| [296] 「希望の炎」(タスナ&ジュリエッタ&ギゼー)[2] |
- 小林悠輝 - 2004年12月29日 (水) 17時21分
夢うつつに遠い騒音を聞いた気がした。
だからといってそれで覚醒したはずもない。ジュリエッタ・ローザンハイン――けったいな名前だ。もう少し短いものを考えればよかった、と彼女はたまに後悔する――が目を覚まして宿を出たときには、もう昼に近い時間だった。 それでも、同行者の一人でもいれば「今日は早いね」と言っただろうが。
平らで、角が丸っこい石畳が敷かれた道に降り立つと、晴れ渡った空が頭上に広がっていた。 「ジャバウォック」と看板の掲げられた小さな宿の建物の前から見渡せる、暖かな日差しに照らされた町の景色。 花屋、本屋、誰かの家、小物屋……
ポポルの町は相変わらず時間の流れが遅い。 というよりも起伏が少なく安穏としているというべきか。 そこそこの宿に泊まって、毎日てきとうに散歩をして宿に帰るという生活をしていたら、あっという間に一月が経ってしまった。
ソフィニアあたりの意味もなく急かされるような空気と違って過ごしやすいのに、ソフィニアよりも人口が少ないことが、ジュリエッタには不思議で仕方がない。 働くことや学ぶことが至上の喜びだとでもいうのだろうか? だとしたらそんな人間たちとは永遠に気が合わない。わかり合えない他人が一つの都市の人口と同じだけいると考えるだけで、ぞっとする。
用がない限り極力ソフィニアには近づかないことにしよう。 同業者の集会からの招待状、召喚状、出頭命令書、すべて読みもせずに屑篭へ放り投げているジュリエッタに、かの魔術都市に赴かなければならない重要な用事などあろうはずもない。
長い黒髪、暗紅のドレス。ブーツの底が石畳を叩く硬い音。 暗鬱な、という形容詞で表される色をまとってポポルを歩くのは、綺麗な景色を描いた風景画に濁ったインクを落としていくのと同じ。
たまに人が振り向くのに満足感を覚えながら歩く。 とりあえず昨日とは違う方向へ、ということだけしか考えずに、こじんまりとした町並みを眺めながら。 だから一昨日はその道を通ったかも知れないし、その二日前もどうだったか。覚えていないのなら初めて見る場所だ。
「っ!」
標識看板の立つ角を曲がった途端、誰かにぶつかりそうになった。 驚いて見上げる――が、その相手も、見上げるほど長身ではなかった。今のジュリエッタよりは肩の位置が高いが、成人男性にしては低い方だろう。
年上だが、三十路は超えていなさそうだ。 短い栗毛、太い眉、鳶の瞳。 すっと通った鼻筋は爽やかな印象。 細い体、薄汚れた軽装、大きな鞄。
それだけを一瞬で認識してジュリエッタは瞬きした。
「っと……危ないですよ、お嬢さん」
「悪い。ぼうっとしてて」
お嬢さんと呼ばれるような歳ではないが、と思いながら応える。 男は「いえいえ」と首を横に振って笑った。
「お詫びに食事でもどう?」
「……? ぶつかってないのに」
「いいからいいから」
ジュリアはまじまじと男の顔を見つめた。 伊達男と呼ぶには風格が足らず、チャラ男と呼ぶほど頭が悪そうには見えない。 ジュリエッタは彼をどう評価するべきか悩んだが、すぐに考えるのをやめた。面倒くさくなったのだ。
「あまり高いところは勘弁だけど、普通の店なら」
確かに昼食はまだとっていない。 しかし、知らない人に着いて行ってはいけませんと、しつこく言い聞かされていたような気がする。何か、たとえば多少の危険に巻き込まれたところで、なんとかするくらいの自信はあるというのに、まったく彼は心配性なんだから……
少しだけ考えてジュリエッタはうなずいた。 ナンパ? されるのも滅多にないことだし、どうせヒマだったから。そしていきなり声をかけてくるからには、この男もそうなのだろう。 この町はゆったりしていていいけれど、いちど退屈を認識してしまうとそれを振り払う術が少ない。これが、自分住んでいる町ならば別なのだろうが。
「俺は―― お嬢さん、お名前は?」
考え込んでいたせいで男が名乗ったのを聞き逃してしまったが、ジュリエッタは特に気に留めなかった。人の名前を知っていても、それを呼ぶことは少ないから。 この男はもう、“お嬢さん”という、こちらを呼ぶ言葉を持っているのだから、わざわざ名前を聞く必要もないだろうと思いながらも、ジュリエッタは素直に答えることにした。
「ジュリエッタ。ジュリアでもユリィでも好きなように略して構わない」
美貌を讃えるのではなく、無愛想さを評して“人形のよう”と喩えられたことがあるそのままの表情、言葉に、果たして男は脈ありと思ったかどうか。浮かべた笑顔は無闇なまでに爽やかだった。

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