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光明掲示板・伝統・第一

 

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二宮尊徳(二宮金次郎) (72)
日時:2015年01月23日 (金) 18時20分
名前:夕刻版

光明掲示板・第三において、”平賀玄米 さま”が
『傳記 二宮尊徳』という大作を掲載してしておりました。

小生は、そこで、あらためて、「二宮尊徳」の全貌を学ぶことができました。
”平賀玄米 さま”には、感謝あるのみです。

この掲示板にも、そのアドレスを掲載しておきます。


(光明掲示板・第三)

<傳記 二宮尊徳 ①>
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=264

<傳記 二宮尊徳 ②>
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=341

<傳記 二宮尊徳 ③>
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=483

<傳記 二宮尊徳 あとがき>
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=546

    ・・・

また、財団法人新教育者連盟から、子供のための伝記シリーズとして
「第4巻 二宮金次郎」が刊行されているようです。
 → http://www.shinkyoren.jp/publics/index/10/detail=1/c_id=50/page50=4#page10_50_4

    ・・・


資料を整理していたところ、「二宮金次郎」についてまとめた資料が
出てきましたので、「傳記 二宮尊徳」と重複いたしますが、
その要点を以下に紹介させていただきます。



(1)妻の理解と温かさが、金次郎に、歴史に残る働きをさせた

  ①「二宮金次郎」というと、
   小学校の校庭に建つ銅像を思い浮かべる人が多いのではなかろうか。

   薪を背負い、本を読みながら歩く、あの子供の姿である。

   貧苦に耐えながらも、一心に勉学に励んだことが、
   彼の将来を大きく変えることになった。

   百姓でありながら、小田原藩主・大久保忠真に見いだされ、
   「桜町領」の財政立て直しを命じられたのだ。


  ②桜町領は、土地がやせており米の収穫量が少ない。
   それでも年貢の取り立てが厳しいので、村から逃げていく農民が後を絶たなかった。

   今や、農地の半分以上が荒れ放題であった。
   そんな桜町領の復興は、単なる財政再建ではなく、
   農民の生活を救うことを意味している。

   これまでにも多くの人材が派遣されたが、すべて失敗に終わっていた。

   武士にはできなかった難事業が、金次郎に託されたのである。


  ③金次郎は、妻の心を気遣っていた。
   この大任を果たすには、家や田畑を処分して桜町領へ移り住まねばならない。

   うまくいって十年はかかるだろう。

   幼い子供もいるのに、果たしてついてきてくれるだろうか。
   考え抜いたあげく、妻に決意を語った。

   「殿様は、自分のような者を信じて重大な任務を与えてくださった。
   よほどの覚悟がなければ成就できない。

   そこで自分は、この二宮家の田地、家屋をすべて処分し、
   身命をなげうって努力する覚悟を決めたぞ。

   わが家を廃して、何百、何千の人々の苦しみを除くことができるならば、
   それで本望なのだ。

   しかし、この気持ちは、おまえには理解してもらえないかもしれない。

   自分とともに、どんな苦労をしてもいいと思ってくれるならば、一緒に桜町へ行こう。
   だが、そんな苦労はしたくないと思うならば、実家へ帰ってもらってもいい。

   無理は言わないから、おまえの気持ちのとおりにしてくれ」


  ④金次郎は、「黙ってついてこい」とか、「男は仕事が大事なのだ」
   「女に話しても分かるものか」などという態度を執っていない。

   自分のどんな気持ちで、何をしたいのか。そういうことを、きちんと伝える努力
   をすることが、妻への思いやりであり、夫婦にとって大切なことではなかろうか。


   妻に、迷いはなかった。

   「これは意外なことを言われます。とても、あなたの言葉とは思えません。
   私は生家を一歩出て、あなたに嫁いだ時から、心は決まっております。

   あなたが水火の難を踏まれるならば、私も一緒に踏みましょう。
   殿様から命を受けたことは、あなた一人ではなく、
   私たち夫婦にとっての光栄ではありませんか。

   私だって、命懸けで、どんな苦労にも耐えていく覚悟です。
   どうぞご心配くださいますな。私も一緒に参ります」


   金次郎は、うれしかった。
   笑いながら、「おまえの言うことはもっともだよ」と言って、
   さっそく家財の整理を始めた。


  ⑤夫婦は、飛行機でいえばパイロットと整備兵の関係に例えられる。
   夫がパイロットなら、妻は整備兵。
   安心してパイロットが飛べるのは、整備兵がいるからである。

   歴史に残る金次郎の活躍は、妻の深い理解と温かい支えがなければ、
   到底、ありえるものではなかった。

   妻と3歳になる息子を連れて桜町領へ向かったのは、金次郎、37歳の時であった。


(2)荒地よりも、人間の心を耕す難しさ

  ①荒地を開いて田畑を増やす。用水路を修繕し、田へ水を引く。
   桜町領の復興が始まった。


  ②二宮金次郎は、着任以来、役所から指示を出すのではなく、
   常に現場にあって、農民と苦労をともにしている。

   形よりも心を重んじていたエピソードを紹介しよう。

   ある日、開墾作業の見回りに出た時のことである。
   大勢の人が鍬を持って働いていた。
   その中で、一人の男の仕事ぶりが特に目立った。

   大粒の汗を流しながら、必死の形相で鍬を地面に振り下ろしている。
   まさに、他の人々の倍も働いているように見えた。

   金次郎に同行していた役人は、
   「あの男は働き者ですね」とささやいて注目していた。

   ところが、金次郎は、その男のそばへ近づくや、
   「この不届き者! 」とどなりつけた。

   褒めてもらえると思っていた男は、仰天して立ち尽くしている。

   「おまえは、なぜ、人の目を欺こうとするのか。
   責任者が見回りに来た時だけ、そのように激しく働こうという魂胆だろう。
   わしが通り過ぎたら手を抜くつもりに違いない。

