| [432] 希望の炎―5(イートン&ベアトリーチェ) |
- 熊猫 - 2006年11月13日 (月) 01時38分
衝撃的な――少なくともいつもそっけない愛する妻の興味を少しでも ひけるに値するだろうと踏んだ――セリフを言ったあとの イートンの何かを期待するような顔を見ながら、 ベアトリーチェは無言で手に持ったカップの中身をざっと口の中にあけた。
ばりぼりと、形だけ凝っていて中身は普通のクッキーと何ら違わない、 断崖の国の名産を無感動に噛み締める。 たっぷり時間をかけてそれを飲み下してから、ベアトリーチェは一言呟いた。
「水くんない?」
途端、ふ、とイートンが絶望したように両手で顔を覆う。
「わかってましたよ――きっと君は信じてくれないって…」 「いいから、みずー」 「僕だって未だに何があったかよくわからないんですよ。信じられないような事が 立て続けに起こって…でも本当に」 「口ん中パッサパサなんだけど」
なおも食い下がると、イートンは観念したように「汲んできます」と 力なく肩を落として去っていく。ベアトリーチェはその背中に向けて、 両手をメガホンのように口のまわりで覆って言った。
「ごめんやっぱ紅茶がいいー」 「わがまま言うんじゃありません!」
・・・★・・・
5分後、宿に向かう道すがら。
紅茶を飲みながら一通りイートンの話を聞き終えたベアトリーチェは、 ふうんと気の乗らないあいづちを打った。
「崖の中腹って言ってもねー。位置とかわからないんじゃ確かめようもないし」
確かにイートンの言ったことは突拍子もなかったが、よくよく考えてみれば、 気弱な夫にこの状況下で冗談を言うほど度胸があるとは思えなかった。
「いや、わかりますよ。大体なら」 「そうなの?」
眼鏡の端をつまんで位置を正すその仕草は、いかにも「ぽい」様子だったが、 それでもベアトリーチェは疑いの表情を隠せない。 そんな妻の様子に眉ひとつ動かさず笑顔で受け答えするイートン。
「ええ。どうします?」 「行く行く」 「でも、登るのも下るのも難しそうな場所でしたよ」
さんざん煽っておきながら夫が引くのは珍しいことでもない。 そしてその忠告をベアトリーチェが聞き入れないのもいつもの事だった。 にやりと皮肉気に笑って、夫の顔にあごを突き出す。
「あたしを誰だと思って?」 「僕の可愛い奥さん」 「ばーか。『ミストコレクター』カルヴァドス・ガレットの孫よ」 「そして可愛い二人の子供のお母さん」 「そうとも言うわね」
そこは否定せず、けらけら笑ってやる。
宿は目と鼻の先だが、イートンの足は自然とそこから大きく外れていく。 どうやらちゃんと案内してくれる気になったらしい。 と、何かを思いついたように夫が振り返った。
「ところで、装備とかは揃えなくていいんですか?ロープとか…」 「大丈夫。あたしにはこれさえあれば十分よ」
そう言って手に持っていたソウルシューターをちらつかせてやる。 まだ日のあるうちから目立つ武器を人目に晒すのは褒められたことではないが、 あいにくその人々は街の不穏な気配を敏感に感じ取ったのか、 その姿はまばらだ。
「こっち…かな?」
上を――聳える崖を遠目に確認しながら、イートンは道を選んで進んでゆく。 その半歩後ろを適当について歩いてゆきながら、考えをめぐらす。
「そこって、こっから遠いのかしら?」 「ええ…あ、いや、どうなんでしょう」
遠い目をしつつ、夫が上の空で答えてくる。むっとして――悪態をつこうと さらに口を開いた、その時。
「そうだ!」 「ぶ」
いきなりイートンが立ち止まる。すぐ後ろを歩いていたベアトリーチェは、 思い切り背中にぶつかってから、反射的に持っていたソウルシューターの 柄で彼を殴り倒した。
「痛っ!」 「なにすんのよ!」 「い、いや、ひとつ思い当たって…いたた」
本気で痛かったのか、背に手をあててしばらく悶絶するように そこにしゃがみこんでしまう。ベアトリーチェはその後姿に容赦なく 悪意ある視線を送りながら、腰に両手を置いて詰め寄った。
「なによ!」 「あの、さっきのをもう一度試してみようかな、なんて」 「さっきの…?」 「話したじゃないですか。これです、これ」
そう言いながらイートンは懐から原稿用紙とペンを取り出す。 しゃがんだままこちらの答えを待たずに原稿用紙を地面に敷いて、 左手を差し出してくる。意味がわからず、いぶかしげな視線を送ると 彼は会心の笑みを浮かべて言った。
「もしかしたら、一緒に君を連れて行けるかもしれません」 「…うさんくさいからヤだ」 「まぁ、騙されたと思って。ね」
イートンの穏やかな声音を半眼で聞きながら、動物園から脱走した虎が 飼育員に捕獲される時はこういう気持ちなのではないかと、ふと どうでもいい事を考える。
「…一回だけよ」
腑に落ちないながらも、夫の手を取る。イートンはペンを握った右手を 緊張した面持ちで原稿用紙の上まで滑らせた。
「行きますよ」 「ん」
作家らしく軽快な筆運びで、イートンがまっさらな原稿用紙にただ一言。
巫女と怪物は今どこに?
