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光明掲示板・伝統・第一

 

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歴史のひとコマ (164)
日時:2015年02月02日 (月) 17時44分
名前:夕刻版

《日露戦争後》

       *メルマガ「リアルインサイト」(2015年02月01日)より

遡ること110年前、1905年9月4日のこと、
アメリカのポーツマスで講和条約を結び日露戦争の決着がつきました。

勝利した日本は、南満州鉄道の権益をロシアから譲渡されました。

しかし、日本はお金を戦争で使い切ってしまったのに、
ロシアから賠償金を貰えなかったため、
せっかく手に入れた南満州鉄道の経費を出す予算がなく、困っていました。

ここで登場するのがアメリカの鉄道王ハリマンです。

ハリマンはどんな人かと言うと、
世界一周鉄道という構想を持っていたすごい人物で、

さらに、日露戦争にあたっては、日本の頼みを聞いて、
多額の戦時国債を引き受けた人物でもあります。

実はもう一人、日本の多額の戦時国債を引き受けたアメリカ人がいます。
ニューヨーク金融界の覇王と呼ばれるジェイコブ・シフです。

国債を買ってもらった日本政府は、
この二人の王に、とても大きな恩義を感じていました。

ここでもう一度ハリマン戻って、
しばらく彼を主人公にしてお話をします。

ハリマンは日露戦争前からずーっと南満州鉄道が欲しかった。

なぜ欲しかったのか。
世界一周鉄道構想を実現したかったからです。

しかし、南満州鉄道を支配する熊みたいな大国が邪魔で邪魔で仕方ありませんでした。

かと言って当時のアメリカ政府の方針で、力づくでは奪い取れませんでした。

そこで偶然(必然)にも日露戦争が勃発しました。

ハリマンは日本に多額の軍資金を用意し、見事、日本が南満州からロシアを追い出しました。

ハリマンは早速日本政府に南満州鉄道の共同経営を持ちかけました。

日本政府は国債を買ってもらった恩義を絶対に反古にしませんので大歓迎。
ハリマンと日本政府は覚書を交わします。

(セオドア・ルーズヴェルトも承認しています)

しかも、戦争で国庫がすっからかんの時に、
一緒に鉄道経費を払ってくれるなんて、そんな素晴らしいことはありません。

しかし、講和条約調印式当日、
ハリマンと日本政府との鉄道共同経営計画をなきものにした人物がいます。

外務大臣、小村寿太郎です。

ハリマンはもちろんのこと、
井上馨をはじめとした元老や政府閣僚はめちゃくちゃ怒ったようです。

「日本だけのお金でどうやって鉄道経営するんだバカヤロー」

お金がないのに、なぜ小村は鉄道共同計画を蹴ったのか。

ここで登場するのが、ニューヨークのモルガン財閥です。

モルガンはハリマンが大っ嫌いでした。

理由は分かりませんが、おそらく、
ハリマンが世界一周鉄道構想を実現させようとしたところが、気に入らなかったのでしょう。

モルガンはハリマンを潰そうとします。
そこで、日本の小村を利用したんです。

モルガンは小村へこう伝えました。

「ハリマンは共同経営とか言ってますけど、どうせ乗っ取りにきますよ。
せっかく戦争で勝ち取ったんだから、日本だけで独占的に経営しましょうよ。

その決心があるんだったら、喜んで融資する用意がありますよ。
ただし、レール・機関車・車両は、アメリカから買ってくださいね」。

こうして南満州鉄道の権益は日本が独占することができました。

アメリカが国家として日本に対して
憎しみを抱き始めるのは、ちょうどこのあたりからです。


ここでのポイントは大きく3つです。

(1)一つ目は、国際金融資本が戦争にもれなく絡んでいるところです。

   日本の戦時国債を大量に買い、日露戦争を後押ししたジェイコブ・シフ。
   そして、小村寿太郎をして日本とアメリカの関係を険悪にしたモルガン財閥。

   彼らは国境関係なくお金を融資します。
   だから国際金融資本と呼ばれています。

(2)そして二つ目は、国債金融資本は対立の構図をつくることを目的としている
   ところです。

   モルガン財閥の狙いどおり、満州共同経営は頓挫しましたが、
   本当の狙いは何だったのか。

   そもそもセオドア・ルーズヴェルトが承認している覚書を反古にしたら、
   日本とアメリカの関係が険悪になることは自明の理です。

   つまり、確信犯的に日米対立構造をつくることを目的としています。

(3)最後の三つ目は、国際金融資本の挙動ひとつで国際情勢が
   ガラッと変わるということです。

   セオドア・ルーズヴェルトは日露戦争前はそこそこ親日家でした。
   しかし、日露戦争を境にして、鬼のような日本敵視政策を始めていきます。



            <感謝合掌 平成27年2月2日 頓首再拝>

《当時何故日本は、こんなにアメリカに憎まれたのか?》 (175)
日時:2015年02月03日 (火) 17時52分
名前:伝統

《日露戦争後》

         *渡部昇一先生の講演「歴史に学ぶ日本の心」より


日本は日露戦争後一流国となったが、アメリカはそれを認めていなかった。

日露戦争後、日本はそれまでロシア権益であった満州の権益を得た1905年に、
アメリカのハルマンは南満州鉄道を一緒にやりたいと申し出てきた。
アメリカは大陸に投資したかったのだ。

当時、イギリス、フランスなどは大陸の良い場所を押さえていたが、アメリカにはなかった。
もし、この申し出を受けて、アメリカと一緒にやっていたなら、第2次世界大戦は違った形に
なったかも知れませんが、虫のよい話なので、日本はこの申し出を断った。

