (2990)」では、
”破邪顕正 さま”がたくさんの素晴らしいお話を紹介されております。
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=586

その中で、昨日の「「お父さん」と「お母さん」の話」には、考えさせられます。

”破邪顕正 さま”が取り上げておりますように、現代の日本は、安易に
「パパ」「ママ」と使いすぎるような気がいたします。

お風呂屋さんへ行くと、子ども連れのお父さん、お母さんがいるのですが、
そのお子さんが「お父さん」「お母さん」と呼んでいる声を聞くと安心感を覚えます。

一方、「パパ」「ママ」という声を聞くと、日本人としての
そのお子さんの能力が制限されているような気がいたしております。

おそらく、「パパ」「ママ」と言うお子さんと、「お父さん」「お母さん」という
お子さんでは、脳の発達に差が出るのではと、個人的には感じております。


・・・

【 「おかあさん」「おとうさん」となぜ呼ぶのか? 】
  <「日本のこころの教育」境野勝悟(著)、致知出版社(刊)> から要約。


1.お母さんを 「太陽」 と呼んだ日本人   ~なぜ 「おかあさん」 と呼ぶのか。

(1)お母さんは温かい

  ①僕が小学校の一年のときのある日、「ただいま」 って家に帰ると、
   お母さんがいないときがありました。

   お父さんに、「お母さんとうしたの?」 と聞くと
   「稲刈りで実家へ手伝いに行ったよ」という。

   そして 「きょうはお母さんがいないから、おれが温かいうどんをつくってやる」
   と言って、父親がうどんをつくってくれました。

   ところが温かいうどんのはずなのに、
   お父さんのつくったうどんはなぜか冷やっこいんです。

  ②一方 「ただいま」 と家に帰ってお母さんがいるときは僕はいつでも
   「お母さん、何かないの?」 と聞きました。

   すると、母は 「おまえは人の顔さえ見れば食い物のことばっかり言って、
   食いしん坊だね。 そこに、ほら、芋があるよ」 って言う。

   芋はひやーっとしてても、
   だけれども、お母さんのそばで食う芋は不思議と温かいんです。

  ③これは、もしかすると女性には理解できないかもしれないけれども、
   男性にはわかってもらえると思います。
   お母さんが家にいると黙っていても明るいのです。


(2)おかみさん

  ①それでわたくしたち男は自分の妻に対して、
   「日身(カミ)」 に 「さん」 をつけて 「日身(カミ)さん」 と言ったのです。

   丁寧なところでは、これに 「お」 をつけて 「お日身さん」 といったんですよ。

  ②なんでしょうか。この 「日身(カミ)」 という意味は?

   「カ」 は古い言葉では 「カカ」 といいました。
   もっと古い言葉では 「カアカア」 といった。
   さらに古い言葉では 「カッカッ」 といったんです。

   「カカ」 「カアカア」 「カッカッ」。
   これが 「カ」 となるんですね。

  ③「ミ」というのは、わたくしたちの身体という意味です。
   ですから、 「日身(カミ)」 とは、わたくしたちの身体は 「カカ」 の身体である。
   「カアカア」 の身体である。 「カッカッ」 の身体であるという意味なんです。

  ④では、「カカ」 「カアカア」 「カッカッ」 という音は、
   古代では一体何を意味していたのでしょうか。

   「カッカッ」 というのは、太陽が燃えている様子を表す擬態語でした。
   「カッカッ」 とは、実は太陽のことを指したのですね。
   「カアカア」 「カカ」 という音も同様です。
 
  ⑤つまり、わたくしたちの体、わたくしたちの命は太陽の命の身体であるという
   ことを、「日身(カミ)」 (太陽の身体)と言ったんです。

   「カミ」 の 「カ」 に 「日」 という漢字が当てられているのを見れば、
   「カ」 が太陽のことを意味しているということがわかるでしょう。

   「日身(カミ)」 とは、太陽の体、太陽の身体という意味だったのです。


(3)お母さんは 「太陽さん」

  ①お母さんはいつも明るく、あたたかくて、しかも朝、昼、晩と
   食事をつくってくださって、わたくしたちの生命を育ててくださいます。
   わたくしたちの身体を産んでくださいます。