   不埒千万だ。

   ウソではないと言いたいのならば、同じ調子で日が暮れるで鍬を振り下ろしてみよ。
   わしが、ここで見ていてやる。さあ、やってみよ!」


   狡猾で横着な心の底を看破し、その誤りを正したので、
   男は青くなって平伏してしまった。

   さらに金次郎は、周囲の人たちにも言い聞かせるように語った。

   「このような不心得者が、上役をうまく欺いて褒められたりすると、
   他の正直な者までやる気をなくしてしまう。
   揚げ句の果てには、皆、表面だけ取り繕うようになるだろう。
   そんなことでは、この桜町の復興は成就しないのだ」


   金次郎の目はごまかせない。
   人々は感動して、再び鍬を振るいだした。


  ③開墾作業には、他国からも多くの人が雇われてきていた。

   その中に、「根っこの藤助」と呼ばれている六十過ぎの老人がいた。
   一日じゅう、根っこばかり掘っているので、このあだ名がついたらしい。

   若い者は、木の根っこを掘るのを嫌がっている。
   時間がかかるからだ。

   それよりも、草のみが生えている場所を選んで耕したほうが効率がいいし、
   評価してもらいやすい。

   確かに、根っこばかり掘っている藤助は、普通の半分も働いていないように見える。

   そんな気兼ねがあるのか、休憩時間になっても、「わしは年を取って力も衰えて
   いるので、若い者と一緒に休んでいたら、何の役にも立ちませんから」

   と言って、休もうとはしなかった。


   ある日、金次郎は、藤助を呼び出した。
   本人は、仕事の効率が悪いので叱られるのかと思って、びくびくしている。

   金次郎は、笑顔で迎えた。

   「おまえさんは、毎日、よく働くなあ。この数ヵ月間、おまえさんの
   仕事ぶりを見てきたが、いつも感心していたんだよ。
   今日は、褒美を渡したいと思って来てもらったのだ」

   そう言って、15両という大金を差し出した。

   藤助は、あまりにも驚いて、受け取ろうとしない。
 
   「これは、私の気持ちだ。いいから取っておきなさい。
   おまえさんは、人が見ていようが、見ていまいが関係なく、
   こつこつと、まじめに仕事をしてきた。

   しかも、人の嫌がることを自ら進んでやってきた。
   その心掛けは立派なものだ。

   失礼だが、その年になって出稼ぎに来るのは、よほどの事情があるのだろう。
   このお金を持ち帰って、家族のため、自分の老後のために使いなさい」

   金次郎の温かい言葉に、藤助は涙を流して喜び、国元へ帰っていった。


  ④苦節十年。

   金次郎と、それを支える妻の、筆舌に尽くしがたい努力によって、
   桜町領は、豊かな農村に生まれ変わった。

   難しかったのは荒地の開墾よりも、人間の心を耕すことであった。

   農民の中には、反発する者や自己中心的な者がいて、
   なかなか一つにまとまらなかった。

   ある時、金次郎は、丸い風呂に入りながら村人に教えた。

   「自分の利益ばかり考えている者は、風呂のお湯を、しきりと手前へ
   かき寄せているのと同じだ。一時は自分の方へお湯が寄ってくるが、
   すぐに脇をすり抜けて向こう側へ流れていってしまう。

   結局、自分も恵まれることがない。

   これと反対に、常に相手のためを思い、自分の持っているものを与えようと
   する人は、お湯を向こう側へ押しやるのと同じだ。

   そのお湯は向こうへ行くように見えるが、
   実際には、ぐるっと回って自分の方へ返ってくる。
   相手も喜び、自分も恵まれることになるのだ」

   金次郎が一貫して村人に訴え続けたのは、利他の精神だった。

   「自分さえよければいい」という我利我利の心を捨てて、一致協力したからこそ、
   一つの目標に向かう団結が生まれ、不可能と思われていた事業を成し遂げることが
   できたのであった。


  【ままにならぬと おひつを投げれば
                そこらあたりは ままだらけ】


(3)天保の大飢饉

  ①二宮金次郎は、ナスが好きだった。
   天保四年(1833)の初夏のこと。
   彼は、食事の膳に出されたナスを食べて、首をかしげた。

   季節は初夏なのに、もう秋ナスの味がするのだ。

   「今年は冷夏となり、稲が育たないかもしれない」
   そう直感した金次郎は、桜町の農民に、冷害に強いヒエを栽培するように勧めた。

   案の定、真夏になっても気温が上がらなかった。
   雨が続き、稲が実らない。
   「天保の大飢饉」の幕開けだった。


  ②金次郎は、50年前に発生した大飢饉の様子を調べていたので、
   「やがて恐ろしい飢饉がやってくるぞ。もっとヒエ、アワ、大豆を作るんだ」
   と促し、各家庭に十分に蓄えさせた。

   翌年、翌々年と凶作が続き、いよいよ天保七年には全国的な大飢饉が発生した。
   餓死する者、数十万人を超え、死体の山が各所に築かれる有り様であった。

   桜町領では、金次郎の呼びかけにより雑穀の蓄えが
   十分にあったので一人の餓死者も出さずに済んだ。

   それだけでなく、備蓄した食糧を飢餓にあえぐ村へ届けて
   多くの農民の命を救っている。


  ③金次郎の出身地である小田原も、深刻な飢饉に襲われていた。
   藩主の大久保忠真は江戸屋敷で病気で寝込んでいたが、
   小田原の状況が心配でならない。

   そこで、金次郎に、自分の代わりに小田原へ向かわせ、
   領民を飢饉から救うように指示したのである。

   その際、「非常用に蓄えてある米倉を開けてもよい」という特別な許可まで与えた。

   金次郎が小田原へ駆けつけると、
   そこは、飢えに苦しむ人々であふれ、想像以上の惨状であった。

   もはや一刻の猶予もない。
   すぐに城の米倉を開けて領民に与えようとしたが、
   重臣たちの反対に遭ってしまった。

   「殿が米倉を開ける許可を与えられたというが、我々には、
   まだ正式な命令が届いていない。

   そなたの言葉を信じて米倉を開け、後日、お叱りがあってはかなわんからな。

   確かに急を要する事態ではあるが、
   一度、江戸へ使者を出して、殿にお伺いしてからにすべきだ」

   これを聞いた金次郎は、重臣たちの前で言い放った。

   「何万とも知れぬ人々が、今、まさに死に瀕しているのですぞ! 
   江戸へ使者を出して、返事が来るまでに何日かかるとお思いなのか。
   その間に、国民の半数は餓死するでしょう。

   おのおの方は、人の命を救うよりも、
   わが身に罪が及ばないことのほうが大事なのでござろう。

   それが政治をつかさどる者の態度といえましょうか。
   ああ、なんと無慈悲な! あまりにも情けない!

