「感謝の日」 (609) |
- 日時:2015年03月09日 (月) 12時26分
名前:伝統
今日は3月9日。 「サン(3)キュー(9)」(THANK YOU)で、「感謝の日」。
光明掲示板・第一「感謝の日々 (1211)」よりピックアップしました。 http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=278
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《今与えられているものに感謝しなさい》
*「あなたは無限能力者」(P154)より
今あるものに感謝しなさい。 屹度、何かあなたは神から、又は周囲の誰かから感謝すべきものを 与えられているにちがいないのです。
空気を与えられています。 水を与えられています。 日光を与えられています。
眼を与えられ、耳を与えられ、口を与えられ、手足を与えられています。
・・・まだまだ数えあげれば無数でありますが、その今与えられているものに 感謝することから、心の喜びがわき出て来るのである。
心の喜びがわいて来ると、その喜びの心の波長が、 次の喜びを引き寄せる波長となるのです。
何故なら「類(るい)は類(とも)を招(よ)ぶ」と云うのが心の法則であるからです。
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《すべての経験に感謝しましょう》
*「聖光録」(神国実現への手紙)より
ですから全ての経験を有り難く感謝して迎えましょう。 そこから魂の進歩があるのでございます。 感謝の念の中には恐怖がございませぬ。
感謝が若し極点に達しますならば、 「死んでもよい」の境地に達するのでそれがお判りになりましょう。 恐怖や不平があるのは感謝がないからでございます。
すべての経験は吾々を導いてくれる砥石のようなものでございます。 経験に和解しましょう。全ての経験に和解いたしましょう。 経験に感謝いたしましょう。全ての経験に感謝いたしましょう。
まったくこれは素晴らしい真理でございます。
全ての経験がそれがどんなに渋面をつくった恐ろしい姿をして眼の前にあらわれてまいりましょう とも、それは悉く自分自身を高め上げ、自分の魂を向上させ、自分の生命を光輝あらしめる ために来た天の使だと云うことが判るほど有り難い素晴らしいことはないと思います。
何だかこの手紙を書いていると、私は嬉しくなってまいりました。 全く素晴らしい真理なんですもの。
世の中に我を害するものは何も無いという真理、 あなたも屹度嬉しい感じがして此の手紙を読んでいらっしゃるのだと思います。 その喜びの顔が私は見えるようです。
ものなべて吾を生かすと云う浄土(くに)に生まれ来し身の幸いを憶う
(「静思集」より)
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《空気に感謝せよ、空気は単なる物質ではない》
*「幸福を開く鍵」(P50)より
空気は、神の恵みのあらわれである。 空気を呼吸することは神を呼吸することである。 空気を呼吸することによって、物質の栄養が活ける血とあんるのである。
水に感謝せよ。水は単なる物質ではないのである。 水は私たちの生命(せいめい)を活かす活力素として神が吾々に与え給うたものである。 私たちは1週間水がなければ、生きることが不可能となる。 人体の90幾%は水で出来ているのである。
そのような貴重な空気や水を大自然は常に無料で私たちに与えて下さっていることを 知るとき、神に感謝せずにはいられない筈である。
太陽に感謝せよ。太陽は唯の物質ではないのである。 太陽の神霊は日本では天照大御神として知られているが、 その宇宙浄化の働きは住吉大神(すみよしのおほかみ)である。
住吉大神の御はたらきなる太陽熱によって地上に於ける水分の蒸発や 電気的流れを生じて宇宙は浄化されつつあるのである。 住吉大神はミカエル大天使長として、19世紀宇宙浄化のお役目を執行すべく 大権を委任されているのである。
大地に感謝せよ。大地は地上の生命(せいめい)の生みの親である。 大地がなければ私たちは住む家を築くこともできないし、 食料を生産することもできない。
一切の植物も動物も生まれて来ない、よき景色も見られないし、 美しい花を楽しむこともできない。 大地は神の生命(せいめい)の実現である。
土地を無駄に汚してはならない。 痰唾(たんつば)をはいたり、紙屑をちらしたり、汚してはならない。
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《感謝は積極的な心の浄化法である》
*『健全の眞理』(P280)より
赦しと懺悔は消極的な心の浄化法であるが、感謝は積極的な心の浄化法であり、 従って祈りに対して神の解答が流れ入って来るための道を浄めるために、 重大な働きとなるのである。
「天地一切と和解せよ。和解せよとは感謝せよの意味である」と 『七つの燈臺の點燈者』の神示に教えられているのはそのためである。
神はすべてのすべてであるから、すべてのものに感謝した時に、 神との真の和解が成立し神の力が豊かに流れこんで来るのである。
