大正時代の日本には「発言権」があった (192) |
- 日時:2015年02月05日 (木) 04時37分
名前:伝統
*「「新しい日本人」が創る2015年以後」日下公人・著(P26~28)より
1919(大正8)年、第一次世界大戦後の国際体制を決めたパリ講和会議で、 日本は人種差別撤廃案を提出している。
アジアの独立国である日本が中心になって、 有色人種の誇りを取り戻そうという動きのはじまりである。
白人同士が引き起こした世界大戦があまりに悲惨だったこともあって、 多くの国の支持を得ることができたのだが、アメリカ、イギリス、オーストラリア などの反対によって否決されてしまった。
それでも日本は国際連盟の常任理事国となり、新渡戸稲造が国際連盟の初代事務次長に 就任している。優位戦思考ができる日本人は、実は戦前からいて、 日本に発言権がしっかりとあった証拠である。
第一次世界大戦では日本は連合国側で戦い、 旧ドイツ帝国領であったサイパン島やトラック諸島など南洋諸島を占領したのだが、 戦争に勝っても戦後に植民地にはしなかった。
国際連盟に委任統治領という新しい仕組みを作って、 「日本は領土ほしさの戦争をしたわけではない」と、 世界に向けて明確に示した。委任統治の目的は独立への準備である。
(中略)
日本政府は南洋庁を設置して、開発や産業振興を図るとともに、 公衆衛生や教育政策を推進した。
それまでのドイツは、サイパン島を流刑地にしていたほどで、 現地住民への教育や産業開発はまったくしていないのだから正反対である。
戦前は軍部に抑圧された真っ黒な時代だと信じている日本人は、 海外ではさぞ居丈高に振る舞っていただろうと思うかもしれないが、 それは大きな間違いだ。
<感謝合掌 平成27年2月5日 頓首再拝>
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