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光明掲示板・伝統・第一

 

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先祖供養 (43)
日時:2015年01月20日 (火) 04時45分
名前:伝統

*光明掲示板・第三「先祖供養」からの継続です。
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=128

・・・

「真理の言葉による供養の意義」

         *『生命の實相』第28巻(久遠佛性篇下)(P71~73)より


(1)われわれが霊界に行きましても、
   この世で生活が下手な人は霊界でも生活が下手である。
   霊界で病気をしている霊魂もあれば、悩んでいる霊魂もある。

   ですからわれわれ自身または他の霊界における生活状態というものを
   良くしようと思うと、
   
   やはりどんなカンパス(画布)の上に描いても、いい絵が描けるようにして
   おかなくちゃならない。

   われわれは「現世」とか「来世」とかいうカンバスに何で絵を描くかというと、
   念波で絵を描くのであります。

   念波という絵具をもって絵を描くのでありますから、
   その念波を善くし、またよくしてあげることが必要であるのであります。

(2)最もよい念波は何であるかと申しますと、
   悟りの念波、真理の念波なのであります。

   この真理の念波を人に与えるということ、
   これが仏教でいう法施というものでありまして、最も尊いほどこしであります。

   われわれが人に物を施すのは、 物施といって物を施すのと、
   それから法施といって悟りの念波を施すのとがありますが、
   真理の念波を施すということが本当の最も根本的な供養になるのであります。

(3)霊界は念の世界であって霊魂たちというものは何を食物として生きているかと
   いうと、念を食物して生きているのです。

   善念は最も霊魂を生長せしめる滋養物となるし、
   悪念は霊魂を低下せしむる害物となるわけであります。

(4)ことに、われわれが真理の念波を放送して、真理の念波を相手方の霊魂に
   吸収させてあげるということは霊魂には絶大な供養になる。

   それですから、「甘露の法雨」のようなお経でも、「生命の實相」でも、
   また真理が書いてあるものなら、佛耶の経典でもよろしいのです。

   それを祖先の霊魂に、意味がわかって読んで誦げるということは大変よろしい。
   最高の救いは、やはり真理のお経を意味が本当に分かって読むに限るのです。

   そうしますとそのお経を捧げられる相手方の霊魂は非常に心が富み、
   心が満腹し、生命が生長するということになるのです。

・・・

<関連Web>


(1)「光明掲示板・第一」スレッド「先祖供養 (125)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=63  

(2)「光明掲示板・第二」スレッド「先祖供養 (96)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=45

(3)「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐」スレッド「祭文(祖先祭祀)」
    (”明鏡 さま”のご投稿のもの)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=37

              <感謝合掌 平成27年1月20日 頓首再拝>

聖経供養 (142)
日時:2015年01月31日 (土) 04時47分
名前:伝統

           *「人生を支配する先祖供養」(はしがき)より

《因果、昧さず》

多くの人たちは、霊界と現実界との関係を知らないのである。
人間の肉体が死んだら、もう人間そのものは消えてしまって無くなるものだと考えている。

だから此世で狡いことをして利益を得たり、人に残虐な行為をして自分だけが快楽を
貪ったりしても、それは利益の取り得であり、快楽の貪りどくだということになる。

実際そうして悪賢い狡い奴や、残酷な奴が此世で少しも制裁を加えられないで
栄華をきわめたままで地上の生を終る例をたびたび吾らは見せられるのである。

そして死と共に、彼らは一様に"無"の世界に消え去って、
後に何も残らないのだったら、狡いことの仕得、楽しみの仕得で、
正直な人間が馬鹿を見るのがこの世界だということになる。

そこで"悪"の仕得ということが一般の通説になり、道徳地に堕ち、
人心は乱れに乱れて此世には悪人充満の地獄相を呈することになるのである。

それが現代の、いつわらぬ世相ではあるまいか。

併し、人生はそんなに甘いものではないのである。

悪業の仕得や、悪い奴の、富や快楽の貪りの仕得などということを
われわれが心の奥底で不公平に感ぜずにはいられないのは、

われわれが"心の深層"の中に、「そんな不公平は決して存在しない」という
原因結果の法則を直感的に知っているからなのである。

原因があれば結果を生じる。これは宇宙の大法である。
それを仏教では「因果、昧(くらま)さず」と教えているのである。

悪業を重ねながら現世に於いて悪果が出て来ないからとて、
人生を馬鹿にしてはならないのである。

悪業を行っても現世に、その帳尻が出て来ないということは、どこかに、
その帳尻の総決算がおこなわれる世界があるという証拠でもある。

その総決算が行われる世界が霊界及び未来世
(未来に、われわれの霊魂が生まれ代って来る世界。単に"来世"ともいう)である。


《聖経供養》

霊魂の行く世界には、その境界にあって、霊魂の浄化作用が行われるのである。
霊魂の浄化とは、汚れた霊魂の洗濯のようなものである一層汚れている霊魂ほど
長期間はげしいショックの中でその”汚れ”を落とさなければならないのである。