然しどうしても、ありがたいと感じられない時に如何にすれば感謝することができるであろうか。 すべての事物が食い違い、失敗し挫折して、困難相継いで来るという時に如何にすれば感謝の心を おこすことができるであろうか。
嬉しい時に、ありがたいと思い、自分の好きなことが出来た時に感謝するのならば 誰でもできるのであって、別に殊更感謝せよと教える必要もないのである。
重大なのは感謝すべきような事柄が全然なくて、悲しむべき失敗や、 憤慨すべき出来事ばかりが充満したとみえる時に如何に感謝し得るかと云うことである。
ウイリアム・クラウ氏は次のように書いている――。
「ある日、私の今迄の努力が全然くつがえされてしまうようなそう云う状態が四方八方から 叢(むら)がりおこって来たのでした。私の勇気はくじけ、心はふさぎこんでしまい、 みじめな心の状態になってもうどうすることもできないと思へるのでした。
私はこの凡ゆる四面楚歌の中のような状態に面しながら、 光明思想で教えられたよき言葉の力を試みてみようと決心しました。 そして私は坐って目をとじ、神に感謝し始めたのです。
――神さまが今私に喜びと勇気と自信力とを以てみたしているのである。 そして自分は凡ゆる境遇の主人公であって、既に自分の事業は成就しているのである。 これを神に感謝いたします。
神は私に正しき決断力を與え給い、その決断力を完全に遂行する力を與え給うたのである。 そして自分の前途に横たわる一切の障碍物をのりこえる所の力はすでに與えられている事を 感謝いたします
――斯ういうように繰りかえし繰りかえし念じました。 最初はそういうように念じていても 反対の観念が知らず識らずの中に浮かび上がって来るのでした。
それから反対観念を私は歯をくいしばり 一所懸命感謝の言葉の力によって自分の心から追いだそうと努めたのでした。
その時何がおこったと思いますか。 もしあなたが同じ様な場合、同じようになさいましたならば、 同じ様な結果がおこるに違いないと思います。
私の失望落胆し意気阻喪した恐怖にみちた感情が次第次第に鎮まってまいりました。 そして真に楽しく感謝できる様な気持ちになって来たのでした。
自分が祈りの中で表現している感謝の言葉にふさわしいような 事物そのものが現に近づいて来つつあるのだと感じられるようになって来ました。 信仰と信念と喜びとが湧き上がって来て私の心をみたしました。
その時、私は自分が待ちのぞんでいる善き物は常に永遠に今ここにあるのだ という実在感をはっきり獲得しました。」
ウイリアム・クラウ氏のこの体験談に似た様な体験談は沢山あるのである。
私は『神癒への道』の本の中でそういう実例を沢山のべておいたが、その中でも 医師の春日雄氏が赤痢と、骨髄炎と、肺壊疽と、殆どたえきれない激痛とに悩まされながら、 その痛む毎ぶ「ありがとうございます」と念じていると、その翌朝うとうとと1時間まどろんで 忽然目がさめてみるとそれらの病気が悉く癒されていたという体験談がある。
春日氏は自ら医師であり乍らこの体験を公会の席上で大衆の前で発表されたのであるから、 無論嘘はないのである。丸亀市の森伝氏胃癌及び肝臓癌の診断を受け乍ら数時間神想観を しながら「ありがとうございます」と唯感謝の言葉のみを繰返し繰返し唱えていたところが、 その胃癌と肝臓癌とが気がついて見ると完全に治ってしまったのである。
この人は胃と肝臓とに腫瘍が出来て函館の木内尿研究所で ハッキリと癌と診断を受けていたのである。
よき言葉及び感謝の言葉をくりかえしのべる事は、 たとえば煉瓦をひとつひとつ積んで大建築物を造るのと同じことなのである。
どこにも鉄筋コンクリートの建物のようには、あらかじめ描いたはっきりとした骨組はない のだけれども、感謝の念を積み重ねて行く時、それはやがて目に見える一大功徳の建築物が できるのである。
實相の中にはすべての善きものが満ちてあるのだけれども、 それは建築家の心の中にある図面の様なものであって、それを信念によって、 感謝の言葉で積み上げて行く時に於いて、始めて目にみえる現実の功徳が成就するのである。
今現れている現象によきものが現れていないからと云って吾々は現象の不完全に とらわれてはならないのである。
すでにのべた通り現象の不完全さは、中味は立派な栄養剤が入っているのに、 外側に「劇毒物」と書いたレッテルをはりつけてあるのと同じことなのである。
外からみれば劇毒物にみえるかも知れぬけれども、 實相はよきものばかりが充満しているのである。
常に間断なく感謝できるためには、現象のレッテルをみないで中味の「よきもの充満せる」 實相のみをみるようにしなければならないのである。
現象の不完全のまっただ中に於いて感謝するには現象は心の影であって、 「ない」のだということを知らなければならない。
目にみえる外側のレッテルは實在ではなくて、 目に見えない内にある完全さこそが實在であると知らなければならないのである。
<感謝合掌 平成27年3月9日 頓首再拝>
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