| [451] 希望の炎―9(イートン&ベアトリーチェ) |
- 熊猫 - 2007年06月22日 (金) 20時25分
イートンとハーティアの話を話半分に聞きながら、ベアトリーチェは 神殿の内部を観察していた。
今彼女達がいる講堂は意外に広く、両脇にある白亜の柱が天井まで伸びて アーチを組んでいる。だがその広さが仇になって、清掃は細部まで行き届いているとは 言い難かった。 もっとも、中央部にある教会のように精密な宗教画が描かれているわけでもないので わざわざ高い天井を見上げる者もいないのだろうが。
変わりに両脇の壁には聖火を掲げる乙女の像がずらりと並び、捧げた受け皿には 炎が灯っていた。装飾と同時に照明の役割も兼ねているらしい。
「ベア」
雑然とした神殿の中を呼ばれて、振り返る。
ふとよぎったのはまだベアトリーチェが少女だった頃の相棒の鼻面だったが、 そこにあったのは見慣れた童顔だった。
ハーティアの焦りが伝播したかのように落ち着かない人々の群れの中、 黒いコートに身を包んで立っている夫の姿は、羊の大群の中を彷徨う 牧羊犬を彷彿させた。
(犬に縁があるのかしらね) 「ベア?」 「聞いてたわよ」
まじまじと顔を見られて不思議に思ったのだろうか、今度は語尾を上げて 呼んで来る。ベアトリーチェはつい出た笑みを拭うように髪をかきあげると、 夫を挟んでいまだ長いすに腰掛けているハーティアに向き直った。
「確認するけど、つまりその――ル…"怪物"っていうのは、 プリメラって人の弟ってわけよね?」
言うと同時に、びく、とイートンが弾かれたようにベアトリーチェの顔を見やった。 一瞬なんのことかわからなかったが、すぐに気がついて、適当に言い足す。
「や…弟か妹か姉か兄か知らないけどね」
ベアトリーチェとイートンは怪物と"会っていない"のだ。ルネアの名前どころか セレナの顔すら知らないことにしておかなければいけない。 だがそれは無用な心配だったらしく、ハーティアはまぶたを半分下ろして 頷くと、小さく「弟です」と訂正した。
「ルネア…そう、そんな名前でした」 「"怪物"と呼びすぎて本来の名前も忘れてしまわれたのですか、神官長」
向かってくる足音にベアトリーチェは気がついていたが、ハーティアは 突然の横槍に驚いた顔で声の主の名を呼んだ。
「プリメラ…」
振り返ると、一人の女が立っている。 シンプルで簡素なワンピースの上に、藤色のショールを頭にゆるく被って 裾を背に回した、30代ほどの女だ。 特にアクセサリーなど目立つものを身に付けてはいないが、ショールの奥には ルネアと同じ白髪が僅かに控えている。
「神官長。ルネアとセレナがいなくなったそうですね」
プリメラと呼ばれたその女は、明るい茶の瞳を悲痛に歪ませ、ハーティアを 見つめ返しながら言った。
「そんな姿になってしまって…お可哀想に」 「どういう意味なの?プリメラ」 「随分とお疲れのご様子ですから」 「あー…」
こういった事には妙に敏感なイートンが、控えめな声で水を差す。
「あの、ええと。できればその――」 「とっとと報酬の話に入りたいんだけど」
夫の声を受け継ぐ形でベアトリーチェも口を挟んだが、夫の表情は明らかに 違うことを言わんとしている顔だった。 「報酬?」不快を隠さないまま、ハーティアが繰り返す。
「報酬ってあなた」 「あたしはBランクのハンターよ。そのあたしに神官長様が直々に 頼みごとしてるって事は、正式な依頼だと思っていいわけでしょ? だったらそれに間に合う報酬を要求するのは当然じゃなくて?」 「私は貴女に手伝って欲しいなんて――」 「いっとくけど」
まくし立てられても強気で返してくるハーティアの目前に指先をつきつけ、 次にその指で横のイートンを示す。
「こいつに依頼したって同じことだからね!あたしの扶養家族なんだから」 「や、ちょ」 「だってそーじゃない」 「一応ベストセラー作家っていう肩書きがあるんですが…」
困ったように指先で頬を掻くイートンは無視して、さらにハーティアに 言い募ろうとすると、プリメラがため息まじりにそれを遮った。
「報酬が欲しいのであれば私がお支払いします」 「ホント!?やるぅ」 「その代わり手伝ってくれますね?ハンターさん」 「もちろんよ。損はさせない」
プリメラの真摯な眼差しを真っ向から見つめ返して、 ベアトリーチェは自信ありげに頷いた。
「オーディル神官長。すみません、僕らも何かお手伝いしたいだけなんです。 どうかお気を悪くされないでください」 「ええ…わかっていますわ」
おずおずととりなすイートンの言葉に、ハーティアは疲れた表情で答えた。
・・・★・・・
