| [328] 「希望の炎」(タスナ&ジュリエッタ&ギゼー)[8] |
- 小林悠輝 - 2005年03月11日 (金) 00時29分
「……さて、どうしようか」
しばしの沈黙の後、振り向いて言ったギゼーはいっそ清々しい表情をしていた。取り返しがつかなくなっただとか、何が起きたのかわからないだとか、そういったものをすべて納得して、ただし解決は放棄して、開き直った爽やかさだ。ジュリエッタは無表情で――やや引きつり気味の無表情で――彼を見つめ、それから塔を見上げた。
「のぼる? 帰る?」
「あいつ放置するワケにいかないだろ」
それもそうだ。帰る方法もわからないし。 通常の移動方法ではなかったが、単なる移動魔法とも違うようだった。ここは空気が異質だ。風はまったくなく、木々はただ静寂の底に沈んで周囲は無音。生き物の気配も感じられない。いや、潜んでいるのならば、感知できないが。
「気味が悪い」
何か――静まり返った町の中を歩いていたら、いつのまにか周囲のすべてが粘土細工に変わってたような違和感、だ。もちろん足元の地面も、森も、本物に見えるけれど。 空は夜というには明るく、昼というには暗かった。ほのかに発光するベルベットを敷き詰めたような色。星は見えない。うっすらと雲が出ている。 視線をギゼーに戻すと、彼はやたら力強くうなずいた。
「怖いなら俺を頼っていいぜ!」
「じゃあ、偵察と危険探知排除と全部よろしく」
「……」
「……」
明らかに不毛な見詰め合い。 ギゼーがなんとも言えない表情になったので、ジュリエッタはため息をついた。彼を見上げて、呟く。
「……頼りにしてる」
「任せとけ!」
まさか今の一言が欲しかったというわけでもあるまいが、というよりもギリギリの妥協点から更に妥協させた感じがあるが、ギゼーはうなずいた。
「とりあえず中に入るところからだな」
彼は扉に手をかけて。 ――その姿が消えた。ジュリエッタは頭をかかえたくなった。扉は扉の役割を果たしているようだが、物理的に開くようにはできていないらしい。 ギゼーとタスナは合流できただろうか。タスナと、ギゼーと、扉に吸い込まれたときの様子が違っていたのが気がかりだが。 別々のところに飛ばされてしまうのなら厄介だ……まぁ、いいか。ジュリエッタは扉の表面に触れた。粘質の水に引きずり込まれるような感覚。
反射的に閉じた目を開くと、そこは薄暗い空間だった。 ギゼーがものめずらしげに周囲を見渡している。 分厚い埃が絨毯のように積もってる。あまり広くはないが、天井が高い。何階も上まで吹き抜けになっているらしい。頭上から一条の光が差し込んで、それが視界を助けているようだった。空気も埃っぽくてジュリアは咳をした。 背後を振り返ると外で見たのとおなじだろう扉があった。正常に動作したらしい。ここから外へ戻れるのか試そうと思ったが、面倒だったから、やめた。今すぐに外へ出る必要はない。後で慌てればいいのだ。手遅れになったら? 後で後悔すればいいのだ。
「……たとえばここが薄墨の領域であるとして、更なる光を否定する則はあるまい?」
呪文を呟き、手を翳す。周囲の空気が、ごくわずかな光を発した。 ギゼーが「サンキュー」と言ってきたので適当に片手を上げて応える。 彼はしばらくがさごそと周囲をあさり、服や顔や手に少し埃をつけて戻ってきた。
「怪しい場所は、ないな」
「あいつは?」
「いない」
「上か」
「だろうなぁ…」
階段は古い板でできていた。体重のかけ方を間違えたら踏み抜いてしまいそうなそれが、なんともいえない不吉さを漂わせて待ち構えている。 ……だからといって、登らないわけにはいかないのだが。ため息をついて、階段へ。先行したギゼーが「この段は踏まないように」とか言ってくれたのに従いながら、ぎし、ぎし、と軋む板を登っていく。二階へはすぐについた。二階は中央が吹き抜けになっている以外は何もない、がらんとした空間だった。吹き抜けの周りには手すりもない。 なんとなく、穴の近くを歩いたら吸い込まれそうな気がしてできるだけ壁際を歩いて、次の階段へ向かう。それを何度も繰り返し、おなじつくりの階を何度も通り過ぎ――
「なぁ、ジュリアちゃん。 だんだん広くなってない?」
言いながらも彼は立ち止まらない。壁際を歩いて、しかし壁も気味が悪いので触れないように気をつけながら、進み続ける。ジュリアは無言でうなずいてから、先を行く彼にはそれでは見えないことに気がついた。
「……外から見たときはどうだったっけ?」
「普通じゃない塔だった」
「じゃあ仕方ないな」
ギゼーの空笑いで会話が止まる。上へ、上へ。 やがて吹き抜けの最上階にたどり着いた。階段が床とおなじ材質に変わる。壁とはわずかに色が違うようだが、気味が悪いことには変わりない。更に登ると、次の階には、あたりまえのことだが吹き抜けはなく、だだっ広い空間がある。 だが、特に変わったところは……
「誰かここにいたな」
ギゼーが言った。ジュリエッタは彼に疑問の目を向ける。 彼は壁際の一点を指さして、
「あそこ、埃を散らかしたあとがある」
埃そのものが階下よりもずっと少ないせいで判別がつかないが、彼がそう言うからにはそうなのかも知れない。 見上げると、高いところに窓がある。壁に沿うように登り階段が続いている。
「“誰か”なの? “何か”ではなく」
「……“誰か”の方がいいじゃないか。タスナかも」
タスナ? ――ああ、あの書店の店長だ。 やっぱり人の名前を覚えるのは苦手だ。覚えたつもりでもすぐに忘れてしまう。最低限の人付き合いに支障を来たすのも面倒だから、覚えようとは思っているのだが……思っているだけでは駄目なようだ。 何も考えずに返事をしようとした、とき。 ――ひどい違和感があった。何がおかしいのかわからない。だが騙し絵を見せられているような気分だ。落ち着いて見れば見るほどわからなくなる。悪寒。危険。何が? 月の光。ほんのりと光る周囲の空気。
「ジュリアちゃん!」
いきなりギゼーに腕を引かれた。抱き寄せられる。思わず彼の鳩尾に肘を叩き込んでから、ジュリアは、ようやく、違和感の正体に気づいた。床に、薄い影がいくつも落ちている。限りなく透明に近いガラスがそこに置いてあるように。
「……影?」
―――断崖の王国では、影は放っておくとその影の持ち主を襲いますから、そうならないように、国民は八つの誕生日に影を切り取り、山椒を蒔いて追い払います。 影は光に当たると消えてしまいますが、夜のうちに≪機織女の塔≫にたどり着いた影が塔の中の闇に潜んで生き延びていたようなのです―――
ずる。生理的な嫌悪感を煽るような音を立てて、何かが足首に絡みついた。見下ろす。スカートの影になっていて見えない。これだからこの格好は……
「なんだ、これ!?」
ギゼーが声を上げた。足元から黒い何かがわき上がる。 深呼吸。声が震えないように。その心配は恐らくほとんどなかっただろうが。灰色の巫女は解決法も教えてくれている。光を灯せばいい。魔法を使うか、それともギゼーが、あのガラス玉を取り出すか。とても簡単なこと。 息を吐くついでのように、呟く。
「……この断崖の王国とやらでは、影は人を襲うのだそうだ」
その直後、遥か上からタスナの声が聞こえた気がした。

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