そして、アメリカは「日本はアメリカの大陸進出をこばむ邪悪な国」と規定し、
オレンジ計画を1906年に作った。

第1次世界大戦の時に、超重大な事件があった。当時ドイツはどこにも負けなかった。
イギリス・フランスの連合軍はドイツにやられた。同時、日英同盟があったので、
イギリスに日本は兵の出兵を頼まれた。

しかし、日英同盟はアジアの範囲だけの同盟であったので、日本は海軍を貸したが、
ヨーロッパに出兵をしなかった。

しかし、アメリカはイギリスと同盟関係がないにも関わらず、兵を出したのである。
ドイツは負けなかったが世界中を敵に回したので、降参をした。

日本は、勝った側ではあったが、日本の言い分はことごとく退けられた。
イギリス・フランスはアメリカに恩を受けていたので、アメリカの意思に賛同した。

日本は、国際連盟に「皮膚の色で差別されない」という提案を出したが、アメリカに反対された。
そして、アメリカの圧力で日英同盟は解消させられた。
血を流したアメリカの主張にイギリスはなびいた。

そして、絶対的排日移民法という日本人差別の法律がアメリカにできた。
日系米国人でさえ、自分の子供に土地を譲れなくなった。

カリフォルニアの多くの農園は日本人が開拓したのだが、それを子孫に譲れなくなり、
現在も日系人はアメリカに少ない。

日本人は、「何故日本は、こんなにアメリカに憎まれるのか」と思った。
アメリカから見れば、理由はあった。

アメリカは当時人種差別で成り立っていた国であった。
インディアンを退け、黒人を奴隷にしていた。
その時に、白人に勝った有色人種の存在はアメリカの根底・国体(国の形)に合わなかった。

そして、日本はアメリカを満州に入れなかった。
アメリカ人は、人は西に進むとコロンブスのころより考えていたが、
日本はそれを阻んだと考えた。

結果的には、第2次世界大戦で昭和20年8月15日(アメリカでは8月14日)に
日本は敗戦し、アメリカはシナ大陸に進出できるようになった。


            <感謝合掌 平成27年2月3日 頓首再拝>

《第2次世界大戦は日本人が「生きるため」の戦いだった》 (186)
日時:2015年02月04日 (水) 21時00分
名前:伝統

         *渡部昇一先生の講演「歴史に学ぶ日本の心」より


昭和初期になり、天然資源を持つ国がブロック経済を始めた、
すなわち自由貿易ではなくなった。

資源のある国は困らなかったが、ドイツでは大不況となり失業率が天文学的数値になり、
結果的にヒトラーという鬼っ子が出てきた。イタリアでは、ムッソリーニが出てきた。

当時800%の関税をかけて、日本の物を買わないようなことが行われた。
しかし、日本は満州の権益などもあり、耐えていた。

日本に対して買わないでは効き目がないようであり、売らないとうことも始まった。

当時輸入石油量が国内産石油産出量を上回る状態になっており、
輸入石油の100%をアメリカに依存していた日本は石油を売らないというブロック経済により、
戦争を始めることになった。

アメリカは、この戦争を「ファシズム対デモクラシーの戦い」と言い、
日本は「大東亜共栄圏」と言った。

結果的にアメリカが勝ったので、「ファシズム対デモクラシーの戦い」なるキャッチフレーズ
が残り、戦後そのような教育をされた優秀な先生方が多数いるが、これは嘘である。
当時アメリカは悪魔と呼ばれたロシアのスターリンと手を組んでいた。

あの戦争は、近代産業をやるために十分な天然資源を囲い込んで
持てるものと持たないものの戦いであった。
ある国が団結して売らないと言ったのである。

戦後マッカーサーは、昭和26年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会にて、
「彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです。」
すなわち、「生きるため」であったと証言している。

これは、ニューヨークタイムスに全文が紹介されたが、
日本の朝日新聞はこの発言を取り上げたが、この「生きるため」発言を報道しなかった。


第2次世界大戦について、以下の3つのことを伝えたい。

(1)持てる国が囲い込んで、売らないと言った戦争であった。

(2)人類としては総力戦として、最大の戦争を日本とアメリカがやった。
   3年半の間、太平洋で航空母艦や戦闘機を飛ばして戦った最大の戦いであり、
   最後には、バタバタと負けるのであるが、日本は堂々と戦った。

(3)第2次世界大戦後に世界中に多数の独立国ができた。
   日本人は、有色人種であるが大変強かったことを世界中に見せ、独立の準備を与えた。

   国際連盟のころはわずか40程度の独立国であったが、現在160か国以上であり、
   120か国は直接・間接的に日本の影響を受けている。

   1960年代にはアメリカでも黒人運動により、奴隷制度が撤廃された。
   有色人種には自然科学ができない、近代産業はできないという理由を日本が破壊した。

   マッカーサーは、日本は悪い国であると思っていたので、
   敗戦後GHQ統治の時に、日本国憲法も作った。これは、戦時国際法違反で、
   マッカーサーは自分の参謀で憲法を作らせた。女性タイピストの意見も取り入れられている。

   一応、日本の国会で採択されていることは事実であるが、
   これは天皇制との引き換えであった。戦後、何万人の人達が公職追放された。

   そして、東京裁判があった。

   また、飛行機などのテクノロジーは禁止され、人が理系から文系に移動した。

            <感謝合掌 平成27年2月4日 頓首再拝>

今日は、日露戦争開戦の日 (266)
日時:2015年02月10日 (火) 17時41分
名前:伝統

今からちょうど111年前の今日、
すなわち1904年(明治37年)2月10日に日露戦争が開戦となりました。


 「敵艦見ユトノ警報二接シ、連合艦隊ハ直ニ出動、

         之ヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレトモ波高シ」

 「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」


これは、ロシアのバルチック艦隊との決戦の日、
東郷平八郎率いる日本の連合艦隊が発した言葉です。

こんな言葉を聞くと日露戦争を知らない者でも何かこうぐぐっとくるものがあります。


なお、開戦時の日本政府の勝算の見通し、そしてアメリカへの仲裁の依頼については、
次のWebが参考になります。

(戦争に勝利する確信はあったのか?
  ~ http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-326.html )