   母親というのはわたくしたちを産み、その上私たちを育ててくれます。

  ②母親は太陽さんのような恵みの力によってわたくしたちを世話してくれる。

   母親はまさに太陽さんそのものだということから、
   母親のことをむかしは 「お日身(カミ)さん」 といったのです。

   江戸時代の職人たちは 「日(カ)」 の古い言葉の 「カアカア」 をとって、
   「うちのカカア」 といいました。

   子どもたちもこの古い言葉の 「カカ」 をとって、「うちのカカさま」 といった。

   ですから、いまでも歌舞伎では、お母さんのことを 「カカさま」 というんですね。
   この「カ」が残って、いま 「おかあさん」 というんですよ。

   「おかあさん」・・・の 「か」 は、なんと太陽さんという意味だったんです。

  ③わたくしたちは、千年以上も以前から、
   子供たちが自分の母を 「太陽さん」 と呼んでいたということには、
   わたくし自身もびっくりいたしました。

  ④女性徒のみなさんいかがですか。あと数年たって結婚して、子供をお産みになる。
   すると、みなさんは子どもから、おかあさん、つまり太陽さんと呼ばれるんです。

   亭主からもお日身さん、太陽さんと呼ばれます。

   今日みなさんが 「おかあさん」 といっているこの「か」は太陽の意味ですよ。


(4)わたくしたちも 「日身(カミ」 なのです

  ①西洋では 「神」 と人間は違います。
   ヨーロッパの神ゴッドは、天にまします創造主の神です。
   そして人間は神のしもべです。

  ②日本の 「カミ」 は、人間一人ひとりなのです。
   「日身(カミ)」 は、小さい意味ではお母さんを指しますが、
   広い意味だと、これはお母さんだけではなく、
   わたくしたち一人ひとりが 「日身(カミ)」 なのです。   


(5)日本人の原点

  ①日本の国土のマーク 「日の丸」 が太陽。
   お母さんを呼ぶにも 「太陽さん」 と呼んだ。
   人間一人ひとりのことも 「日身(カミ)」 (太陽さん)と呼んだ。

  ②わたくしたち日本人は 「日の本の人」、
   つまり太陽を基本として生きる人として教育されてきたのです。

  ③社会で、家庭で、いつも太陽との親和力をなくさないように、
   太陽に感謝して、太陽のように丸く、明るく、みんなと仲よくやろう。

   それが日本人の原点であったということなのです。


<参考>
  
2.お父さんは 「尊い人」 という意味

(1)「尊(とうと)」い

  ①ついでに、それでは、なぜ 「おとうさん」 と呼ぶのでしょう。

   女性たちは、結婚してから思ったのです。夫は、自分や子ども
   のために一所懸命外へ出て働いて、毎日毎日の糧、生活の糧を運んでくれる。

   女性たちに危害を与える賊が来ると追い払ってくれる。
   「まあ、なんて尊いお方だ。やっぱり、夫も太陽さんのように尊い人だ」
   と言ったのです。

  ②この「尊(とうと)」い という言葉から、
   お父さんのことを 「とうと」 と言うようになる。

   いまでも、石川県の能登半島の真ん中に行くと、
   父親のことを 「とうと」 とはっきり言っているのです。

   歌舞伎のセリフの中でも 「カカさま」 に対して 「トトさま」 と言いますね。

   この 「尊い」 も 「ト」 が残って 「お父さん」 と言うのです。


(2)太陽を愛するこころの心棒

   わたくしたち日本人は家庭で母を太陽と呼び、父を太陽のように尊い人と呼んで、
   そうして日本人の太陽を愛するこころの心棒をつくったのです。


 *<参考>「パパ」「ママ」

  ①ママは「マーマ」という語源説もあるが、通説では「マンマ」
   で、マンマとは食べ物のことを言うそうです。
   お母さんはいつでも食べ物を与えてくれるのでマンマ。

  ②パパは「ファータ」という語源説もあるが、通説では、お父さんは
   広い畑の隅っこで、長い葉巻をパッパとやっているからパパと言うそうです。

  <了>


  (本流宣言掲示板「父の恩 (2607)」より転写致しました。
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=509 )