   おのおの方は、領民を思う殿のご心労も、飢えに直面している人民の苦悩も、
   少しも分かってはいない。

   これ以上、議論しても何の意味もない。
   そこで、おのおの方に提案がござる。

   断食をしていただきたい。

   この議論が決着するまで絶対に食事を取らないでもらいたい。
   自身が暖衣飽食したままで、どうして明日をも知れぬ
   国民の気持ちが分かりましょうや。

   論より証拠、まずご自身が、断食して飢餓を味わえば、
   自然と結論が出るはずです」

   その声は雷のごとく、人命を尊ぶ心は火のごとく、
   徹底した理は矢のごとく、人々の胸を打った。

   重臣たちは一言も反論できず、米倉を開くことに一決した。

   かくて、数万の人民を救済する道が開けたのであった。

   金次郎は、身も心も打ち込んで救助の陣頭指揮を執り、
   2ヵ月半後に、大任を終えて、桜町領へ帰っていった。


(4)金次郎に農村改革の援助を求める声は、この後も、関東全域からわき起こった。

   まさに東奔西走の、忙しい日々を送っている。

   70歳で亡くなるまで、生涯、権力にこびず、地位を求めず、
   自ら荒廃した農村を歩き回り、悲惨な生活に苦しむ人々を救うことに
   尽力したのであった。


   【沈んで屈するな 浮かんで奢るな】


           <感謝合掌 平成27年1月23日 頓首再拝>

伝統様 有難うございます。 (76)
日時:2015年01月23日 (金) 23時58分
名前:平賀玄米


いつも変わらぬ御愛念を賜り、有難うございます。深謝。
今回も、小生の至らざるをサポートして頂き、誠に有難うございました。

思えばこの「傳記 二宮尊徳」は前にも書きましたが、伝統様のスレッドを拝読したのが
きっかけで、もう何十年も前に読んだ「武者小路実篤著」の本を引張り出してきて投稿を
開始させて頂きました。

まるごと一冊、何とか投稿完了する事が出来ましたのも、伝統様の温かい御愛念あったれば
こそと感謝致しております。

現在の小生の心境を申し上げれば、伝統様が資料としてご紹介下さっている

>③開墾作業には、他国からも多くの人が雇われてきていた。
の中の文中の
>金次郎の温かい言葉に、藤助は涙を流して喜び、国元へ帰っていった。

まさにこの藤助さんと全く同じ心境でございます。 (合掌)

この伝統様の「二宮金次郎」についての資料のご紹介により、『二宮金尊徳翁』の理解が
より一層深まり、小生のように『二宮尊徳翁』を『吉田松陰先生』と同じくらい尊敬する
方がきっと出て来る事を信じております。

伝統様 本当に有難うございました。 合掌再拝。

”平賀玄米 さま”へ (77)
日時:2015年01月24日 (土) 04時00分
名前:伝統~夕刻版

”平賀玄米 さま” ありがとうございます。

>もう何十年も前に読んだ「武者小路実篤著」の本を引張り出してきて投稿を
>開始させて頂きました。

もの凄いエネルギーと情熱を注いだことにより、
”平賀玄米 さま”の思いが多くの閲覧者の方々に伝わったと捉えております。



>『二宮金尊徳翁』の理解がより一層深まり、小生のように『二宮尊徳翁』を
>『吉田松陰先生』と同じくらい尊敬する方がきっと出て来る事を信じております。

小生も”平賀玄米 さま”と同じように信じております。
『二宮尊徳翁』を深く知れば知るほど、谷口雅春先生と同じように、
その偉大さを讃えたくなってまいります。

”平賀玄米 さま”の熱き思いを受け継いで、
このスレッドにおいては、「二宮尊徳(二宮金次郎)」の偉大さを掘り下げて
まいります。

           <感謝合掌 平成27年1月24日 頓首再拝>

『富と道徳』~「二宮尊徳(二宮金次郎)」 (99)
日時:2015年01月26日 (月) 19時12分
名前:伝統

           ・・・

二宮尊徳は貧窮していた生家を再興し、その才を見込まれ小田原藩家老・服部家の
財政建て直しを頼まれ、見事に成功、生涯において数多くの財政再建を成し遂げ、
一貧農から最終的には幕臣となった財政の専門家です。

           ・・・

(1)貧者は昨日のために今日働き、昨年のために今年働く。
   そのためにいつも苦しんでいて、働きの効果が出ない。
 
   富者は明日のために今日働き、来年の為に今年働くことから、
   余裕をもって望むことができ、することがほとんど上手くいく。

(2)遠きをはかる者は富み、近きをはかる者は貧す。

   それ遠きをはかる者は、百年のために杉苗を植う。
   まして春蒔きて秋実るものにおいてや。
   故に富有なり。
 
   近きをはかるものは、春植えて秋実るものをも、なお遠しとして植えず。
   ただ眼前の利に迷うて、蒔かずして取り、植えずして刈り取ることのみ眼につく。
   故に貧窮す。

(3)貧となり富となる、偶然にあらず。
   富も因て来る処あり、貧も因て来る処あり。

   人皆貨財は富者の処に集まると思へども然らず。
   節約なる処と勉強する所に集まるなり。

(4)道徳を忘れた経済は罪悪であり、経済を忘れた道徳は寝言である。

(5)キュウリを植えれば、キュウリと別のものが、収穫できると思うな。
   人は自分の植えたものを収穫するのである。

(6)富貴天にありという言葉は、
   寝ていても勝手に豊かになると考えている人もいる。

   これは大きな間違いである。
 
   その意味は、日々励んで、その言動が天理にかなっているときには、
   富は向こうから近づいてくるということだ。


           <感謝合掌 平成27年1月26日 頓首再拝>

地方創生の先駆者「二宮金次郎」 (187)
日時:2015年02月04日 (水) 21時03分
名前:伝統

          *Web:東洋経済オンライン(2015年02月03日)より


今回のコラムは、二宮金次郎(尊徳、1787~1856)を採り上げたいと思います。
なぜ、二宮金次郎なのでしょうか。

実は、彼こそ江戸時代の後期から末期にかけ、
地方創生を真剣に考えていた先駆者だったからです。

江戸時代(徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年から、大政奉還をする1867年まで)というと、
皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか。

