| [425] 「ミッシング・チャイルド」(ライ&セラフィナ) [5] |
- 小林悠輝 - 2006年10月10日 (火) 00時48分
派手な運動をするには早すぎたらしい。あの古いソファの上で目覚めてから、まだ半日も経っていないはずだ。いや、経っているのか? この世界で時間がまともに流れているかどうかは疑わしい。さっきの鐘が真昼だと、ねずみのぬいぐるみが言っていた。が、真昼にお茶会をやるという話を、ライは他に聞いたことがない。 走るうちに、森は段々と深くなっていく。 木の根に蹉きかけて他の木に手をつき、体勢をなんとか持ち直してまた走る。行く手に見える白い背中は小さくなっていく。追いつけないことは明らかだったが、このまま逃がしてセラフィナの元へ戻るのは癪だったのでベルトのホルダーからダートを抜いて、立ち止まりもせずに(つまり狙いもつけずに)投げつけた。 狙ったとしても、射線を遮られる森の中、動く的だ。当たるはずがない――のに、黒く小さな飛翔物は、白い背中へ吸い込まれていく。 当たる直前、眩いばかりの閃光が目を灼いた。 「うわっ」 小さな悲鳴を上げて腕で目を庇い、慌てて、ちかちかする視界で成果を確認したときには、白兎の姿はどこにもなくなっていた。奇妙なまでに静かな森が、日の光を浴びてきらきらと輝いているだけ。 ライは小さく舌打ちしてから呼吸を整えて、兎の消えた場所を確かめるべく近寄った。 梢の合間から降り注ぐ日光がやわらかな芝草を透かしている。 大きな動物の跳ねた形跡は、その地点を境にふっつりと消え失せてしまっていて、少なくともあの光に目が眩んでいる間にどこかへ逃げられた、というわけではなさそうだ。では、どこへ? まさか“僕と”おなじような怪奇現象の類ではあるまい。ああいうのはできれば例外であって欲しい。我侭言わず物理法則に従え。 「……ライさん……ウサギさんは?」 「え? ああ」 そうだ、セラフィナもいるのだった。振り向くと、追いついてきたばかりの彼女は息を切らしていた。 「大丈夫?」 声をかけ、喉の乾きを思い出して空咳をする。確かにこういうのがない分“僕の方が”便利ではあるんだろうけどさ、と胸の内だけで毒吐く。でもごめんだ。僕はあの怪奇現象とは違うし、あれの真似をするつもりもない。 「仕留め損なった。光、見た?」 「見ました――って、え、仕留めるって?」 「光って、ウサギ消えた。ここ」 気にせず、できるだけ短い言葉で、答える。 クッキーを食べたのは失敗だったかも知れない。余計に口の中の水分がなくなった。どこかに泉でもあればいいのだが、普通はそう都合よくいかないだろう。セラフィナは不可解な表情で黙りこんだ後、何か一人で納得したように頷いて周囲を見渡した。 「どこへ行ったんでしょうね」 「……んー」 とりあえず、異世界とはいえ動き回れば体力を消耗するし腹も空くらしいということはわかっている。が、そういう環境で活動するための準備など、まったくない。食べ物はセラフィナが持っている怪しいクッキーだけ。下手を打つとすぐに動けなくなりそうだ。 「水ないかな」 「はい?」 「喉乾いた」 「たくさん走りましたからね」 それも原因かも知れない。無言で頷いて、ライは白兎の消えたと思しきちょうどその場所へ足を――
ずぶ
「あれ?」 足首まで芝に埋まりこんだ。変な具合に踏鞴を踏んで足を引き抜く。セラフィナが目を丸くして口元に手をやっているのが見えた。ライはくるりと回転して芝に隠れていた穴を見下ろす。両手の親指と中指を合わせて作った輪とおなじような大きさ。ぽっかりと口を広げている。 「…………」 「何……でしょう、この穴」 セラフィナの言葉に少しだけ悩む。また短く答える。 「ウサギだから」 「え、でも」 こちらの言わんとしたことを正確に理解したらしいセラフィナが、しゃがみこんで周りの芝を指で除ける。白い指先に土がかかるのを眺めながら、ライは粘つく唾を飲み込んだ。 「大きさが違いますよ、巣穴にしては」 「ここ何が起こるかわからないからねぇ」 セラフィナは少しだけ考えたようだったが、服の袖を軽く捲ると、手首までを穴に入れてみた。ライは、本当にウサギがいたら噛まれるかも知れないなぁと思いながら眺めていたが、起こったのはまったく別のことだった。 「きゃあっ」 「は? 何?」 悲鳴、のような。ただし想像していたのとは別の、驚愕の声。 よそ見していた森の景色から目を戻すと、小さかったはずのウサギ穴がぽっかりと大きく口を広げ、セラフィナを飲み込もうとしていた。慌てて手を伸ばす。掴んだ手首は細い。不意を突かれたせいか、勢いに負けて体勢を崩す。あれ、さっきもこんなことなかったっけと思いながら、セラフィナ共々、暗い穴の中へ引きずりこまれて――
落下の酩酊感。 暗転、するまでもなく視界は暗闇。