           <感謝合掌 平成27年1月29日 頓首再拝>

母と娘の「絆」 (247)
日時:2015年02月09日 (月) 04時41分
名前:伝統

          *『致知』2014年6月号 (P89~90)
           連載「致知随想」~高橋恵(サニーサイドアップ創業者) より

・・・

企業の商品の広報や、元サッカー日本代表の中田英寿選手、
陸上の為末大選手などのスポーツマネジメントを手掛ける
PR会社の「サニーサイドアップ」。

2012年には電通PRを抜き、業界売り上げ1位にまで急成長しました。

いまから29年前、東京・中野のワンルームマンションの一室で会社を起こし、
今日へと発展させてきたのが創業社長の高橋恵さんです。


事業発展の要因には、
ある秘訣がありました。


それは高橋さんがお母様の姿から学んだ
「おせっかいに生きる」という信条だったといいます――。

・・・


私のおせっかいの原点には、子供時代の辛い経験がありました。

「何で戦死してしまったの。
 手がなくても足がなくても、
 生きて帰ってきてほしかった!」

そう泣き叫ぶ母のそばで、
10歳の私は、姉と妹とともに、一緒に泣いていました。

良家に生まれた母でしたが、幼くして両親を、大東亜戦争で夫を亡くしました。

戦後始めた事業もほどなく倒産。
手のひらを返したような世間の冷たさに晒され、
押しかける債権者に家財道具一切を持ち去られました。

母の指から父の形見の真珠の指輪を強引にもぎ取る姿がいまも目に焼き付いています。

母はこの時、一家心中の瀬戸際にまで追い込まれていたのでしょう。

しかし、それを子供心に感じた時、ガタッという物音が玄関から聞こえたかと思うと、
ガラス戸に一枚の紙切れが挟まっていました。

そこにはこう書かれていたのです。


「あなたには3つの太陽(子供)があるじゃありませんか。
 今は雲の中に隠れていても、必ず光り輝く時がくるでしょう。
 それまでどうかくじけないでがんばって生きて下さい」


その手紙を読み聞かせながら、
母はハッと気がついて、ごめんね、ごめんねと謝って抱きしめてくれたのです。

おそらく私たちの窮状を見かねた近所の方だったのでしょう。

人間のちょっとした優しさに、人の命を救うほどの力がある――。

この時の強烈な印象、
そして一家を養うために身を粉にして働く母の姿が、
私のおせっかいの原点となったのです。

しかし、苦しい生活は終わることなく、
このままでは学校に通わせることもできないと、
母は私を知人の家に預けることを決断。

そして送り出された私を待ち受けていたのが壮絶な“いじめ”でした。

空腹を我慢し、冬は霜焼けで10本の指がただれていても雑巾がけ。
手をついて謝っても、これでもかと足で頭を踏みつけられる……。

あまりの仕打ちにトイレで泣き明かすこともしばしばでした。

その小窓から見えた空と、その中を自由に飛び交う鳥たちの姿、
そして母に会いたいという哀しい思いは、いまでも忘れることができません。


「自由に大空を飛ぶ鳥のように世の中を自由に、
 自らの力で生きていこう。
 そして、人間として、わけ隔てない生き方をしよう」


と14歳の時に誓ったのでした。


いま思い返すと、その後社会に出てからの私は、
子供時代の辛い体験と、母や見知らぬ人から受けた温かい愛情に
突き動かされるように幸せを追い求め、
無我夢中でおせっかいをばら撒いてきたような気がします。


「天知る、地知る、我知る。
 どんなに貧しくなろうとも、
 心まで貧しくなってはいけません」


「あなたには、あなたのいっぱい、
 いいところがあるじゃない」

苦しい生活の中で母が繰り返し唱えていた言葉です。

母はそのとおり、本当に思いやりに溢れた人でした。


無縁社会という言葉も聞かれますが、
どんなに忙しくとも、人を想う心さえあれば、
たった一言の言葉、たった一枚の紙切れでも、人を救うことができるのです。

その人間の思いやりの大切さを、もっと多くの人に知ってほしいと願って、
昨年おせっかい協会を設立しました。

人はみな人を支えて人を生きる。


・・・

<参考:高橋恵(サニーサイドアップ創業者)さんの言葉については、
    光明掲示板・第二「すべてに感謝! (10537)」(2014年07月29日)
    においても取り上げておりました。>