    ・・・

<参考Web>

(1)本流宣言掲示板”尊敬される日本の姿 ”「日露戦争勝利の背景は、 (6178)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1313

(2)光明掲示板・第二

  ①「日露戦争当時の国民の思い」 (565)
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=181

  ②日露戦争 (5409)
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1110

            <感謝合掌 平成27年2月10日 頓首再拝>

山鹿素行と吉田松陰、魂の呼応 (419)
日時:2015年02月22日 (日) 17時58分
名前:伝統

(1)江戸初期儒学者、山鹿素行は中華思想から脱して
   日本精神にに立ち返るような思想を発表した。

   素行の書に「武教小学・武教全書・中朝事実」がある。

(2)これより200年を経て吉田松陰はこれらの本から
   弟子たちに武士論として「武教全書講録」を書いてテキストにして教えた。
   松蔭は素行を先師と言って尊敬した。

(3)素行は人格を涵養するための武士道を高く評価していた。

(4)日露戦争の武将、乃木希典が当時の皇太子(後の昭和天皇)に
   「中朝事実」の本を献上してこの本を読むことを薦めたという。

   帝王学の大切な教えであったからである。

(5)素行の偉大なところは万世一系の天皇を戴く日本こそが
   真の中朝(中華)であり世界に冠たる君主国であると主張したことである。

   その根拠に武士道がある。素行は「武教全書」でそれを述べた。
   「武教小学」ではそのための人格陶冶と徳望を示した。

   これを松蔭は高く評価した。
   松蔭は素行が確立した基盤の上で朝権回復ということに気づいた。

(6)素行独自の発想が近世的武士道を生み、
   それは現代の日本の倫理道徳に繋がっている。

(7)素行は筆禍事件で赤穂に配流された。
   その場所で日本こそが世界の唯一の君主国であると論証をした。
   10年間の配流の場所で「武家事記・中朝事実」を著している。

   その本を読んで松蔭は素行を先師と呼んで尊敬した。
   200年という時代を越えて素行と松蔭との魂が呼応したのである。

            <感謝合掌 平成27年2月22日 頓首再拝>

”ジョン万次郎” (470)
日時:2015年02月26日 (木) 17時23分
名前:伝統

”ジョン万次郎”
  ~アメリカの捕鯨船に救われた漂流少年は、
   近代技術を学び、開国間際の日本に帰っていった。


             *メルマガ「JOG(020804)」より

(1)異国の帆船

   「船じゃ、船がきゆう」。
   仲間の声で洞窟に寝ていた万次郎たちは、はね起きた。
   崖をよじ登り、破れかけた襦袢を脱いで、懸命に振って叫んだ。「助けてくれえ」。

   やがて船が近づいてきた。大きな異国の帆船だった。
   二艘のボートが降ろされ、浜に漕ぎ寄せてくる。

   「ありゃ、異人じゃねや」「逃ぐっがか」と怯える仲間に、
   万次郎は「とろいこと いうちょらんと、助けにきた神さん逃がすんか」。

   ボートが暗礁を避けて止まると、異人達が声をあげて万次郎たちを呼ぶ。
   万次郎は崖を滑り降り、海に入って抜き手を切って泳いだ。

   ボートに着くと異人達が手を差し伸べて、引きあげてくれた。
   「おーきに」と万次郎は船底にひれ伏し、感謝の言葉を述べた。
   仲間達も続いて泳いできた。

   1841年6月27日、現在の東京港から570キロ南下した
   八丈島と小笠原諸島の中間にある無人島、鳥島での事であった。

   万次郎たち5人は土佐の漁師で、足摺岬沖で漁をしていた所を急の嵐で黒潮に流され、
   鳥島にたどり着いて約5ヶ月ほど救いを待っていたのであった。

   万次郎、14歳の時であった。


(2)ノースメリクのエナイツライ

  ①万次郎たちを救った船は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州を根拠地とする
   捕鯨船ジョン・ハウランド号であった。

   全長54メートル、375トンと捕鯨船の中でも巨大で、食糧用に生きた牛や豚まで
   飼育され、船底には鯨油を詰める大樽が6千個も積み上げられている。

   乗組員は34名、
   船長はウィリアム・H・ホイットフィールド、36歳であった。

  ②救われた万次郎たちは、「筒袖に股引」の服に着替えさせられ、
   豚肉の角煮と菜汁を少しばかり与えられた。

   空腹を続けた後で、一遍にたくさん食べると腹をこわすからである。

   万次郎がすぐに食べ尽くして、手を合わせて「もっちっと頂戴したいわのーし」と頼むと、
   船員たちはその仕草に笑い声をあげた。

   「この旦那らは、ええ人らや」。万次郎は敏感に感じ取った。

  ③船の中の生活が始まると、万次郎は船員たちに近づいては、
   身振り手振りで話しかけ、掃除などの雑用を熱心に務めた。

   次第に彼らの言葉エンケレセ(イングリッシュ)の片言を覚え、
   この船はノースメリク(ノース・アメリカ)のエナイツライ(ユナイテッド・ステイツ)
   の船だという事も分かった。

(3)ゼア・シー・ブローズ(潮吹き発見!)