実は、前期は急激な人口増加があったものの、日本は江戸中期以降となると、
全国の人口がほぼ横ばいとなり、地域差こそあるものの、江戸時代後期に向けては、
飢饉の発生などを含め人口減少に悩む地域が多く出ていました。

その中でも現在の北関東にあたる地域は人口減少が激しく、
1600年から1700年代前半までは約70万しかいなかった人口が220万ほどに急増した後、
1800年代に向けては約160万人まで人口減少したという記録が残っているほどです。

その北関東に位置し、困窮していた下野国・桜町領(現在の栃木県旧二宮町、現在は真岡市に編入)
の再生で大変な業績を挙げたのが、二宮金次郎です。

もともと、金次郎の出身は現在の神奈川県小田原市です。

百姓時代から才能をあらわした金次郎は、小田原藩の家老・服部家で武家奉公人として
働きますが、そこで服部家の財政を立て直し、小田原藩主の大久保忠真(ただざね)の目
に留まります。

下野の桜町領は、藩主の分家の領地であり、その再生を任されたのです。
大成功を収めた金次郎は、その後ついに幕臣に登用され、徳川家にとって重要な
日光の地の再生事業も任されることになります。

 
私は二宮金次郎と言えば小学校の校庭の片隅に置かれた、薪を背負って仕事をしながらも
本を読んでいる「勤勉と勤労」の象徴的な姿として教わりました。
皆さんの多くも、そのように思われているのではないでしょうか。

 
しかし、実は彼は、薪を親に言われて、
「労働として」背負って運んでいたのではなかったのです。

「あの姿」は、自ら山を二束三文で借りて木を切り出し、
当時は「重要な燃料」であった「薪」にしてまちで販売するという、
エネルギー事業に精を出していたものだったのです。

そして、その稼ぎをもとに、人々に低利での金貸しを行って生活を支えていくという
金融事業まで興した、事業家でもあったのです。

 
さらに、それらの事業経験をもとにして困窮にあえぐ地域を再生する、
現代でいう、「地域再生のプロ」としても大活躍していたのです。

そもそも、なぜ地域は困窮するのでしょうか。昔も今も本質は変わりません。
地域が困窮するのは、行政も民間も、さまざまな事業の収支が赤字になるからです。

赤字の悪影響は、実際に生活が困窮し、借金を重ねていくというだけにとどまりません。
将来に希望を持てない生活に、身も心も荒廃してしまうところにあります。

 
そのため、まずは慢性的に赤字になっている状況を黒字に変えるのを、
彼は再生の第一歩としています。

単純な話、赤字になるのは、収入に対して支出が大きすぎるわけです。

 
江戸時代後期は、人口減と共に、今の日本の状況と同様に、
幕府の財政も赤字、藩の財政も赤字であるところが多数ありました。

彼は、幕府や藩のような、今で言う行政であろうと、民間であろうと、
はたまた農村であろうと都市であろうと区別なく、
しっかり収支を黒字にすべしとしています。

そのことを、二宮金次郎は「分度(ぶんど)」と呼んでいます。

簡単にいえば、収入に基づいて支出を決め、黒字体質にする、ということでしょうか。

 
彼は、地域の再生計画を建てる上で、まずは収入を増加させるため、
稼いでいないさまざまな資産を、わずかでも収入になるよう、徹底的に「営業」をします。

例えば、彼は庭に生えている梅の木の実でさえも販売させます。
蔵に備蓄しているコメは、大坂・堂島の相場を見ながら高値で売却をしていったりしています。
さらに、奉公人たちに裏山の木を切り出して、薪として販売させます。

その収入は基本的に奉公人たちのものとし、精力的に稼ぐ動機を与えています。

一方で、「使いすぎ」の予算を削減して、収入に見合った規模に最適化させます。

例えば、当時の生活において、薪や菜種油などの燃料代は決して少なくありませんでした。
このごろは下がってきましたが、今のガソリン代や灯油代に苦しめられる家計と
そっくりですよね。

彼は、鍋底についたススを落とすと燃費が改善するため、飯炊き担当の人などに
「鍋底のススを綺麗に落として一升にしたら、2文で買い取る」というルールを考案します。

このように、単に「経費を削れ」と言うだけではなく、具体的方法を示すわけです。

燃費がよくなって経費が浮いた分については、これを元手に、飯炊き担当の人が積極的に
「スス落とし」に取り組めるよう、動機を与えています。

驚くべき「知恵」です。

「新たに稼ぐこと」、「経費を削ること」、この両方で皆の意欲を引き出し、
小さな日々の積み重ねを通じて、細かいさまざまな財政、事業での黒字化を果たします。

人口減少問題を抱え、生産能力も右肩下がりの状況では、
今までどおりにおカネを使っていては、いくらあっても足りません。
まずは身の丈にあった状況を作り出す必要があります。

しかも、それを可能にするための方法は具体的であり、
皆が能動的に取り組みたくなるものでなくてはならないのです。

さまざまな「知恵」をひねり出す状況に、自分たちを置くために、
収支を厳守する目標「分度」を作るのです。

 
最近、フランスの経済学者トマ・ピケティ氏の「21世紀の資本」に代表されるように、
富める者がさらに富む経済論に関する議論が盛り上がっていますが、

実は、二宮金次郎は江戸時代においても、この問題と対峙しています。

例えば、地域の外に住んでいる高利貸しから借り、返済の見込みがつかない状況を
解消するため、地域の人々に対して低利融資への借り換えを行っています。

それだけではありません。

ここからが彼の真骨頂です。

さらに、その「借り換えた借金」の返済計画を共に立て、しっかりと目標をもたせることで、
生産意欲を取り戻します。そして借金が完済したら、その稼げる力をもとに、
さらに1年分を追加拠出してもらい、基金を組成します。