《感謝は、素早く伝える》

        *「幸せを呼ぶ「おせっかい」のススメ」高橋恵・著<P127>より

感謝という字は、「感じた」ことを「ことば」で「射る」と書きます。

かつて気持ちを届けるのに一番速かったのが、弓矢(矢文)だったと思います。

「ありがたいと思う純粋で濁りのない心の状態をありのまま、
弓を射るようにパッと素早く伝えることが本当の感謝だ」と、ある知人に教わりました。


           <感謝合掌 平成27年2月9日 頓首再拝>

母と娘に起こった奇跡 (373)
日時:2015年02月19日 (木) 03時46分
名前:伝統

         *「スイッチ・オンの生き方」村上和雄・著(P142~143)より


2005年4月に起きたJR福知山線の脱線事故で、順子さんは重症を負いました。
事故発生から約5時間後に意識不明の瀕死の状態で助け出され、
病院に担ぎ込まれたときには自発呼吸も止まっていました。

ご家族は医者に「もうだめです。諦めてください」といわれたそうです。

しかし順子さんのお母さんは「まだ娘は死んでいない」と必死に看病されました。

事故から1か月くらいたったとき、お母さんは、
たまたま私のラジオの放送を聴かれました。

そこで私は心と遺伝子の話をしており、明るく前向きで
「陽気な心」がよい遺伝子のスイッチをオンにして、
生命力を活性化することは十分考えられると語ったのです。

「あなたの思いが、あなたの遺伝子の働きを変えますよ」
という私の言葉に、お母さんは元気づけられ、順子さんの枕元で、

「順ちゃん、順ちゃん、奇跡を起こそうよ」と励まし続けました。

その思いが通じたのですね、意識が戻ったのです。

やがて手を握り返し、言葉を発し、笑うようにもなって、
順子さんは1年後に退院しました。

食事も口からとれるようになり、やがて車椅子に乗って私の講演を
聴きに来られるほど、元気を回復しました。
医者はその回復ぶりにびっくりしています。

そしていま、順子さんは障害にも負けず、水泳の本格的トレーニングに励んでいます。

母親の思いと、その娘さんの決心によって、
まさに奇跡的なことが起こったのです。

           <感謝合掌 平成27年2月19日 頓首再拝>

エジソンと母ナンシー (488)
日時:2015年02月28日 (土) 04時31分
名前:伝統

【 エジソン~母のために生きようと思いました。
       この人だけはがっかりさせるわけにはいかない  】


 「母と過ごした時間は決して長くはありませんでしたが、
  母がああいう人でなかったら、私はぐれていたかもしれません」

 世界の発明王・エジソンは、晩年のインタビューで、こう語っている。

 エジソンは、白熱電球や蓄音機、映画、謄写版、アルカリ蓄電池などを次々に発明し、
 生涯に千二百余りの特許を取得している。

 「ぐれていたかもしれない」子供を、

 偉大な発明家に育て上げた母親とは、どんな人であったのだろうか。


 少年時代のエジソンは、好奇心が強く、いつも「馬鹿げた質問」ばかりしていたという。
 父親はうんざりしていたが、母親は忍耐強く答えていた。

 「お母さん、ガチョウは、なぜ卵の上に座るの?」
 「暖めてやるためよ」
 
 「なぜ、暖めるの?」
 「卵をかえすためなのよ」

 「卵をかえすってなあに?」
 「ガチョウの子供を、殻の中から出してやることよ。ガチョウは、そうして生まれるのよ」

 「それじゃ、卵をあったかくしておいたら、ガチョウの卵は生まれてくる?」
 「そうよ」


 その日の午後、エジソンの姿が見えなくなった。
 家族で、あちこち捜し回ると、隣の家の納屋にいることが分かった。

 何と、ガチョウやニワトリの卵をいっぱい集めて巣を作り、うずくまって温めていたという。

 この程度ならいいが、
 「火が、どんなことをするか、見たい」と言って、納屋の中で、小さな火をつけた。

 だが誤って、全焼させてしまったこともある。


 8歳で小学校へ入った。
 しかし、彼には学校の授業が合わなかった。

 興味のわかないものを無理に強いられることに、拒否反応を示したのだ。


 後年、彼は、次のように言っている。

 「わたしは学校ではどうもうまくいかなかった。クラスでいつもびりだった。
 先生たちはわたしのことを解ってくれないし、父はわたしをばかだと思っているのだ、
 とわたしはいつも感じていた」