  ①万次郎は見張りをやらせて貰うようになった。

   帆柱の頂上の見張り籠に立って、望遠鏡を見ながら、水平線を見守る。
   はるかかなたに鯨の潮吹きを認めると、よく透る高声で叫ぶ。

     ゼア・シー・ブローズ。 ブロオオーズ。
      (潮吹き発見!)

  ②見張りのセリフを万次郎は巧みに真似る。

   船は鯨の方角に向かい、6人乗りのボートを何艘か降ろして鯨に接近させ、
   何本も銛を撃ち込んで、鯨が息絶えるまで格闘する。

   見事、しとめると、尾びれを鈎付きロープで引っ掛け、母船から引っ張り上げる。

   同時に薙刀のような大きな刃物で、皮に切れ目を入れると、
   肉は海中に落ちて、皮だけが引き揚げられる。

   この皮を熱湯で煮て鯨油をとり、陸揚げした後にロウソクや石鹸、灯油に加工される。

  ③この年に全世界で操業していた捕鯨船は882隻、
   うちアメリカ船が652隻で、最盛期には年間1万頭も捕獲していた。

   捕鯨船は当初、大西洋に集中していたが、乱獲の結果、鯨が激減すると、
   アフリカや南米大陸の南端を廻って、太平洋にまで進出し、
   ついには日本近海にまで出没するようになったのだった。


(4)ジョン・マン

  ①鋭敏な視力と感覚を持つ万次郎は、優秀な見張り役として認められるようになった。

   そのうちに船長に頼んで、ボートの漕ぎ役となり、さらに銛打ちの練習を必死にして、
   ついには何頭か自ら鯨をしとめるまでになった。

   いつのまにかジョン・ハウランド号という船名をとって、
   ジョン・マンと呼ばれるようになった。

  ②34名の船員たちは大洋の真っ直中で他に頼るものもいない運命共同体である。
   力のある者は日本人少年でも取り立てられていく。

  ③メリケたちは万次郎を弟のように可愛がり、やがて船長も
   万次郎の利発さを気に入り、夕食後に読み書きを教えてくれるようになった。

   アルファベットを習い、単語を一つ一つ頭に刻み込んでいく。

   親はペエラン、子はチルレン、日はシャン、海はオセアン、、、

   黒人の若者ルイスからは、黒人が字を読めないので、
   メリケでは馬鹿にされていると聞き、万次郎の勉強にはいっそう熱が入った。

(5)マサチューセッツ州フェアヘブン

  ①「マンよ。お前は私とフェアヘブンに行くか」。
   船長に何度も尋ねられるたびに、万次郎はついていくと答えた。

   数年前に妻を亡くしたホイットフィールド船長は、万次郎を養子にして、
   マサチューセッツに連れていく決心をしたのである。

   他の4人はハワイのホノルルで船を降ろされ、現地政府に身柄を預けられた。

  ②アメリカに行くと決めた万次郎に、
   水夫長はこう言って拳闘と銃の使い方を仕込んでくれた。

      この船に乗り込む者は、生死をともにしてきた仲間さ。
     だから兄弟のように心が通じ合っている。

     だが、メリケへ着けばいろいろな男女がいて、なかにはジョン・マンが
     日本人だというので、めずらしがったり、意地のわるいことをしかけてくる者も
     いるかもしれない。

     ばかな奴の言葉は聞き流しておけばよいが、乱暴なふるまいをする者が
     あらわれたときは、マンは男の誇りを守らねばならない。

  ③1843年初夏、ジョン・ハウンド号は3年7ヶ月の航海を無事に終えて、
   マサチューセッツ州ニューベッドフォードの港に戻った。

   万次郎はホイットフィールドとともに、隣村のフェアヘブンに住むようになった。

(6)ジョン・マンを見れば、ばかにはできない。

  ①万次郎は隣家の女教師が経営している子供たちのための小さな学校に通うようになった。
   午前中は子供たちとともに、書物で文章を学ぶ。

   気だてが良く優しい万次郎は、子供たちに大人気で、
   竹とんぼなどの日本の遊びを教えて、大流行させた。

  ②午後は家の内外の片づけや薪割りをする。
   万次郎の骨身を惜しまない働きぶりと、手際の良さは近所でも評判となった。

   夜は、隣家の女教師から、英語の個人教授を受ける。
   万次郎は教えられたことを何度も反復暗唱し、倦む所がなかった。

      わえはパシフィック・アセアンで拾われてきた土佐の貧乏漁師じゃきに、
     メリケの男らの三層倍もはげまにゃ、この国で生きていけなあ。
     ほんじゃきに、やったるぜよ。

  ③女教師も万次郎の理解力と記憶力が非常に優れているのに驚いた。
   近隣の人々はこう言い合った。

      ジャパンというのはどんな島か知らないが、未開な生き方をしているのだろう。
     しかし、ジョン・マンを見れば、ばかにはできない。

(7)恥ずべき偏見

  ①やがてホイットフィールドはアルバティーナという女性と再婚し、
   万次郎とともに教会の日曜学校で家族席を借りたいと願った。

   ところが、教会の代表者が訪れてきてこう断った。

      われわれはご夫妻とは今後もよろこんでおつきあいをしたいと望んでいます。
     しかし教会での祈祷の席にニグロと見まちがうような少年を同席させ、
     日曜学校でアメリカの少年少女と教育するわけには参りません。

