| [313] 「希望の炎」(タスナ&ジュリエッタ&ギゼー)[5] |
- 小林悠輝 - 2005年01月19日 (水) 23時08分
今日はなんの日だろう。 温まった紅茶のカップを取りながら、ジュリエッタは胡散臭そうに女を眺めていた。昼ごろに宿を出たまではいつもと同じだったはずだ。
男に声をかけられことも、十日くらい前にもあった気がする。あまりにもむさい男だったし、下心が顔に表れているのが不快で断ったのだったか。外見で判断する人間は嫌いだ――いや、そもそも、人間そのものが大好きだというわけでもない。
本屋の二階は居住空間になっているようが、当然といえば当然のことながら客間などという上等なものはなく、小奇麗に片付いたリビングで、クロスのかけられたテーブルを囲んでいるのだ。
「貴方たちには、わたくしと共に断崖の王国へ来ていただきます」
「……だから、なんで?」
聞き返したのはアルバイトの少女だった。深い緑色の髪と色の白い肌、とがった耳でエルフだとわかる。知り合いのエルフは温厚で礼儀正しかったものだが――いや、種族で判断するのは不確実極まりなく、彼女たちに失礼というものだ。 それに、話を進めてくれる人がいると助かる。喋らなくていいから。 そのアルバイトに巫女がずけずけと言った。
「貴方は、いりません」
「なんですって――!」
「グラシーウィ」
店長が諌める。タスナ、だったか。と、ジュリエッタは記憶を辿った。 名乗られてから少ししか経っていないはずなのに、もう自信がない。 人の名前を覚えるのは本当に苦手なのだ。というか、覚えようとしなくなってしまっている。思いついたときには、呼び名がわからなくて困るときなのだ。そして困ることは滅多にない。
「だって、店長! このひと失礼すぎます」
「まぁまぁそうだけどさ、いちおう話だけでも聞いてあげようよ」
「話していいですか?」
また遠慮のない口調で巫女が言った。 グラシーウィの尖った耳がぴくりと痙攣のように動いたのが、彼女の内心の激昂を物語る。タスナがフォローのしようもないという顔で、ギゼーは完全に見とれている目つきで、それぞれ巫女を見た。ジュリエッタはその様子を見渡してから、倣う。
「貴方たちには、わたくしと共に断崖の王国へ来ていただきます。 王国は明けぬ夜に覆われています。一月前の嵐で、昼を司る≪機織女の塔≫に燈っていた炎が消えてしまったためです。 わたくしは王の命を受け、聖化された火種を持って塔へ向かいました。 しかし長いあいだ管理されていなかった≪機織女の塔≫は荒れ果てていて、影が棲み付いていました」
「……影って?」
「そうでした。貴方たちは影を知りませんでしたね。 断崖の王国では、影は放っておくとその影の持ち主を襲いますから、そうならないように、国民は八つの誕生日に影を切り取り、山椒を蒔いて追い払います。 影は光に当たると消えてしまいますが、夜のうちに≪機織女の塔≫にたどり着いた影が塔の中の闇に潜んで生き延びていたようなのです。 持ち主のいない影は、人が近づくと足元に貼りついて姿を隠し、伝染していきます」
灰色の巫女をじっと見る。 テーブルの上に置かれた手。あるはずの影はない。
「切り取るって、どうやって……」
ギゼーが尋ねた。巫女は薄く笑って黙殺した。
「ですから、塔には、影のない者は立ち入ることができません」
「なんでそれがうちの店長なのよ」
グラシーウィが、彼女の話をほとんど信じていないことを表情にありありと出して言った。 巫女の話には突拍子がない。昼を司る塔だとか、影を切り取る風習だとか、聞いたこともない。そして今ポポルは間違いなく昼である。世界の一部分だけが常に夜であり続けることなど不可能だ。
「お客さんまで巻き込んで……」
まったく、なんで巻き込まれたんだろう。抱えた本に目を落とす。まさか本当に買ってくれるとは思わなかった。ここで一人、「じゃあこれで」と帰るのも、ギゼーのことを考えると気が咎める。無感情だとよく言われるが、薄情ではないつもりだ。 尤も、ギゼーは今、巫女を見つめるのに熱中しているから、帰っても問題ないかも知れない。ナンパしておいてすぐ他の女に見とれるとはいい度胸だ。 本当に帰ってしまおうか。
「――では、参りましょう」
「え?」
声を上げたのは誰だったか。
目の前が真っ暗に。平衡感覚が狂って耳の奥がキィンと痛む。 魔法の――理論のない、おとぎ話に出てくる魔法使いが使うような魔法の力が渦を巻いた。
落下している、と気が付いたときには、腰をしたたかに打ち付けていた。 地面はやわらかくあまり痛みはなかった。が、突然のことに困惑する。
「っつ…」
「なんだなんだ?」
ギゼーの声。起き上がる気配。タスナのうめき声が聞こえた。 広がったスカートをおさえて、立ち上がる。足元が少しふらついた。
「ここは?」
むせ返りそうに濃密な、木々のにおい。 ぎゃあぎゃあと悲鳴を上げて飛び立つ鳥の群れ。 薄暗い森だった。つい今までと比べて、光の量が半分よりも少ない。
奇妙に思って見上げると――紺色の空が、びろうどのようにべったりと広がっている。 木々の向こうに細長い異形の影が伸びているのが見えて、妙に違和感があった。
「あれが≪機織女の塔≫です」
振り向くと、三人の背後に灰色の巫女。 彼女は完全な無表情で、完全に無感情な声で言った。
「貴方たちにわたくしの力をうつしました。 誰か一人でも辿り着けば、最上階の扉を開くことができます」
力をうつして? なんのことだかわからない。だが、ずいぶんと勝手なことを言われている気がする。誰か一人でも辿り着けば。行かなければならないと誰が決めたのか。そして、辿り着けなければ、どうなるのか。漠然とわかるが理解には遠い。
説明もなく、巫女は灰色の服から、光るものを取り出した。 揺らめく炎を閉じ込めたガラス玉だった。
「これが、わたくしたちの希望の炎です」

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