母と娘の「絆」 (247) |
- 日時:2015年02月09日 (月) 04時41分
名前:伝統
*『致知』2014年6月号 (P89~90) 連載「致知随想」~高橋恵(サニーサイドアップ創業者) より
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企業の商品の広報や、元サッカー日本代表の中田英寿選手、 陸上の為末大選手などのスポーツマネジメントを手掛ける PR会社の「サニーサイドアップ」。
2012年には電通PRを抜き、業界売り上げ1位にまで急成長しました。
いまから29年前、東京・中野のワンルームマンションの一室で会社を起こし、 今日へと発展させてきたのが創業社長の高橋恵さんです。
事業発展の要因には、 ある秘訣がありました。
それは高橋さんがお母様の姿から学んだ 「おせっかいに生きる」という信条だったといいます――。
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私のおせっかいの原点には、子供時代の辛い経験がありました。
「何で戦死してしまったの。 手がなくても足がなくても、 生きて帰ってきてほしかった!」
そう泣き叫ぶ母のそばで、 10歳の私は、姉と妹とともに、一緒に泣いていました。
良家に生まれた母でしたが、幼くして両親を、大東亜戦争で夫を亡くしました。
戦後始めた事業もほどなく倒産。 手のひらを返したような世間の冷たさに晒され、 押しかける債権者に家財道具一切を持ち去られました。
母の指から父の形見の真珠の指輪を強引にもぎ取る姿がいまも目に焼き付いています。
母はこの時、一家心中の瀬戸際にまで追い込まれていたのでしょう。
しかし、それを子供心に感じた時、ガタッという物音が玄関から聞こえたかと思うと、 ガラス戸に一枚の紙切れが挟まっていました。
そこにはこう書かれていたのです。
「あなたには3つの太陽(子供)があるじゃありませんか。 今は雲の中に隠れていても、必ず光り輝く時がくるでしょう。 それまでどうかくじけないでがんばって生きて下さい」
その手紙を読み聞かせながら、 母はハッと気がついて、ごめんね、ごめんねと謝って抱きしめてくれたのです。
おそらく私たちの窮状を見かねた近所の方だったのでしょう。
人間のちょっとした優しさに、人の命を救うほどの力がある――。
この時の強烈な印象、 そして一家を養うために身を粉にして働く母の姿が、 私のおせっかいの原点となったのです。
しかし、苦しい生活は終わることなく、 このままでは学校に通わせることもできないと、 母は私を知人の家に預けることを決断。
そして送り出された私を待ち受けていたのが壮絶な“いじめ”でした。
空腹を我慢し、冬は霜焼けで10本の指がただれていても雑巾がけ。 手をついて謝っても、これでもかと足で頭を踏みつけられる……。
あまりの仕打ちにトイレで泣き明かすこともしばしばでした。
その小窓から見えた空と、その中を自由に飛び交う鳥たちの姿、 そして母に会いたいという哀しい思いは、いまでも忘れることができません。
「自由に大空を飛ぶ鳥のように世の中を自由に、 自らの力で生きていこう。 そして、人間として、わけ隔てない生き方をしよう」
と14歳の時に誓ったのでした。
いま思い返すと、その後社会に出てからの私は、 子供時代の辛い体験と、母や見知らぬ人から受けた温かい愛情に 突き動かされるように幸せを追い求め、 無我夢中でおせっかいをばら撒いてきたような気がします。
「天知る、地知る、我知る。 どんなに貧しくなろうとも、 心まで貧しくなってはいけません」
「あなたには、あなたのいっぱい、 いいところがあるじゃない」
苦しい生活の中で母が繰り返し唱えていた言葉です。
母はそのとおり、本当に思いやりに溢れた人でした。
無縁社会という言葉も聞かれますが、 どんなに忙しくとも、人を想う心さえあれば、 たった一言の言葉、たった一枚の紙切れでも、人を救うことができるのです。
その人間の思いやりの大切さを、もっと多くの人に知ってほしいと願って、 昨年おせっかい協会を設立しました。
人はみな人を支えて人を生きる。
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<参考:高橋恵(サニーサイドアップ創業者)さんの言葉については、 光明掲示板・第二「すべてに感謝! (10537)」(2014年07月29日) においても取り上げておりました。>
《感謝は、素早く伝える》
*「幸せを呼ぶ「おせっかい」のススメ」高橋恵・著<P127>より
感謝という字は、「感じた」ことを「ことば」で「射る」と書きます。
かつて気持ちを届けるのに一番速かったのが、弓矢(矢文)だったと思います。
「ありがたいと思う純粋で濁りのない心の状態をありのまま、 弓を射るようにパッと素早く伝えることが本当の感謝だ」と、ある知人に教わりました。
<感謝合掌 平成27年2月9日 頓首再拝>
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