     ついては教会に黒人用の教室が用意されていますので、
     そちらにお入れになられてはいかがでしょう。

   ホイットフィールドは、黙ったまま部屋のドアを開けて、代表者を帰らせた。
   その後で、万次郎にこう言った。

      あの連中はキリスト教徒でありながら、恥ずべき偏見にとらわれている。
      マンは心配せず、私に任せておきなさい。

  ②ホイットフィールドは、その後、万次郎を受け入れてくれる別の宗派に宗旨替えして、
   3人一緒に日曜毎に教会へ行くようになった。

(8)バートレット・アカデミー

  ①1844年1月、万次郎はホイットフィールドに勧められて、
   バートレット・アカデミーの入学試験に挑戦した。

   この学校は、捕鯨業の中心にある学校として、
   操船に必要な高等数学、測量術、航海術などをも教えていた。

   ここを卒業したら、航海士となり、船長になるのも夢ではないと、
   ホイットフィールドは説いた。

      キャプテンは、わえの神さんじゃなあ。
     ほんまに足向けて寝られんお人じゃ。

     キャプテンになれりゃ、仰山金儲けしきゆうに、いつか土州(土佐)に帰りゃ、
     お母はんや兄弟を楽にさせちゃれらあ。
     わえは死んでもバートレット・アカデミーに入るろう。

  ②万次郎は起きている間のほとんどの時間を書物に向かい、必死の受験勉強を続けた。
   しかし、アメリカ人の生徒でさえ、落ちることの多い学校である。

   試験の問題はほとんど解けたが、万次郎は不合格を覚悟していた。
   学校の玄関の黒板にチョークで書かれた合格者リストに自分の名を発見した時には、
   体の中で歓喜が爆発した。

   家に帰り、居間で気遣わしげに待っていた夫妻に合格を告げると、
   ホイットフィールドは万次郎を厚い胸に抱きかかえて、

      やったぞ。ジョン・マン。それでこそ私の息子だ。

      おおきに、ほんにキャプテンのおかげじゃねや。
      うれしゅてたまあるか。

   万次郎は背を波打たせて号泣した。
   アルバティーナも前掛けを顔に押しあてた。

(9)首席卒業

  ①2月から授業が始まったが、本格的な数学や測量術は難解で、
   1時間の授業について、2、3時間もの自習を行わなければ、ついていけなかった。

   1ヶ月ほど経った頃、「もうついてけん」と絶望しかけた。
   他の少年たちも、日本の漁師が高度な数学などつかいこなせるはずがない、と思っていた。

   だが、日が経つにつれ、万次郎は頭角をあらわしていき、皆は彼に一目置くようになった。

   校長は授業中に言った。

      このクラスでいちばん学業の進歩がめざましいのはジョン・マンだよ。
     皆、彼を見習うがいい。彼は英語を覚えてから3年経っていないんだ。
     君たちはまもなく彼に学問のうえで追いついていけなくなるよ。

  ②校長の予言通り、万次郎は翌年3月に首席でバートレット校を卒業した。

   さらに船内で貴重な技術である樽作りを、住み込みで習い覚えた。
   万次郎の腕はすぐに評価され、航海士として雇われた。

   彼を乗せたバーク・フランギラン号は1846年5月、
   ニューベッドフォード港を出航した。

   万次郎はまだ20歳前だった。

(10)一人の捕鯨船長の親切な行いによって

  ①この航海で優れた手腕を発揮した万次郎は、船中の尊敬を集め、副船長にまで昇格した。
   万次郎は近代的航海術を身につけ、またアメリカ社会を生きた最初の日本人と言える。

  ②この後、万次郎は幕末期の日本に帰り、各地で自らの見聞を伝える貴重な働きをする。

   薩摩では開明君主として名高い島津斉彬公に
   アメリカの社会事情や科学技術を語り、小型の洋式帆船まで建造した。

   さらには、薩摩藩からイギリスへ送られる留学生に英語の教授を行なった。

  ③土佐では城下随一の知識人・河田小龍と起居を共にして、
   西洋事情を語り、その門下から坂本龍馬が出た。

   龍馬はもともと過激な攘夷論者だったが、一転して開国に目覚めたのは、
   万次郎から伝えられた海外事情を学んだからだった。

   「万次郎さんは私の恩人」と龍馬は言っていた。

  ④また日米修好通商条約の批准書交換で咸臨丸が
   アメリカに派遣された時には、通訳と操船の両方で活躍した。

   この船には若き日の福沢諭吉が乗っていた。

   こうして万次郎の学んだアメリカの社会事情と近代技術は、
   日本の開国と維新のいろいろな場面で、重要な働きをした。

  ⑤万次郎がホイットフィールド夫妻に再会したのは、明治3(1870)年10月だった。

   フランスとプロシアの戦争を観戦させるために訪欧団が組織され、
   アメリカ経由で行くことになったので、万次郎も同行することになったのである。

   この時、万次郎は43歳、アメリカを出てから20年以上も経っていた。

   万次郎がホイットフィールド家のドアを叩くと、65歳になっていた老船長は
   「俺の息子だ。ジョン・マンが帰ってきてくれたか」と言って、
   万次郎を抱きしめ、頬ずりをした。

   万次郎はあふれる涙を抑えることが出来なかった。
   地元新聞は万次郎の帰郷を次のように報じた。

      ここでわれわれの捕鯨産業が日本の開国と世界貿易に貢献したことを
     忘れてはならない。つまり一人の捕鯨船長の親切な行いによって、
     漂流少年がフェアヘブンの公立学校で教育を受けた。

     その結果、アメリカと日本の交友関係がひらかれ、促進されることになったのである。

            <感謝合掌 平成27年2月26日 頓首再拝>

《幕末の国際商人 ”浜崎太平次”》 (494)
日時:2015年02月28日 (土) 17時45分
名前:伝統

           <メルマガ「JOG(090726)」より>

(1)南北戦争を追い風とした薩摩藩

  ①明治維新の数年前、1861年から1865年にかけて、
   アメリカの南部と北部の間で激しい戦いが繰り広げられた。

   この南北戦争は世界経済を激変させたのだが、
   その余波が薩摩藩にも及んで、明治維新を進める原動力をもたらした。

  ②一つは、この戦争により南部の綿花畑が荒廃し、世界中が綿花不足に陥ったことである。
   中国やインドの綿花がイギリスやフランスに輸出されたが、それでも足りない。