それらの苦しみによる浄化の過程にある霊魂が苦しみの叫びをあげ、
悩みの呻きに喘ぎながら、”助けてほしい”と思って子孫や親類縁者の名を呼ぶのである。

そうすると、われわれ現世の人間で、その霊魂の近親者がその想念の波を感受し、
病気としてあらわれるのである。

このような病気を癒す道は霊界に於ける霊魂の苦しみを除去するほかに道はないのである。

霊魂の浄化は消極的には”懺悔”と積極的には”真理を悟る”という
2つの方法によって主として行なわれる。

”懺悔”とは、”今までの行為は悪うございました、人間のなすべき本来の姿では
ございませんでした。今後一切いたしません”と過去の悪業を”心の世界”で否定する
ことで、過去の悪業を否定消去してしまうのである。

”真理を悟る”というのは、「人間の実相」は本来”如来”であり、
”神の子”であるという真理を述べた経典を現実界から読誦してもらい
(これを聖経供養と謂う)

その真理の霊波を霊界で感受して、
悪業存在の世界から解脱して”如来”の実相界に超入することである。

この”如来地”(如来の境地)に入ることを成仏するというのである。

祖先及び縁者の霊魂を成仏させてあげるのが、
現実界の子孫及び縁者の義務でもあり、それはまた自分自身に報いられて来て
家族ぜんたいの健康ともなり、繁栄ともなるのである。

              <感謝合掌 平成27年1月31日 頓首再拝>

父母・ご先祖様に感謝しましょう (284)
日時:2015年02月12日 (木) 04時05分
名前:伝統

         *谷口清超先生著『『甘露の法雨』をよもう』(P60~63)より

アマイルさんは、結婚後、夫が突然職を失い、母親も病気になり、
彼女自身も四回も脳溢血で倒れ、兄弟も同時に職を失い、子供さんも亡くなり、
とにかくメチャメチャな状態で悪い事が次々に起こるのです。

彼女は神様はなぜ私達を見捨てたのだろうと悩み苦しみました。

そんな時、生長の家の真理に触れ、そこに現れる不幸な出来事や失敗は、
神様がそうさせているのではなく、私達の心がつくり出した影であり、
こちらが神様の方に背を向けて暮らしていたのだということがわかったのでした。

それは、明るい心を忘れ、祖先から立派な家や財産や地位を受け継いでも、
それを当たり前のこととして、ちっとも感謝したり、ご供養をしたりして、
お礼を言っていない自分の心の現れだったと気がつきました。

そこで、生長の家で教えられた、御祖先に『甘露の法雨』を読み、
心から感謝し、神様の創られた本当の世界は完全であり、
人生の明るい面ばかりを見て感謝して暮らすようにした所、

全てのことが、次第にうまくいくようになり、夫の仕事も出来、家庭も調和していったのです。

           ・・・

         *谷口清超先生著『『甘露の法雨』をよもう』(P71)より

今多くの社会が混乱していることは事実です。
がその原因に「家庭の破壊」ということが考えられます。

そしてその家庭は「先祖」という生命の根っ子の御恩を忘れ、
そこから切り離され、断絶しているところに主な原因があるのです。

それは日本でも外国でも変わりはありません。

それは世界中どこへ行っても、植物の根には立派な養分を与えなければ
どんな美しいはなも実も生ずるものではないというのと全く同じ原理からであります。

           <感謝合掌 平成27年2月12日 頓首再拝>

聖経『甘露の法雨』読誦の意義と読み方 (428)
日時:2015年02月23日 (月) 03時55分
名前:伝統

         *昭和36年 宇治別格本山 新年特別教修会 より
         (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱より転写)