他に困っている人、もしくは将来自分が困った時の低利融資の原資として活用しています。


先述のような、奉公人による裏山の薪販売など、皆が「分度」の順守を通じて稼ぎだした余剰
についても、「皆で使ったらそれで終わりだぞ」と諭しています。

利益を分配するのではなく、基金として拠出し、次なる取り組みに投資・融資していけば、
数年、数十年が経てば膨大な資金になっていくことを複利計算と共に人々に教え、
実行しています。

つまり、事業収入での黒字化だけでなく、それを元手にした金融収入を地域の人々に与える
仕掛けづくりを行ったのです。

おカネは借りてしまうと、複利で回せば借金が借金を呼んで雪だるまのように膨らみ、
人々を苦しめます。しかし、逆に運用の側に立てば、おカネがおカネを生みます。
適切に運用すれば、人々を救い、むしろ豊かにすることにつながることを示してくれています。

 
今回のコラムで見てきたように、地方創生事業や、地方の自立を考えるうえでは、
まさに二宮金次郎の取り組み、それを体系化した「報徳仕法」から学ぶべきことが
ヤマほどあります。

 
今の地方にも、行政、企業、家計の全てに「分度」が必要であり、しっかり稼ぎ方を考え、
さらに絞り方を工夫して黒字化する知恵が問われています。

際限なく借金を重ね、中央からの支援金をもらっても赤字事業ばかりで食いつぶすだけでは
地方創生は程遠いのです。今は金利の支払いが膨らみ、地域から複利で資金が流出している
状態です。

だからこそ、地域の取り組みについては、地域内の資金で回していくという、
金融の知恵も必要不可欠です。

個別の取り組みでしっかり黒字を出していければ、当然おカネを貸せるようになります。
地域内の皆で拠出した基金で、地域の一つ一つの取り組みにおカネを貸せれば、
その取組みの黒字から金利が支払われ、地域の人々は金利収入を得られるようになります。

中央からおカネだけもらって食いつぶすより、数年すればこの複利で回り始めるのです。
今の厳しい状況とは、事態がまったく逆転します。

このシンプルかつ原則的な環境を、どうやって地方に作ることができるのか。
現代の日本においてもさまざまな取り組みが地方で起きています。

過去から学び、現代の取り組みを改めてその視点から評価すると、
その意義も変わるように思います。

二宮金次郎の残した知恵を、現代の問題と照らし合わせると、
地方創生のあるべき姿の一端がみえるのではないでしょうか。

 
http://toyokeizai.net/articles/-/59625


           <感謝合掌 平成27年2月4日 頓首再拝>

たらいの水~その1 (225)
日時:2015年02月07日 (土) 17時48分
名前:伝統

二宮金次郎の示した復興と幸福への道

          *Web:JOG(国際派日本人養成講座)(H25.08.04)より

あらゆる荒廃は心の荒蕪(こうぶ)から起こる。
心田の開発こそ繁栄への道。

(1)たらいの水は引き寄せると逃げていく

   二宮金次郎が説いた教えで有名な「たらいの水」の話をご存じだろうか? 

   たらいの水を自分の方に引き寄せようとすると、水は向こうに逃げてしまう。
   相手にあげようと押すと、こちらに帰ってくる。

   幸福を独り占めしようとすると逃げてしまうが、
   相手のために尽くしていると幸福は勝手にやってくる、という教えである。

   我々の日常生活でも、自分の事ばかり考えているエゴイストは周囲から嫌われる。
   仕事でも、周囲が助けてくれないから、うまくいかない事が多い。

   逆に人のことを第一に考えて助けている人は、周囲からも感謝されて助けられて
   楽しくやれるし、仕事自体もうまくいく場合も多い。

   江戸時代に荒廃した6百余村を立て直した金次郎の一生はまさに、
   たらいの水を押し続けた一生であった。

   亡くなった時にはまったく私有財産を持っていなかったというが、
   6百余村の農民から感謝され、さらにその教えをもとに農村復興を広めようと
   報徳社という組織がピーク時には千社も作られたのであるから、
   実に有意義な、幸福な一生であった。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年2月7日 頓首再拝>

たらいの水~その2 (255)
日時:2015年02月09日 (月) 17時53分
名前:伝統

(2)たらいの水は頂いたもの

   しかし、私の長年の愛読誌『致知』の本年(H25年)9月号で、この話には前段がある、
   という二宮尊徳(金次郎)7代目の子孫、中桐万里子さんのお話には、
   あっと驚かされるとともに、深い感銘を受けた。


   中桐さんは、その前段をこう説明する。


      人間は皆空っぽのたらいのような状態で生まれてくる、
      つまり最初は財産も能力も何も持たずに生まれてくるというのが前段にあるのです。

      そしてそのたらいに自然やたくさんの人たちが水を満たしてくれる。
      その水のありがたさに気づいた人だけが他人にもあげたくなり、
      誰かに幸せになってほしいと感じて水を相手のほうに押しやろうとするんです。

      そして幸せというのは、自分はもう要りませんと他人に譲ってもまた戻ってくるし、
      絶対に自分から離れないものだけれど、

      その水を自分のものだと考えたり、水を満たしてもらうことを当たり前と錯覚して、
      足りない足りない、もっともっととかき集めようとすると、幸せが逃げていくんだという
      たとえ話だと教わったんです。<『致知』H25.9~p12>


   この自分は空っぽの「たらい」として生まれてきたのであって、
   今入っている水は、両親やすべての先人、先輩たちに頂いたものだという
   「有り難さ」に気がつくことが出発点だという。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年2月9日 頓首再拝>

たらいの水~その3 (279)
日時:2015年02月11日 (水) 17時37分
名前:伝統

(3)金次郎のたらい

   金次郎は貧農の家に生まれたが、寛政3(1791)年に南関東を襲った台風で
   近くの川の堤が決壊し、父親の田畑も流されてしまった。

   近所の人たちが堤防の補修工事を始めて、金次郎も父の代わりに手伝いに出るが、
   幼くて十分な働きができない。
   そこで金次郎は夜なべして草鞋(わらじ)を作って配ったのである。