   これに目をつけた薩摩藩の御用商人・浜崎太平次は、日本国内で大量の綿花を買い入れ、
   長崎のイギリス商人トーマス・グラバーを通じて、高い値段で輸出した。

   1863年当時、大阪での繰綿(くりわた)100斤が4、5両だったのが、
   グラバーを通して17、8両になったという。

   太平次は大阪で約3万6千両もの繰綿を買い集めたというので、
   その数倍の利益を得たはずである。

   薩摩藩はこの利益を倒幕のための資金として使った。

  ③もう一つは南北戦争により飛躍的に改良された小銃が、
   戦後、大量に世界市場に出回ったことである。

   薩摩藩は綿花輸出で儲けた資金で、これらの小銃を大量に買い付けた。

   さらに長州藩のために、薩摩藩名義で武器を購入し、斡旋した。
   これが薩長同盟のきっかけとなった。

  ④こうして南北戦争を契機として、綿花輸出による資金獲得、武器購入により、
   薩摩藩は大いに財力、武力を強化し、長州と組んで倒幕に乗り出したのである。

   さらにこの資金は、近代工業の創設を目指した集成館事業にも投入され、
   日本の近代化の礎に役立てられた。


(2)浜崎太平次 ~ 貿易で藩財政を再建した豪商

  ①薩摩藩が幕末ににわかに総合商社のような働きが出来たのには訳がある。

   そのはるか以前から薩摩藩は琉球を拠点とした明国・清国との密貿易により
   大きな収益を上げていた。

   さらに奄美の黒糖類を上方市場に持ち込み、高級品として売った。

   こうした事業を通じて、薩摩藩は国際貿易のビジネス・センスを磨いていたのである。

  ②上述の綿花貿易で薩摩藩に巨利をもたらした浜崎太平次は、その他にも
   テングサを原料に寒天を作り、ロシアや清国に輸出したり、奄美大島で醤油を製造して
   フランスに輸出したりするなど、多方面の貿易、海運で活躍した人物である。

  ③国際貿易とは、攘夷が叫ばれていた幕末では命がけの仕事だった。

   激烈に攘夷を唱えていた長州藩は、浜崎の綿積み船を関門海峡で狙い撃ちにし、
   薩摩では関門海峡を「三途の川」と呼んでいたほどである。

   実際に浜崎の商船が攘夷の志士たちの襲撃を受け、
   船長が惨殺される、という事件も起きている。

  ④この浜崎を藩の御用商人として活用したのが、家老・調所広郷(ずしょひろさと)だった。

   天保年間(1830-1843)には薩摩藩は、藩の収入が14万両程度だったにもかかわらず、
   500万両もの借金を作っていた。

   財政改革を担当した調所は浜崎を使って密貿易や薩摩特産品の販路拡大を行わせ、
   その利益で財政再建を図った。

   弘化元(1844)年には備蓄金を50万両貯めたというから、貿易収入の大きさが分かる。

  ⑤嘉永4(1851)年に藩主に就任した斉彬は、近代的軍備・産業の創設に強い意欲を持っており、
   その資金作りのために浜崎を引き続き重用し、それまで以上に密貿易を拡大させた。

   これが幕府に発覚しそうになると、
   斉彬は浜崎の弟や奉公人を琉球や大島などに流罪として、浜崎を庇った。

   しかし、琉球や大島は浜崎家が支店を置いていた場所で、
   流罪どころか実態は配置転換に過ぎなかった。


(3)密貿易の利益で集成館事業を推し進めた島津斉彬

  ①斉彬が近代産業の建設を推し進めなければならない、と決心したきっかけが、
   1840年に始まったアヘン戦争だった。

   英国は清国にアヘンを売りつけ、清国がそれを禁じようとると武力に訴えるという
   非道な戦争だったが、英国の圧倒的な軍事力は清国をねじ伏せ、日本の朝野を震撼させた。

  ②弘化元(1844)年には、フランスの軍艦アルクメーヌ号が那覇に現れ、
   琉球政府に通信と貿易を要求した。

   ペリー来航の9年前である。
   翌年にはイギリス船もやってきた。

   琉球は東アジアでの貿易・海運の重要拠点であり、
   欧米列強は競って琉球を狙っていたのである。

  ③こうした情報に接して、斉彬は、このままでは日本は欧米諸国の植民地にされてしまう、
   と危機感を抱いた。

   太平洋を漂流してアメリカで10年間過ごしたジョン万次郎を49日間も薩摩に留め、
   詳しく西洋事情を聴取したが、それによってもますます危機感を募らせた。

   さらに斉彬は輸入された綿糸を見て、その技術が日本より遙かに進んでいることに
   驚愕した。いずれ開国せざるをえなくなって、このような高品質な綿糸が輸入されたら、
   日本の綿織物業はつぶれてしまう、と考えたようだ。

  ④斉彬は富国強兵、殖産興業に向けて、幕府を動かそうとしたが、それが無理だと分かると、
   薩摩藩自身でやるしかない、と決心した。

   そこで始めたのが集成館事業だった。
   製鉄、造船、紡績、大砲の製造、洋式帆船の建造などの分野で、
   アジアで最初の近代工場群の建設を進めた。

   そのための資金作りとして、斉彬は、浜崎太平次に密貿易を継続・拡大させたのである。

(4)小松帯刀 ~ 斉彬の後継者

  ①島津斉彬が安政5(1858)年に急死すると、その志を継いだのが小松帯刀(たてわき)だった。

   帯刀は安政2(1855)年に江戸詰めを命ぜられたが、その時に参勤交代で
   江戸に滞在していた斉彬に接し、植民地化を防ぐためには殖産興業と富国強兵が
   不可欠であることを教わった。