「"怪物"は母親の命を代償として生まれてきます。 彼らは生を受けたその瞬間から人の命を奪ってしまうんです」
精神的に疲弊しているハーティアの元をあとにして、プリメラと二人は 神殿の展望台へと場所を移していた。
うす曇の空の奥からぼやけた太陽の円が見える。 だいぶ傾きかけたその光は、この国にはもう僅かにしか届かない。 それを見て、不安そうにイートンがコートの前を留めた。
「オーディル神官長から窺いました。強力な…呪いですね」 「思ったんだけど」
怪物が――ルネアが脱走した跡は発見当時と比べだいぶ片付いていたが、 それでも直ったわけでもない。散らばっている破片のひとつを拾い上げて、 ベアトリーチェは立ち上がった。
「極端な話、子供を生むのをやめればいいんじゃないの? そうすれば母親が死ぬこともないし、"怪物"だって生まれないんでしょ」 「…これは罰なのです」 「罰」
破片を軽く投げては受け取るを繰り返しながら、プリメラを見る。
「人は竜の棲み処を奪い…かわりに、この地に留まる人間達に呪いをかけた。 でも、それは誤解なんです。 竜の力は強大です。人に棲み処を奪われるなんてことはありえません」 「じゃあ――」 「竜は棲み処を奪われたのではなく、棲み処を捨てざるを得ない状況に追い込まれたのです」
思わず投げた破片を受け損なう。かちん、と硬い音を立てながら転がった破片は、 そのまま展望台のふちを越えて奈落へと落ちていった。
「人々は棲み処を奪うことはできなかったけれど、竜の子供を殺すことはできたんです」
まるでそれが自分の犯した罪のように語るプリメラ。 ベアトリーチェは相槌を打つかわりにまた足元から破片を拾い上げた。
「文献ではその数は86匹だったと言います。わが子を失った竜は怒り狂い、その数だけ 人々に呪いをかけて今もこの地に留まっているのだとか。その結果、人々はこの地を 手に入れた――と錯覚した」
その言葉を聴いて、イートンがさっと懐に手を差し入れ、手帳を引き出して ページを捲る。その動作が自然すぎて、彼が何かを確認しているのだと気がついたときには 夫はもうペンを走らせていた。
『僕はその86人目です』
眼前にその文章が浮かび上がったような幻想を感じて、ベアトリーチェはただその 幻を凝視した。その向こうに、縁を金色に輝かせた夕暮れの雲が流れている。
「つまり、その86匹のために86人の子供が"怪物"にならなきゃいけないってこと?」 「そうなります。だから罪を償わない限り、呪いは解けません」 「…そんな話、この国の人達は知っているのでしょうか」 「ええ、でも皆は竜を人柱を強要する…それこそ"怪物"だとしか見ていないでしょう」
手に持った破片を改めて見やる。砂銀をまぶしたような白い化粧石。 神殿の床を飾っていたそれは、砂糖菓子のように軽かった。 怪物を押し留めておくにはあまりにも華奢に違いなく、無残な断面を手の中で晒している。
「でも、罰ならば償うことはできるんです。竜は無駄なことはしません。 ただ、償ってほしかっただけなんだと…私は思っています」
プリメラがショールをずらし、背に追いやった。現れた白髪は予想以上に白く、 ベアトリーチェが持っている化粧石の輝きに似ていた。 自嘲気味に笑って――嘆息する。
「子供達にそれを背負わせるのは、あまりにも酷なことですけれどね」 「そうね」
即答すると、プリメラは少し戸惑ったようだった。しかしすぐに驚きから 苦笑へと表情を移す。翳った瞳に陰る国を写して、元巫女は呟いた。
「こんな事が今まで起こらなかったのが不思議なぐらいです。 あの子達、寒い思いをしていなければいいのだけれど。可哀想に…」
プリメラは落胆していたが、絶望はしていないようだった。
「ねぇ、"アレ"言っていいんじゃない?身内だし」 「そう…ですね」
つつ、と夫に近寄って、断崖の国を見下ろしているプリメラを横目で 確認しながら囁く。イートンもメモをとっていた手を止めて神妙な面持ちで 同意してきたので、その位置で少し遠巻きにプリメラに声をかける。
「あのね、あたし達、ルネアとセレナのいる場所知ってるのよ。 ていうかさっきまで会ってた」
今まで沈んだ表情だったプリメラの顔に、さっと生気が戻る。 大きく目を見開いて、振り返ったせいで跳ねた髪の房が 頬に引っかかっているのを払おうともせず、裏返った声で問いただしてきた。
「なんですって…!?あの子達は無事ですか?本当に?どこに?」
瞬間――
引きつるようなけたたましい警鐘が、断崖の国に響く。
驚いてベアトリーチェが西の方角を見たちょうどその時、 糸のように細く残っていた太陽の頂点が、 曇天の隙間から一瞬だけ顔を覗かせてそのまま沈むように消えた。

|
|