書きおわり、ぱた、とペンを静かに置く。反動で数センチ転がったペンは、 白い原稿用紙に薄い影を落としながらすぐ止まった。 ベアトリーチェは、どう見ても動きそうにないペンへの興味を数秒で 失ったが――夫の握る手の強さがいつになく強いので、とりあえず 彼が『ダメでした』と言うのを黙って待つことにした。
視線を空へと転じる。風が出ててきて、どうやら天気は曇りになりかけていた。 その景色の中を貫くように、イートンが歓声をあげた。
「動いた!」
巫女と怪物は洞窟の奥深くまで
慌てて見れば、ペンは確かにひとりでに動いている。筆跡を見る限りでは 女のものにも見える。が、そんな想像をする間もなく、いきなり視界が 白濁する。
「離さないで!」
そして彼女は、夫の声と、手のぬくもり以外の感覚をすべて失った。
・・・★・・・
それが雲だと気がついたのは、わずかな陰影に気がついたからだった。
イートンの言った事は本当だった。見えざる手はペンで答え、そして 望む場所へと連れてゆく。 紛れもなく空を飛びながら、ベアトリーチェは周囲を見渡した。
眼下に広がる断崖の国の縮図、灰みがかった雲の群れ、広がる海。 そしてひきつった顔でやはり空を飛んでいる夫の横顔。 大きく嘆息してから、彼女は隙なくさらに周囲を観察する。
景色はすさまじい速さで変わってゆく。おそらく巫女と怪物の いる場所へと向かっているのだろう。その予想は、すぐに的中した。
「あれね」
崖の中腹に、彼の言ったとおり洞窟らしきものがある。見えざる手は このスピードを保ったままあそこに突入させるのだろうか、と妙に 現実的な事をベアトリーチェが考えていると、その意思を汲み取ったかのように 目に見えて速度が落ちた。
「本当…だったで、しょ?」
ようやく口をきく余裕が出てきたのか、イートンが目をふらふらと回しながら 口を挟んできた。「ええ」と素直に答えてやってから、迫る岸壁に向き直る。
岸壁には誰が作ったか自然の産物なのか道ができていた――二人はその道、 洞窟の前へと足を下ろした。だが、なぜか体重の感覚がない。 それこそ夢のような感じが背中をむず痒くさせる。
「!!待って!」
洞窟の奥で、ちらりと何かが光って見えた。それが何かもわからなかったが、 思わず人にする問いかけが口から飛び出る。 それを裏付けるように、気配とかすかな足音が洞窟の奥へと消えていった。 走り出す――茫洋とした感覚はすでになく、しっかりと自分の体重も 周囲の温度も感じられるようになっていた。
「ま、待って」
同じことを後ろで繰り返す夫――それはおそらくいきなり走り出した妻に 向けてだったのだろうが、その足音が追いかけてくる。
あれだけ強く繋がっていた手は、いつの間にか離れていた。
―――――――――――――――― やっぱりラブラブ。

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