《開巻第一義は国体人倫にあり》 (217) |
- 日時:2015年02月07日 (土) 03時28分
名前:伝統
*『致知』2014年6月号 (人間環境大学教授・川口 雅昭) ~吉田松陰『講孟箚記』が教える長のあり方(P37~38)より
では、松蔭はなぜこの講義録を残そうとしたのでしょうか。 その理由については松蔭自身が「箚記の開巻第一義は国体人倫にあり」と 明確に書き記しています。
我が国の国体と人倫、つまり国や人としてのあり方が大きくぐらついている時に、 その道を正さんという一念だというのです。
松蔭が日本の独立・存続に危機感を抱くきっかけとなったのは、 西欧列強によるアヘン戦争(1840~42)という清国侵略でした。
松蔭は4歳の時に山鹿龍兵学師範である吉田太助の養子となり、 いずれ長州藩の「兵学師範たらん」という志を立てて勉学に励みました。
松蔭はその後、清国がなぜ西欧列強国の植民地になったのかという分析を行なっています。 そして、仮に西欧列強の侵略を受けても、日本は大丈夫との確信を持つようになります。 清国と違って、日本には武士道精神を体現した侍がいるというのがその理由でした。
しかし、その肝心の侍がペリー艦隊来航の時、誰一人として立ち上がろうとしませんでした。 我が国がいまにも他国に呑み込まれようとしている時、この問題を真剣に受け止める侍が いなかったのです。
松蔭は強い義憤と危機感を覚え、人心の不正を嘆くのです。
深憂(しんゆう)すべきは人心の正しからざるなり。 苟(いやし)くも人心だに正しければ、百死を以て國を守る。 其の間勝敗利鈍ありと云へども、 未だ遽(には)かに國家を失ふに至らず。
「深く憂うべきは、人々の心が正しくないことである。 心さえ正しければ、全ての人々が命をなげうってでも国を守るだろう。
その間に勝ち負け、また出来不出来があったとしても、 急速に国家が滅亡することは決してない」 (『講孟剳記』滕文公下第九)
松蔭が獄中にあって『孟子』講義を始めたのは、侍のこのような体たらくを修正するためであった ことは言うまでもありません。しかし、私はこのほかに大きく3つの動機が挙げられます。
一つは「下田事件」に失敗した後、同志である肥後勤王党との間に再起を図るという約束があり、 同志を一人でも多く獲得する必要があったことです。
二つ目には野山獄という過酷な環境で自ら奮い立たせようとしたためです。 松蔭はいかなる環境でも決してへこたれなかったと言う人がいます。
しかし、私はこれまでの松蔭研究の中で、 野山獄入獄後の松蔭の文章はそれ以前と明らかに変わっていることに気づきました。 冴えた文章から伝わってくるのは、日々死と直面する者の抱く恐怖心です。
松蔭は幕府から「在所蟄居(自宅謹慎)」という判決を受けましたが、 幕府を恐れる長州藩からの指示で、牢獄を借りる借牢(しゃくろう)という形で 幽囚されました。
しかし、藩の罪を犯したわけではありませんから取り調べは行なわれず、 加えて刑期もありません。そこでは外部との一切の接触は断たれ、 一度入れば出られる保証はなかったのです。
松蔭の抱いた恐怖感はどれほどのものだったでしょうか。
そして三点目は松蔭の武士観によるものです。 彼は十代の頃から「エリートである侍は学問をずっと行なうべきである。 また、同時に、同僚や後進を教育すべきである」という信念を持っていました。
そして学問で私心を去り、人として必要な真心を取り戻すべきである。 つまり、孔子のような聖人を目指さなくてはならないと考えていたのです。
研究者の中には野山獄での講義は松蔭の教育者的性格からくる自然発生的なものと 捉える人たちもいます。
しかし、以上の4点から判断すると、松蔭の講義に明確な目的があったことは確かです。
日本の危機が目前に迫っている。 しかも誰も気づかない。
しかも自分は全く自由のきかない身である。 いつ死ぬか分からない。
だとしたら、極めて限られた条件でも、自分にできる最善のことをやって 時代を切り開きたいという強烈な思いが『孟子』の講義に繋がっていったんのです。
松蔭の講義が囚人たちの心を打ったのも、 その溢れんばかりの思いの強さによるものだと思います。
<感謝合掌 平成27年2月7日 頓首再拝>
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