 学校に通い始めて3ヶ月ほどたった時、校長が、エジソンを指して、 

 「あいつの頭は腐っている」

 と言ったのを耳にした。

 彼は、怒って教室を飛び出して家に帰り、「もう学校へ行かない」と言い出した。

 翌朝、母親は、子供と一緒に校長のところへ行き、激しく抗議した。

 母は、我が子の能力が低いとは夢にも思っていない。
 激論の末、息子を退学させ、自分の手で教育すると宣言したのである。


 母は、朝の仕事がすむと、エジソンに読み書きと算数を教える毎日が始まった。
 やがてエジソンの興味が、科学に向いていることに気づいた。

 母は、初等物理の本を与えた。

 その中には、家庭でできる化学実験が図入りで説明されている。
 彼は、夢中になって取り組み、掲載されている実験をすべてやり遂げた。


 10歳になると、化学への情熱も高まり、あらゆる化学薬品を集めてビンに入れ、
 自分の部屋の棚に並べた。
 小遣いは全部、化学薬品や金属板や針金の購入に使っていた。

 実験中に、自分の部屋で爆発を起こす騒ぎもあったが、
 母だけがエジソンを理解し、彼の性質が向く方へ押し出してくれた。


 12歳になった彼は、貧しい家計を救うために、列車の中で新聞を売る仕事を始めた。

 列車は、ポートヒューロンとデトロイトの間を、1日に1往復する。
 早朝に家を出て、深夜に帰宅する毎日。
 折り返し駅のデトロイトでは、日中の待ち時間をフル活用している。

 彼は、図書館へ通い、館内の本を1冊残らず読んだ。

 学校嫌いの彼が、大きく変身している。
 また、車掌の許可を得て、列車内に実験用具を持ち込み、停車中に研究を続けた。


 ここで、エジソンに新たな苦難が訪れる。
 耳が聞こえなくなってしまったのである。

 幼い時の熱病の後遺症が悪化したのだ。
 貧乏な家に生まれ、学校も3ヶ月で退学し、今また、体の不自由に直面してしまった。

 しかし、彼は、いかなるハンデも乗り越えて、自分の夢を実現していく。

 人はエジソンを、”天才”と呼んだ。
 彼は、これを好まず、
 「天才とは、99パーセントの努力と、1パーセントのひらめきである」と言っている。

 人知れぬ努力の結晶が、彼の生み出した発明であったのだ。


 晩年に、エジソンは、こう語っている。

 「今日の私があるのは母のおかげです。母はとても誠実で、
 私を信頼してくれていましたから、私はこの人のために生きようと思いました。
 この人だけはがっかりさせるわけにはいかないと思ったのです」


 母の大きな愛情は、いかなる苦難をも乗り越える勇気を、子供に与えるのである。

 
 <了>

<参考Web:愛国本流掲示板「〈偉人に学ぶ〉―「 世界の発明王 」 エジソン ― (6289)」
        → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=2340 >

           <感謝合掌 平成27年2月28日 頓首再拝>

【棺にすがって叫んだ母のひとこと】 (605)
日時:2015年03月09日 (月) 04時11分
名前:伝統

          *『致知』2014年1月号
           対談:立谷秀清(福島県相馬市長)
              鈴木秀子(文学博士)
              「復興への道~トップの決断が可能性を拓く~」

   *   *   *   *   *   *

(立谷)