   その後、14歳で父を亡くし、その2年後に母も逝き、叔父の家に引き取られたが、
   わずかな荒れ地を開墾して田畑を得るなどして、経済的に独立を果たす。

   その間に寝る間も惜しんで読書をした。
   金次郎はそんな体験をもとに自らの学問を深め、やがてその力量から人々に引き立てられ、
   農村復興のリーダーとして大成していく。

   金次郎の「たらい」には、当初、経済的にはごくわずかの水しか入っていなかった。

   しかし、その経済的ハンディを嘆くことなく恨むこともなく、
   子供ながらに草鞋を作って隣人たちを助けようとした。

   水を押し出していると、こちらに帰ってくるだけでなく、
   周囲の人から水を注がれて、そのかさが増していくのである。

   金次郎が貧しい農家に生まれたことでたらいの水の少ないことを嘆き、
   そのわずかの水を自分のものとして抱えこもうとしたら、
   不平家として不幸な、無名の一生で終わっていただろう。

           <感謝合掌 平成27年2月11日 頓首再拝>

たらいの水~その4 (305)
日時:2015年02月13日 (金) 21時16分
名前:伝統

(4)一本の松の樹はいかに育ったか

   中桐さんは金次郎の7代目子孫という血筋だけでなく、
   幼い頃からお祖母さんなどから金次郎の話を聴きながら育ったようだ。

   だから、文章を通じて学んだというよりも、肉親の口ぶりを思い浮かべながら語っている
   という印象を持つ。前述の引用で「教わったんです」と言われているのも、
   本から教わったというより、お祖母さんなどから聞いて教わったということだろう。


   その中桐さんが、同じく致知出版社から『二宮金次郎の幸福論』という著書を出している
   のを知って、早速読んでみた。予想通り、金次郎の言葉が、まるで自分の肉親はこう言った、
   というような語り口で説かれている。

   前述の「たらいの水」に関連して、こんな一節がある。
   いま目の前に大空にそびえる一本の松の樹があるとして


      この松が、あるとき突然このカタチでここに置かれたものでないことは
      誰でもが知っています。どんな大きな松でも、かならずはじまりは小さな小さな苗です。

      この苗にたくさんの人々びとの思いが注がれ、手間ひまが加えられることで、
      ゆっくりとこの姿になってきたのです。

      たくさんの自然たちもまた、この苗にエネルギーをかけてきました。
      長い年月の間、絶え間なく陽光や雨が降り注ぎ、大地や風が味方となって
      静かに育むことで、ゆっくりとこの姿になってきた、、。・・・


      金次郎は、立派な松のような特殊なものだけではなく、茶碗だって、鋤や鎌だって、
      一枚の着物だって、かならずプロセスを持ち、思いを注がれ、
      初めてこの世界に生み出されてると言います。

      ましてや人間一人ひとりにいたっては、途方もない物語の結晶だと言えるわけです。

                           (『二宮金次郎の幸福論』P107)

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年2月13日 頓首再拝>

たらいの水~その5 (330)
日時:2015年02月15日 (日) 19時47分
名前:伝統

(5)自分という「たらい」に注がれた水

   「人間一人にいたっては」という事から、自分自身にひきかえて考えてみると良い。
   中桐さんは友人に子供が生まれると、
   病院や家に行って、父母となった幸せそうな表情を観る。


      わたしはそんなシーンに立ち会いながら、
      たびたび不思議な心持ちを味わっていました。

      もしかしたらわたしもまた第一子として、こんな風に両親、祖父母
      (さらに少し大袈裟に言うならそのときにはすでに亡くなっている先祖たちも!)、
      そして他人である両親の友人さえも...と、

      想像もできないくらい多くの人の喜びとともに
      この世界に迎えてもらった身なのかもしれないなぁと。

                          (『二宮金次郎の幸福論』P124)


   誕生の瞬間ばかりでなく、自分自身が両親や祖父母、恩師、先輩たちから、
   どれだけの思いを注がれて、ここまで育てられてきたのか、振り返ってみよう。

   一本の杉の木よりも、もっと多くの人々がもっと多くの思いを注いで、
   あなたは育てられてきたはずだ。


      何も持たず空っぽのたらいとして生まれた自分に、
      いまや豊かになみなみと水が注がれている。

      親や先祖が、先生が友人が、同時代を生きる同志が、、、
      たらいを満タンにしてくれた。

      ワクワクするようなその感激こそが「この水を他者にも受け取ってほしい
      という欲求を生み、この欲求が人を「水を押す」行動へと駆り立てるのです。

      もちろん、水を押すのは決して義務感による行為ではありません、
      しなければならないことではなく、せずにはいられないこと、
      といったイメージでしょう。

                          (『二宮金次郎の幸福論』P183)

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年2月15日 頓首再拝>

たらいの水~その6 (356)
日時:2015年02月17日 (火) 20時11分
名前:伝統

(6)相手のために水を押すことの面白さ

   金次郎の考えは「報徳思想」と呼ばれるが、「たらいの水」のたとえを使えば、
   自分に注がれた「たらいの水」を徳として、それを有り難いものとして感謝して
   世のため人のために使う、

   そのように「与えられた徳に報いる」ことを報徳と言って良さそうだ。
   中桐さんは、『致知』での対談でこう語っている。


     私は金次郎はどうやって自分の命を使うかということを考え続けた人だと思うんです。
     先ほどたらいの水のお話をしましたが、自分に注がれた水をどう使うか、
     どうやって使うと一番有効に豊かさを増やせるのかということに
     非常にこだわった人だと思うんですね。

     そして使うことで消耗するのでははなく、増やすこと、生み出すことに
     繋がる使い方を追求した。そういう命の使い方、仕事のやり方が金次郎の言う
     報徳なんだと思うんです。

     ですから彼の人生を貫いた報徳を、
     コツコツ頑張れば報われると解釈するのは誤りです。

     やはり相手に報いていくことにエネルギーが注がれていたと思うし、
     そうやって命を使うことは面白いということが彼の人生で貫かれて
     いるんじゃないかと思うんです。(『致知』H25.9~p12)


   相手のために自分の水を押しだしている人は感謝され、たとえうまくいかなくとも、
   新たな学び、すなわち水を得られる。
   そういう感謝と喜びに満ちた人生は限りなく面白い。

