法然上人 (92) |
- 日時:2015年01月25日 (日) 18時32分
名前:夕刻版
今日、1月25日は【法然上人忌】
平安・鎌倉期の僧で浄土宗の開祖、法然上人の命日。 「南無阿弥陀仏」の専修念仏を提唱。
生まれは、岡山県(美作国)出身。 平安時代の末、長承二年(1133)のことでした。
《父の遺言》
保延七年(1141)法然上人九歳の時の春、父時国は かねてから仲の悪かった武士(稲岡庄の預所(荘園の管理者)明石定明)の夜討ちに遭い、 あえない最期を遂げてしまいます。
武士たるもの、戦場で果てるならいざ知らず、 寝込みを襲われたのでは、悔やんでも悔やみきれないはず。
瀕死の父の元へ駆け寄った9歳の息子は、
「必ず、父上の恨みを晴らしてみせます」
と敵討ちを誓いました。
しかし、父は、苦しい息の中から、息子に、こう諭したのです。
「決して犯人を恨んではならない。 私が非業の死を遂げるのは、前世からの種まきの結果であり、因果応報なのだ。 もし、そなたが敵討ちをすれば、相手の子供が、またそなたを敵と狙うだろう。 敵討ちが幾世代にも続いていく。 愚かなことだ。 父のことを思ってくれるなら、出家して、私の菩提を弔い、 自ら仏法を求めてくれ」
このように言い終わって、念仏と共に命終わったということです。
息子は父の遺言に従い、敵討ちをあきらめ、仏道修行に励むようになりました。 後の、法然上人の誕生です。
やられたらやり返すのが、世の中の常。 しかし、恨み、呪えば、身の破滅あるのみ。
父時国は、そんな悲惨な道へ、子供を進ませることはできないと諭したのです。 これは、真に、法然の将来を見据えなければ、できない父の遺言でした。
《出家と求道》
法然上人は父の遺言に従い、その後間もなく菩提寺に入り、観覚のもとで僧となりました。 観覚は法然上人の非凡さを見抜き、比叡山の源好の門に送りました。 天養二年(1145)13歳のことでした。
やがて上人は久安三年(1147)15歳の時、皇円の弟子となり天台三大部を学びました。 しかしこの頃の比叡山は、地位や権力を奪い合う俗世間とかわらない有様でした。
そこで上人は世間的栄達の道を捨てて、生死を超える道を求めて、 黒谷の別所の叡空の門に移りました。 久安六年(1150)18歳のことでした。
黒谷は名誉や地位を捨てて真剣に道を求める念仏者の集まる所でした。 上人はここで念仏聖の一人になられたのです。
上人は叡空より戒律や密教、それに『往生要集』について学びました。 上人は『往生要集』に説かれている称名念仏に引かれるものを感じながら、 多くの疑問を持ち続けていました。
保元元年(1156)24歳の上人は、京都嵯峨の釈迦堂に参籠された後、 奈良に趣かれ興福寺や東大寺の学者に会い、 教えを聞かれ、広く生死を超える道を求められました。 しかし、上人の期待するものは得られませんでした。
ただ奈良には善導大師の教えを強く受けて称名念仏によって往生を得ることを説く 永観や珍海の教えが伝えられていました。 これらの教えは、比叡山とは伝統を異にする浄土教でした。
その後ふたたび黒谷に復り、求道に励まれました。 上人の心は次第に善導大師の教えに傾いていきました。 しかし、称名念仏一つによって救われるという確かな信念は得られませんでした。
《上人の回心》
承安五年(1175)いつものように黒谷の経蔵にこもって、 一切経を読みふけっていた法然上人は、善導大師の『観経疏』「散善義」の、
一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、 これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり の文に至って心の闇が晴れ、念仏往生の教えに帰依されたのです。
時に法然上人43歳のことでした。
(以下、略)
(http://www.hotokuji.com/hounensyonin.html)
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谷口雅春先生は、『真理』第七巻悟入篇において、法然上人の万教帰一論を 取り上げております。
<感謝合掌 平成27年1月25日 頓首再拝>
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