背中から何か硬いものに叩きつけられて、思わず息を詰まらせた。 げぼ、と肺から強制的に空気を搾り出される音がする。反射的に空気を求めて喘ぐと、息苦しさにまた咽せることになった。寒い、いや、冷たい。空気を求めて無意識に伸ばした腕に絡みつく抵抗で、水中にいると知った。 ああ、水の中に落ちたのか。肺に入り込んだ水を排斥しようと体が反応する。そのせいでますます水が滑り込む。冗談じゃない。いいや、冗談であってくれ。だって僕は泳げない。 「――ライさん!?」 水を通してくぐもった声。腕を掴まれる。 鈍く明滅する視界。頭上に光が見えた。
「大丈夫でしたか……?」 激しい咳で水を吐きながら、頷く。若葉色の岸から見た湖は広く、鏡のように静謐だった。なんて忌々しい。 自分とおなじく全身がずぶ濡れになったセラフィナは、こちらのことばかり心配しているらしい。あれだけ不様に溺れてみせれば仕方ないなと思いながら、ライは咳の合間に声を絞り出した。鼻の奥がツンと痛い。 「もう、水が欲しいなんて言わない」 「え」 きょとんとするセラフィナに、目を細めて薄く笑いかける。 意地悪い、その実ただの強がりの表情はあっさりと見破られて、「そのコート脱いでください、冷えますよ」と怒られた。火を熾すことはできなさそうだから、衣服の一枚で何が変わるとも思えなかったが、「早く」と迫る剣幕に圧倒されて、仕方なく従った。 どさり、柔らかい草の上に投げ出された黒い上着は、湿った重い音を立てた。随分と楽になった気がするのは、水を吸った布がかなりの重さになっていたからで、開放感に思わず吐息すると、セラフィナがくすくす笑った。 恨めしげに横目で見上げながら、服の裾を絞る。ぼたぼたと滴る水を、足元の土は容易く飲み干した。寒い。ここの気温がそれほど低くないのは幸い。日差しは暖かい。これなら数時間で乾くかも知れない。まあ、濡れた服の感触は気持ち悪いけど。 「ひどい目にあった……助かったよ」 「ライさんが泳げないなんて思いませんでした」 「信じられないなら後であいつにも聞いてみな」 「どなたですか?」 ああ、しまった、余計なことを。セラフィナがしているだろう勘違いを訂すつもりはない。なんでこんな口の滑らせ方をするかなと自分を責めながら、苦笑。気が抜けているのか、或いは苛だっているのか。どちらでもある。 「オディールがいるなんて思いもしなかった」 話題を変える。が、セラフィナはきっと気づかないだろう。 「……知ってるんですか?」 「昔、おなじ町に住んでた。よく遊んだんだ――オディールは内気で、外に出たがらなかったから、あの子の家で。部屋にはぬいぐるみがたくさんあって」 そこまで言って、ライは言葉を切った。そうだ、彼女はぬいぐるみや人形に囲まれて生きていた。ワンピースを着たねずみや、大きくてふかふかのうさぎ。小さな兵士の人形が何体も何体も、白い棚に整列していた。つやつやした陶器の頬の少女人形の服は、オディールの母親が縫ったものだと聞かされた。 そうか、ここは。だから僕はここにいるのか。あの胸糞悪い怪奇現象なんかのためにわざわざこの世界が些細な矛盾を修整しにかかったのは、オディールがここに何らかの影響を持っているからか。 「ライさん?」 声をかけられて、ライは「ああ、うん」と顔をしかめた。 「ねぇ、セラフィナさん。意味深そうで、ただそう聞かせたいだけみたいな言葉っていうのは、本質を捉えやすい。つまりどういう風にでも解釈できるから後で思えば適確な助言のように思えるわけなんだけど、僕はね、今、昔のオディールの様子を思い出して、“彼女は人形の国の女王様みたいだった”なぁなんて感想を抱いたんだ。そう言っただけで僕の推測は大体わかるよね。だけど、僕が意図している意味やセラフィナさんが思いつくだろう仮説が合っているのかはわからないし、どうして彼女がここにいるのか、外で眠り続ける見知らぬ少女との間にどんな関係があるのか、まったく見当がつかない。何故なら僕がオディールを知っているのは数年間だけで、その前ないし後に彼女に何があったかなんて、何も知らないからだよ」 一気に言ってからセラフィナを見上げる。 彼女の肌が真っ白に色を失っているのを見て、このままではいけないなと思った。 近くに、助けてくれるような誰かがいるだろうか。ここの住人にマトモな反応を期待するのは無駄かも知れないが、とにかくこの状態だけはなんとかしなければならない。僕が風邪引くのは別にいいんだけど、女の人もおなじ感覚で放置するのは、ちょっと気が引けるよねぇ? 立ち上がって、湖の味がする唾を吐き捨てる。湿った咳は、まだ体内に残る水のせい。

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