   ここまで来ると、『二宮金次郎の幸福論』というタイトルに込められた意味が見えてくる。

   自分に注がれた「たらいの水」に感謝し、
   その徳に報いようと水を使っていく面白さを味わう。
   それこそが人生の幸福であろう。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年2月17日 頓首再拝>

たらいの水~その7 (379)
日時:2015年02月19日 (木) 19時39分
名前:伝統

(7)企業を立て直すには会社のはじまりに戻って考える

   「たらい」を人間ばかりでなく、企業としてとらえても、同じことが言える。
   中桐さんは『二宮金次郎の幸福論』の中で、こんな話を紹介している。


      ある方からこんなことをうかがったことがあります。
      会社が倒産に追い込まれそうなほど赤字が続いたとき、未来の安定経営のために
      どれだけ経費が削れ、無駄が省け、リストラができるか、、、、
      を考える方法があります。

      一見、正当なようですが、これは実際にはかなり現場を抑圧し、
      敵対感情を生み、社員の士気を下げ、衰退への道をすすむ可能性と
      隣り合わせだそうです。

      他方、会社のはじまり(過去)に戻って考える方法もあると言われるのです。
      きっと多くの人が「お客さんに喜んでほしい!」という熱い思いとともに
      設立に携わったことでしょう。

      その想いのおかげでこの会社が生まれ、
      そして少なくとも社員はみなその恩恵を受けてきた。

      ならば、その思いに立ち返り、そのうえで現状をみて、
      自らの行動の仕方を考えよう。各自がもっとアイデアを出し、
      知恵を絞り、できる工夫をしようじゃないか、、、と呼びかけるのだそうです。

                    (『二宮金次郎の幸福論』P144)


   会社設立当初の志を想い、その後も多くの人々が思いを注いできたことを考えれば、
   先人たちに感謝し、その恩に報いようという気持ちが出てくる。

   そんな姿勢のほうが、経費節減に汲々とするより、はるかに良い結果をもたらす
   であろうことは理の当然と思える。

   わが国には数百年も繁盛してきた老舗企業が数多くあるが、
   それらは顧客や社会のために「たらいの水」を押し続けてきた企業である。

   その先祖代々の志を受け継いできた企業が、
   それによって幾たびかの危機を乗り越えて、長寿を保ってきたのである。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年2月19日 頓首再拝>

たらいの水~その8 (405)
日時:2015年02月21日 (土) 17時34分
名前:伝統

(8)心田を耕す

   企業と同様、国家の盛衰についても同じ事が言えるのではないか。
   日本経済は、昭和60年代のバブル以降、その崩壊、デフレと迷走を続けてきた。

   昭和60年といえば戦後40年。
   戦前の教育を受けた終戦時20歳まで青年たちが高度成長を果たした後で定年で退き、
   戦後教育を受けた年代が社会の中心を占め始めた頃である。

   この頃から、戦前の日本は暗黒だったという自虐史観が広まり、
   国家を悪として個人の権利のみを訴える思潮が本格的に浸透していった。

   言わば、先人を悪し様に罵り、自己の権利ばかり主張して、
   国民全体が「たらいの水」を自分のものとして引きよせようとした頃から、
   水が逃げ始めたのである。中桐さんはこう言う。


      金次郎はあらゆる荒廃は心の荒蕪(こうぶ、土地が荒れて、雑草の茂るが
      ままになっていること。)から起こる」と言って、心の荒蕪さえ耕したら
      あらゆるものが豊かになると説いてます。

      彼が6百余村もの再建を成し遂げたのは、結局、そこにいる人たちの心の荒蕪、
      心田を耕したと言えると思うんです。<『致知』H25.9~p14>


   最近はアベノミクスにより、ようやく再興への道が見え始めたが、国民が今まで通り、
   「たらいの水」を自分のものとして引き寄せようとしていたのでは、結局、通貨安
   による一時の棚ぼた利益を一部の国民が懐にした、
   ということだけで終わってしまうだろう。

   日本経済の荒廃は日本国民の心の荒蕪から起きているのであるから、
   まずは荒れ果てた国民の心田をもう一度、開拓する所から始めなければならない。

   そのためには、企業再建の後者の方法に従って、代々の先人たちが
   どのような苦労をしながら、国を創り、支えてきたのかを顧みることから
   始めなければならない。

   そこから、自分のたらいにいただいている水に感謝し、それを国家の再興に役立てよう、
   という気概が広く国民の間に沸き上がってくるだろう。

   日本再興が求められるまさにこの時期に、荒廃した6百余村を再建した
   二宮金次郎の肉声を伝える7代目子孫が現れたことは、
   日本国民の覚醒を待つ天の配剤かも知れない。

(たらいの水~完了)

        (http://archive.mag2.com/0000000699/20130804000000000.html

           <感謝合掌 平成27年2月21日 頓首再拝>

報徳二宮神社 (484)
日時:2015年02月27日 (金) 19時28分
名前:伝統

(1)創建120年:平成26年、報徳二宮神社は創建より120年の佳節を迎えました。
          → http://www.ninomiya.or.jp/120th/

(2)由緒

   明治27年(1894)4月、二宮尊徳翁の教えを慕う
   6カ国(伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、翁を御祭神として、
   生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に神社が創建されました。

    (神奈川県小田原市城内8-10(小田原城址公園内))

(3)御祭神  二宮尊徳翁

  ①生い立ち

   二宮尊徳翁(公文書では、金次郎、自筆は金治郎)は天明7年(1787)、相模国栢山村
   (今の小田原市栢山)の豊かな農家に生まれました。

   再三にわたる酒匂川の氾濫で田畑を流され、家は没落し、
   過労により両親は亡くなり、兄弟はばらばらに親戚の家に預けられました。

   金次郎は 、朝暗いうちから夜遅くまで汗と泥にまみれて一生懸命働き、
   その間余裕ができればわずかな時間も無駄にせず勉強をして、
   先人の教えを理解しようとしました。

   荒地を開墾して収穫を上げお金を貯め、質に入れていた田畑を少しずつ買い戻し、
   一生懸命努力して24歳までに一家を再興しました。

  ②積小為大(せきしょういだい)
  
