聖経供養 (142) |
- 日時:2015年01月31日 (土) 04時47分
名前:伝統
*「人生を支配する先祖供養」(はしがき)より
《因果、昧さず》
多くの人たちは、霊界と現実界との関係を知らないのである。 人間の肉体が死んだら、もう人間そのものは消えてしまって無くなるものだと考えている。
だから此世で狡いことをして利益を得たり、人に残虐な行為をして自分だけが快楽を 貪ったりしても、それは利益の取り得であり、快楽の貪りどくだということになる。
実際そうして悪賢い狡い奴や、残酷な奴が此世で少しも制裁を加えられないで 栄華をきわめたままで地上の生を終る例をたびたび吾らは見せられるのである。
そして死と共に、彼らは一様に"無"の世界に消え去って、 後に何も残らないのだったら、狡いことの仕得、楽しみの仕得で、 正直な人間が馬鹿を見るのがこの世界だということになる。
そこで"悪"の仕得ということが一般の通説になり、道徳地に堕ち、 人心は乱れに乱れて此世には悪人充満の地獄相を呈することになるのである。
それが現代の、いつわらぬ世相ではあるまいか。
併し、人生はそんなに甘いものではないのである。
悪業の仕得や、悪い奴の、富や快楽の貪りの仕得などということを われわれが心の奥底で不公平に感ぜずにはいられないのは、
われわれが"心の深層"の中に、「そんな不公平は決して存在しない」という 原因結果の法則を直感的に知っているからなのである。
原因があれば結果を生じる。これは宇宙の大法である。 それを仏教では「因果、昧(くらま)さず」と教えているのである。
悪業を重ねながら現世に於いて悪果が出て来ないからとて、 人生を馬鹿にしてはならないのである。
悪業を行っても現世に、その帳尻が出て来ないということは、どこかに、 その帳尻の総決算がおこなわれる世界があるという証拠でもある。
その総決算が行われる世界が霊界及び未来世 (未来に、われわれの霊魂が生まれ代って来る世界。単に"来世"ともいう)である。
《聖経供養》
霊魂の行く世界には、その境界にあって、霊魂の浄化作用が行われるのである。 霊魂の浄化とは、汚れた霊魂の洗濯のようなものである一層汚れている霊魂ほど 長期間はげしいショックの中でその”汚れ”を落とさなければならないのである。
それらの苦しみによる浄化の過程にある霊魂が苦しみの叫びをあげ、 悩みの呻きに喘ぎながら、”助けてほしい”と思って子孫や親類縁者の名を呼ぶのである。
そうすると、われわれ現世の人間で、その霊魂の近親者がその想念の波を感受し、 病気としてあらわれるのである。
このような病気を癒す道は霊界に於ける霊魂の苦しみを除去するほかに道はないのである。
霊魂の浄化は消極的には”懺悔”と積極的には”真理を悟る”という 2つの方法によって主として行なわれる。
”懺悔”とは、”今までの行為は悪うございました、人間のなすべき本来の姿では ございませんでした。今後一切いたしません”と過去の悪業を”心の世界”で否定する ことで、過去の悪業を否定消去してしまうのである。
”真理を悟る”というのは、「人間の実相」は本来”如来”であり、 ”神の子”であるという真理を述べた経典を現実界から読誦してもらい (これを聖経供養と謂う)
その真理の霊波を霊界で感受して、 悪業存在の世界から解脱して”如来”の実相界に超入することである。
この”如来地”(如来の境地)に入ることを成仏するというのである。
祖先及び縁者の霊魂を成仏させてあげるのが、 現実界の子孫及び縁者の義務でもあり、それはまた自分自身に報いられて来て 家族ぜんたいの健康ともなり、繁栄ともなるのである。
<感謝合掌 平成27年1月31日 頓首再拝>
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