  ②斉彬亡き後に藩の実権を握った久光に、帯刀は高く評価され、
   27歳の若さにして家老を命ぜられ、軍事・財政・教育などの重要分野を任された。

  ③斉彬が設立した集成館は薩英戦争で焼けてしまったが、
   帯刀はさっそく再興に取り組んだ。
   造船所、溶鉱炉、大砲鋳造所、ガラス工場などが造られた。

   また、奄美や大島の砂糖は専売として、藩の役人が製造から販売まで管理していた。
   お茶や油などの特産物の増産を奨励し、上方に売り出していた。

   さらに、これで得た資金を使って、武器弾薬や艦船の買い付けを行った。
   これらのすべてを、小松帯刀が取り仕切っていたのである。

            <感謝合掌 平成27年2月28日 頓首再拝>

幕末の国際貿易と小松帯刀、そして坂本龍馬 (517)
日時:2015年03月02日 (月) 19時20分
名前:伝統

           <メルマガ「JOG(090726)」より>

(1)坂本龍馬の貿易商社「亀山社中」

  ①小松帯刀の支援を受けて、国際貿易に乗り出したのが、坂本龍馬だった。
   龍馬が帯刀と会ったのは、元治元(1864)年だった。

   幕府海軍奉行・勝海舟が運営していた神戸軍艦操練所が、尊王攘夷派との関わりで
   閉鎖され、行き場を失った坂本龍馬以下約30名は、海舟から西郷隆盛に依頼して、
   大坂の薩摩屋敷に匿われることになった。

  ②ここで龍馬は帯刀に初めて会った翌慶応元(1865)年4月、
   帯刀は龍馬らを薩摩に連れて行った。

   様々な近代工場が稼働し、また広範囲の貿易を行っている様子は、
   これこそ富国強兵・殖産興業の策と、龍馬を興奮させただろう。

   6月には帯刀は長崎の亀山に家を借り、龍馬らに海運業を営む会社を起こさせた。
   これが日本最初の株式会社「亀山社中」、後の海援隊である。

  ③亀山社中は、貿易商社として活動した。
   薩摩藩が資金を出し、亀山社中の社員が薩摩藩の交易船に乗り込み、
   西洋の銃器などを輸入して藩に卸したのである。


(2)武器斡旋をきっかけに薩長同盟成立

  ①亀山社中結成の一月前に、龍馬は長州に赴いて、薩長連合のための遊説を行った。
   もちろん帯刀との相談の上でのことで、浪人という自由な身分は、
   こうした動きに好都合だった。

  ②龍馬の遊説を受けて、7月21日、長州の伊藤俊介(後の伊藤博文)と井上聞多が
   亀山社中の上杉宗次郎を訪ねてきて、

   「武器や艦船を買いたいが、長州名義では購入できないので薩摩の名義を貸してほしい」
   と依頼した。

   当時、幕府は第二次長州征伐を決定しており、長州はその備えとして近代兵器を
   必要としていたが、外国の商人は幕府の圧力を受けて、
   長州藩には武器を売ってくれなかったのである。

  ③上杉宗次郎は二人を長崎の薩摩屋敷に連れて行き、帯刀と会わせた。
   帯刀は即座に承知して、グラバーと交渉し、銃4千3百挺を薩摩名義で購入して、
   下関に届けさせた。

   10月には、再び、長州側から艦船を薩摩名義で買って欲しい、という依頼が寄せられ、
   それも帯刀は承知して、実行した。

   こうした武器の斡旋により、薩摩と長州の関係が深まっていった。
   そして、その商取引の仲介をしたのが、亀山社中だった。

  ④慶応2(1866)年、龍馬に説得された桂小五郎が京都に赴き、
   薩摩屋敷で帯刀、西郷、大久保らと会って、薩長同盟が成立した。

   龍馬自身は維新が終われば、いずれ上海、広東、ルソンなどに行き来して、
   国際貿易に従事したいと考えていたが、それを実現することなく、
   慶応3(1867)年11月、京都で何者かに暗殺されてしまった。

  ⑤小松帯刀も維新後、新政府で要職を歴任し、手腕を発揮したが、
   明治2(1869)年に病気で引退し、翌年世を去った。享年36歳。

   帯刀と龍馬が長生きしていたら、明治日本の国際貿易はどれほど発展していただろうか。

            <感謝合掌 平成27年3月2日 頓首再拝>

”五代友厚”と”渋沢栄一” (541)
日時:2015年03月04日 (水) 18時10分
名前:伝統

            <メルマガ「JOG(090726)」より>

(1)五代友厚~小松帯刀の国際ビジネスでの後継者

  ①小松帯刀の国際ビジネスでの後継者が、五代友厚(ごだいともあつ)と言えよう。
   友厚は薩摩藩の儒学者の家に生まれた。

   友厚と名乗る前は「才助」と呼ばれていたが、
   これは斉彬がその才能を讃えて、与えた名だと言われている。

  ②13歳の時に、世界地図の模写の藩命が父親に下ったが、
   友厚は父にかわって模写図を2枚作り、1枚は藩主に献じ、
   あとの1枚を自分の部屋に掲げて、海外雄飛を夢見ていた。