   毎晩勉強していた金次郎は、読書をするための油代を稼ぐために荒地に菜種を植え、
   たった一握りの菜種から7~8升の取り入れになった経験や、捨て苗を荒地で丹精こめて
   育てて、秋には一俵の籾を収穫したことにより、

   自然の恵みと人の力の素晴らしさを知 ると共に、
   小さな努力の積み重ねが大切(積小為大)だと学び、
   これが後の行いや考え方の基になりました。

  ③偉大なる功績

   大人になった尊徳翁は、生涯を世の中のためにささげ、小田原藩家老服部家の
   財政再建をはじめ、藩主大久保忠真候の依頼により分家宇津家の桜町領を復興させるなど、

   自分の体験をもとにして大名旗本等の財政再建と領民救済、北関東から東北にかける
   各藩の農村総合的復興事業(仕法)を行い素晴らしい成果をあげました。

   大飢饉で農村が疲弊しきっていた当時、
   尊徳翁が仕法を手がけた村々は600ヶ村以上に上ります。

   多くの農村や藩を貧困から救い、独自の思想と実践主義で人々の幸福を追求し、
   数理、土木建築技術から文学まであらゆる才能を発揮した世界に誇れる偉人です。

   内村鑑三著『代表的日本人』の中でも、19世紀末、欧米諸国に対して
   「日本人の中にも、これほど素晴らしい人物がいる」と
   苦難の時代を救った偉人として尊徳翁は紹介されています。

   (http://www.ninomiya.or.jp/

           <感謝合掌 平成27年2月28日 頓首再拝>

二宮金次郎は大飢饉をどう乗り越えたか? (700)
日時:2015年03月19日 (木) 17時42分
名前:伝統

        *二宮金次郎七代目子孫・中桐万里子さんの講演会(平成26年6月)より

ちょうど田植えが終わった初夏でありました。

農民が、重労働が終わったと一息ついていたある日、
金次郎は大変な形相で村人全員にこう言ったのです。

「今年植えた米の苗、全部抜いてほしい」

彼はその日、ナスの漬け物を食べて驚愕したのです。
「秋ナスの味がする」と。

カレンダーではこれから夏が来るというのが常識であります。

ところが金次郎はいまが秋で、これから冬が来る、
つまり冷夏がやってくることを
ナスは伝えているのではないかと判断したのです。

そして寒さに弱い米から、稗などの
寒さに強い作物への植え替えを指導しました。


この年から、日本全国が地獄絵図になったと言われる
「天保の大飢饉」がやってきたのです。

しかし、金次郎がいた村では、
一人の餓死者も出しませんでした。
植え替えの結果、作物が実ったのです。


金次郎はこの事例を通して、
どんな環境の中でも必ず豊かさを手にして
生活できると実証してみせたわけです。

それは金次郎にしかできないのでは?
と思うかもしれません。

けれどもしそうであったなら、
六百もの村が再興することはなかったのです。

彼は村人一人ひとりが実践できるよう、
水車を使ってその方法を説明していきます。

水車と川の関係では、全然違う個性のもの同士が生かし合い、
さらにエネルギーが生み出されている。
金次郎はこれこそ理想的な現実の姿だと説きました。

皆さん、自分自身を水車、直面している現実を
川だと思ってください。

そこで重要なのは、どんな水車も思い切って
川に飛び込むところから回り始めるということです。
何が流れてこようとも、
頭から突っ込むことが始まりだというんです。

しかし、そのままでは水車は流されてしまいます。

水車にとってもう一つ大切なことは、
その場に踏みとどまり、
川とは逆向きに動くことであるわけです。

つまり彼は、私たちは現実に半分従い、半分逆らって動けばいいと言うのです。


彼が言う「従う」とは相手を知ること、
さらには、どんな現実や相手でも、覚悟を決めて受け入れることでありました。

そしてその上で大切なのは逆らうこと。
つまり現実に対して対策を立て、実践することだというのです。
先ほどのナスの事例は、まさにこの通りでありました。


彼は冷夏をなくしたわけではありません。

ここは米のための土地だといったこだわりを捨て、
冷夏を生かす方法を考えたことで知恵が生まれたことが、
彼にとって最も大切なことでした。

そして彼が現実を知ることを重んじた背景には、
どんな現実も実りを生む力を持っているという 信念があったのです。

私たちは困難にぶつかった時
「自分って無力だなぁ」と思ってしまいがちです。

けれど金次郎は、一人として無力な人間はいない、
私たちが壁を越えられないのは、無力なのではなく 「無知」だからだと言い切ります。

彼は、実りを生み出すのは能力ではなく、
従い、逆らうことができるかどうかだと考えていたのです。

・・・


中桐万里子さんは、
お祖母さんから、こんなことを聞かされてきたといいます。



  幼い頃より祖母に金次郎のあの像について
  言われていることがありました。


  「あの銅像の姿は貧しくても忙しくても、
   勉強が大事だ。本を読め!
   ということだと、どこかで教えられるかもしれないけれど、
   それは違うのよ。

   あの姿で一番大切なのは、
   背負っている薪と、
   一歩を踏み出している足なの。

   だからあの像はね、本を読むことも、
   理想を追求することも大事だけど、
   でも、どんなときも行動することを忘れてはいけない。
 
   どんな状況でも一歩を踏む出すことを
   忘れてはいけないというメッセージなのよ」


と。つまり、


「口だけ頭だけの人間には絶対になるな。
 実践することをなによりも大切にしなさい」


と言われてきたのです。

 ・・・

<心に残る言葉>

●もしどうしていいかわからないなら、
 立ち止まってしまいそうなら、それは「無力」なのではなくて、「無知」なのだ。


●金次郎はあらゆるものに徳がある、と言いました。
 金次郎は「徳」を「プロセス」や「ドラマ」と捉えます。
 そのドラマを知れば、すべてが愛おしくなり、
 また問題解決のヒントもそこに隠されているのです。


●「見渡せば 敵も味方も なかりけり
  おのれおのれが ここころにぞある」


           <感謝合掌 平成27年3月19日 頓首再拝>



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