| [206] No.036 「虚ろな空」+(「オルゴール」+「酒場」) |
- 匿名 - 2004年03月26日 (金) 17時51分
―― それはまるで、壊れたオルゴール。
ざあざあと、雨の音が世界を埋めています。 冷たいカーテンに閉ざされた世界で、わたしはこの人に逢いました。
せまい路地で汚い壁に寄りかかって座りこんだまま、 茶色い髪からぽたぽたと水をしたたらせながら灰色の空を見あげる男の子は、 わたしがちかづいても、まるで気がつかないようでした。
ぼろぼろの服がじっとりと水気をふくんで、 手足は力なく投げ出されていました。
まっ白い肌には血の気がなくて、 くちびるは可哀想なくらい紫色です。
わたしがすぐ目のまえまで歩いていって、彼はやっとわたしに気がつくと、 ゆっくりとこちらを見て、すこしだけほほえみました。
「こんにちわ、お姉さん」
「……こんにちわ」
にこりと無邪気なえがおはしかし、この人の体力が尽きかかっていることを わたしに教えてくれているようでした。
すこし影がおちて、くまがはっきりと浮かび上がり、 まるで目がおちくぼんでいるように見えました。
わたしはこの人似ている人を知っていましたが、 とてもよく似ている人を知っていましたが、この人とは違いました。
わたしは、あのこの子供のころしか知りません。だけどおぼえています。 あのこは、こんなにさびしそうに笑わなかったはずです。 思いだすのは、もっと明るくてたのしそうなえがおばかり。
わたしは言いました。
「……かぜをひくよ」
「大丈夫」
だいじょうぶには見えませんでした。 わたしが首をよこにふると、男の子はうれしそうに笑いました。
「ボクのことを心配してくれるんだね」
とてもあのこに似ていると思いました。 だけど、この人は、あのこではありません。
あのこがわたしを忘れているはずがないのです。 だって、あのこは、うまれてから引きはなされるまでずっと、 長いあいだ、わたしと一緒だったから。
わたしはうなずきました。
「だいじょうぶ。ボクは人間じゃないんだよ」
「じゃあ、なに?」
「オニンギョウなんだ」
おにんぎょう。 わたしは、また、あのこを思いだしました。
あのこには弟がいます。 その弟が、おにんぎょうを投げたことがありました。
それを拾ってあのこは言いました。
“いいかい? 人形を乱暴に扱うとね、自分も人形にされちゃうんだよ”
あのこは、うそをつきました。 うそをついて、おにんぎょうを守ってあげて、弟のあたまをなでました。
だからわたしは、いま目のまえにいる男の子を すこしだけこわいと思いました。
この人は自分をおにんぎょうだと言いました。 そしてあまりにも、あのこに似ています。
「ボクはオニンギョウなんだよ。 ご主人さまが、フラスコで水銀やいろいろなものを混ぜて、ボクをつくったんだ」
わたしには、フラスコやスイギンがなんなのかわかりませんでした。 男の子は、あのことおなじ黒い目をほそめました。
「つくれるの……?」
「ご主人さまは、とてもすごい魔法使いなんだ」
じっとわたしを見おろして。 でも、どこか遠いところを見ているようでした。
あのこはもう、おとなになったはずです。 こういう目をしてわたしを思いだしてくれるでしょうか。
「人間をね……つくろうとしたんだ。 だけど、ボクは人間になれなかった」
雨がすこしだけ、強くなった気がしました。 うつろな灰色の空は、この人のかわりに泣いているのかもしれません。
わたしのからだも冷えきっていましたが、この人の涙になら、 体温をぜんぶ取られてもいいと思いました。
だってこの人は、あのこに似すぎている。
「ねえ、お姉さん」
「……なぁに」
男の子は、わたしを見おろしたまま、言いました。 からだを動かそうとしたのか、ぴくりと手の指が動きました。
それはまるで、壊れたオルゴール。
あのこが持っていたそれは、 だんだんゆっくりになっていきながら、 しかし、一音だけ、うるさく鳴るのです。