  ③安政2(1855)年、長崎に海軍伝習所が創設されると、
   そこでオランダ士官から航海術、砲術などを習った。
   また同地でグラバーと懇意になった。

  ④文久2(1862)年1月には、藩命により、グラバーとともに上海に渡って汽船を購入した。

   翌文久3(1863)年の薩英戦争では、イギリス海軍の捕虜となり、その後横浜で
   釈放された後も、藩の命令で、イギリスとの貿易に従事した。

  ⑤友厚はロンドンにいた際に、ベルギー貴族モンブラン伯爵からの接触を受け、
   薩摩・ベルギー商会を立ち上げた。

   小銃、蒸気船、紡績機械などを薩摩に輸出し、
   薩摩の物産をヨーロッパに輸入しようと考えたのである。

(2)薩摩藩と幕府が火花を散らしたパリ万博

  ①友厚が設立した薩摩・ベルギー商会は、慶応3(1867)年に開催されたパリ万国博覧会で、
   薩摩藩が単独出展した「薩摩パビリオン」の演出を担当し、一番人気を博した。

  ②友厚は薩摩藩を動かして、出品物4百余箱を早々にパリの会場へと送った。
   そして「日本薩摩太守政府」の名で、あたかも薩摩が独立国であるかのような体裁を
   整えた。

   幕府使節は猛烈に抗議したが薩摩側が聞き入れなかったため、
   幕府も「日本大君政府」と名乗らざるをえなくなった。

  ③さらに薩摩藩は、あらかじめ「琉球薩摩国勲章」を用意していて、
   ナポレオン3世などに贈った。

   これらの動きにより、日本という国は、いくつかの独立国家で構成されている
   連邦であるという印象を持たれ、幕府の権威は著しく損なわれた。

   実は薩摩の狙いは、そこにあった。当時、幕府はフランスから
   6百万ドルもの借款を受け、近代軍備を調えようとしていた。
   これが実現したら、倒幕も難しくなる。

   五代のパリ万博での活躍により、幕府が日本国内の一地方政権であるかのような
   印象をフランス政府に与え、借款契約をつぶすことに成功したのだった。


  ④この時、幕府側の使節としてパリに来た人々の中に渋沢栄一がいた。

   渋沢はかつては過激な尊皇攘夷の志士で、横浜の外人居留地に火を放ち、
   手当たり次第に外人を斬り殺そうと企画したほどだった。

   しかし、最後の将軍・徳川慶喜が「渋沢は将来有為の人物だから、渋沢自身の
   ためにも海外に遊学せしむべきだ」として、使節団の一員に加えたのである。

  ⑤渋沢はそのまま約2年間留学を続け、帰国してから企業5百、
   公共・社会事業6百もの設立に貢献し、
   まさに明治日本の近代化と経済発展に大車輪の活躍をした。

   一方、五代友厚は大阪商法会議所(後の大阪商工会議所)を設立して初代会頭となり、
   近代的企業の発展に尽くした。

   二人は「東の渋沢、西の五代」と並び称されるようになった。

(3)国際ビジネスマンたちを駆り立てた「奉公の志」

  ①極東の一島国だった日本が、わずか60年ほど後には「世界五大国の一つ」と
   言われるまでに発展したのは、島津斉彬、浜崎太平次から、小松帯刀、坂本龍馬、
   そして五代友厚、渋沢栄一と、ここで紹介した国際ビジネスマンたちの活躍による所が
   大きい。

  ②これらの人々には一つの共通点がある。

   それは、国際ビジネスは手段であり、目的は殖産興業、富国強兵を通じて、
   日本の独立を護り、国民の幸せを実現しよう、という「志」であった。

   単に一身の富裕を目指すだけなら、攘夷志士に命を狙われるような危険まで
   冒す事もないし、渋沢のように5百もの企業を興す必要はない。

   彼らを駆り立てたものは、国家公共のために尽くそうとする奉公の志だったのである。

  ③彼らの生き様は現代日本人にも重要な示唆を与えている。

   奉公の志がなければ、人は小成に安んじて、
   それ以上の大を為そうという気概は生まれない。

   一国の浮沈は、どれだけ奉公の志を持つ人々を生み出しているかに、掛かっている。

            <感謝合掌 平成27年3月4日 頓首再拝>

田中角栄と周恩来 (738)
日時:2015年03月23日 (月) 18時50分
名前:伝統


         *ウシオ電機会長・牛尾治朗
         (新井正明著『安岡正篤先生に学んだ私の人生』致知出版社刊)より


いま教科書問題などで中国との関係がギクシャクしていますが、
もしいま安岡先生がいらっしゃれば、中国の日本に対する態度というのは
ずいぶん違っていたでしょうね。

思い出すのは、田中角栄さんが周恩来から
「言必信行必果(げんかならずしん・ぎょうかならずか)」という色紙を贈られて
得意満面の姿が新聞紙上をにぎわしたときの話です。

一見、素晴らしい人物評価に見えるんですね。
しかし安岡先生がすぐに、それは『論語』の人物評の一片で、
三流の人物を表わすことを見抜かれて、周恩来の非礼を指摘されました。

「大平君がそばにおりながら、そういうことがわからないというのは、恥ずかしい話だ」
とおっしゃったんです。大平さんのことは先生も非常に買っておられたんですね。

それで、私はすぐ大平さんのところへ行ってそのことを伝えたら、大平さんは、
「いや、参りました。言われてみれば、まったくその通りだ」
とおっしゃったんです。


よく私は、安岡先生に言われました。

「伊藤博文なんかが三十代で中国に行ったときに、
彼の持っている教養と見識に、当時の中国の幹部が驚愕した」

と。そのくらい明治維新の若者っていうのは、単なる革命の意欲だけではなくて、
本当に学を積んでいたんですね。

「治朗さん、そういうことをあなたたちは忘れちゃ駄目ですよ。
明治維新というのはね、あの人たちの教養と見識による賜物なんです」

と言われていたんです。

       (http://www.chichi-yasuoka.com/episode06.html


            <感謝合掌 平成27年3月23日 頓首再拝>



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