既に二十年も前から生長の家に入信して、祖先のために聖経を誦げていましても、
最近になって、やっと意識を恢復した霊魂は、今まで読誦して貰った聖経の恩恵に
浴していないで、病念で苦しんでいるのもあるのです。 

そして最近やっと目を覚ましたら、
生前の病気の記憶がよみがえって病気の自覚で苦しんでいる。 

そして自分には医者がどうして来てくれないのだ、と思ったりするのですが、
死骸は焼いてしまったのだから、医者が来るはずはないのです。 

だから、その霊魂は 「医者がどうして来てくれないんだ」 と思って、
親類の人や家族の名前を一所懸命に呼ぶと、その病気の念が家族や親族の人に放送されて、
現実世界にいる家族や親族の中の波長の合う人に、その病気の念波がパッと感受される。 

そうすると、本来自分の病気でない病気が霊界から放送されて、
こちらがテレビ受像機になって、
放送された通りの病気を自分の肉体に現しているということになるのです。

 
ですから、そう云う病人に対しては、そう云う病念の霊魂の迷いを解いてやるために、
霊前で聖経 『甘露の法雨』 を読誦してあげることも必要なんです。


然し、すべての病気をみんな迷える霊魂の病念であると還元してしまうと、
間違いであって、必ずしも霊界の影響が来ないでも、
本人自身の心の間違いで病気をあらわしてる実例も随分あるのであります。 

だから指導者たるものは “『甘露の法雨』さえ祖先に読んだら治るんだ” 
と一概に言ってしまってもいけないのであります。 

 
けれども、ともかく祖先の霊魂は数が多いことでもあり、その霊魂のうちに
最近意識を恢復して病念が消えないで苦しんでいるのもあるのですから、

祖先に対して 『甘露の法雨』 を読んであげるのは、病気を治すために読むというよりも、 
『今まで祖先に感謝したことがなかって申訳がないから、
御礼のために聖経を読んであげましょう』と、

祖先の霊魂に対して、感謝をするという積りで聖経を読むように、
病人に勧めてあげるとよいのです。

 
『甘露の法雨』 を読むのは、病気を治そうと思って読むよりも、
ただ祖先に感謝の気持で読む方が却って功徳があって治る率が多いのであります。 
ただ素直に読みながら、自分もその意味を体得するつもりで読むとよいのです。


何故、聖経 『甘露の法雨』 を “病気を治そう” と思って読むと功徳が少ないかと
言いますと、聖経を一遍読んだら “もうどれだけ治っているだろうか” と思って、
現象の病気の状態を振り返ってみて、現象の症状がその時まだ消えていないと、 
“やぱり治っとらん” と思う。 

翌日、更にまた 『甘露の法雨』 を読んで見て、 “まだ治っとらん” と思う。 
そして、それを繰返して 「治っとらん、治っとらん」 と念ずる。 こうして
我々の感覚によって見える病気の有様を 「ある」 と見て 
「病気は‘ある’、‘ある’」と云う念を積み重ねて行ったら、 

『想うことは現れる』 と云う原則によって、ますます、病気は消えないことになり、
新たに自分の想念によって病気を繰り返し造ることになるのであります。


だから、「病気を治そう」 と思っては 『甘露の法雨』 を読まないで、 

「ただ祖先に対して感謝の念をおこしなさい、感謝の念によって病気が治るのです。 
その感謝の念の一環として、祖先に対して 
『甘露の法雨』 その他の聖経をお読みなさい」 

と云うように指導するのがよいのです。 
その感謝の実践が徹底すれば病気が治るのです。

祖先の霊魂というものは、物質の食物を食べて発達するものではないのであって、
真理の言葉の念によって放送されると、真理の念を吸収して、霊界に於いて
神通力を得るようになるのであります。 

すなわち霊魂の霊力が殖えるのです。 

これを “魂のふゆ” というのです。 
霊魂の肥立ちがよく発達してゆくということは、物質の食物によるのではなくて、
“真理の言葉” を送って貰うことによって、霊魂は益々発達して神通力が増加する
のであります。

祖先が自己の神通力を増加してきましたら、祖先というものは、子孫を守って、
子孫を繁栄させてやりたい、子孫を健康にしてやりたい、
というのが其の念願なのですから、

祖先の神通力がふえるようにさえしてあげたら、祖先の守りが多くなり、
凡ゆる点に於いて子孫が護られ、自然に病気が治るようになるのであります。


そういう意味に於いて 『甘露の法雨』 を読みなさいとお勧めするのです。 
“『甘露の法雨』を読んだら治る” というのではなくて、 

『甘露の法雨』 は祖先に対する感謝行であって、
その祖先が 『甘露の法雨』 に説かれている真理を吸収して、
神通力が増したら自然に祖先の守りが十分になるから、病気が治るようになる。 