   私は亡くなったある消防団員のことを市長メルマガに書いたことがあるんです。
   これは大きな反響をいただきました。

   被災者の思いを知っていただく意味でも、
   ここで少しその文章を紹介させていただけないでしょうか。

 ・   ・   ・   ・   ・

   『君の未来に万歳』

   先日、故稲山正弘 磯部地区分団長のご自宅に、お盆遅れの焼香に伺った。

   仏壇には涼やかな眼差しながら精悍(せいかん)な表情の遺影。
   部屋の片隅には誕生を楽しみにしていた初孫のおもちゃが転がっていた。

   去年の夏に生まれたというから、身重だった娘さんも厳しい避難生活の中で、
   この遺影に見守られて無事に出産できたのだろう。
 
   正弘さんの母親ヨシコさんは82才。

   代々の漁師だったご亭主を4年前に亡くして以来、
   正弘さんや孫たちに囲まれて穏やかな余生を過ごしていた。
   小柄だが人のよさそうな表情が正弘さんそっくりだ。

   眼もとから頬のあたりの皺のひとつひとつに人生の苦楽が刻まれている。
   帰り際、犬のなき声に振り返った。
   正弘さんを待っているのか。


   3月11日の大地震。
   自宅で精密機械の下請け工場を営んでいた正弘さんが、
   ヨシコさんと身重だった娘さんに、

   「すぐに磯部中学校に避難してくれ!
   俺は消防だから、みんなを逃がさねばなんねぇ。
   あっちで待っていてくれ!」

   そう言って消防法被(はっぴ)を着て飛び出した。

   奥さんは勤務している病院で地震の事後処理、
   長男の大輝くんは相馬高校で仲間と一緒にいた。

   ヨシコさんは身近の貴重品を持ち、とにかく急ごうとしたが、
   正弘さんが可愛がっていた愛犬のアイも一緒に連れて行こうと思い、
   犬の餌をできるだけ携えて高台の中学校に向かった。

   やがて次々に集まってくる集落の人々から、
   巨大な津波が多くの家や人々を飲み込んだことを聞いた彼女は、
   正弘さんのことが心配でたまらなかった。

   今にも「大丈夫か!」と言って息子が顔を出すのではないかと思い、
   体育館から出て一晩中、車のなかで待っていた。

   市から届いた、ひとりあたり半分のオニギリとコップ一杯の水も
   喉を通った気がしなかった。

   深夜に正弘さんの友人から、
   「最後に見たのは磯部漁港の近くで避難誘導をしている姿だった」
   と聞いた。
 
   漁港のある大洲地区は被害が最もひどかった集落で、
   建物は何一つ残らなかった地点である。

   彼は最前線にいたのだ。

 ・   ・   ・   ・   ・  

   3月31日。
   正弘さんが消防法被姿で無言の帰還を果たした。
   葬儀場はまだ再開しておらず、取りあえずの火葬は4月2日。

   私は学校再開の準備に忙殺されていたので総務部長が出席したが、
   消防団員をはじめ防災関係者など、会場あふれるばかりの参列者だった。

   大勢の人が「正弘さんと最後まで」と、一同が見守る炉前のホールで、
   今から荼毘(だび)に付すというその時、
 
   ヨシコさんが棺にすがって、叫んだ。

   「マサヒロー、
   偉いどー。
   偉かったなー。
   偉いどー。」

   その時、母の叫びを聞いた長姉が両手を天に突き上げ、絞り出すような声で。

   「バンザーイ!」

   勇敢にも最前線で津波に立ち向かい、多くの人々の命を救いながらも、
   自ら職に殉じた正弘さんに、
   家族が手向ける、心の底からの別れの言葉だった。
   
   場内の全員が、
   母の無念、
   姉の悲しみを我ごとに思い、
 
   慟哭(どうこく)した。

   稲山正弘 相馬市消防団第9分団長。享年49歳。

 ・   ・   ・   ・   ・

(鈴木)

   感動的な内容ですね。

(立谷)