そしてすぐに止まってしまうのです。
「このコートの中に剣が入ってるんだ。 ボクはもう、あまり体が動かないから……」
この人は、わたしがそれをできないことを知っているのだと思いました。
わたしは男の子の服をさぐりました。 かたい鉄は冷えきっていました。
折りたたまれた刃を出そうとしましたが、無理でした。
わたしは「できない」と言いました。 男の子は、悲しく笑いました。
「いいんだ。 どうせ、そのくらいじゃ死ねないから」
わたしは男の子の、力のない手に触れました。
ぼろぼろにやぶれた手袋の革は雨に濡れて、ひどくにおっています。 白い手はほそく、傷ついていました。
血のにおいはしませんでした。
「ご主人さまは、ボクの体が作り物だからいけないんだと思ったんだ。 だから闇商人から死体を買って ―― 」
わかっています。この人は、あのこじゃないのです。 たとえどんなにそっくりでも、どんなになつかしいにおいがしても。
人間のことばで、「タマシイの色」、とでもいうのでしょうか。 それが、あのこじゃないのです。
「 ―― それでも駄目だった」
あのこは、こんなにさびしそうには笑いませんでした。
よく泣きました。でも、笑いながら泣いたりはしませんでした。 こんなに悲しいえがおは見せなかったのです。
いつも明るく笑いながら、わたしの黒い毛並みが ぼさぼさになるのも気にしないで、 わたしを抱きしめてくれていました。
この人の手はわたしを抱きしめてくれません。
「わたしの名前を知ってる?」
男の子は、首をよこにふりました。 わたしは言いました。
「考えたのは子供だから、はずかしい名前だけど」
「笑わないよ」
「ペロっていうの」
わたしは男の子の手をなめました。 昔、あのこがくれたアイスクリームよりずっと 冷たくて、すごく悲しくなりました。
「……ボクの名前は……」
この人は、あのこではないのです。わかっています。 あのこはもう、どこにもいないのです。だけど……っ!
「言わないで!」
男の子は、ふぅ、と息をはきました。 なんだか安心したみたいでした。
壁のむこうが、急にうるさくなりました。 この壁のむこうには、お酒を飲むお店があります。
わたしは壁をにらみました。
人間は、お酒を飲むとあばれたり、 泣きだしたり、笑いだしたりします。
お酒を飲めばこの人ももっと明るく笑えるのかなと思いました。 しかしわたしが、お店の人からお酒をもらうことはできないのです。
だって、わたしはただの犬ですから。 この男の子のほかに誰も、わたしの言うことをわかってくれないのですから。
「ねぇ……わたしには、難しいことは言えないんです。 だけど、あなたを人間だと思いたいんです」
男の子は、また笑いました。 あのことおなじ、明るくてやさしいえがおでした。 だから、この人は、あのことおなじ、人間です。
「ペロは優しいんだね」
「…………あなたに似た人を知ってるんです」
これを言うのは、わたしにとって、とほうもない冒険でした。 男の子は黙ってしまいました。
雨はやみそうにありません。 うつろな空は泣きつづけています。
あたりはすっかり水たまりだらけで、男の子のからだは、 もう氷のようでした。
「あのこは人間だったから。 ……犬でもおにんぎょうでもなかったから」
「ごめんね」
男の子は、壁に手をついてゆっくりと、立ち上がりました。 わたしはじっと見あげました。いまにも倒れてしまいそうでした。
ねぇ、神さま。 あのこは、おにんぎょうを乱暴にしましたか? おにんぎょうにされてしまうようなことを、しましたか? あのやさしかった子が。
「……もう少しだけ、がんばってみるよ」
ほそくて汚い道を歩いていくその人は、 止まりかけのオルゴールよりもゆっくりだったけれど。
わたしには、おいかけることはできませんでした。

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