だから、病気が治ったら誦むのを止める、と云うのでは見当ちがいであります。

祖先の霊魂は愈々益々向上するほどよいのですから、
これだけ誦んだから、もう止めると云うのでは先祖に対して感謝が足らぬことになります。


従って、 『甘露の法雨』 を読むのも、 “何回読んだら治る” ということは、
その人の精神状態にもよるし、祖先から来ている念波 〈精神の波〉 の強弱によるし、
業の多い少ないにもよるのであり、祖先の心境の如何にも関係するのであって、
一回で治る場合もある。


例えば田口精亮さんが指導した例では、神奈川県高座郡の大和村
〈今は大和市になっていると思う〉 あそこで生まれつきの聾唖があったのです。

生まれつきの不良、又は病気と云うものは、祖先の業又は、自分が生れ変りの前世に
犯した業が形に現れているのだから、 『甘露の法雨』 を読みなさい、
と言って田口精亮さんが導かれたのです。

その聾唖者の母親は六ヶ月間 
『甘露の法雨』 を毎日、祖先の霊前で読んだら治ったのです。 
こんな場合、三ヶ月だけ読んで、治らないと、諦めて、 

“先生は『甘露の法雨』を読んだら治ると仰言ったが、
三ヶ月も読んだけれども治らなんだ”と言ってやめてしまったら、
六ヶ月で治る筈の‘それ’も治らんことになってしまう。 

この場合は六ヶ月読んで始めて、功徳が円成して治ったのであります。 

 
だからそういう場合に、自分勝手の考えで 「何ヶ月誦んだらよい」 
と決めるわけにゆかないのです。 

しかも祖先に対する感謝は永久にすべきものですから、
“何ヶ月だけ病気治すためにやって、治ったらもう放っといても宜しい”と、
いうわけにはゆかないのであります。


肉体は象徴として、どう云う所へ現れる病気は、どう云う心の間違いがあるんだ、
ということを指摘してもいい場合もあるのであります。 

その問題については別に詳しく申上げる機会があると思いますけれども、
余りそればかり指摘すると、現象にばかり引っかかり過ぎて、
そして却って、弊害があるということもあるのでありまして、

病気は心の影だというのは真実ですけれども、本当は観普賢菩薩行法経にあるように、 
『心も無し』 と云うところまで悟りを開かせるように導くのが、
最上級の導きであるということになるのであります。

 (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=105

           <感謝合掌 平成27年2月23日 頓首再拝>

大切なのは「死」とは如何なる事かを知ること (579)
日時:2015年03月07日 (土) 04時50分
名前:伝統

          *「人生を支配する先祖供養」(P7~P14)から要約

(1)「死」とは如何なることかを知らないで、死者の霊を祀るといっても、
   それは祭祀の基礎を失ったことになる。


(2)霊魂には「修行の足りた霊」と「修行の未熟な霊」があり、
   それぞれ肉体を脱して霊界に往ったときの状態が違う。

  ①修行の足りた霊は、ハッキリした意識をもって肉体を脱出し、肉体を脱するのに
   何らの苦痛も感じない「大往生」である。

  ②未熟な霊魂は、肉体の生前の三業(ごう)(意業・口業・身業)の不浄なるものを
   浄めんが為に病気の苦痛を経験する。苦痛は浄化の過程。

   しかしある程度以上の苦痛は神の恵み深き摂理によって「意識を失う」という方法
   によって回避される。
   そして意識を失った状態で、その霊魂は霊界の待合室みたいな所に移行する。


(3)霊界の待合室は「冥界」という薄暗い世界。

  ①肉体を脱出した霊魂は、肉体の病臭や屍臭(ししゅう)の不快臭を浄化する為に、
   そこにある期間滞在する。

   それを仏教では「中陰(ちゅういん)」と称し、
   まだ霊界のどの位置に往くべきかが定まらない期間。
   それは大体7週間で、仏教では49日、神道では50日目としている。

