【五日の法語・言葉(3月5日)】 (551) |
- 日時:2015年03月05日 (木) 06時09分
名前:伝統
(1)《人間は環境にも遺伝にも支配されない》
人間は自己選択の自由に与えられているのであって、如何なる環境からでも、 自分の想念によって其の波長に合うものだけを吸収するのである。
縦には無限の遺伝の中から、自分の想念に合うものだけを表現するのである。
神に波長を合わせさえしたら、神の完全さが今此処に実現するのである。 神に波長を合わすのが神想観である。
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(2)《「肉体本来なし」「肉体は念(こころ)の影」》
『生命の實相』の中に「肉体は物質である」とも「肉体は無い」とも書いてある。 生長の家の「肉体本来なし」とは、ここに見える肉体が、 われわれが普通考えているような意味での「物質」ではないという意味である。
肉体とは、「生命(せいめい)」の放射線(念)の時間空間の鏡面への反映である。 鏡面へのその反映が歪(いびつ)なく完全であれば健康なる肉体という。 その反映が不完全であるのを不健康なる肉体という。
このことを「肉体は念(こころ)の影」と簡単にいう。
明るい鏡面には《そのまま》が映る。 曇りのない鏡面には《そのまま》が映る。 《そのまま》は完全であるほかはない。
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(3)《心絶えず歓ぶ日》
【その母氏は荒川氏反応陽性であったのであるが、此の日に限って陰性となっていた。 そして其の日に心配事があったことを話した。(『女性読本』)】
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(4)《謙遜にそして勇敢に》
自分を高慢(たかぶ)っても可けないが、自分を買いかぶっても可けない。 全てのみわざは神が成し給うので自分が偉いのではないから、高ぶってはならない。 併し全ての“みわざ”は神がなし給うのであるから、 そんな力はないなどと自分を卑(いや)しめてもならない。 「 謙遜にそして勇敢に 」 と云うことが、神の子の標語でなければならない。 神に泣きつくように 「 どうぞこれを成し給え 」 と祈るのは、神を信じないものである。 魂の底深き願いが起るのは、既に内在の世界で成就しているからである。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13107742.html
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(5)《 世界平和のための祈り》
私たち生長の家の信徒たちは、第三次世界戦争ー恐らくそれは原水爆戦争になるで あろうと思われていたーが起らないように一斉に祈ることにしたのであった。
しかし私たちは原水爆戦という物質的戦争が止むようにとは祈らなかった。 戦争は結果であり、争闘精神が原因でありますから、戦争の根源となるべき 争闘精神が無くなることが先ず必要なのである。
しかし争闘精神を無くするために、心に「 争闘 」 をつかんで祈ったのでは、 「 心につかんでいるものが形にあらわれる 」という法則によって 益々争闘精神があらわれることになるから、
私たち生長の家の信徒は、「 戦争がなくなりますように 」とも 「 争闘精神がなくなりますように 」とも祈らないで、
唯(ただ)「 神の無限の愛 われに流れ入り給いてわれに於いて光明燦然と 輝き給い、その光 愈々輝きを増して全地上を覆い すべての人類の心に愛と 平和の思いを以って満たし給う 」 と祈ることにしたのである。
愛と平和の思いに満たされたら争闘精神はなくなり自然に戦争はやみ、 平和が招来されるからである。
この祈りの最後の句は、この“世界平和の祈り”をはじめた当初は 「 愛と平和の思いを“起さしめ給う” 」 であったが、「 起った 」だけで 花火線香のようにすぐ消えてしまったら何にもならないので、
後に「 愛と平和の思いをもって“満たし給う”」 と祈りの言葉を変えることに したのである。
するとアガシャの預言では一九六五年までに人類の大多数絶滅の悲惨事が 起るような預言であったが、それが変更され「 第三次世界戦争は起らない 」という 預言に変ってしまったのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
<感謝合掌 平成27年3月5日 頓首再拝>
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