DNAが語る日本人の足跡~その2 (781) |
- 日時:2015年03月27日 (金) 18時34分
名前:伝統
(3)弥生人のルーツ?
日本人のルーツについては、従来から骨格、身長などの特徴を分析する 形質人類学の立場から、南方から北上した縄文人が居住していた日本列島に、 東北アジア系の弥生人が流入して、徐々に混血していったという 二重構造論が唱えられてきた。
これに対し、DNAの研究では、これに合致する部分もあるが、 さらに多様なルーツのヒト集団から成り立っていることが示唆されている。
日本人の中で一番多いのが、Dグループで4割弱を占める。 このグループは中央アジアから、中国東北部、朝鮮半島、日本と広範囲に広がっている。 アメリカ先住民の中にもこのタイプが見られる。
3万5千年以上前に誕生した比較的に古いグループで、 広範囲に広がっていることから、このグループがいつ、どのように 日本に入ってきたのかを推定することは非常に難しい。
二番目に多いのが、Bグループで、 4万年ほど前に中国南部で発生したと推定されている。
このグループもアジア大陸の沿岸部を北上し、アメリカ大陸に渡っているので、 その過程で一部の人々は日本列島に入り、定住したと考えられる。
もう一つ南からやってきたFのグループは、 日本人の5%ほどを占めるが、東南アジアを中心として分布している。 中国南部や台湾の先住民に比較的高頻度で見られる。
時代はやや下るが、今から6300年ほど前、中国の黄河文明よりも千年以上の前から、 長江(揚子江)で漢民族とは異なる文明が発生していたことが考古学的に明らかになり、 その稲作や太陽信仰において、日本文化との共通性が指摘されている。
これらBかFのグループのいずれかが中国大陸南部から、 直接日本に渡って稲作をもたらした弥生人であった可能性がある。
(4)縄文人のルーツは沖縄?
3番目に多いのが、M7と呼ばれるグループで、 本土では7.5%を占めるが、沖縄では24%を占める。
このグループは特徴的な分布をしており、 日本以外では朝鮮半島で3.4%、東南アジア島嶼部で9.4%、存在する。
このうちのM7aというサブグループは、約2万5千年前に生まれたと推定されている。 この頃には、地球の寒冷化で極地方に大量の氷が集まり、海水面が低下して、 黄海から東シナ海にかけて広大な陸地が出現していた。
今は海底に沈んでいるこの地域に、M7aのグループが生まれ、 そこから一部は東南アジア島嶼部に南下し、一部は北上して日本本土に広がった。 このグループが縄文人の一つの候補とも考えられている。
従来の二重構造論では、沖縄は日本本土から離れた辺境の地とイメージされていたが、 実は縄文人の源郷であった可能性がある。
また朝鮮半島では日本の縄文時代に相当する時期の人骨がほとんど出土していないので、 従来の二重構造論では、弥生時代になってから、急に朝鮮半島との交流が生まれた ように思われていた。 しかし、このM7グループが朝鮮半島にも見つかったことから、 縄文人が九州から朝鮮半島南部にも広がっていた、 と考えた方が自然であることも分かった。
もう一つ縄文人の候補としてN9bというグループがある。 日本人の2%ほどを占めるが、日本以外ではほとんど見られず、 また日本の中でも北に行くほど人口に占める割合が高い。
M7aが南から入った縄文人だとしたら、 N9bは北から入ってきた縄文人ではないか、という説がある。
(5)日本列島は多くのグループが往来する「賑やかな回廊」だった
その他にも、日本人の7%を占めるグループAは、バイカル湖周辺で 3万年ほど前に誕生し、北東シベリアと北中米先住民の過半数を占める。
旧石器時代のシベリアでは、マンモス・ハンターと呼ばれる狩猟民がいたことが 知られているが、その一部が縄文以降に日本に入った可能性が指摘されている。
こうした実に多様なグループが日本列島にやって来て、 しかも現代日本人の中に遺伝子を残しているのである。
日本はアジアの東端の「どん詰まり」の列島というイメージを抱きがちである。
しかし、こうした多様かつ重層的な遺伝子グループの存在を見る限り、 日本列島はアジア大陸の一部をなす「回廊」であり、多くのグループが往来し、 さらには朝鮮半島に渡ったり、樺太やカムチャッカ半島から、アメリカ大陸に 渡っていった人々もいた、という賑やかな往来をイメージした方が良さそうだ。
日本列島は、太古の昔から多くのグループが往来する 「賑やかな回廊」であったのである。
(つづく)
<感謝合掌 平成27年3月27日 頓首再拝>
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