  ②この後、「満中陰」(仏教)、「五十日祭」(神道)が行われ、
   受持ちの高級霊の案内により、その霊魂が割り当てられた幽界の位置に行き、
   そこで修行する。


(4)冥界の照魔鏡

  ①四十九日の浄化期間が終わった霊魂は高級霊が霊波によって作った
   スクリーンの前まで伴われていく。
   スクリーンには、彼の生前の生活がカラーテレビの如く映し出される。

  ②自分の生涯を客観的に見せられると、善悪の判断基準が公正になり、
   「この位のことは悪くない」と思って生前にした事でも、
   「あれも、これも悪かった」と懺悔の心が起こる。

  ③この過去の一切を照し出す霊的スクリーンを、擬人的に閻魔大王と称している。

  ④そこで過去の業が自己審判され、それに従って三途のどれかに行く事が定められ、
   霊界での修行場が決定する。それを「三途の川を渡る」という。


(5)三途は死後の霊魂が行くべき「3つの途(みち)」であり、
   欲界・色界・無色界の3界と解したい。


(6)霊界への移行と霊魂の状態

  ①霊界にて意識回復すると、生前・臨終の際の状態が記憶に蘇り、癌で死んだ人は
   心に癌の苦痛が復活し、霊界で癌の症状を幽体に継続する状態を仮作(けさ)し
   苦しむようになる。

  ②病念を霊界まで持ち越して、病気を霊界で体験し苦しんでいる霊魂の救われる道は、
   「病気や肉体はない」ことと、「死というものはない、それは現実界から霊界への
   転任である」という真理を悟らせることが第一。

  ③一人の迷える霊魂を導くだけで、原因不明や不治の病気、家庭不和等が改善
   される場合がある。

   だから、先祖や親類縁者の祭祀を決して疎かにしてはならぬ。

   それには祖霊を招霊して
   『甘露の法雨』を毎日一定時間を約束して読誦してあげるがよい。


           <感謝合掌 平成27年3月7日 頓首再拝>

春のお彼岸 (686)
日時:2015年03月18日 (水) 03時15分
名前:伝統

今日、3月18日は、春のお彼岸の入り。
21日(土)は彼岸の中日(春分の日)です。

古来、人々はこの時期を春の訪れを祝う時期としていました。
それと同時に祖先に感謝をするお祭りを行ない、
この風習は農村部で長く続いてきました。



明治時代、春分の中日を「春季皇霊祭」と定め、宮中において祖先を祭る日となったのを
きっかけとして、一般市民の間でも祭日とされました。

春季皇霊祭とは、毎年春分の日に行われる歴代の天皇・皇后・皇親の霊を祭る儀式をいい、
宮内庁が公開している皇室の「主要祭儀一覧」には
「春分の日に皇霊殿で行われるご先祖まつり」と記されています。

・・・

以下は、愛国本流掲示板からの転写です。
”射手座 さま”のお許しをお願いいたします。

・・・

『祖先と子孫との運命の連関』

        *『精神科学』誌(昭和38年2月号 6~8頁)より


現代の多くの人たちは、あまりにも個人主義に目醒め過ぎているために、
自己の運命が左右される原因となるべき両親との連関、更に進んでは
祖先の霊魂との連関を忘れてしまっていて、

恰も根を培い幹をそだてる事を忘れて、枝葉ばかりが独走して、
美しき花を咲かせ良き果を実らせようとあせっているかのように見えるのである。

 
しかしながら諸君よ、あなた達の祖先は生きているのである。 
無論、祖先の肉体は生きていない、けれども肉体は「人間そのもの」ではないのである。 

肉体は“霊魂”が地球上で或る使命を果す目的をもって着用するところの
“宇宙服”の一種であって、地球という天体で現実的な仕事をする間だけ着用したあとは、
脱ぎ棄てるべき不要物に過ぎないのである。


肉体の死によって肉体を脱出した吾々の祖先の霊魂は、霊界に於いて或る期間休息し、
また他の肉体に受胎して、別の異る環境に於いて、異る経験を新たに加えて
その魂が進歩し向上しつつあるのもあれば、

尚、霊界に於いて生前の病苦の記憶の継続の中に苦しみつつあるのもあり、
或は、既に高級霊となって、人類嚮導のために活躍しつつある霊もあり、
その生活状態は色々あるのであるが、

