| [330] 「あなたを救う旅」 ◆9◇ |
- マリムラ - 2005年03月16日 (水) 17時02分
「今日は早めに休みなさい」
彼はそれまでよりも幾分優しい口調でそう言うと、テティスを撫でた。テティスは応えるように小さく鳴くと、ゆっくり膝を折る。 僕は慎重にテティスから滑り降りる。何度やってもなかなか慣れない。と、テティスの足に、紅い傷があるのことに気がついた。よく見ると、大小様々な傷が無数に付いているようだ。
「大変だよ、テティスが……っ!」
僕が振り返ると、彼はテティスの耳の後ろをゆっくりと何度も何度もさすりながら、僕に背を向けたまま答えた。
「また新しい風が吹けば、傷も癒えるよ」
きっと何度もあったことなのだろう。声に特別な感情が感じられず、僕はつい、声を荒げた。
「それでも!……傷ついたら痛いはずだよ」
テティスの背に括られた荷物の中から水筒を無言で取り出し、少しずつ、少しずつ、傷口を洗い流す。
「やめなさい。お前が干からびてしまうよ」
彼の言葉は聞こえていたが、僕は気にせずに続けた。 確かに喉は渇いている。近くにオアシスが都合良く現れるとも限らない。でも、そんなのは嫌だ。傷ついたままのテティスをそのままに、自分だけ水を飲むなんて気分にはなれなかったのだ。
テティスが鼻を高く持ち上げ、嬉しそうに鳴いた。 顔を上げると、テティスは僕じゃなくて遠くを見ている。
……遠く?
僕は立ち上がってテティスが見ている先を見た。 テティスに応えるように、鳴き声が聞こえる。
「おじさん、あれは?」
「テティス以外に象を見たのは二度目だ」
彼も同じ方角を見ながら、驚きを含んだ声で言った。 僕は遠くから象が近づいてくる様子を、じっと見守っていた。
「ロッシ、お前は一人で象に乗れるかい?」
僕が目を離さないから象が欲しいのだと勘違いしたのかもしれない、彼は何気ない口調で尋ねてきた。僕は思わず首を横に振る。 僕は、あの象がテティスの家族かもしれない、と思ったのだ。そして両親とジェニーを思い出していた。 かわいいジェニー。いつも僕の後についてきた妹。 僕は涙を抑えることが出来なかった。
「……おじさん」
僕が声を掛ける。彼は無言で続きを促す。
「テティスを放してあげようよ。 テティスだって、きっと仲間や家族がいるんだ」
「私は? もうずっと一緒に旅をしてきた私は、家族ではないと?」
寂しいのか怒っているのか、声からでは彼の感情が分からずに僕はどきっとした。でも、きっと彼の顔を見て話をしていても、感情なんて分からなかったろう。彼は不気味な無表情を浮かべるだけなのだから。
「テティスがここに居たいなら、それでいいんだ。 でも、もしあの象と一緒に行きたいんだとしたら ……テティスを自由にしてあげよう?だって」
ふと浮かんだ言葉を言うのがためらわれて、僕は言葉を切った。 そして。
「おじさんには僕がいるじゃない」
その言葉は、いろんな意味を含んでいる気がした。この場に適当だったのかはよく分からない。でも、僕はぎこちないながらもテティスについた手綱を外し、荷物を下ろした。 彼は何も言わず、黙って僕を見ているだけだった。
「さあテティス、これで君は自由だ」
傷に残りの水をもう一度丁寧にかけて、僕はテティスをゆっくりと撫でた。彼がしていたように、何度も何度も気持ちを込めて。
そのとき、一陣の風が砂を吹き飛ばした。僕は思わず目をつぶる。
「……おめでとう」
彼が後ろから言った言葉の意味が分からなくて、僕は振り返った。
「服のすそをごらん」
二色のラインが入った服のすそは、いつの間にか緑と青が加わり、四色になっていたのだ。さっきの風が運んできたのか、テティスは薄い青に染まり、彼の隣に立っている。
「テティス……行かなくていいの?」
テティスは小さく鳴くと、僕の顔に鼻をすり寄せた。 彼は優しく、ゆっくりと言葉を続ける。
「ロッシ、君は“癒し”“解き放つ”優しさを思い出したんだ」
僕はぼんやりと砂漠に浮き出た文章を思い出していた。

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