   ここに出てくる長男の大輝君は今年4月、
   千葉県の大学に進学しました。
 
   ここで勉強して将来はお父さんの後を継いで消防士になる、
   と言っています。

   もちろん、その学費と生活費は相馬市から出ています。
 
   こうやって少しでも親代わりになることができたら、
   亡き消防団員の犠牲に報いられるというものです。

           <感謝合掌 平成27年3月9日 頓首再拝>

【特攻の母・鳥濱トメが遺した言葉】 (683)
日時:2015年03月18日 (水) 03時06分
名前:伝統

         *『致知』2013年10月号
          ~鳥濱初代(富屋旅館三代目女将)随想より


鳥濱トメが富屋旅館を開業したのは昭和27年。

戦後、特攻隊員のご遺族や生き残られた方々が知覧を訪れた時、
泊まるところがないと困るだろうと、
隊員さんたちが憩いの場としていた離れを買い取り、旅館にしたのです。

「ここは、生きれども生きられなかった人たちが訪れていた場所。
 何かを感じ、自分が明日生きるという力に変えてほしい」


トメはそう願い、旅館業の傍ら、平和の語り部として、
この離れで隊員さんとのエピソードなどを語っていました。

ここではその一部をご紹介したいと思います。

       * *

光山文博さんは厳しい訓練が続く中、休みになると必ず富屋食堂を訪れていました。
しかし、隊員とは誰とも話さず、大人しくしている。

なんでこの子だけ独りぼっちなのだろうか。

トメは心配していました。
するとある日、光山さんはトメにこう告げたのです。

「僕、実は朝鮮人なんだ」

この方の母親は戦時中に亡くなり、
父親から日本男児として本望を遂げよと教育されたそうです。


「明日出撃なんだ。小母ちゃんだけだったよ、
 朝鮮人の僕に分け隔てなく接してくれたのは。
 お別れに僕の国の歌を歌っていいかな」

そう言って光山さんは帽子を深々と被り、
トメと共に祖国の歌『アリラン』を大声で涙ながらに歌いました。


「小母ちゃん、ありがとう。
 みんなと一緒に出撃していけるなんて、
 こんなに嬉しいことはないよ」

そう言い残して、飛び立っていったのが光山文博さん、
24歳なのです。



もう一人は、19歳の中島豊蔵さん。

中島さんは右手を骨折していたため、なかなか出撃の許可が下りませんでした。
しかし、いま行かなければ日本は負けてしまう。
その並々ならぬ思いで司令部に掛け合い、ついに許可が出たのです。

出撃前夜、トメは骨折で長くお風呂に入れなかった中島さんのために、
せめて最後にこの子の背中を流そうと、お風呂に入れてあげました。

ああ、この子ももういなくなるのか……。
そう思うと、トメの目に涙が溢れました。

しかし、涙を見せてしまうと、
中島さんの決意を鈍らせてしまう。
心を掻き乱してしまう。

トメは涙を堪えるため、とっさに身をかがめました。

「小母さん、どうしたんですか?」

「いや、お腹が痛くなって……」

 そう誤魔化すと、中島さんは、

「それなら、僕たちを見送らなくていいですよ。
 小母さんは自分の養生をなさってください」


明日飛び立つ自分の身よりも、
とっさについたトメの嘘にまで優しい心をかけてくれる。

そんな中島さんは翌朝、
折れた右腕を自転車のチューブで操縦桿に括りつけ出撃していったのです。


       * *


特攻平和記念館などに飾られている十代後半から二十代前半の彼らの顔写真を拝見すると、
実に立派で、清々しく輝いた眼をしていらっしゃる。


それはやはり、彼らの中にぶれない軸が一本通っていたからなのだと思います。


トメは平和の語り部として語る時、
いつもこう言っていました。

「私は多くの命を見送った。
 引き留めることも、慰めることもできなくて、
 ただただあの子らの魂の平安を願うことしかできなかった。
 だから、生きていってほしい。命が大切だ」


されど、書き残した物の中には

「善きことのみを念ぜよ。
 必ず善きことくる。
 命よりも大切なものがある。
 それは徳を貫くこと」

とも記されています。

この言葉を見るにつけ、後の世の幸福を願って
命を賭した隊員さんたちの姿が思い起こされてなりません。



こうして、歴史の中に埋もれていった朝鮮人の若者もいました。

今の韓国政府の**(確認後掲載)反日教育は決して許されませんが、
日本のために散った戦争の犠牲者に国の別はありません。

           <感謝合掌 平成27年3月18日 頓首再拝>



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