いずれにせよ、彼らは子孫に対して愛着をもっており、
子孫の幸福と繁栄とを希いつつあることは確かであるのである。

 
ところで、彼らが子孫に対して愛着の念をもっているということは、
彼らが彼らの有する色々の精神状態を放送しつつあり、
その“念波”の放送を吾々が受信しつつあるということである。 

もっとも吾々は自己の精神波動の周波数にしたがって、
或る程度の選波作用をもっているのであるから、祖先から放送される
すべての精神波動(念波)を悉くは受信する訳ではない。

 
其処には「類を以て集る」 「類は友を呼ぶ」という法則が行われており、
自己が極めて明るい健全な精神状態でいる時には、たとい暗い不健全な病的な
精神波動を放送されても、それを感受することは、あまり無いのである。


併し人間は、なかなか四六時中いつも明るい健全な精神状態を平均に保つことが
至難であるから、精神状態が多少落ちて、心が暗く陰気に沈んで来たときに、
霊界でまだ悟りをひらかないで苦悩している祖先の暗い陰気な精神波動を受信して、

自分自身が一層暗くなり、その不幸な状態に拍車をかけ、
それを一層増悪するような結果になり勝である。

 
こういう事が、“個人の運命”と“霊界の祖先の運命”との相互関係に於いて起る
のであるから、祖先の霊魂たちを、導いて悟りをひらかせて、その暗黒なる状態又は
運命から救うために、“真理を述べた言葉”〈聖典又は聖経〉を読誦して聴かせる
ことが必要なのである。

 
それは単に祖先の霊魂に悟りをひらかせて、その余慶として自分が幸福になるための
手段とするというような自己中心的目的だけではないのであって、

寧ろ自己の“地上の生活”が今日あるのは祖先を媒介として斯くあるのだという
事実にもとづいて、その恩に報いるための報恩感謝の行事として
お墓又は仏壇、神棚等に祭祀せる祖霊の前に“真理の聖経”を読むべきである。

 
“七つの燈台の点燈者の神示”の中には、
「感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう」
と示されているのであるが、

報恩感謝の念で『甘露の法雨』を読誦することは、
単に霊界の祖先を悟りに導くだけの功徳にとどまらず、
神の救いの霊波に感応することになるのである。

 
同時に既に高度の発達をとげた祖先霊の“子孫を護る霊波”にも感応して、
その導きを受け易くなり、病気も癒やされ、運命も改善されることになるのである。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=2640

  (その元は、http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/de89bfda66f06161d48cebef8898b202 )

           <感謝合掌 平成27年3月18日 頓首再拝>

「春季皇霊祭」 (717)
日時:2015年03月21日 (土) 04時12分
名前:伝統

今日は、「春季皇霊祭」。
今日は、ご皇室とともに、ご先祖に感謝する日です。


皇居内の宮中三殿には神殿、賢所、皇霊殿があります。
皇霊殿には、歴代天皇、皇族の御霊が祭られています。

皇霊祭では天皇陛下がお告文を読まれ、
皇后陛下、皇太殿下、皇太子妃殿下が拝礼されます。


また、本日は「春季神殿祭」も行われます。

皇居内の宮中三殿の神殿神殿には国内のさまざまな神が祭られており、
この神々の神恩に感謝する祭儀が行われます。

天皇陛下がお告文を読まれ、
皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下が拝礼されます。



<Web:奉祝、春季皇霊祭
      → http://sahashipesu.blog.fc2.com/blog-entry-135.html >


・・・

《皇室および一家の祖先を礼拝せよ》

        *『生命の實相』第28巻(久遠佛性篇下)(P65~66)より


【われらは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝し奉り、
 次いで一家の祖先の霊魂または仏壇の前に坐してその冥福と守護を祈願し、
 かつ自己の生命も永遠なれば常に若く愉快に青年のごとく生きんことを期す】


皇霊を礼拝するということ虚礼ではありません。

われわれ日本人は日本国の歴史を通して「今」の一点に生きているのです。

そしていろいろの日本国の興隆浮沈はあったにしても、どんなときにも日本国が動揺せずに、
ここまで日本民族が発展してきました不倒翁の重心のごとくドッシリとして、その中心から
どんな時にも日本国が立直ることができた重心は天皇がましましたからであります。

われわれは歴代の天皇の御恩沢を忘れてはならない。
恩を知るということが実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。

だからわれわれは歴代の皇霊に対して崇敬の誠を献げるのであります。

           <感謝合掌 平成27年3月21日 頓首再拝>



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